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みつばものがたり  作者: 七沢またり


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第七十二話 薔薇の葬列

 ストラスパール州西部、プルメニア西部方面軍野営地。軍団長のマグヌス中将はブルーローズ州を目前にして、軍議を開いていた。

 

「ここまでは極めて順調といえるだろう。国の為とはいえ軍令に背き、私に従ってくれた諸君に感謝したい。特にブルート中将、貴官の第4師団が加勢してくれたこと、心より感謝する」

「なに、陛下をお諫めするのも家臣の役目。混乱し弱体化したローゼリアを前にして、指をくわえていることなど出来ませぬわい。……ヨッベン元帥には何度申し上げても分かっていただけませんでしたがな!」

「元帥の件は非常に残念なことでした。しかし、第3師団の中にも、意を共にする士官たちが我らと行動を共にしてくれました。これだけの兵がいれば、王都ベルまで直進することは容易いかと」

「確かに。これならば陛下に多大な領地を献上することもできましょうぞ。必ず我らの行動をお認めくださるはず!」


 参謀のアドル少佐の言葉に、強く頷く。当たり前だが、西部方面軍にローゼリア共和国を攻撃せよとの命令は発せられていない。それどころか、僅かな駐屯兵を残して第3、第4師団は配置転換、徴兵した者たちは解散される予定であった。参謀総長を解任されたマグヌスはその代わりの守将だったというわけだ。憤怒したマグヌスは宰相ボルトスにローゼリア王都直撃を何度も懇願、ようやく同意を得て、意を共にする将、士官たちと共にストラスパール州へとなだれ込んだ。その総勢は第4師団を主力とした2万人。騎兵4千、大砲は100門。四方を包囲されているローゼリア相手には十分すぎるほどだろう。

 そこに、士官が現れアドル少佐に何かを耳打ちしている。

 

「……閣下。帝都より急使が到着いたしました。陛下からの書状を持参しており、また閣下に直接お会いしたいと強く申しでているとのことです」

「極めて遺憾ながら、今はそれを受け取ることはできない。急使は拘束しておけ。抗っても手荒な真似は避けるように」

「承知しました。委細お任せください」


 書状を確認する必要はない。ここまでの行軍中に、既に3度の進軍停止命令を受け取っている。最初は居丈高に軍令違反を咎める物であったが、3通目には懇願するような内容に変わっていた。『軍令違反の責も問わない、余を思うのであれば頼むから引き返してくれ』と、あまりの情けなさにマグヌスも溜息が出るばかりであったが、最近のルドルフの精神状態を考えれば無理もない。あの呪い人形との対談で、すっかり脅え引き籠り気味になってしまった。とはいえ、マグヌスも先日までは参謀総長を解任されるという恐怖で錯乱状態にあったのだが、そのことは既に過去の出来事となっている。吹っ切れたマグヌスだからこそ、このような暴挙ともいえる行動を取れたのだ。たとえ戦後に軍法会議で処刑されたとしても全く後悔はない。己の命と引き換えでも、名誉を取り戻したい。そして、愛する祖国の領土が拡張されるのであれば極めて安い代価である。マグヌスは本気でそう考えている。

 

「全く、陛下はあの呪い人形の何を恐れているのか。ただ時勢に乗っただけの小娘に過ぎないではないか!」

「中将に完全に同意する。陛下のお考えが私には分からない。だが、ローゼリアと相互不可侵を結ぶのは愚策であると断言できる。なにより、彼の国と相容れぬというのは歴史が証明している。今まで流してきた兵士たちの血がそれを許さない!」

「然り、閣下の仰る通りですな!」


 マグヌスの言葉に、ブルートが強く同意してくる。いや、プルメニア人全ての総意であろう。国民たちからも相互不可侵協定は全く支持されていないのだから。

『――――ぞ』

 そのようなことを考えていると、また幻聴が聞こえる。西ドリエンテを発ってから時折奇妙な幻聴が聞こえるのだ。何を言っているのかは分からないが、女の声のような気はする。だがマグヌスには覚えがない。やはり皇帝の命に背いているという精神的重圧のせいだろうと、マグヌスは判断する。

 

「閣下。占領したストラスパール州についてですが、市民の反プルメニア感情が異常なまでに高く、抵抗活動が散発しております。少なからず犠牲も出ております」

「見せしめで数人吊るし上げれば大人しくなるのではないか?」

「既に実行済みですが、中々収まりません。むしろ反感を煽る結果となっております」

「ならばその家族も連座させろ。連帯責任を徹底させればいずれは大人しくなるだろう。所詮はローゼリア人なのだ。容赦する必要は全くない」

「申し訳ありません、閣下。徹底させるには、兵の数が全く足りません。西ドリエンテからの増援がまだ到着しておらず、全てを監視することはできない状況です。未確認ですが、叩き出された村落もあるようで」

「全くなんということだ。……ヨッベン元帥に支度を急がせるよう使いを出せ! ストラスパールはもはや我らの支配下にあるのだ!」

「承知しました。直ちに催促の使いを向かわせます!」


 アドル少佐が頷き、士官に指示を出し始める。ブルートが髭を撫でながら呆れたようにつぶやく。

 

「しかし、州知事や市長は呆気なく降り、駐屯兵はさっさと逃げ出したというのに。ローゼリアの市民はやけに意気盛んですな。彼奴等にそのような国民性があったとは知りませんでしたが」

「革命とやらの幻想に冒されているのだろう。あのような野卑な思想は許されてはならない。歴史や伝統を否定する愚かな考えと私は考える」

「まさに仰る通り。愚かな市民共に我がもの顔で政治を語られるなど冗談ではありませんな! 余計な考えが広まらぬよう、ここで徹底的に叩かなくてはなりませんぞ!」


 ストラスパール州に駐屯していたローゼリア共和国軍は一戦することすらせず、とっとと逃げ出していった。偵察騎兵からの報告によると3千程度だったらしいが、最低限の防衛行動すらしないというのは戦意が低すぎる。難なくストラスパール州都を占領すると州知事、市長は我先にと降り媚を売ってきた。一方で、市民たちの目は非常に厳しかったことがマグヌスの脳裏に焼き付いている。これからの統治することが難しくなることは予想できたことだが、この短期での抵抗活動開始は予測していなかった。本来なら徹底的に弾圧するべきなのだが、今はその余裕がない。今優先すべきは、一刻も早くブルーローズ州を落とし、王都を陥落させることだ。これでプルメニアの支配圏は各段に広くなる。

 

「そういえば、マリアンヌからの連絡はまだないのか」

「先日の手紙を最後に途絶えております。我らとのやりとりが発覚した可能性があります」

「やむを得ない。まだブルーローズ州にいるのであれば、探し出して確保する。後の交渉で使えるから必ず探し出せ」

「はっ!」


 元王妃マリアンヌとマグヌスは何度か書状をやりとりしている。向こうの要求は単純で王位に復帰する協力要請だ。こちらからの要求は王都攻略後、正式にストラスパール、ブルーローズ州をプルメニアに割譲すること。賠償金も当然取る。後はルロイでもその息子のマリスでも良いが、傀儡として王位に復帰させプルメニアに都合よく操る。後は共和国と王国とで潰し合わせておけば何も問題ない。ローゼリア領は各国の狩場になるであろうが、プルメニアとしてはむしろ望ましい。

 

「閣下、これからの侵攻計画ですが。ブルーローズ州との境、オセール街道での会戦が予測されます」

「まぁ、迎え撃つならそこだろうな。呪い人形はブルーローズ家出身。しかも奴は最高権力に就任したばかり、無抵抗で制圧されては面子に関わるだろう。国内の反発を抑えるためにも、勝敗に関わらず一戦は仕掛けてくるはずだ」

「敵の主力は王党派の籠るカリア市に向けて出兵したとの情報が入っております。これが確かであれば、大した兵力は残っていないかと」

「ははは、実に馬鹿な連中ですな。本気であのような相互不可侵協定を信じていたとは。王位を簒奪した呪い人形の分際で。横っ腹を殴られれば、己の愚かさを自覚するに違いない!」


 ブルート中将が大笑いすると、それに続いて参謀たちの哄笑が広がる。マグヌスも笑みを漏らす。

『―――うぞ』

 高揚した気分に水を差すように、再びの幻聴。首を横に振って、強引にそれをなかったことにする。もうすぐこれも消える。間もなく州境のオセール街道だ。一刻も早く勝利を祖国と皇帝に送らねばならない。そうすれば、再び参謀総長の地位に戻ることもできるだろう。

 

 



 僅かだが霧が生じているオセール街道。西部方面軍は予定通りにここまでたどり着いた。現在は陣を構えて兵を展開中である。ローゼリア軍も遠方で少数ながら陣を張っている。これは予定通りだが、全く想定外の光景が街道には広がっていた。

 

「なんだ、これは?」

「は、はい。ストラスパールの行商に尋ねましたが、このような光景は数日前にはなかったと。実に奇怪なことです」


 マグヌスも参謀たちも己の目を拭う。ブルート中将も驚きで目を見開いている。青の薔薇が一面に咲いているのだ。街道沿いになどという生温いものではない。街道、その一帯を埋め尽くす、青の絨毯とでも形容できるものが広がっている。もはやどこが街道なのかも判別できない。おおよその方向で判断するしかない。

 

「……貴官はどう考える、アドル少佐」

「は、はっ。恐らく、敵の魔術的要素を使った心理的作戦ではないかと。このような多数を咲き誇らせるような魔術は存じませんが、我らを戸惑わせ困惑させることには成功しております」

「つまり、脅しをかけて、時間を稼ぐ、あわよくば撤退させるのが狙いだと」

「はい、そうとしか考えられません。薔薇を陰に兵を伏せている可能性はありますが、大軍は不可能です。伏兵に関しては考慮せずとも宜しいかと」

「閣下。遠方に見える敵勢は明らかに少数! 虚仮脅しの薔薇など気にせず、このまま一挙に進みましょうぞ!!」

「…………」


 短気なブルートが怒声をあげる。マグヌスは顎に手をやり考えを巡らせる。もう少し情報が欲しい。何故か分からないが、嫌な予感がする。先日からの幻聴のせいかもしれないが、悪寒が背中を走る。

 

「あの青薔薇に、何か異常はないのか。変わったところは?」

「はっ、先ほど兵に採取させましたが、ただの薔薇でした。棘はありますが、かすり傷を負う程度かと。こちらをご覧ください」

「ふむ」


 アドル少佐が腰から青の薔薇を差し出してくる。観察するが、確かに普通の薔薇だ。地面に叩き落として踏みつぶす。


「落とし穴や、騎兵避けの縄などが仕掛けられている可能性はあります。……損害を防ぐために焼き払うという手もありますが」

「馬鹿なことを、あまりにも弱気すぎる!」

「もちろん、進路上に限定した上で実施します。ただし、敵勢を警戒しながらになりますので、それなりに時間は要します」

「閣下ッ! あのような小勢を前にして、ちまちまと花を焼くなど良い恥さらしですぞ! 罠があるならば踏みつぶして進めば良いだけのこと! 落とし穴など恐れるに足らんわッ!!」


 激昂するブルートに、アドルも反論はしない。アドルもただ方策を述べただけで本心では気にせず進むべしと思っているだろう。マグヌスもそう考えている。

『ど――でも同じ―よ』

 いつものように幻聴を無視する。遠眼鏡で敵陣を覗いていたアドルが、声を上げる。

 

「敵陣で旗があがりました! あの容姿は、おそらく!」

「なんだと?」


 遠眼鏡でアドルが指さした方向を確認する。霧は生じているが、見晴らしを遮るほどではない。ローゼリア兵が三つ葉印の軍旗を掲げている。その前で偉そうに佇んでいる、豪奢な軍服に身を包んだ少女。遠いため表情まではよく確認できないが、特徴的な白髪で、手には紫色の杖を握っている。ローゼリア共和国大統領、簒奪者ミツバ・クローブに間違いなかった。

 

「あのような小勢をミツバ・クローブが直接率いているだと? 自殺行為としか思えん!!」

「しかし、間違いないかと。あのように禍禍しい容姿の人間、間違えようがありません」

「ならば、むしろ好機ではないか! ここであの小娘の首を叩き切れば、陛下の心の煩いを取り除くことができるというもの。革命などという愚かな思想ごと叩き切ってしまいましょうぞ!!」

 

 確かに好都合ではあるが、なぜミツバ・クローブが出張ってきたかは考察しなければならない。青の薔薇が罠だとしたら、アレの存在はそれを補強するものとなる。しかし、罠といってもこちらを陥れるようなものまでは想像できない。ならば何を狙っているのか。

 

「……まさか、ルドルフ陛下が我々の進軍を停止させることを期待していたのか?」

「なるほど。申し上げにくいことですが、陛下は異常ともいえるほどミツバ・クローブを恐れていました。対談で向こうもそれには気づいているでしょう。それを逆手に取り、脅迫する使者でも送っていたとしたら考えられます」

「ならば陛下が必死に止める理由も分かるというものだ」


 マグヌスは頷きながら言葉を続ける。


「"呪い人形"などという異名は容姿や愚かな行いを例えられたもの。陛下が恐れている奴の恐怖はまやかしに過ぎない。陛下の命に従い我らが進軍を停止して撤収すれば、前線に出張っていたミツバの大手柄になり、国民の支持を獲得できるというわけだ。寡兵で何とかしようとした窮余の策というべきか」

「閣下の鋼の意志がそれを妨げたのです。お諫めする閣下の行動は、必ずや陛下もお認めくださるかと」

「全て踏みつぶせば良いのです! 直ちに進軍命令を!!」


 ブルートの言葉に、マグヌスも決意を固める。そして大声で命令を下す。


「当然進もう。中将の言葉通り、罠があるなら忌々しい青薔薇ごと踏みつぶしてやれッ!! 歩兵全軍前進!! 騎兵は対物障壁の展開用意をしておくように!!」

「了解しました!!」

『――どうぞ』


 プルメニア歩兵が歩調を合わせて薔薇畑に進んでいく。軍楽隊の音、軍靴の音が響く。霧が深くなり始めている。青の薔薇が綺麗に咲き誇っている。




 

 プルメニア歩兵の前列が薔薇畑の中ほどまでに差し掛かったところで、ローゼリア軍の歩兵戦列が旗を掲げ立ち上がり射撃を行なってくる。およそ500といったところか。それに応戦するプルメニア軍。数度射撃を繰り返したところで、ローゼリアの歩兵たちは壊走していく。当たり前の結果である。プルメニア戦列は何人倒れようと次々に後列から補充されるのだから。数の桁が違うのだ。

 

「伏兵がいたが、あれでは何の役にも立つまい。むしろ、あの敗走する連中が本隊の行動を妨げ士気を下げるだろう」

「現状、落とし穴や騎兵避けの縄も確認されておりません。やはりただの脅しだったのでしょう」

「申し上げます、閣下。今が攻め時かと。我ら騎兵隊に突撃をお命じください!! 必ずや簒奪者の首を取ってまいります!!」


 騎兵隊隊長のミラン大佐が顔を赤らめて進言してくる。ブルート中将は我が意を得たりと強く頷いている。

 

「まさに大佐の言う通り! ここで小娘を取りのがしては勝利に水を差す結果となる。我がプルメニアの騎兵は大陸一の精兵、必ずやあの呪い人形の首を取ってくるはず!」

「現在、戦場はかなりの霧の濃さになっております。強攻した場合、犠牲は少なからず生じるでしょう。このまま圧殺すれば勝利は間違いありません。無理をせずとも宜しいのではないでしょうか」

「何を言うか。小娘とはいえ国家の最高権力者、それを討ち取るというのに多少の犠牲を恐れてどうするか! 閣下、ここは突撃させるべきですぞ!」


 定石でいえば、歩兵戦列同士を戦わせ、敵が下がったところに騎兵を突撃させるのが最も効果的だ。プルメニア騎兵は特に対物障壁を使用した突撃戦法を得意としており、敵兵を跳ね飛ばしながら混乱した敵の後列、本隊に食らいつくことができる。一昔前はその戦法でローゼリアを追い詰めたこともある。大砲が普及した今では、かつてほどの突進力はなくなったが、あの小勢程度なら叩き潰すことは容易だろう。

 

「分かった、敵本隊への突撃を命じる! 騎兵を二手に分け、両側面から息を合わせて突撃せよ。ミラン大佐、見事ミツバ・クローブの首を取ってくるのだ!」

「ありがとうございます、閣下!! 必ずやご期待に応えてみせます!!」

『―をどうぞ』

 しばらくすると突撃ラッパが鳴り響き、騎兵隊が二手に分かれて薔薇畑に突入していく。霧が濃く深くなっている。プルメニアの歩兵戦列はどこまで進んだだろうか。軍楽隊の音色、銃声、砲声、怒声、罵声、悲鳴、騎兵のラッパと蹄の音が戦場に鳴り響く。何かが崩れ落ちる凄まじい音が鳴り響いた。いつもの幻聴だろうか。紫の薔薇が綺麗に咲いている。

 

 


 

「…………」


 一時間は経っただろうか。もう遠眼鏡は役に立たない。戦場は霧で何も見えなくなっている。騎兵隊はとっくに敵本隊に突入したころだろう。歩兵戦列も青の薔薇畑を蹂躙し、逃げる敵兵の掃討に向かっているはずだ。銃声、怒声、罵声、悲鳴が聞こえる。指揮所のアドル少佐、ブルート中将も無言で不安そうな表情だ。参謀たちもそわそわして忙しない。情報が入らない。様子を見に行かせた騎兵も戻らない。ならばと向かわせた歩兵も戻らない。しびれを切らした参謀が向かったが戻らない。誰も戻らない。

 

「…………紫の、薔薇?」

「閣下、どうされました」

「いや、青薔薇が、いつの間にか紫に変わっていると思ってな。大したことではないが」

「魔術的要素により咲いたのであれば、効果が切れて腐食が進んでいる可能性はありますが」

「確かに、そうだな」


 どうでも良い会話で気分を紛らわせる。戦場に意識を集中させなければならない。机の上に広がる配置図に目を向ける。それから一時間は経っただろうか。悲鳴が聞こえる。また騎兵を向かわせた。歩兵を向かわせた。参謀が様子を見に行った。誰も戻らない。紫の薔薇が綺麗に咲いている。

 

「…………閣下。部下たちは霧で迷っている可能性はありますが、この状況は異常です」

「何がだ、アドル少佐」

「音が全く聞こえません。先ほどまで聞こえていた、銃声と砲声が何も。士官が命令を控えているとは思えません。何か、この戦場で起こっているのではないでしょうか」

「な、何かとはなんだ!? 参謀が曖昧なことをぬかすではない!!」

「し、しかし。いくら待っても何も情報が入りません。これでは的確な進言をすることなど不可能です!」

「ならばお前が直接見に行けば良いだろうが!! 口だけではなく、たまには己の足を動かしたらどうだッ!」


 指揮所には天幕が張ってある。外の様子を見るには、ただ入口を開けば良い。いつ、誰か閉めたのかは分からないが、天幕の入口は閉められている。いや、そもそもまだ戦闘中だというのに自分たちはいつこの天幕に入ったのだろう。なぜか記憶が曖昧だ。霧が広がる外は恐ろしいほどに無音だ。もう怒声も罵声も何も聞こえない。外にいるはずの兵たちはどうしているのだろうか。指揮所には当然だが多数の兵士が待機している。予備兵力としての3千だ。大砲も大量に備えている。輜重隊だっている。天幕内の精鋭たる守備兵たちの膝ががくがくと震えている。アドル少佐も外に出ていこうとは決してしない。怒鳴っているブルート中将の表情も青ざめている。今は一体何時だろうか。昼だったか、夕方だったか、夜だったか。それすらも分からない。聴覚だけでなく、視覚もおかしくなったらしい。マグヌスは力強く眉間を揉み解す。そして目を開けると、目の前には白髪の呪い人形が立っていた。

 

『針をどうぞ』


 少女の可愛らしい声が響く。天幕に悲鳴が響く。ブルート中将が血相を変えて出ていこうとするが、体勢を崩して倒れこむ。足元にはいつの間にか紫の薔薇が咲いていた。そのツタが、ブルートの足首に巻き付いている。棘が深々と食い込むと悲鳴をあげる。引き千切ろうとするが、その掌にも食い込んでいく。それを見たアドル少佐や守備兵たちが呪い人形に銃弾を次々と撃ちこむ。眉間や胴体に命中するが、意に介することなくニヤリと笑みを浮かべている。呪い人形が杖をかざすと、アドル少佐たちはごぼごぼと血の泡を吹きながら、無残に崩れ落ちていく。そして鈍い唸り声をあげながらジュクジュクという音と共に、混ざり合い融けていった。

 

「な、な、なに?」

『針をどうぞ』


 笑う呪い人形が杖を振りかぶり、マグヌス目掛けて振り下ろしてきた。防ごうとした右手は叩き折られ、その衝撃でマグヌスは意識を失った。失うことができた。その僅かな一瞬で、マグヌスは無意識のうちに安堵の溜息を洩らしていた。ようやく悪夢から逃れることができると。すべては夢だったのだ。起きれば全てが元に戻る。自分は戦場で指揮を執らなければならない。そうなることを神に祈って。

 

『おやすみなさい。すぐに起こすけど』


 ケラケラケラケラと笑う声が天幕に響き渡った。赤が混じった紫の薔薇が、綺麗に咲いている。

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― 新着の感想 ―
[一言] でもたぶん。創造主のニコさんも知らない何かありそうよね。肉体には時限装置があるけど精神は永遠な予感がする。精神が現世に影響を与えないかもだけど。 現世をニコニコ見てるだけかもだけど。 ミツ…
[一言] 薔薇が綺麗なミツバのお庭へようこそ、ゆっくり死て逝ってね!
[一言] 某魚座聖闘士の技よりも何倍も恐悪(誤字にあらず)ですね、コレ。
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