62話 アンビバレンス
尾張国愛智郡・嘉瀬邸兼私塾。
アキラが京都へ出立してから、そろそろ2週間が経過しようとしていた。
塾の経営を任されている優梨は、今日もアキラのいない嘉瀬塾を取り纏めている。
「せんせーできたー!」
「わたしもー!」
「はーい、紙はこっちに持ってきてね! 虎松くん、こっちは数学と理科目は全問正解。でも文系が苦手みたいだね。抜けが多かったよ」
「ありがとうございます」
採点を待っていた少年に用紙を渡し、優梨は次の子供の採点に移る。
もはやいつものことになってきたが、この仕事は一息つく暇もない。これに関してはアキラに恨み言の一つも言いたくなる。
「優梨先生、出来ました」
「お市様。お疲れ様。少し待っていてね」
「はい」
採点列に並ばせる。
いくら大名の親族とはいえ、この塾の生徒は全員平等。織田信長の妹とはいえ贔屓はしない。
これは学舎の下では全員が平等であるべき、というアキラの考えを反映させたものだ。
戦国時代ではかなり異端だが、現代のアキラを見てきた優梨だからこそわかる、塾長アキラの考え方だ。
近畿方面の騒乱は治った、という報告は聞いていないが、織田信長軍は一応上洛を果たしたのだとか。
その報告を聞いたと同時に、アキラ討死の報告を受けなかったことに心からの安堵を感じた。
まぁ異世界育ちのアキラが死ぬとは露とも思っていなかったが、桶狭間で無茶をして気を失ったという前科もある。気を緩められない現状なだけあって心底安心した。
……と、そんなことを考えながら採点をしていると、子供達の気の逸れで外が騒がしくなったのがわかった。
勉強中に何事か、と思いつつ外が騒がしくなったのも気になる。
遠征中の何某かが帰ってくると、この傾向にあるのが日常となった今、この姦しさは優梨の気を逸らす要因にもなる。
ガラッ、と扉が開く。
「……あ」
「誰か来ましたね」
「うん」
「迎えてきたら如何ですか、優梨様」
「お気遣いありがとう。じゃあお言葉に甘えるね」
そう言って席を立つと、優梨は一目散に玄関へ向かう。
この時間に勝手に嘉瀬家へ入ってくるなんて、いい度胸じゃない。わたしが手厚く迎えてあげよう。
その家へ上がった男はと言うと、
「あ、ただいま、柏原さん」
「おかえり、アキラくん」
ーーー
その後、いつもより早めに塾を閉めてアキラと優梨の二人だけの時間となった。
「千代と茂勝は?」
「おつかいだよ。今日の夕飯は豪勢にしなきゃだからね」
「姉弟でおつかいか。仲が良さそうでよかった」
「ずっと家にいても息が詰まるしね」
二人とも勉強部屋にいたし、どうやら気を遣わせたようだ。あとで何か欲しい物を買ってあげよう。
アキラが薄い甲冑を脱ぐと、優梨はそれを受け取るサインを出す。
ありがたく受け取ってもらうと、優梨は早速甲冑を香炉で焚き、アキラは今までしまっていた息を吐き出した。
「ふぅ……」
「そういえば聞いたよ、奇策師の噂。すごい活躍したんだってね」
「うっわ……だから街であんな出迎えられたのか」
「キミがいない間も、ご近所さんからすごい褒められたよ。キミを英雄だって言ってる人もいたな」
「すぐに辞めさせて。あんなん詩人の誇張だから」
ちなみにここで言う奇策師の噂とは主に二つ。
義龍の圧政を出汁に、美濃の民を味方に引き込み美濃斎藤氏滅亡の要因を作ったこと。
箕作城攻城戦で、城内に謎の爆発を起こして大混乱を招き、その隙をついて損害なしの無血開城戦を完成させたことを指す。
これらの出来事に尾鰭がついて、京でも『織田には神が憑いている』だとか。
『信長は神刀の懐刀を得た』とさえ言われている始末。勘弁してくれ、ただのパワープレイなんだ。
と、厚い風評被害を受けるアキラがゲンナリしていると、優梨がペタペタと背中を触ってきた。
「どしたの」
「少し逞しくなったな、って思って」
「そうかな。……そうかも」
「肉付きが良くなったって言うか……少し背が大きくなったよ」
まぁ確かに。
寧ろあれで成長しない方がおかしいか。
箕作城戦のこともそうだし、役小角師匠の修行をこなしつつ、それに付随した八瀬童子戦。
総戦闘数だけを見ると、この1週間ちょっとで連戦に次ぐ連戦。これならマグナデアの方が酷かったね。
……これでマグナデアよりマシってマジ?
「道中はずっと馬に乗って体幹鍛えてたし……いろいろあったからね。少しは強くなったよ」
「ふふっ。頑張ったんだね」
「もうすごい頑張った。馬に慣れてないからバランス取りずらいし、移動時間超長いし、京都も人が多くて治安も悪いから対処大変だったし」
吹けよ荒べよ不満の嵐。
大半は移動不便の不満だったが、やはり大きいのは度重なる京内での戦闘だろう。
歩けばゴロツキと鉢合わせ、ぶっ飛ばしては因縁を付けられて後日再び対峙するなんてこともあった。
もちろん異世界勇者の怪力パンチで2回ともワンパンだったが、それでも面倒なことには変わりない。
「次はみんなで行こうね」
「……平和になってたらね」
京都小旅行としては最悪だった。あんなところに家族を連れて行けるものか。次は平和になっていて欲しいものだ。
千代も茂勝も大事に育てたい。
力至上主義の時代だ。間違っても子供達が悪に憧れるようになってほしくない。
「……そういえば帰ったら話したいことあるって言ってなかったっけ」
「あ、そういえば……うん。何を今更って言われるかもしれないし、アキラくんも驚いちゃうかもしれないけどさ」
うん、と相槌を打つ。
次の言葉が出るまでは少し時間が掛かった。優梨はアキラの前に膝を崩して座り、そして――
「結婚しない?」
「うん、いいよ」
たった一言。
そして即答。
アキラの早すぎる回答に、優梨は混乱して静寂の時間が訪れてしまう。
優梨の反応が無くなったことでアキラは気不味くなり、何か一言でもこの静寂を壊すために声をかける。
「……えっと」
「ご、ごめんね! 変なこと言っちゃって!」
「いや、柏原さんが俺に好意を持ってくれてたのは知ってたけど……」
「し、知ってたんだ……」
「元の世界の頃から、そりゃね」
何度も重ねて言うが、アキラは対して美形でもなく親もすごいわけではない。
学業も運動も並程度で、コミュ力足らずのカースト底辺。それこそ優梨と一緒にいた一条の方がよっぽどすごかった。
その一条が明らかに優梨に好意を寄せる中で、当の優梨はアキラに話しかけて来ていたのだ。
これに気付かないほどアキラは鈍感ではない。
「そ、そうなんだ」
「当時は疑問だったけどね。なんで俺のことが好きなの、ってさ」
「いまは違うんだ?」
「死線を越えれば嫌でも自信は付くよ。この時代の俺は金持ちだしね」
顔は変えられないけど。
…………顔は変えられないけど!
「わたしは昔のアキラくんも、いまのアキラくんも好きだよ。わたしがキミと出会った、あの時からね」
「高一の時? ……なんかあったっけ」
「違うよ。……まぁ覚えてないか。しょうがないね」
なんかあったっけ。
高一より前……覚えてないな。中学の時の思い出があまりにも薄すぎる。
そういえば意識してなかったけど、中学の時の同級生はとっくに成人してんだよなぁ。元気にしてっかなぁ。一人も顔は覚えてないが。
「で、その、聞くのも無粋だと思うんだけどさ」
「無粋?」
「大丈夫なの? リーシャさんのこと、とか」
本題はそれか。
まぁ確かに疑問だろう。マグナデアにいた時はリーシャとずっといたし、あの冒険譚も優梨は知っている。
吊り橋効果と言うのだろうか。危険な場所を共に潜り抜け、僅かな時間でも子供を育て、友情以上の感情は確かにあった。
「たしかになぁ」
王都防衛戦を以て、その感情は崩れ去った。
アキラが安心して次に行くために、アキラは後事をリーシャに託すため英雄リーシャの偶像崇拝を作り出そうとした。
手筈は整えた。勝てると踏んだ。リーシャなら負けるわけがないと、高を括った。
結果、策謀の全てが水泡に帰し謎だけが残った。最後に見たリーシャの姿も、感じた魔力も、結局なんなのかわかっていない。
魔王の魔力を持つリーシャ。自爆して肉片となったリーシャ。
だが、どちらも感じた魔力は同じ質。アキラにとっては感じ慣れた魔力と同一だった。
「大丈夫、って言うのは流石に難しいよ。けど覚悟はしてたから」
「そうなんだ」
「アグノスからも言われてたし、それにいつかこうなるだろうとも思ってたし……ね」
魔王軍を倒した後、勇者はどうなるか。
日本に帰還することになるのだろう。そうなればアキラは嫌でもリーシャを残すことになる。
だからこその英雄リーシャ作戦。リーシャが英雄と民衆に祭り上げられれば、彼女が、そして彼女の周囲が害されることはない。そう考えていた。
思えばあの作戦を考えていた時から、覚悟は決まっていたのだ。
嘉瀬アキラはどうあってもリーシャと別れる運命にあった。その覚悟は出来ていた。それだけの話なのだ。
「リーシャは俺にとっては仲間。それ以上でも以下でもない。だから優梨の疑問は杞憂だよ」
アキラの答えに優梨は「そっか」と胸を撫で下ろす。
本当に、それだけだ。
淡白にも見えるかも知れないが、感情は時の中で流れ行くもの。
アキラも人の子なれば、感情は時の流れで移り行くもの。疲弊もすれば回復もする。
ましてや5年も時が流れてしまえば心傷の回復も当然。どうしたって過去の思い出は経験となってしまう。
「っと、そろそろ帰ってくるか」
「今日は腕によりをかけるからね。楽しみにしてお腹空かせておいてね、アキラくん」
この数分後、子供達が帰ってきた。
アキラが『奇策師』の話を茂勝に聞かせている間、優梨と千代はアキラの話を聞きながら料理する。
嘉瀬家の日常が戻ってきた。違うのは今まで通りの偽ではない、正式な夫婦となったアキラと優梨だけである。