Side.D 邂逅よりも少し前
永禄3年5月14日、曇天。
織田信長居城・清州城にて。
今川義元軍2万5千の尾張侵攻の報を聞いた信長は、家中一同を集め軍議を開いた。
軍議は真っ二つに割れていた。
村井貞勝を筆頭とする降伏派。
佐久間盛信を筆頭とする籠城派。
いずれにしろ家臣団の中では、尾張の国力では今川義元の軍に拮抗は出来ないと結論付けられていた。
「――義元は稀に見る攻城下手! 野戦にさえ持ち込まねば勝機はある!」
「義元が如何に攻城下手であろうと、2万5千もの大軍を相手にするとなれば、長期戦となるは必定! 追い詰められるのは此方ですぞ!」
「ならば一度とて武士の本分を見せず、信長様の首を明け渡せと言うのか! それでも貴様は織田家の家臣か!」
「当主が考えるべきは民の安寧! 無謀にも開戦して後世で笑われるのは此方ですぞ!」
降伏派は民を、籠城派は武士の心を人質にし合い、お互いに一歩も引かない舌戦を繰り広げる。
何度も繰り返される似たようなやり取りに、信長はほとほと呆れ果て、何のための軍議なのだと感じて来ていた頃だった。
「――む、」
強烈な睡魔に襲われた。時刻は丑三つ時を迎えようとしており頭の回りも悪くなっている。
これ以上無駄なやり合いを見ていても意味がない。少し仮眠を取って頭の整理をしようと睡魔に身を預けることにした。
ーーー
『こんにちは』
「む? ……誰ぞ、貴様」
『僕はアグノス。よろしくね、信長君』
これが後に操術師を参謀として迎える魔王と、謎に満ちた全身真っ白な少年の初邂逅だった。
ーーー
「……うむ、飲んだことのない味だが、これは中々に美味い茶であるな」
『でしょう? それ玉露って言ってね、今の僕のマイブームなんだ。もう一杯飲む?』
江戸時代後期に開発される高級茶を、ごくごくと一気に飲み干した信長は、嬉しそうに新たにカップに注ぐアグノスを見る。
どう見ても日本人には見えない白い肌、
生地は薄いのに汚れもほつれもない白い服。
年若そうで老齢さを感じさせる動作の数々。
そも人間なのか? と疑問を感じずにはいられない。それくらいには人外じみた少年だった。
「それであぐのす殿。貴様は何者だ? 世に言う仏か? 或いは妖か?」
前振りもなく単刀直入。
アグノスは、流石短気な信長だな、と思いつつ心底楽しそうにカラカラ笑いながら答えた。
『どっちでもないよ。キミと同じ人間さ。まぁ今のキミよりは特殊寄りだケド』
「ほう。詳細は教えてくれなんだか」
『うーん。彼にも教えてないからなぁ。流石にキミだけに、ってことはちょっとねぇ』
「彼」
気になる単語が次々と出る。
特に人物に関する単語は、信長の琴線に引っ掛かった。
こんな人間離れした容姿を持ち、掴みきれない言動を繰り返す童に知己なぞいるのか。
いるのだとしたら、それこそ怪異か修羅の類ではないか。断言出来るが、間違いなく人の類ではない。
『彼はね、すごいんだよ。仲間達が苦戦した百腕巨人戦に参戦しただけで戦況を変えたり、ボクが与えた権能を初見で使いこなしたり、戦闘IQがすっごい高いの!』
「ほう。よくわからんが、すごいのか」
『キミにもわかるように言うと、あれだね。源義経! ! あれくらい強い!』
「例えが人外じみてわかりづらい。太平記を読み直せ。も少し人間に近い例えを出さぬか」
『え〜?』と信長のダメ出しに、アグノスは不満そうな顔で対抗する。
アグノスの中での『彼』とやらは、に比する英雄的存在なのだろうと信長は解釈した。
「ふん。まあ良い。それよりも本題だ。貴様は何故、我に接触を図った?」
『ん〜? 教えなーい……って言ったら?』
「貴様の首を即刻切る。敵やも知れぬ故な」
そう言って懐に隠した短刀の刃をチラつかせる。放つ殺気は流石後の魔王と言うべきか、生半可な物ではない。
それを生身で受けたアグノスはといえば、冷や汗一つ搔かずケロリとした顔で言った。
『あはは。じゃあ安心しなよ。ボクはそんな不純な動機で、ヒトを殺そうなんて思うタチじゃないよ』
「で、あるか」
「冗談だ」とばかりに信長の殺気は消え失せ、先ほどまでのノホホンした空気に戻る。
『産めよ増やせよ戦えど、ヒトは無闇矢鱈に死ぬもんじゃない。だからキミも殺そう、なんて考えないで欲しいな』
「それは無理な相談だ。殺さなければ死ぬのは此方。殺しは乱世の生者にのみ許された嗜みぞ」
故に、こんな世なぞ一刻も早く終えねばならない、と信長は続ける。
一時の天下泰平を築いた鎌倉殿も、その背を追って天下一統を成し遂げた室町殿も、永遠の安寧なんて物は作れなかった。
『あはは、知ってる。けどキミには、その考えの先駆者になって欲しいんだ』
「ふん。それも無理な相談だな。我が織田家は現在今川軍2万5千に攻め込まれている。対して此方は5千程度。我が父の三河切り取りから始まった確執から、この首が飛ぶのは時間の問題だろう」
かつて大楠公は豊島河原で寡勢で多勢を打ち破ったそう。
だが織田家には大楠公に匹敵する軍事的天才もいなければ、そもそも軍勢の規模も違う。
尾張の兵は弱い。それが巷での通説。
対して三河遠江の兵は屈強な精兵だと言う。これで勝つには、ちと荷が重い。
しかしアグノスは至って冷静に、そしてあっけらかんと言ってのけた。
『それは大丈夫。キミは必ずこの戦いに勝てる。勝利の鍵は、もう既にキミの手元に置いてある』
「――なに? 佐久間か? 柴田か?」
『彼はキミの家臣じゃない。けれどきっと……いや必ずキミの恵比寿柱になる。それが新たな歴史なのだから』
そう語ったアグノスに、信長は懐の短刀を引き抜き、刃をアグノスの首に当て迫る。
「またその彼か。探すといっても時間がない。その者の名くらいは教えろ」
この者、道化気質がある。
アグノスの本質の一端を見抜いた信長は、最悪の事態を避けるため催促する。
『物騒だなぁ。そんな焦らなくても教えるよ。……話しづらいから、この短刀下ろして?』
「ふん。……ならば早うその名を言え。三度も彼だなんだと隠されては進む話も進まん」
短気な信長の言い分に、アグノスは思わず頬が緩む。
さながら我が子の成長を見守る親のような、そんな慈愛に満ちた表情だった。
思わず引き気味に「なんだその顔は」とツッコミそうになった信長だが、これもコイツの罠かと思い、出かけた言葉を飲み込んだ。
『彼の名は、嘉瀬アキラ』
聞いたことのない名だ。
だが苗字を持っているということは、何処か名のある家系の出身だろうか。
思考を深めようとした信長は、頭が熱くなり、意識が遠のき始めていることに気付いた。
「む。貴様、何をした」
『何もしてないよ。キミが目を覚まそうとしているだけサ』
目を覚まそうとしている?
なるほど、この感覚が。と、信長は周囲の非現実的な真っ白空間を見て納得する。
『彼は将来、必ずキミを殺す。けれど間違いなく彼は忠臣の類さ。可能な限り、丁重に扱って欲しいな』
ーーー
「――様。信長様! 何を悠長に寝ておられるのですか!」
「む。……村井か」
「む。ではありませぬ! 今は大事な軍議中なのですぞ! 御当主様がそんな呑気にしておられては、我ら家臣一同は――」
「喧しい。わかっておるわ、そんなこと。だが何時も頭を使っては視野が狭まって使い物にならんくなるだろうて。そこの襖を開けてみよ、サルが一匹聞き耳立てておるわ」
と、信長の指示を受けた柴田が襖を開けると、前のめりに聞いていたのかドタッ! と一人の男が倒れ込んできた。
「な、なんじゃお主は!」
「へ、へへっ……こ、これは皆々様、そんな顔色悪くして如何された? 殿もご機嫌麗しゅう」
如何にも胡散臭いサル顔の男だ。
信長はこの男を知っている。冬に己の草履を懐で温めるような奇天烈な発想を持つ男を、信長が忘れるはずがない。
「ちょうどいいところに来たな草履取り。お主にひとつ、命を与える」
「は、はは〜! なんなりと!」
流れるような動きでスルリスルリと蛇のような動きで、藤吉郎は信長の御前まで足を動かした。
「嘉瀬アキラという男を探せ。尾張国の何処かいるはずだ。主の人脈なら用意だろう」
「嘉瀬アキラですと!?」
信長の命に反応したのは意外にも藤吉郎ではなく、それまで黙って静観していた柴田勝家だった。
彼は稲生の戦いで信長に敵対したことから、軍議中に発言する権利を失っていた、
その勝家が喉を震わせ驚いた事に信長は眉間に皺を寄せ、ハッと我に返って周囲からの圧に萎縮する勝家に問うた。
「知っているのか、権六」
「は……ははっ。我が古屋に住まわせている男の名です。遠国で村八分にあった故、妻と共に尾張へと流れてきたところを又左衛門に保護された、と申しておりました」
「ほう。前田も関わっているのか、ちょうどいい。そうだろう、サル?」
「へ、へえっ! 前田夫妻経由で接触を図れば面会は容易かと存じまする! ……して、殿。その嘉瀬アキラ? とやらは何故呼ぶので?」
その問いに信長は「ふん」と鼻を慣らし、「余計なことを聞くな」と遠回しに伝える。
信長の意図に気付いた藤吉郎は、へへへっと胡散臭い笑いを浮かべながら襖へと足を運び退出していった。
ふたりの後の天下人のやり取りに、周囲の者は目を丸くして呆然としていた。
しかし流石は最古参。傍若無人な信長に最も慣れ、いち早く復帰した佐久間盛信は信長の真意を尋ねる。
「殿、如何するおつもりで?」
「我が腹は既に決まっておる。聞けぃ、者共!」
信長の大声が軍議場に響き渡り木霊する。
「この戦、打って出るぞ」