狂乱の渓谷 後編
私達の頭上という高い軌道を描いて、その結果が影となっていた。
それはセイシエンチャーと呼ばれる魔物だ。
裂けたように広がる口は頬張るのに使われ、何者をも噛み砕く必要なく飲み干せる食道を持つ。
それは軌道の頂点を越えて落下していた。
口を大きく開けて目掛ける先はナリダとロイである。
「「ッ!」」
二人は反応に遅れた訳ではなかったが、回避するにはあまりにも相手が巨体すぎた。
だから攻撃と身を擲って仲間を守るという、それぞれが別の選択肢をした。
ロイの方が速かった。
ナリダが攻撃に移るその前に付近の魔物を足掛かりとして突き飛ばす。
そしてそのまま自ら敵へ向かっていき、巨体の影に塗られた。
無茶だ。
小さな身をセイシエンチャーが飲む様を想像するのは容易かった。
だが、そうはならない。
パリンと硝子が割れるような音が響く。
私は以前の似たような場面を思い出した。
その記憶に重なるように、無事とは言えないものの大口から逃れるロイの姿があった。
だが、難はまだある。
セイシエンチャーの体には痛くも痒くもないのだろう、コールチャーが噛みつくことでへばりついている。
そしてその牙を離して襲い掛かった。
ロイは不安定な体勢だった。
顔の表情を歪め、太股に巻くベルトによって隠し持っていた暗器のナイフで迎え討たんとする。
そこに助けが入った。
「ガーウッ!」
リュークがロイを掴み、そのまま空を翔る。
コールチャーはなんと鰭で羽ばたいて宙に数秒浮遊するが、本物の翼を持つ龍には追い付けやしない。
セイシエンチャーは残った魔物を飲み込んで水中に潜る。
次の瞬間には空中へ再度跳ね上がってきた。
今度は下からガブリと食事をしたいようで、下から大きく開口する。
「食べたいなら食べればいいよ」
そこに私は溜めに溜めていた氷魔法を自分の代わりに放つ。
喉奥いっぱいにまで極大化した氷塊は顎を固定し相手はふるふると震え、そして粉々に噛み砕いた。
「うわあ」
思わず声が漏れる。
円を描くことなくセイシエンチャーは地面に叩きつけれはしたが、魚は地面の上でも問題なく跳ねる。
尾鰭が舞って来るのをナリダは正拳突きで反撃した。
ドゴンという衝撃音に反して効果は薄い。
重力魔法により身軽さは得たが重さは減っているのだ。
次にハルノートが剣で斬りつける。
「マジかよ」
鱗がない体であるのに深く傷はついていない。
予想よりセイシエンチャー自身の防御が高い。
一度目の邂逅のときは戦闘しないで只管に逃げの一手であったので、未知だったのだ。
空の魔物も依然として襲撃し続けている。
普通なら大物の魔物の登場に逃走する様子が見られるのだが、魔素の溜まり場のせいで恐怖が薄れている。
同志が死にゆくのを気にかけずに私達を狙ってくる。
逃げるばかりか集まってくる魔物に足場への活用で助かるのだが、セイシエンチャーを最優先で回避しなければならないことで傷を負い蓄積していく。
そんな状況にレナが動いた。
「…………クレア!」
それだけで意図は伝わった。
私はレナの元まで魔法で翔破し、魔眼の効果により硬直している鳥形の魔物の背へと着地する。
彼女もその直後に乗り込み、毅然とした態度で相手を見据えた。
「―――平伏せ。この力の前にお前は無力だ」
詠唱を開始したレナの一切の邪魔の排除を任されたのが私だ。
魔眼の効果が続き動けない魔物の代わりに風で操縦する
翼の風の受け方を深慮する余裕はないので、ガクリと高度を下げたり上げたりを繰り返してその度に調整する。
詠唱できない程でよろけるレナは依然に前を向いているが、背中姿からでも私を非難しているのが伝わってくる。
難しいのだというぼやきを嚥下しつつも安定化に成功した。
敵の撃退を同時進行でこの速さなので、かなり頑張ったのではないか。
「魅する紅玉は驍猛な戦士をも凌駕する。彼我の関係は女王と虜である僕のみ認めよう」
レナは全力を注ぐようだ。
大きく膨れ上がる魔力の高まりに、セイシエンチャーは敏感に反応した。
もう何十もの魔物を胃に収めたにも拘わらず、レナへ狙いを定めている。
そんな大食らいに対し、私は逃げるように上昇した。
高度はセイシエンチャーの飛躍の限界。
相手は頂点に達して浮遊している。
「――――従属せよ!」
詠唱の終了、魔法が発揮する。
これは魔眼の威力の増幅させる魔法である。
相手は浮遊していた状態のまま無防備に落下した。
巨体に見合う分の魔力量であるので、永久ではない一時の硬直となるのみだろう。
私は魔力欠乏により崩れるように倒れるレナを支えながら、追撃用の魔法を構築する。
形成するのは要した時間は五秒分。
今度は尖鋭の氷塊で挑む。
「これで倒せるとは思えないけど」
回転を加え、生物全般の弱点である眼球へと発射した。
痛みの叫びはない。まだ硬直は続いている。
私は目視で浅くない傷が入ったことは確認した。
「レナ、クレア!」
「私はまだ大丈夫! けれどレナをお願い!」
一時の操縦の放置から滑空していたところにナリダの登場は助かった。
今の魔力の残量ではぐったりとするレナを守るに私は不十分だ。
ナリダは彼女を背負い、共に宙で踊った。
私は魔眼の効果がきれそうな魔物から搭乗をやめ、飛び降りる。
徐々に回復する魔力からどのくらい魔法を放てるか大体計算し、後に差し支えない量を使ってただ真っ直ぐに霧を払った。
自分にだけ奥の景色が開け、遠方に小さく木々を発見する。
狂乱の渓谷の終わりが見えた。
*
体がくだびれていた。
加えて、魔力回復薬の効能で復調するのを待たずに消費していったせいで、酩酊しているかのようである。
心臓の辺りが熱い。
半魔でも魔族と同様にもつ魔石がある部位で、負担をかけたことから発熱したのだろう。
また体内に巡る魔力管を損傷しているはずだ。
そうでなければここまでの体調は悪くならない。
「……よくお前ら人国まで辿り着けたな」
ハルノートが気力なく言う。
私や彼だけでなく、皆そのような状態に陥っている。
狂乱の渓谷を突破し、そのまま魔物の脅威が少なくなる場所まで一気に駆け抜けた。
全力を出しきった故の脱力感に浸されている。
「酷い怪我を負いはしたけどね」
「帰りはハルノートとロイがいて助かったよな。魔物の群がりがバラけた」
「セイシエンチャーにはどう対処したのですか?」
「風で思いっきり吹き飛ばして逃げたの……私たち自身を」
「…………怖いし、痛い」
とてつもない速さを出したせいで、皆して骨折を味わうことになった。
大量の魔物がいるせいで治療する暇はなく、その状態のまま安全地帯を求めて長駆もし、悪化する羽目もなっている。
もう二度目は体験したくなかったので、二人の参戦が助けになったのは心底同意だ。
「今回は交戦することになったけど、死亡者は出なくてよかったよ。特にロイ」
「私ですか!?」
ロイはあのとき結界の魔道具を作動させてセイシエンチャーとの衝突の威力を抑えた。
自ら敵に向かっていったのはその次の回避行動をとりやすい地点を得る為とのことだ。
大きな青痣ができただけの打撲で済んだのは、ロイ自身の実力もあるが奇跡も含んでいるだろう。
「普通思いついても実行に迷うものを、躊躇いなく突撃していったからね。魔道具を信じすぎだよ」
嘗て護身用にあげた結界の魔道具であるブレスレットを、今だロイは保持していたのである。
三年前の、趣味の範囲を越えない性能のものをだ。
整備をしていなかったので、どこか故障していてもおかしくはなかった。
「ですが、主が作成したものを疑えません」
「盲目は駄目だよ。私は間違うことがあるのだから、自分で判断しないと」
「むう」
ちなみにブレスレットは回収した。
無茶をさせない為である。
それに過去に作った下手な魔道具をロイが大切にしているのを見るのはかなり恥ずかしいのである。




