17. 動揺
東京都日野市:平山城址公園駅付近
山田穂香は社会人4年目のOLで、コインパーキング運営会社に勤めていた。
そんな彼女が暮らすペット可のアパートには、ヤンチャで人懐こい猫がいた。チョリって名前のオスのロシアンブルーだ。転んでズボンが破れた日も、盛大なミスで上司に怒鳴られた日も、些細なことで彼氏と大喧嘩になった日も、家に帰れば必ず玄関でチョリが待っていて、すぐさま肩に飛び乗ってくれるのだ。
だからどんな時も、チョリがいれば大丈夫だった。
「ねえチョリ、会社が休みになっちゃったよ」
穂香は傍らのチョリの頭を撫でながら言い、ゴロゴロと喉を鳴らすのを聞いた。
ニュースで総理大臣が言っていたことが、本当かどうなのか分からない。でも東京が空襲されたのは事実――実際南の空が真っ赤に染まっていた――で、ガソリンスタンドが空になっているのも事実らしい。そんな状況ではコインパーキングどころでないだろうと言われれば、本当にその通りとしか答えようがなかった。
「ま、そのうち何とかなるよね」
チョリはにゃおとだけ返事をし、膝の上に乗ってきた。
そうしてしなやかで凛々しい背筋を撫でていると、スマートフォンがブルブルと振動した。点滅するライトの色から、猫仲間からのメッセージだとすぐ分かる。
<asaka: 大変! キャットフードなくなるかもだって! 早く確保した方がいいよ!>
<hono: え、どういうこと!?>
穂香はびっくりし、すぐさま返信する。
<asaka: キャットフード、結構海外産が多いんだって。もう来なくなるかも>
<hono: え、やばいよ>
<asaka: 超やばいよ! 何か政府がペットの安楽死に乗り出すかもって噂まで流れてるし……>
そのメッセージを見て、穂香は凍り付いた。
Wikipediaのロシアンブルーのページには、第二次世界大戦中に絶滅の危機に陥ったと書かれていた。人の食べるものがない状態では、そんな悲劇が起こるのだ。そして日本の食糧自給率は、たったの4割しかない。
「嫌だ、そんなの嫌だよ……」
頭の中は真っ白で、穂香は愛猫を抱き締めた。
チョリは主の豹変に戸惑いながらも、どうかしたの? と言わんばかりの表情で、突然泣きじゃくり出した主の頬をぺろぺろと舐めた。
茨城県守谷市:スーパーマーケット
24時間営業のそこにトラックがやってくるなり、誰しもが歓声を上げた。
長蛇の列ができた入口の前には、屈強な警備員が立っていて、扉も内側から閉められていた。仕入れに成功したものを従業員達が急ぎ並べていき、それが完了すると店内にどっと客が押し寄せた。
「弁当、ミネラルウォーター、トイレットペーパー、お一人様一点までとさせていただきます」
従業員が必死に呼び掛け、概ねそれは奏功していた。
だが暫くして、やはりトラブルが始まった。トイレットペーパーを4セットも手にしてレジに並ぼうとする不届き者が現れたのだ。
「お客様、こちらはお一人様一点までに……」
「黙れ、必要なんじゃ!」
血走った顔の老人が、若い店員相手に凄む。
オイルショック世代が故か、老人は頑として譲らない。同じやり取りが何度も繰り返され、周囲があからさまに苛立っていく。こういう時に頼るべき警備員は、外で客を捌くのに手一杯なようだ。
「いい加減にしていただけませんか?」
サラリーマン風の男が窘める。
「皆、迷惑していますので」
「何じゃ若造、抜かせ」
老人が鬼の形相で掴みかかった。
だがサラリーマン風の男はその瞬間に強烈な一発を見舞っていて、腹部を強打された老人が苦悶の声を上げる。そしてその場に崩れ落ち、ヒューヒューと荒い呼吸をし始めた。
「並ぶところを間違われたのでは?」
サラリーマン風の男は冷たく吐き捨て、ミネラルウォーターと鶏そぼろ弁当を手にレジに並ぶ。
店員もまた転がったトイレットペーパーのセットを回収し、売り場へと戻した。その辺にいた男女がそれを手にし、他の生活用品売り場や弁当コーナーへと歩んでいく。
「ぐ……誰か、助けてくれ……」
老人がうずくまりながら手を伸ばし、誰かが踏ん付けて悲鳴が上がる。
だがそれは販売活動に影響を及ぼさなかった。誰もが機械的に一点限りの商品を購入し、淡々と店を後にしていく。非常時に率先して秩序を乱さんとした輩に、手を差し伸べたがる者など、誰一人としていなかったのだ。
ウルシー環礁:航空母艦『バンカーヒル』
マリアナ諸島の航空基地が大打撃を受け、日本本土空襲が当面不可能となった。
第58任務部隊を率いるマーク・ミッチャー中将はその報告を受け、数百機もの航空機に奇襲されたのではないかと思った。だが飛来した機はマリアナ諸島全体で60機未満とのことで、首を傾げる他なかった。しかも敵機は三角形をした非常に高速の機体という他はまるで分からず、相当数の迎撃機が配備されていながら、1機も撃墜できなかったらしい。
(どういうことだ……?)
理解は困難だった。現実を説明するシナリオがまるで描けなかった。
三角形や非常に高速といった要素から、ジェット機だろうかと思った。しかしそれであれば1機くらいは撃墜できているだろう。ドイツにもMe262のような強敵は存在するが、それはあくまで強敵であって無敵の存在ではない。
加えて何処から飛来したのかも分からない。何故か連絡が取れなくなったままらしいが、硫黄島は陥落寸前のはずだ。未知の航空母艦でも存在するのだろうか?
「参謀長、君はこの件、どう考えるかね?」
「やはり誤認ではないでしょうか?」
参謀長のアーレイ・バーク代将が、上官とは対照的な溌剌とした声で答える。
「突然の爆撃だったため情報が錯綜、何もかも破壊されたように見えた……ということかと」
「サイパン、テニアン、グアムが攻撃を受けたそうだぞ。それもほぼ同時に」
「猿どもにしては、多少上手い手を使ったのでしょう」
「油断は身を亡ぼす……もっとも、慎重に過ぎても同じか」
「ええ、まさしく」
ミッチャーは息をつき、艦橋の外へと目をやった。
眼前にあるのは航空母艦『ランドルフ』で、夜の闇に紛れていて視認し難いが、その後ろに同型艦が何隻も並んでいる。航空母艦17隻、戦艦8隻を中核とし、護衛の巡洋艦、駆逐艦を含めれば100隻を優に上回る。それがミッチャーの率いる第58任務部隊で、世界史上最も大きな戦闘能力を有するこの巨大艦隊の行く手を阻むものなど、何一つとしてあるはずもないのだ。
「まあ、問題などあるまいな」
ミッチャーは自身に言い聞かせるように呟いた。
実際、出撃はもう間もなくだ。沖縄上陸作戦に先立ち、日本軍航空戦力が集結中の九州を徹底して叩く。巣をつつかれたスズメバチのように反撃してくるであろうカミカゼ部隊に打ち勝ち、地上部隊を援護しなければならない。であれば弱気は禁物だった。
東京都江戸川区:体育館
息子と対面するまでは、ほんの僅かだが希望があった。
何かの間違いではないか、別の子供だったりはないか。所持品から氏名を確認したと言われても、身体的特徴が合致していても、10のマイナス何乗という可能性に賭けたかった。
だが――父だった藤嶋健一が意を決して遺体袋を開くと、そこには息子の変わり果てた姿があった。ほとんどが酷い火傷で膨れ、苦悶に満ちた顔が、焼きごてを当てられたかのように視界に刻まれた。
「圭太……」
藤嶋の精神は奈落の底へと突き落とされた。
信じていたほんの僅かな可能性は、対数グラフのY軸に決して現れない0へと垂直落下した。将来は地図にかかわる仕事がしたい、その夢に向かって励み、また山登りにもよくついてきた小学5年生の息子は、もはやこの世の何処にもいなかった。未来と希望に満ちていたはずの人生は、全く理不尽に奪われてしまった。
目眩が視界いっぱいに広がり、次いで真っ暗になった。膝ががっくりと落ちる。
「うちの息子に間違いありません……」
係にそう伝え、暫く硬直していた藤嶋は、唐突に力なく立ち上がった。それから幽鬼のような足取りで、ふらふらとさまよった。
圭太は殺されたのだ、逃げ惑う人々をせせら笑いながら焼夷弾を落とし、焼き払っていった悪鬼の如き爆撃機乗りに。彼等に残虐非道の命令を下した将軍や大統領に。そしてそんな指導者に権力を与えておきながら、のうのうと同じ明日を迎え、平穏に暮らそうとしている者達に。
「ねえ、自衛官さん」
ちょうど近くを通りかかった、自分と同じくらいの年嵩の責任者らしき自衛官に、藤嶋は力なく尋ねた。
「いつ、自衛隊はニューヨークを焼き払ってくれますか?」
余裕の消失、欠乏、死、そういったものを市井が実感せざるを得なくなる第17話でした。
一方、そんな事情をつゆも知らないミッチャー中将麾下の第58任務部隊が、突然の被害をいぶかしみながらも、九州沖に迫ろうとしています。
今回は実のところちょっと書いていて辛い部分も多かったのですが(登場人物の心情って執筆時にダイレクトにフィードバックされますよね)、頑張って書いていこうと思います。
明日は休日ですので、第18話は明日18時更新です。




