P.1 事の始まり
軽く消しカスをはらおうと思っただけだった。不覚にも、勢いあまって消しゴムまで落としてしまうとは思わなかった。
ポーンと飛んでいった消しゴムは、一度、二度と弾むと、自分の手の届かない前の方へ行ってしまう。
静かな教室内では声を出すことも躊躇われ、僕の口はただ、「あ」とだけ動いた。
ちなみにいうと、この授業は三年生と、僕たち二年生の合同で行われている日本史の授業。なぜ三年生と一緒かといえば、この学科独特の時間割に理由がある。
自分の進路にあわせて、必要な授業をうまーくとっていくのだ。どうも大学の授業選択に似ているらしい。僕は三年生と同じになるような授業はとっていないつもりだが、唯一この授業だけ三年生と一緒だ。
なんというか、気まずい。同じ学年同士の授業がすごく気楽なのがよく分かるのだ。
現にこう消しゴムを落とした先が三年生の席の下で、ものすごく話しかけづらい。
僕は軽く頭を掻いて、ふぅとため息をついた。今、とても消しゴムが必要なのである。
しょうがない、と思って、僕はシャーペンの後ろについている小さな消しゴムを使おうと蓋をとった。……あまり使いたくないんだけど。
その時、三年生が消しゴムに気づいて取ってくれた。小動物――ウサギを思わせるような雰囲気をしたショートカットの先輩は、優しくて、柔らかな微笑みを浮かべ、
「君の?」
と僕に問いかけてくる。僕がこくりと頷くと、はい、と渡してくれた。
ども、とだけ礼を言いい頭を軽く下げると、彼女はいえいえ、と微笑んで前を向いた。
間違ったところを消して、書き直す。
その間中、僕は何故かあの微笑みが気になっていた。かと言って一目惚れとかいうのとは違う、僕の中で妙にひっかかるものだ。
おかしい、と自分で思った。僕は自他共に認める、他人に全く興味のない人間だ。それが自慢とか、胸を張って言えることじゃないから、彼女の顔が忘れられない理由に引き出すのはちょっと違うんだろうけど、普通の人が異性の顔を忘れられないと思うことが少しおかしいと感じるのなら、やっぱり僕の場合はもっとおかしい、ということになるはずだ。
右から左へ、もしくは左から右へ、しばらく先生の話を聞き流しながら、ボーっとしているとだんだんどうでもよくなってきた。やっぱりこれが僕らしいと、僕が思う。
「千里! 答えてみろ」
僕らしさが戻って少し満足気にしていると、不意に名前を呼ばれる。先生というものはいつもこうしてタイミングが悪い。こちらとしては空気……というか僕の気持ちを読んでいただきたいのだ。
「なんだ、聞いてなかったのか」
黙っていると、呆れたように聞いてくるので、まぁ、とだけ答えた。
「成績がいいからってボーっとしない。分かったか? ちーちゃん」
その呼び方やめてください、と言おうと思ったが、面倒なので息を一息吸い込むだけでやめた。ついでに言わせてもらえば、『成績がいいから』というイヤミも否定したかったが、何より気になったが、例の先輩がハッと顔を上げていたことだ。彼女も『ちーちゃん』と呼ばれていて、成績がいいんだろうか。