変えられない現実
3
わらびが言うには、かつきは、父親の仕事の都合とやらで、中国の上海という街に行くことになったらしい。転勤は急なことで、夏休みの内にその上海に引っ越しをしたいということだった。
教室は、突然の発表に静まり返った。そしてざわざわと、そこかしこで、ささやきあう声が聞こえた。
涼太の心の内は、ぽっかりと穴が開いたようだった。
わけがわからなかった。
かつきに言いたいことはたくさんあるが、一番言いたいことは、なんでおれにだまっていたのかということだ。かつきも突然知らされたのかもしれないけど、そんなことはどうでもいい。一番の友達だと思っていたのに、裏切られた気分だ。
周りから見たら、そうとうカッカしていたのだろう。
ホームルームを終え、人でごった返した廊下に出て、玄関まで向かっていたら、みんなが勝手に避けて道をつくってくれた。涼太は、怖い顔をして、その開かれた道を大股で歩いていった。
涼太は、家に帰ると、自分の部屋にランドセルを乱暴に投げ捨て、ベッドに飛び込み、仰向けになった。しばらく天井を見ていたら、自然と涙がツーとほほを伝った。
泣くつもりなんて全然なかったのに。
悔し涙か、悲しい涙か、どっちかわからないが、たぶん両方だと涼太は思った。流れる涙を拭うことなく、あふれて出てくるのが止まるまで、そのままにした。そうした方がいいと思ったからだ。
「ピンポーン」
感傷に浸る時間は終了です、そうインターホンが告げた。
母親が、せわしなく居間から玄関へ向かう足音がする。
ドアの開く音がして、「こんにちは」と話す声は、聞き覚えのあるものだった。涼太は、がばっと起き上がり、涙を拭いて、部屋の中を落ちつきなく、うろうろとし始めた。
涼太の部屋がノックされ、涼太は、勉強机に急いで座る。母親は、目が腫れ、久しく見ていない勉強机に座る涼太を見て、いぶかし気な表情を浮かべた。
「かつきくん、来たよ」
涼太は、無言でうなずく。母親は、何か言いたげな顔だったが、涼太のいつもとは違う雰囲気に何かを感じ
取ったのか、何も言ってこなかった。
かつきは、礼儀正しく、母に挨拶すると、手に持っていた紙袋を渡す。
「あらま、気を使わなくていいのに」と言いながら、母は嬉しそうだった。かつき、お前はどこまで好かれるつもりなんだ、ゆくゆくは政治家にでもなるつもりか。母は、涼太のことはすっかり忘れたかのように、
「ごゆっくり」と、言ってドアを閉めた。
かつきと涼太は、部屋にふたりきりだ。
かつきに会うのは、一週間ぶりだったが、もっと会っていなかった気がした。
かつきの顔は、すこし疲れている。どちらも、会話を切り出すきっかけが見つけられず、しばらく沈黙の時が流れた。涼太は、勉強机に向かったままで、かつきは、ドアのそばに立ったままだ。かつきが、最初入ってきたときに、一度目を合わせただけで、そこからは一度も目を合わせていない。
気まずい空気が流れるなか、涼太は居てもたってもいられず、机の棚から、地図帳を取り出した。とりあえず、中国大陸のページを開き、上海を探す。中国ってこんな大きいんだ。涼太にとっては、大発見だった。隣の日本はこんなに小さいのか。涼太は、その小さな日本を構成している、さらにちいさな街の一部分に住んでいる。地図上では、自分が住んでいるところを見つけられなかった。
「なぁ、かつき」
自然と涼太は、かつきの方に向き直って言った。かつきも自然に「うん?」といつもの優しい顔を向けた。かつきは、涼太のことを、バカにせず、いつもちゃんと話を聞いてくれるのだ。
「中国って、広いんだな」
「そうだね。広いね」
「中国って、日本よりこんなでかいんだぜ」
涼太は、地図帳を自信ありげに、バーンと広げた。
そんな涼太の姿を見て、かつきは、ははっと声をだして笑った。涼太もつられて笑った。すぐに元通りというわけではないけど、徐々にぎこちなさは、ほどけていった。
涼太が聞きたいことはたくさんあった。けどそこには触れずに、とりとめのない話をしばらく続けた。無理矢理聞くのも違うし、かつきが話そうと思ったら、心して聞こうと涼太は思っていた。
「あのさ・・・」
とうとう来た。かつきが、切り出す。
「まず、ごめん」
かつきは、頭を下げた。
「ぼくも突然のことで、戸惑っているんだけど・・・。いや、ごめん。もしかしたらってことは両親から聞いていたんだ。けど、ぼくはここを離れたくないし、友達とも別れたくない。ずっと知らないふりしてきたんだ。本当に嫌だったから」
涼太は、黙って、かつきを見つめた。かつきは、苦しそうに息を小さく吐いて、話を続ける。
「はじめて反抗してみた」
かつきは、恥ずかしそうに言った。
「反抗?」
「うん。ぼくは、ここを離れたくないって言った。そしたら怒られたよ。もう子どもじゃないんだから。かつきは頭いいからわかるだろって・・・。涼太、ぼくって、もう子どもじゃないのかな?」
涼太はかつきの潤んだ目を見つめた。大人っていつからなるんだろう。確かにかつきは、おれより大人な気がするけど、それでもまだ子どもな気がする。おれが言うのは何か違うような感じだけど。
「でもね。うれしかったんだ」
「えっ?怒られたのに」
かつきは、そっとほほ笑んで
「自分をこう・・・吐き出したような気がして。ぼくの両親もびっくりしてたよ」
と、すっきりとした顔で言った。かつきなりの葛藤があったんだろう。涼太には、かつきの胸の内はわからない。けど、ひとつだけ言えるとしたら、かつきは、自分の大事なものを守った、そんな顔をしていたということだ。
「ぼくは、上海に行くよ。涼太には、自分の口で一番に伝えたかったんだ」
かつきの目には、覚悟の色が見えた。かつきは自分で決めたら、梃子でも動かないところがある。かなりの頑固者だ。
「もう変えることはできないの?」
涼太は、覆るはずなんてないとわかりきっているのに、いちおう聞いてみる。かつきは、きっぱりとうなずく。
「涼太に、会えなくなるのはさびしいけどね」
涼太は、ぎこちなく笑った。
「中国には涼太みたいな子はいるかな」
「おれみたいなのは、おれしかいないよ」
「それもそうか」
「でも、かつきなら大丈夫。絶対友達できるよ。おれが認める」
かつきは、照れくさそうに頭をかいた。
「いつまで、こっちにいるの?」
涼太は尋ねる。
「あと、三週間ぐらいかな」
「ってことは、7月の終わりまでか・・・」
別れの日を聞くと、一気にこれは現実なんだなと思えてくる。黙っていたら、また涙があふれそうになるので、何かしゃべらないと・・・。
あっ。
「そうだ。かつき、おれの身に起こった、ここ一週間の出来事聞きたいか?」
涼太は、泣きはらした目で、前のめりになりながら、かつきにそう尋ねた。
かつきは、途中でちゃちゃを入れることなく、話を最後まで聞いてくれた。
パジャマおじさんに会ってから、幸運が舞い込んでいること、この話をかつきに話したくてうずうずしていたことを事細かに話した。
涼太が、一方的に話し終えると、かつきは、すこし考えるそぶりを見せて
「ぼくも、パジャマおじさん見たいな」
と、ぼそっと言った。
「信じてくれるの?」
涼太は、半信半疑で聞く。
「信じるもなにも涼太は、信じてないの?」
涼太は、実際にパジャマおじさんを見たが、どうもあれは夢だったような気もする。だから、一番信用しているかつきに話して、それで終わりだと思っていた。
そんなことがあったんだという、明日になったら忘れるたわいもない、その場限りの話題のつもりだった。そう思っていたので、かつきが「見たい」とまで興味を抱いてくれるのは意外だった。
「最後にじゃないけど、思い出にさ。ぼくも幸せになりたいし」
かつきは、明るく言った。
「かつきも、子どもっぽいところあるんだな」
涼太は、妙に感心した。「なにそれ」と言いながら、かつきは嬉しそうだった。
「でも、パジャマおじさんを見たからって、幸せになるとは限らないぞ」
「そうかな。涼太のテストの結果を見る限り、間違ってないんじゃない?」
かつきは、涼太をからかうよう言った。
「あれは実力って可能性も・・・」
「・・・それはない」
「って、バカにしてるだろ」
ふたりはクスクス笑いあった。
やっぱりかつきに、一番に話してよかった。他の友達に話していたら、最初からバカにされるのがオチだ。こんなに居心地のいい空気をつくってくれるのは、かつきの人柄がなせるわざだろう。
けれど、途端にさみしくなる。笑いあえばあうほど、こんな時間もあとすこしなんだと、いやがおうにも頭をよぎってしまう。かつきには、やっぱ上海行きをなんとか撤回してもらおうかなと、涼太はふと考える。かつきの両親に直談判して、かつきくんはぼくが育てます・・・って無理な話だよな。
「だからさ、涼太、もう一回さ、パジャマおじさん探してみない?」
かつきの目は、真剣だ。
そうか。もしかしたらだけど、パジャマおじさんを見ることができたら、かつきも日本にずっといられるかもしれない。急に、予定が変更になって、上海に行かなくて済むかもしれない。そんな夢みたいなことを思った。
「そうだな、やってみるか」
涼太は、わずかな希望にかけることにした。
今は、なんでもいいからすがるものが欲しかった。見つかっても見つからなくてもいい。とにかく、かつきとの時間を大切にしたかった。
かつきは、すぐに計画を立て始めた。その間、涼太は、床で一生懸命、頭をひねっているかつきをぼっーと眺めていた。涼太の出る幕はない。かつきは、短時間で計画をまとめ上げた。
「とりあえず、来週は放課後に、集まってパジャマおじさんを探そう。で、夏休みに入ったら、一日をフルに使って、探す。・・・そうだな。もっと人がいればいいけど。詳しいことは明日学校で話そう」
かつきはいきいきとしていた。そんなかつきを見るのが涼太は好きだ。
なんかさっきまでは、怒ったり、落ち込んだりしていたのに、人の心ってコロコロ変わるんだなと、涼太は思った。
そのあとも、しばらくかつきは涼太の家にいて、マンガを読んだり、一緒にゲームをしたりして、普通に過ごした。いつもふたりで遊ぶ感じとさほど変わらない。
そして夕方になり「また、明日」と言って、いつもみたいに別れた。
かつきを見送ったあと、涼太はベッドに仰向けになり、かつきとあと何日会えるかを指で数えてみた。まだまだあるなと、涼太は嬉しく思う。両手で数え切れないくらいある。
いつかというか、必ずかつきとの別れの日は来る。パジャマおじさんが運んでくる幸運によって、運命が変わるかもしれないけど・・・。
ともかく、一日、一日を大事にするのだ。
そう考えると、涼太の胸の内から気力がどんどん湧いてくる。ベッドから起き上がり、「よしっ」とひとりつぶやく。そのとき、お腹がグッーと音をたてた。そういえば、学校から帰ったら必ず食べるおやつを食べてない。お母さんも気が利かないな。
涼太は、部屋を出て、台所に向かって、「お腹空いた」と大声で叫ぶ。すると、台所から「今日はカレー」と、声が返ってくる。今日は、たくさん食べられそうだ。とにかく、空腹だ。たくさんおかわりしてやるぞと謎の意気込みで、涼太は、台所に向かった。