89. 生存戦略
東京都千代田区:首相官邸
「とりあえず化石燃料については、これで一段落といったところでしょうか」
災害対策本部に割り当てられた会議室にて、二足草鞋の飯田経済班長が言う。
普段は官僚達でごった返してばかりのそこは、今日は比較的人数が少ない。盆休みにはちょっと早いが、誰もが過労続きであっただろうから、対策本部メンバーには休暇を取るよう指示していた。
加えてテレビはどのチャンネルも、ロングビーチ港の日の丸タンカーを映している。
同港周辺に備蓄されていた原油を接収、積込を行っているのだ。カーン郡油田地帯からの本格供給はもう少し先だが、家族とともにそれを眺めることも重要だろう。
「現在連合国は瓦解しつつあり、中南米諸国につきましては、パナマ運河地帯制圧と同時に降伏すると予測されております。特にベネズエラは年間3000万キロリットル程度の原油供給能力を有しますので、カリフォルニア州および旧軍統治下と合わせて年間8500万キロリットルが確保できると見積もられております。ソ連が停戦に応じた場合、1億の大台に乗るでしょう」
「危機的水準は脱したとは言えるだろうな」
会議室の主であり、総理補佐官と災害対策担当大臣とを兼任する武藤が肯く。
「マイカー旅行はまだ困難だろうが、国家経済の崩壊を考えずに済む」
「であるからこそ、今後について腰を据えて考える必要があります」
大橋国家安全保障局長が沈着な口調で続け、
「つまるところ原因究明が全く進んでいない以上、時空間災害の再発という可能性から、我々は逃れることはできません。2度目のそれが何時、どのような形態で起こるのかすら掴めていないのが現状ですが、国家として備えないという選択肢はあり得ません。杞憂と言おうにも、既に空が落ちた後ですから」
「そのため再度の時空間災害を想定した対策を、諸君には考えてもらったという次第だ」
武藤はそうした言葉をもって、検討会の開始を宣言した。
10年後、日本全土が今度は江戸時代末期にタイムスリップする。そんな想定のケーススタディだった。
「まず食糧供給に関しては、現行の施策を維持することで、概ね対処可能と考えられます」
投影された資料を背に、農林水産省の藤堂食糧安全保障室長が断じる。
「現在、自給率向上を目的とする諸政策が進みつつあります関係で、10年後のカロリーベース食糧自給率は概ね7割と見積もられます。これと大幅拡張予定の穀物、大豆、飼料等戦略食糧備蓄を組み合わせることで、X+5年程度のカロリー供給を維持し、その間に海外での農業開発を行うことにより、食糧供給を安定化させることが可能との結論を得ました。また所轄の研究機関では現在、各国の農業生産を参考とした現代型農業体制の早期構築に向けた実証実験等を行っており、現在進行形の国外での事例と合わせまして、こちらもより早い段階に軌道に乗せることが可能となるかもしれません」
「なるほどな」
藤堂が作成したPDFをタブレット端末上でスライドさせつつ、武藤はフムンと唸る。
現に多少強引に緑の革命を持ち込んだ満洲では、対ソ戦でほとんど出番のなかった関東軍が早々に動員解除を行ったこともあり、農業生産も上向きつつあるようだ。ただ19世紀半ばだと、現地労働力の教育水準がより低い可能性もあるかとも思う。
「それで懸念点が……企業による国際自由競争か」
「その通りです。特異的時空間災害以前の日本の食糧自給率が低下していた主要要因の1つは、アメリカ、オーストラリア等農業国からの輸入品に対する価格面での不利と言えるでしょう。これは今次大戦終結後、商社等が国外農場と契約することによって再現される可能性があり、先に申し上げました現代型農業体制の構築ノウハウの取得および戦略食糧備蓄の充足という点ではメリットも大きいですが、国内農業の疲弊を齎しては本末転倒です。そのため農業従事者に対する助成、固定価格買取、高率関税等といった対策が必須であり、国外からの食糧供給については原則として、あくまで不足分、備蓄分を補うものと割り切る必要があります。無論、カロリー供給に対する寄与が小さく、国内生産も困難な嗜好作物に関しましては、この限りではありません」
「コーヒーは戦略物資に指定した方がいいな」
そんな冗談がポロリと出、幾人かが苦笑を漏らす。
それにしてもWTOの職員が聞いたら発狂しそうな議論だが、WTOなどもはや書類上にしか存在しない組織も同然だ。というより東京に居合わせた職員の何人かが本当に発狂し、精神病院に収容されていたりもする。
「なお食糧自給率維持に必要な化学肥料原料につきましては、現状ナウル島の切り崩し等によって賄っておりますが、将来的にはリン、カリウム等の回収・再利用技術も一層普及させる必要があると考えられます。私からは以上です」
「藤堂室長、ありがとう。何か質問はないか?」
質疑応答に入ると、これまた各省庁ならではの質問が飛び交った。
将来的な配給制度の活用のあり方や必要とされる労働人口割合について、早口での応酬がなされる。それについて満足しつつ、時間配分を気にかける。今日はあくまで初回であるからアイデア出しに留め、ある程度で切り上げた方がいいだろう。
「では次、エネルギー政策について」
「始めさせていただきます」
経済産業省の蔭山部長は、相変わらず滑らかな口調で説明を始める。
「もはや我が国の電源につきましては、徹底的に原子力を推進していく他ないでしょう。ベースロード電源は原則として全て原子力化し、出力調整を揚水、既存水力および研究目的で維持する少数の石炭火力、天然ガス火力で実施することが望ましいと考えられます。無論、国内では品位の低いウラン鉱石しか産出せず、その量も限定的であることから、海水中ウラン採取および核燃料サイクルの早期実用化は必須。それをもってエネルギー自給率を可能な限り100%に近づけ、同時に自動車、船舶、航空機といった輸送用機器の迅速な電動化あるいは水素・炭化水素動力化への転換など、脱化石燃料社会実現への取り組みが求められます」
「実際、江戸時代末期では世界の原油生産も皆無に等しい以上、化石燃料依存はリスクにしかならない……ああ、原油は原材料用途以外に使わず、それもリサイクル等の徹底で必要量を削減か」
「はい。それにより現在の原油備蓄水準――概ね1億キロリットル程度――をもって、これまた5年程度の自給が可能な態勢を構築いたします。なお大型船舶につきましては、原子力化も視野に入れるべきかもしれません」
「原子力船……生まれてもいない頃の夢ですね」
飯田のそんな呟きが聞こえてくる。
「オイルショックの頃には、原子力潜水タンカーなんてものまで考えられていましたか」
「ええ、実際このようなものが」
蔭山がワイヤレスマウスを操作すると、有名な『むつ』を含めた幾つかの画像が映される。
「かつては経済性、安全性の観点から原子力船は普及には至りませんでしたが、今後はエネルギー安全保障を最優先とせざるを得ない以上、原子力船も復活する可能性もあります。とはいえ暫くは価格面で既存船に対して競合できないでしょうし、原子力船整備拠点を何処かに誘致する等しなければなりませんから、これも行政によるバックアップが必須です」
「まずベースロード電源の全原子力化といっても、相当数の原子力発電所の新設が必要となる」
原子力規制庁の宮田審議官が苦言を呈し、
「それだけでも原子炉本体や建屋建設、原子力人材育成、自治体の説得とやらねばならぬことは山積みだ。審査や環境影響評価のプロセスの簡略化をするにしても限界があるだろう」
「確かに機材、人材面の供給がボトルネックとなるのは事実です。そのため本計画完了は30年後を目途としており……本研究において想定される10年後の時空間災害発生時には、来年7月からの着工とした第一次計画分および第二次計画分の一部のみが営業運転を行っている形となります。とはいえそれで従来型の原子力発電所数は60を超えますし、第二次計画分も順次営業運転を開始いたしますので、今次大戦のような強制的な電力使用制限の実施は避けられるのではないかと」
「自治体については……大丈夫か。地下化が望ましいという要望はあっても、もはや脱原発なんて誰も口にせん」
「というより米探扱いで、元活動家が自己批判させられてます」
国家安全保障局情報班の山科が横から口を挟む。
日露戦争の頃には露探などという、ロシアのスパイという意味の言葉もあった。米国のスパイだから米探ということらしい。
「もっとも自己批判させている側も、だいたい似たような経歴の持ち主ですが」
「どうせ騙した騙されたと言い合っているんだろう、いやはや」
宮田は呆れ気味に言った。彼は自らの職掌の意味にすら疑問を抱いたような表情をしていた。
もっとも、それも無理からぬことだろう。現にかつての脱原発運動は、今や愚行の象徴という扱いになっている。1人の被曝死も出ていないのに事故で大騒ぎし、国内経済を火力発電に依存させ、資源に乏しい日本をかつてない窮地に陥れたという具合だ。
特異的時空間災害は結局のところ、様々なものを鏡像反転させてしまったのだと武藤は思った。
無論それは、過酷な環境に適応せざるを得なかったが故で、必要不可欠かつ清々しいまでに表層的な変化とも言えそうだった。また将来における意識変動も予期し得るからこそ、回転軸となる部分を固めていかなければならなかった。
今まさに行っている作業は、まさにそれだ。武藤は改めて自覚し、またそうあらねばと強く念じる。
「とりあえず、一旦トイレ休憩とコーヒーブレイクとしよう」
元々の時間配分予定と少々専門的になり過ぎつつある議論から、武藤はそう宣言した。
優秀な人間達であっても、頭をすっきりさせ、自分の脳味噌で内容を咀嚼する時間は必要だ。おもむろに立ち上がったり雑談を始めたりする部下を眺めつつ、彼もまた配布された缶飲料を口にする。
(うえっ……相変わらず不味いなこれ)
エスプレッソとエナジードリンクを混ぜたような奇ッ怪な液体が、味覚を好き放題に突き出した。
だがそれを服用するとどういう訳か、思考が冴える気がするから不思議なものだ。武藤はタブレット端末を操作し、次の議題について予習する。
「それで……次は国内完結型産業構造の検討か」
「要は外国産コンポーネントのため、製造が滞らないようにしようという内容です」
その辺りを監修したであろう飯田が、単調な口振りで要約する。
「実際その辺りの悪影響が、あらゆる分野で尾を引いておりますので」
「何もかもが、本当に鎖国主義的だな」
「ええ。その痛みも、実のところ非常に大きいと考えられます。例えばこのような情報端末等については」
飯田はPDFが表示されたタブレット端末を指差し、
「製造が再開されてから暫くは、技術的に停滞した、下手をすると幾らかの部分で退化したものしか販売できないと見込まれております。どの企業も新技術開発以前に、サプライチェーンの国内再編に余力を注ぎ込まねばなりませんから」
「国際分業と比較優位論の完全消滅した世界の現実が、これという訳か」
「ええ。繊維製品の縫製や日用品の製造等、部分的に国外に出せると考えられる分野も幾つか存在いたしますが、基本的に全てを自前主義でやることになります。となると効率などと言っていられませんし、国際競争も事実上存在しなくなるため、その意味でも産業、科学技術が停滞する可能性が高まります。つまるところ日本国民は本来得られるはずだった文明的進歩という果実を、随分とゆっくりと、しかも割高な価格でしか味わえなくなると」
「飯田君、まあそれらは事実でしょうが、悲観的なことばかり言っても仕方ありません」
大橋は割合と朗らかな雰囲気で、
「死んだ子の歳を数えても無意味ですし、楽観は意志というもの。構造的に労働力不足が続くためデフレになり難いとか、産業の省力化・効率化を進める原動力になるとか、メリットもない訳ではないでしょう」
「まあ、確かにありますね」
「そうです。次は鹿児島県のみ大昔の黒海に飛ぶとか、群馬県だけ魔物の徘徊する異界になるとかいった可能性も否定し切れはしませんが……特異的時空間災害という極めて異常で政治的な天災が発生した以上、対外的には究極的な国家主義者として振る舞う他、我々に道などありはしないはずです」
「究極的な国家主義者、か」
休憩から戻りつつある面々を一瞥し、武藤はボソリと呟いた。
この敵意に溢れ、そもそもの連続性にすら根源的な疑義が呈された世界にあっては、軸とできるものは日本国以外に全く存在しない。とすれば大橋の主張は誠に実際的、そう評する他ないと、先程の不気味な清涼飲料水を飲みながら思う。
(しかし……何かが欠落している気がするな)
先程の不気味な清涼飲料水を口に含みつつ、武藤は言語化し難い違和感を覚えた。
そして素早くメモ帳を開き、ボールペンで殴り書きした。経験則から言って、それは後々役立つという確信があった。
第89話では将来的な生存戦略です。いったい何を集めろと言われるのでしょうか?(微妙に古い
第90話は8月15日(土)、ちょうど終戦記念日の更新予定の予定です。読者の皆様、いつも感想やブックマーク、評価等、ありがとうございます。
世界(あるいは日本の方でしょうか?)がまた何処かへ飛んでいってしまう可能性を考慮した経済を想定したところ、「俺の考えた最強の鎖国政策!」みたいなものになってしまいました。
実際、商取引等で外国に依存すること自体が致命的なリスクになり、かつそれが本作においては顕在化したことから(初回から日本が江戸時代に時間漂流していたならば、原油も石炭も全て自前で開発しなければならなくなり、より苛烈な事態に陥っていたとも考えられます)、経済効率を無視した、エネルギー・食糧安全保障に重点の置かれた経済構造が当然のように要求されるだろうと考えられます。『神武』作戦も、その意味では急場凌ぎのものとも言えそうです。
そしてそれは現代の延長に存在するであろう未来と比べると、なかなか苛酷な面も見えてきます。そんな中でどんな選択がなされ、「ハッピーエンド」に向かっていくか、色々とご想像いただければ幸いです。




