Side.D 新たな敵
轟々、と風が哭く。
さながら猛り狂う獣のように、襖の隙間から吹き荒ぶ風は彼の鼓膜を揺らした。
身長7尺、体格は鬼の如く逞しく、正座する彼の前に置かれた大太刀は最早物干し竿に比肩する大きさを持つ。
「……」
外は夜闇に包まれ静謐を生む。
彼は生まれながらに耳が良い。耳をすませば遠くの烏の鳴き声も聞こえる。
「……逝ったのか」
すわ、目を開けば鷹のように鋭い瞳が覗く。
精神を研ぎ澄ませ音に集中する彼は、
カァ、と一鳴き。
「場所、比叡山洞穴。
死因、発破。
……発破? 敵は妖術師か?」
発破。
当世では珍しい死因だ。
八瀬童子は鬼特有の怪力自慢。妖術師相手は厳しかったのだろう。
遠方から伝えられた情報を精査する彼は、さらなる情報を求め耳を澄ます。
「鬼狩りの名は、嘉瀬アキラ」
聞いたことのない家名。
聞いたことのない名前。
「織田家の客将。及び参謀を務める謀将。……入城もせずに城を爆破し、然れど一人も死者を出すことなく落とした、と」
奇妙な術を使い、人間にあるまじき剛腕も披露している。
食料を配給して京都の人間には仏様と敬われ、織田家の京入りに一役買った温厚篤実な人間。
裏では何故か生きていた安倍晴明を侍らせ、自らも奇々怪界な妙技を習得している怪魔の如き存在。
「武士に在らず庶民に侍ると……ふむ」
奇妙な術、安倍晴明という単語に引っ掛かるが、時間は考える時間を彼に与えなかった。
「……直隆様。御館様がお呼びです」
「うむ。承った」
直隆と呼ばれた彼は重い腰を上げる。
前に駆り出されたのは加賀の一向一揆を鎮圧した時だったろうか。
前は農民。
きっと新たな敵の話だろう。
次は武士か。
「恐らく油断出来ぬ兵なのだろう」
彼にとっての新たな敵。
妖術師・嘉瀬アキラ。
「我が同胞を殺めた罪、断じて許してならぬ。姿知らぬ嘉瀬アキラよ。『百鬼夜行』の名に掛けて、貴様を地獄に突き落としてやろう」
越前国・真柄荘。
上真柄に立つ居館に居候する朝倉の鬼。
真柄直隆。
怪力無双と謳われる朝倉一の猛将は、人知らず自らの鬼牙を研いだ。
ーーー
「某が浅井新九郎長政に御座います。お初にお目に掛かりまする、義兄上」
「うむ、我が織田弾正忠上総介信長である。会えて嬉しく思うぞ義弟よ」
岐阜城。
新年の挨拶に一国の大名が訪れていた。
名を浅井新九郎長政。
史実では信長の妹御であるお市の方と結婚し、後に織田家を裏切り包囲網の一角を担った若き将である。
史実通り長政とお市の方の婚約が確定し、今はその婚約者の家に挨拶へ来ているのだった。
お陰で信長は上機嫌も上機嫌。
最近は戦いの多かった魔王様が笑顔なこともあり、織田家臣団は久方ぶりの精神的休暇となった。
「このまま宴といきたいところだが、我らは一国の大名同士。まずは国のことを考えようではないか」
「……越前の左衛門督様ですか」
議題に上がるのはどうしても、朝倉家当主の朝倉義景のことである。
最近起こった織田と朝倉のいがみ合いは長政も承知しているようで。双方に挟まれる形になった結果、胃痛を抱えているようだ。
「うむ。彼奴は将軍の意向を無視し、上洛することを拒否した。其方の方からも何か言ってはくれまいか」
「話は人伝てに聞いています。将軍の意向を無視したのは重罪なれど、あの方は加賀に問題を抱えています。事は穏便に済ませませぬか」
「そうしたいのは山々だがな。どうにも彼奴は若狭国への侵攻の備えを進めていると言うではないか」
「……」
若狭とは朝倉から見て西に真隣。
国を纏めきれない領主に反発した国衆が暴れ、他国から攻められれば一撃で沈む小国だ。
問題なのは侵攻することではない。
若狭国は京都から見て北に真隣。つまり攻めようと思えば、いつでも攻め掛かれる位置にあるのである。
将軍直下の命で上洛を促されたにも関わらず、それを拒否して攻撃体制を解かない国を入植させるにはあまりにも危険なのである。
「将軍が事を治めよというならば手を出すが、それも無く攻めるというのであれば朝倉とは一戦交えねばなるまい」
「…………そうですか」
「……浅井は朝倉とは浅からぬ縁がある。なるべく悪いように事が運ばぬようにするとも。ほれ、暗い顔をやめよ」
手に持つ扇で顔を上げるよう合図する信長は、深くは語らずとも抽象的な解決案を提示する。
「我にはこと平穏を作ることに於いて於いて右に出る者がいない参謀がおる。いざとなればアレを酷使するさ」
「噂の奇策師殿ですか?」
「うむ。あやつは事をおさめることに長けておる。将としては物足りなけれど、軍師としては古今無双。中華に倣うならば、我が子房というやつよ」
上機嫌で『奇策師』を語る信長。
畿内の覇者を目前とした大大名が、そこまでの評価を下すのはかなりの事だ。
それほどまでに優秀か、或いはそうあるべきと信長に使われているのか。どちらにせよ興味深い。
「義兄上がそこまで高い評価をしているとは、いつか会ってみたいですね」
「無理だな。あやつは武士の名誉を嫌う。我はともかく他国の大名となれば会おうともせぬであろう」
「左様ですか。その割には義兄上に協力的なのですね」
「あやつは謂わば食客。我が国に居座れるのも、彼奴が才を献上しているからである。でなければあんな不審な男、熱田の海に放り出してくれるわ」
鳴かぬなら殺してしまえほととぎす。
後世で信長の性格を詠んだ句である。冷酷にも見える信長も義弟の前では朗らかに、自分に靡かない『奇策師』を笑いのネタにするのだった。