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あの日、雨の夜

作者: やきうの戦士

青いシャツはすでに汗で湿っていて、僕は唸りながら輾転していた。布団に入ってから、もうどれくらい経ったのだろう。家の中はもう音一つせず、父も母もぐっすり寝てしまっていた。僕は目をきゅっと閉じて、深呼吸をひとつするけれど、それは僕が眠りに入るなんの手助けにもならないみたいだった。


周知のように、早く眠りたいのにどうしても眠れない夜というのは、なんとも気分の悪いものだ。しかも、それが今日のような真夏の1日、じっとしているだけで汗がにじんでくるような夜とあってはなおさらだ。夏休みに入ったばかりのこの夜。終業式が終われば、もうしばらくはこのわずらわしい授業や、先生に関わらないですむのだ。帰るころには、みんな顔がきらきらとしていて、たいへんな快楽的な時間のもと、夏休みに向けての期待に胸がいっぱいになっていたのだった。


僕が住んでいるところはどちらかといえば山間部の地方なので、夏休みといえば山や森で遊ぶのが普通だ。今日も、いつも父が使っている地図や方位磁石をこっそりと借りて、友達と山を探検しに行っていた。家に着いたころにはもうへとへとで、父に叱られたあと、ご飯を食べたら、もう眠ってしまいたいくらいだった。それなのに、どうしたことだろう。この暑さのせいなのかそれとも何なのか、さっぱり寝付くことができないでいる。


僕はもう一度寝返りを打って、わけがわからないまま、身体を起こして窓を開けた。窓の外は一片の暗闇だった。しかし、暗闇はこの暑さのために、さらに濃く、重くのしかかってくるかのようだった。空には星や月など全く見えない。雲が多い夜のようだ。熱気が窓の外から流れ込んできて、その熱気が僕に感染して、身体の奥から湧き上がってくる熱波となる。


僕はそれが嫌になって、ふたたび布団に寝転び、天井を見上げた。うだるような暑さの中で、代わり映えのしない天井が薄黒く浮かぶ。なんだかそれさえも息苦しくて、僕は再びきゅっと目を閉じる。


…そのとき、ふと、あまい香りが鼻をつついた。


僕の家の近くには何もない荒地があって、その向こうに森が広がっていた。そこから、夜の風にのって、土の香りや、木の香り、花の香りが運ばれてきているようだった。どうやら、風が吹き始めたようだ。


それからしばらくすると、風がまた少し強くなって、「さぁーっ…」という音がした。僕はなんだろう、と思って、布団に寝転がったまま目を開けて、音に耳をそばだてていた。音は一瞬止んだ。しかしまたすぐに「さぁーっ…」という音がなり始めて、数秒間続いたかと思うと、それはもう継続したはっきりとした音になっていた。


雨が降り始めたのだ。


僕の胸の中は喜びで満ちた。僕は心の底で、この暑くじめじめした嘆かわしい夜がなんらかの形で打破されることを望んでいたのだろう。「これだ。」僕は、この夜に求めていたものを、たった今見つけられたような気がして、うきうきした気持ちで起き上がり窓のそばへと駆け寄った。


夜風にそよぐカーテンを開けて外を見た。暗闇の中、大小の長細い雨粒がときどききらめきながら、真っ暗な天の上から落ちてきて、ぴちゃぴちゃという音を立てて地面に降りそそぐ。夜風は涼しかった。僕は、暗闇の中に流れる雨の一つ一つを目で認めたいと思ったけれど、闇が濃すぎてできなかった。


僕は覚えず、胸の中が静かに高鳴っているのを感じた。なぜかは分からなかった。しかし、この先さえも見えない闇の向こうに、…雨にかき消された空気の向こうに、僕のまだ知らない何かを探してみたくなったのだ。雨は、降り続いていたけれど、それほど強くなる気配はない。ただ長く降り続きそうな雨だった。僕は、むしろずっと降り続いてくれたらいいのに、と思いながら窓の外を眺めていた。


僕はズボンを外向きのものに履きかえて、足音を立てないようにひそやかに玄関へ向かう。腕時計も、地図も、方位磁針も、何も持っていなかった。ただ、僕は何かに引き寄せられるように、音もなく玄関のドアを開けた。


家の外は、思ったよりもずっと涼しかった。すこし歩くと、雨でふやけた地面の泥がぐちゃぐちゃ鳴って、足がとられそうだ。石がしかれた地面に雨粒が当たると、たん、たん、という小気味の良い乾いた音がする。打たれた雨粒は弾けて、再び高く、高く舞い上がる。


雨は待ち受けていたかのように僕に降りそそいだ。絶え間ない水滴が、僕の頭髪を濡らす。頭髪がひととおり濡れそぼったら、そこから耳へ、首へ、肩へ、ぽたぽたと雨水が流れていく。それはまるで草木が雨を受けて逆らうことなく地面へ受け流すときのように、あまりにも自然で、優しい。あっという間に僕は全身シャワーを浴びたときみたいに、びしょびしょになっていた。


ああ、なんて気持ちいいのだろう!僕は、さっきまでの憂鬱な夜も、学校のこまごまとしたこともすべて忘れてしまって、ひたすら降る雨に打たれていた。水の流れる空気の中で、僕という僕が洗い流されてゆく。目を開ければ、そこに雨が入ってきて、身体の中までこの清爽な水で満たされてゆくみたいだった。


僕は、走り出した。


どこに向かうのか、なにを求めて走るのか、分からなかったし、分かろうとも思わなかった。明日の朝までに帰らなければならないことすら考えず、僕はただ、雨の夜の衝動に突き動かされて、口を大きく開けて息をつきながら、真っ暗闇の夜の中を走った。




どの方角へ、どれくらい走っただろうか。


そのとき、僕はもうすでに僕の知らないどこかへいた。そこは、山の中なのか、それとも林の中なのか、それすらもよく分からなかった。しかし、泥のにおいと、濡れた木のにおいが強かったので、きっと林の中にいるのだろうと思った。相変わらず雨は弱まることなく降り続けて、夜の静寂の間を音で埋めていた。


僕の家の近くに林はなくて、それは少し離れたところにあるものだったように思う。僕がまだ幼稚園児くらいだったときに、親に車で連れていってもらったことがあるのだ。しかし、そこの地名がどんなものであったか覚えていない。もし今そこにいるのだとすると、知らないうちにだいぶ遠いところまで来てしまったのかもしれない。でも、そんなことはもうどうでもよかった。


僕は、なにも考えていなかったのだ。…いや、なにかを考えていたけれど、それは僕にはよく分からなかった。あるいはそのために、僕はただ衝動に身をまかせることしかできなかったのかもしれない。


走り続けたので、僕はいくらか息が切れていた。すこし足をゆるめて、ゆっくりと息をつこうと思ったとき、僕はふと人の気配を感じた。


誰だろう?僕は、すこし前…ほんの数メートルほど前に、人の影が見えるように感じて、足を止めて目を凝らした。その人はほとんど動くことなく、わずかに顔を上げてなにかを見ている…いや、顔に雨を受けているように見えた。身長は、僕と同じか、すこし小さいくらいだろうか。きっと僕と同じくらいの学年の子だろう。それから、髪が肩にかかるくらいに長いのが見えたので、おそらく女の子なのだろう。


僕はしばらく黙っていた。林に降る雨の音は、木々によってやや内にこもった印象を与える。まるで、僕とその女の子のいるほんの数メートルの距離、そこだけを切り取っているかのようだ。つめたい雨粒が僕の頬を打つ。いったいあの子は、こんなところで何をしているのだろう?僕はむろん好奇心が刺激されたけれど、反面すこし怖い気持ちもあった。ただ、そういう気持ちよりも、やはり僕は自然な雰囲気で、その女の子に話しかけてみよう、というのがよいように思われた。ちょうど僕がさっきこっそり家を出たときのように。


僕は、じゃく、じゃく、と濡れた泥を踏みしめながら、女の子へ近づいてゆく。女の子が気づく様子はない。


「あの」


僕は声を出した。


「こんなところで、何しているの?」


その女の子は、驚くといったそぶりも見せず、ゆっくりと顔を僕の方へ向けた。


「…別に、何かしてるってわけじゃないよ。ちょっと、雨に打たれるのが気持ちいいなって思ったから、外に出てみただけ。」


その女の子は、やわらかい声で、しかしはきはきした聞き取りやすい口調で答えた。その女の子の顔はよく見えなかったけれど、丸っこい顔で(太っているという意味ではない)、鼻筋のすっきりした感じが見て取れた。


女の子は、雨に濡れたセミロングの髪をそっと手でなでて、「ねえ、そういえば君は?どうしてここに来たの?」と聞いてきた。


「僕も、大した目的があるわけじゃないよ。ただ、暑くて眠れなくて、それで…雨が降ってきたから気持ちよくて、つい外に出てきちゃったんだ」


僕がそう言うと、その女の子は僕の方を向いて、暗闇の中でその黒く澄んだ目をまるくしながら、「そうなんだね。」と言った。


「ところで、君何年生?」


「私?今6年生だよ。君は?」


「え、僕も6年生だよ。おんなじだね」


「え、本当?すごい」


女の子は、うれしそうに体を前後にゆすった。それからすこし前に出て、言った。


「奇遇だね。雨の夜にこんなことするの私だけかと思ってたけど、私以外にもいたんだ。しかもこんなところで会うなんて・・・」


女の子は、しばらく黙ったまま、髪に、顔に、瞳に、服に、降り続ける雨を受けていた。彼女は、ぴくりとも動かなかった。まるで、美しい音楽にうっとりと聴き入って、身体の奥という奥にまで恍惚がしみこんでいるように・・・彼女は、この雨の夜を楽しんでいるのだ。この雨の音、煙る山奥の空気、においも暗闇もすべて彼女は受け入れて、その身体も精神も、そとに溶け込ませているように見えた。


僕は、しばらくそんな彼女を見ていた。彼女は、黙ったまま再び僕の方を見て、ふふっと、何か言いたげな、しかし自然な吐息をもらして――ひょっとしたら、彼女は笑ったのかもしれない――ゆっくりと近くの木のほうへと歩いて行く。そして、なにかを手に取って、それを放した。すると、おそらくそれは木の枝だったのだろう、ぐいっという木の枝がしなる音がして、勢いよく跳ね返っり、ぶわっ、とその豊かな葉にたくわえられていた水滴がぼたぼたと音を立てて周りに飛び散った。その木の近くにいた僕と彼女がその水をもろにかぶったことは言うまでもない。僕はいきなり大粒の水が降ってきたことにびっくりして、「うわっ」と声をあげた。


「あははは、ふふふ・・・」女の子は、そんな僕を見て、無邪気に笑っていた。暗闇の中で、女の子の目がにじむように光っている。瞳が、しっとりと雨水で濡れているようだ。そのせいか、妙にしょぼくれた、寂しそうな印象を僕に与えるのだった。





「君は、このへんの小学校に通っているの?」


僕とその女の子は、すでに打ち解けていた。お互い顔もよく見えない暗さだけれど、お互いの声だけははっきり聞こえていたし、なによりも人が近くにいるという特有の温かさのようなものが、僕と彼女の間にしっかりと感じられていた。


「うーん・・・そういうことになるのかな?」


女の子は、すこしはぐらかすような調子で答えた。


「そうなんだ。僕は、ちょっとここから離れたところの学校に通ってるよ。いっぱい走ったからどれくらい遠いかとかは分からないけど・・・」


「そっかー。じゃあ、ちょっとうらやましいかも」


「うらやましい?なんで?」


「なんていうのかな、私、ときどきすごく遠いところに行きたくなるんだよね。誰も知らないところ?っていうか・・・でもさ、このへんってすごく田舎だし、お父さんもお母さんも仕事してるし遊ぶ時間少なくて、なかなか遠いところいけないの」


「遠いところ、かぁ」


僕は、無意識のうちに、頭の中に浮かんだ風景があった。――それはなんだっただろうか。いつのことだったか、家族と一緒に、限りない田園風景の中を車で走っていて、そのあと・・・ただ、頭の中に残っているのは、刈り取られた稲穂のあと、ほんのり赤く染まり始めた山のバターのようなおもて・・・そういう名前も知らない美しい風景が、いま女の子が行った「遠いところ」という言葉に含まれた感覚がぴったり合うように思われたのだ。


「あと私、君みたいにいっぱい走るとか無理だから。運動不足!って感じ」


じゃく、じゃくと女の子は泥を踏みしめながら笑った。雨に濡れた泥は、思ったよりも厄介で、ねちねちしていて足が沈み込む。慣れていない人はきっと数十分で疲れてしまうだろう。水はけが比較的良いので、明日には泥もからりとしているかとは思うが、今夜だけはこの状況が続くに違いない。今更ながら、ちゃんとした靴を履いてこなかったことを後悔した。女の子も、運動不足というわりに、足を取られながらも息が切れる様子もなくずんずんと歩いて行く。


「私、体育が一番嫌いなんだよね。君は?」


「僕も体育嫌い・・・」


「えー、本当?すごく運動得意そうなのに」


「んー、身体動かすのは好きなんだけど、先生のもとで決められた時間やるっていうのが苦手なんだよな。その代わり、わけもなく山の中探検したり走り回ったりするのは好きだよ」


「あ、それ分かる、私も自分で自由にやるの好き」


僕はその女の子に対して親近感を覚えるようになっていた。それはきっと向こうもそうなのだろう、彼女の声はさらに、朗朗とした、しかし穏やかな調子を帯びるようになってきたように感じられた。


「僕が一番苦手なのは算数かなー。君も算数嫌い?」


「算数?私算数は好きだよ」


女の子は、きっぱりと言った。僕は、ほんの少しだけがっかりしてしまった。


「でも私ね、前算数で全然分かんないところがあって、クラスでも私だけ分かんなくて、一人で泣いてたときがあったんだ。それで、すごく嫌だったから、教室から抜け出して図書室に行って、隠れて本を読んでたの。そしたらね・・・すごくきれいな写真の本があって・・・今まで見たことないくらいきれいで、広くて、それ見てたら、私がすごくバカみたいに思えてきて」


女の子は話し出した。そのときの女の子の言葉は、かたかたと正確に、紡がれるように口をついて出てきていた。きっと彼女なりの確信をもって話す言葉なのだろう。僕は、どう相づちを打ったらいいかよく分からず、ただうん、うん、と彼女の話を聞いていた。


「それから、頑張って算数の勉強したの。そしたらね、すぐに答え分かるようになって。面白いなってなって、今ではすごい好きになった」


「すごいね。でも、算数の勉強なんかして、何になるの?」


「そんなの分からないよ。でも、私は、私が知らないことを知られるってことが、すごく面白いなって思ったよ。それだけ。だって、知らないことを知らないままじゃ、私はいつまでたっても私のままだもん」


女の子は、よどみなく答えた。僕は、なんとなくきまりが悪くなって、意地悪な質問を投げかけてしまったことを恥ずかしく思った。


「私が一番好きな教科は、国語だよ。いろんな本読んだり、作文したりするのが好き」


「本当?僕も作文大好きだよ」


「一緒だね!作文するのってすごく楽しいよね。聞いて、この前ね、クラスの男子がね・・・」


女の子は、楽しそうに、クラスの男子が書いた面白い作文のことを話した。僕は、たまたま読んだことのある変な話や、おかしい話の本のことを話してあげると、彼女はひそやかに笑った。雨でひっそりとした雰囲気の中で、彼女のそうしたしぐさの一つ一つがひどく似つかわしいものに思えてきた。





「実はさ」女の子がつぶやくように言った。「私、海が見たいの」


彼女の静かな声が、雨の静寂の中にぽとんと落ちた。


「海?」


「うん、海。私まだ見たことないんだよね。君は、ある?」


僕ははっとひらめいて、答えた。


「あるよ。見たことある」


「え、本当本当?どんな感じだったの?」


女の子は、僕の方を振り返って、その真珠のような目を輝かせて聞いてきた。


そうだ、僕は、家族と小さい頃、車に乗って海を見に行ったのだ。それは、とても遠いところにあったように思う。そのときの記憶はもうほとんど忘れてしまったけれど、たしかに海を見たときの衝動は、胸のどこかにしまわれていた。


「うん・・・すごく広くて、綺麗だった、かな」


「ねえねえ、この近くにある?海」


「この近くにはないんじゃないか?僕が行ったときは車だったし、時間もだいぶかかったように思う。・・・海、見たいの?」


女の子は「うん」と答えた。「私、海の写真を見てから、ずっとこれを目の前で見たいな、って思ってたから」


女の子が目の前にあった木をすこし手でどけると、そこから先は木が無くなっていて、まっすぐ横に走る道があった。道路だ。


女の子は何も言わずに、その道路に足を踏み入れて、足下を確かめるように、すこし足踏みをしてみせた。しかし電灯はなく、ただ木の生えていない地面が、まっすぐ伸びているだけといった印象である。今まで木に遮られていた雨が林から出たとたんに再び僕の顔や肩を打つようになり、風も通るのですこし寒いとさえ感じはじめていた。


僕は、道路に少し出て、その続くはるか先を見てみた。とはいえ、闇以外に特に見えるものはなく、暗さに目が慣れることも期待できなかった。


しかし、僕の頭の中で、この何もない道路、果てしなく続く道が、不思議と記憶を呼び覚ます感覚がした。僕と家族が海に向かうとき、この道を通ったのではないだろうか?この荒涼とした道は、たしかに僕に何か特別な印象を残すなにかをたたえているように思われた。それが海へと続く道であったどうかは、定かではないし、確かめようもない。だが、ともかくも僕は、この道の向こうを探ってみたい、そんな衝動に駆られた。


「ひょっとしたら」僕は近くで雨に打たれていた女の子の肩にかるく触れて声をかけた。「僕は、この道を通ったことがあるかも知れない。それも、ちょうど海へ向かうそのときに通った道だ。・・・こんなことを言って、君が信じるかどうかは分かんないけど・・・」


「信じるよ」女の子は言った。「耳をすませてみたら・・・ほら、聞こえる。なんだかふしぎな、息みたいな、泣いてるみたいな音・・・」


僕も全身を耳にして聞いてみた。気づいたら雨はやや弱くなっていて、しくしくとすすり泣くような音に変わっていた。そのあいまあいまに、繰り返される、音、音、音・・・。僕は、その音が何であるかをもう知っていた。僕の脳裏で、記憶の閃光がかがやきわたった。


この道の向こうに、海があるのだ。


「走ろう。こっちの方角に、海がある。もう、雨も小降りになってきた・・・ねえ、走ろう。海はこっちにあるんだ、一緒に、海を見に行こう・・・」


女の子は、黙ってうなずいて、ゆっくりと走り出した。僕の身体も、再び、振動と熱気の中に取り込まれてゆく。女の子も、すこし遅れながらではあったけれど、僕の後ろについてきていた。


まるで僕たちの行く手をはばむかのように、雨でぐしゃぐしゃになった泥が足にまとわりつく。夜の闇は果てしがなかった。女の子の息づかいが聞こえる。僕たちは走り続けた。熱くほてった身体に、夜風は心地よかった。


それから、どれくらい時間が経っただろう。


結局、終わりが見えないまま、雨はいよいよ降り止もうとしていた。


僕は立ち止まった。女の子も疲れたようすで、ため息をつくのが聞こえた。


海の音は、まだ、僕たちの前に静かに横たわった闇のはるか向こうで、ごうごうと鳴っていた。あとどれくらい走れば、僕はこの女の子と一緒に海を見ることができたのだろう?・・・そんなことをぼんやりと考えながら、僕は顔を上げた。


「・・・雨、止んじゃったね」


「うん・・・ずっと、雨の夜が続いたら良かったんだけどな。」


「僕も。そう思った」


彼女の目がまっすぐに、僕の顔を見ていた。暗闇さえなければ、僕も彼女も、お互いがどんな顔をしていて、どういう表情をしている子なのか、分かったことだろう。でも、今の僕たちにはそんなものは必要なかった。ただ、あの林の中で出会えたこと、そして、海に向かって一緒に走ったこと、それだけで、もう十分すぎるほどだったのだ。


「私・・・そろそろ帰らないと」


女の子はやや目を伏せて、寂しそうに言った。言うまでもなく僕も同じ気持ちだった。


「うん…僕も帰らないと」


「うん」


女の子は小さくうなずいた。


湿った空気があたりに充満し、底力のこもった暑さが、再び立ちこめ始めていた。雨に濡れそぼった木々が、空気に再びその緑色の香りをふりまきはじめる。いろんなにおいが混じりあって、僕の胸にある種の経験したことのない、ふわふわした情感を覚えさせていた。


「ばいばい!」


女の子は、そうはっきりと言うと、どこへともなく走り去っていった。僕も「うん、ばいばい」といったけれど、彼女は僕の声を聞いたかどうか、分からなかった。


…僕もそれから、どうやって家に帰ったものか、ほとんど覚えていない。ただ、目を覚ました頃には、「うるさいなぁ、あと五分だけ・・・」と、いつもの布団の上で、母に対して口ごたえをしていたこと、それだけははっきりと覚えている。





それから、十年ほど経った。


僕は田舎を出て、T都にある大学に通っていた。今年はもう最後の一年で、就職活動を開始しなければならない、そんな時期になった。


その日僕は、T都のはずれにある企業の説明会に参加していた。僕は、やりたい仕事はだいたい決まっていたけれど、どうしても自分に自信が持てず、本当にこの選択で良いのだろうか、と悩んでいる最中だった。その企業の説明会もそれなりに興味の持てるものだったけれど、第一希望にできるか、と言われると、微妙なところだった。


「あーあ、どうしよっかなぁ・・・」


僕は小さく一人ごちて、ポケットからハンカチを出して自分をあおいだ。この季節に、黒い男性用スーツを着て歩き回るのは、思いのほか疲れるものだ。僕は、精神的にも肉体的にもへとへとになっていたのである。


その企業の所在地は思ったより田舎なところで、駅を出たあと、さらにバスに乗って30分ほど揺られていなければならなかった。ビルの並ぶ都会の真ん中から、バスは、閑静な住宅街へと入ってゆく。眠そうなサラリーマンや、スマートフォンをじっと見つめている高校生、杖をついた老人など、いろいろな人が乗ってきては降りてゆく。皆、同じような顔をしていた。それは僕がT都で暮らすようになって感じたことだった。まあ、そうは言っても、自分も結局は今こんな感じになってるんだろうな、と思うと苦笑するしかなかったけれど。


僕はカバンを開けて、スケジュール帳を見た。明日とあさっては、説明会も面接もない。久しぶりの連休だった。とは言っても、今さらどこかに行こうなんて思わないなぁ。そのことを考えるとまた疲れがどっと身体に出てきたようで、僕はカバンをひざに立ててそこに頭を下ろした。


「あの、隣、いいですか?」


ハッとして顔を上げると、僕が座っていた窓際の席の近くに、一人の女の人が立っていた。女の人、というのは、パッとみた感じ大人の女性という印象を受けたのである。背はそれほど高くはない。


「いいですよ」


「ありがとうございます」


その女の人は軽く頭を下げて、僕のとなりに腰をかけた。ふわりと、おそらく香水のそれではない、あまい香りがした。髪は黒くつやがあって、張りのある丸い顔はすこしメイクをほどこしてあるのだろう、色あいも鮮やかで、大きな瞳も吸い込まれるように黒く明るい。その身のこなしもしなやかで、僕はなんとなくすてきな人だな、と心の中で思った。


僕はそれから、膝下にある資料に目を落とした。こまごまとした数字や、グラフのたぐいが並んでいる。すこし前までは頭痛がするくらいけったいなものに感じられていたが、最近はもうすっかり慣れてしまった。


「就職活動、されてるんですか?」


隣の女の人が、静かな声で聞いてきた。


「あ、はい、そうなんです。さっき説明会受けて、今から帰るところなんですけど…あなたは、お勤めされてるんですか?」


「いえ。私、いま大学三年生なので、就職はまだなんです」


「僕の一つ下なんですね!僕四年なので、今真っ最中なんですよ」


「そうだったんですね。大変そう…でも、すごく頑張ってみえるみたいですから、きっといい結果が取れると思いますよ」


その女の子はそう言ってから、「って、後輩の私が言うとか変ですよね。すいません」とぺこりと頭を下げた。彼女は、どこかおどけた、悪びれていないような感じがして、しかしそれは不思議なことに失礼な後輩にありがちな不愉快さはまったくなく、むしろ好意的でさえあった。僕はなぜだかこの人に親近感を覚えた。


「大学では、何を勉強してるんですか?」


僕は、その女の子に聞いてみた。


「うーん…なんて言ったらいいんだろう。私、もともと理系学部に進んだんですけど、いろいろ考えて、今は文学の勉強してます」


文学か、と僕は思った。僕の知っている文学部の友達もふわふわした雰囲気の人が多いけれど、その人の雰囲気は、必ずしもそれには当てはまらない気がした。柔らかく、しかしそれでいて芯の強そうな雰囲気がしたからだ。もともと理系の出身だからかもしれない。


「僕は経済学部です。でも、数学とか計算とか実はあんまり得意じゃないので、実際入ってからけっこう苦労しましたよ…」


僕はすこし自嘲をこめて言った。数学や計算が苦手なのは他ならぬ事実なのだ。テストの時は友達に頼らないでは合格できなかっただろうし、実際落としかけた単位もいくつかある。だけど、文系の中では比較的就職に強そうだから、という理由で経済学部を選んだ、というのが本音だった。


会話が一段落して、僕と女の子の間に沈黙が訪れた。お互い緊張していたのかも知れない。女の子の方を見ると、彼女が持っていたバッグに木でできた鳥のキーホルダーがかかっていた。


「その鳥さんのキーホルダーかわいいですね。どこで買ったんですか?」


「えっ、ありがとうございます。これ、私がスペインに行ってたときに買ったんです」


「へえ、おしゃれですね!スペインに行ってたんですか?」


「はい。留学で。新しい世界の文化に触れたくて、思い切って行ってきました」


「すごいなぁ…僕も、今受けてる会社で、海外転勤なんかがある会社もあって、英語だったらそれなりに勉強したので将来的には海外に飛ばされるかなって思ってるんですけど…でも、海外経験とか皆無だからすごく心配です…」


「んー、最初はやっぱり苦労するけれど、慣れちゃえば楽しいですよ!私の場合、フランスとかドイツとか、いろんな国を旅行できたのが一番刺激になりました」


女の子は嬉しそうな顔で話した。


「…でも、スペインは楽しかったし好きだけど、恋しいとは思わなかったです。あったかい人情があって、ごはんも美味しくて、私が一番安心できるのはやっぱり日本なんだなって」


窓の外を見ていると、下校時間なのか、小学生高学年くらいの集団がじゃれ合いながら、バスのそばを通り過ぎて行った。その中には、すこし肌が浅黒い子どもや、青色のひとみをした子どもが混じっていた。この街は外国人が本当に多い。僕が田舎から出てきて驚いたことの一つである。


「今の時代、国際結婚だって言って、どんどん日本に外国人が増えていますね…僕、田舎に生まれたので、こっちに住むようになってから、外国人多い!ってすごくびっくりしたんですよね。それまで外国人なんてほとんど見たことなかったから」


「私もです。すっごい田舎で、遊ぶところなんて全然なくって。周りに山しかなかったから、夏休みはいつも山で遊んでいました。」


女の子は続けて、「でも、だから外の世界のこと知りたいなって思ったのかも」とつぶやくように言った。


「あの子どもたちが大きくなるころ、僕たちどうなってるんでしょうね…」


僕は窓の外をぼんやり眺めながら一人ごちるように言った。あの子どもたちがやがて、僕たちが通った道を歩むことになる。その道は、平坦かもしれないし、そうでないかもしれない。しかし子どもたちの純真な笑顔を見ていて、彼ら彼女らの幸せを祈らずにはいられなかった。


「そうですね…私も結婚のことなんて全然考えてないけど、これからの子どもたちのためにも、社会をよくできるよう頑張らないとな、なんて…」


彼女もわずかに身を乗り出すようにして、窓の外を見つめながら言った。そのときの優しい顔は、成熟した若い女性のそれを思わせた。


すこしビルが増えてきた交差点の近くにバスが止まって、ぞろぞろと人が降りた。ほんの少しの間席が空くけれど、またすぐに多くの人が入ってきて埋まってしまう。うるさくて声が通りにくいので、僕と女の子は黙っていた。


「・・・あ、そういえば」


女の子は、バスが走りはじめてすぐに僕に話しかけてきた。


「数学、得意じゃないんですか?」


女の子が目を丸くして聞いてきた。


「あんまり得意じゃないですね。大学入るときも、数学は全然できなくて、他の教科で埋め合わせて入ったようなもんです」


女の子は、そうなんですね…と小さくうなずきながら言った。僕は、その女の人が僕の話に興味を持ってくれているのかな、と思い始めていた。


「そちらは、数学きっと得意なんですよね。もともとは理系出身だし…」


「得意だし、好きですよ。…でも実は私、昔は算数とか苦手で大嫌いだったんです」


「えっ」


女の子は、なんでもないという顔をしたまま、僕の方を見ていた。


「私、小学校のとき、算数とか全然できなくて、すっごく苦労したんです。でも、――図書館で本見てたら、すごくきれいな写真見つけて。その時まで全然見たことないくらい綺麗で…。それで私、思い直したんです。自分のできないことだからって逃げちゃだめなんだ、そうじゃないと、いつまでたっても、自分は何も知らないままなんだって思うようになって…」


僕は話を聞いていて、胸にちくっとした刺激が走り、手にじんわりと汗がにじむのを感じた。…あの日の、あの夜のことが思い出されたのだ。あの日、彼女が僕にしてくれた話にそっくりではないか!しかし、彼女があの時の女の子である、と考えるのはなんだか馬鹿げている気がして、黙って彼女の話を聞いていた。


「それで、私算数勉強したら楽しくなって、好きになったんですよね。大学選ぶときも、数学好きだったから理系に進んで、大学も理系の学部受けて…でも、ときどき私、分からなくなって。結局、自分のこととか世界のこととか、勉強してても分からないことばっかりで。だから専門変えてみようと思って、もともと文章書くの好きだったので文学部に転向したんです」


彼女は、まるでもう何回もこの話をしてきたというふうにとうとうと話し、その話しぶりは自信と確信で満ちていた。言い終わると彼女は、照れたように「ひょっとしたら、どっちつかずの人間なのかな、私」と言って、ふふふと笑った。その笑い方はおだやかで秘めやかですらあり、けだるい夕暮れ時の光に溶けてゆくようだった。


バスは郊外の道を走り続けていた。バスの中は時間帯のせいか人が多いにもかかわらず静かで、寝ている人も相当数いた。僕と女の子は、しばらく黙って、バスの振動にともなって揺れるつり革をぼんやりと眺めていた。女の子は、ときどき目を細めているようだった。眠いのか、あるいは、いつかの遠い昔のことでも思い出しているのかも知れない。僕も、最近ずっと説明会や面接が続いていたものだから、少し眠くなってきていた。窓の外に、行くときにも見た川が見えた。駅に着くまであと十分強くらいだろう。僕はひざの上に出していたツマラナイ資料を片付けて、のびをする。


「就活やってると、悩むこととかありませんか?」


女の子は、僕の方を見ないで聞いた。声のトーンも、すこし低くなったみたいだった。


「悩むこと…そうですね、やっぱりあります。面接落ちてばっかだし、本当にこの選択でいいのかなってめっちゃ葛藤するし。友達の中には早々と就職決めた人もいて、僕ばっかり遅れてるのも嫌だな、って」


「そうですよね。でも、私は、他なんて関係なく、自分で決めた道を進むのが一番だと思っています。私も就職したことないけど、私が文系に移るって言ったとき、友達とか親にすごく反対されましたから。私、そういうの全部振り切って、やりたいことやろう、って決心してたんです」


僕ははっとなって彼女の方を見た。彼女の眼がまっすぐ前を向いていた。その顔つきも、一つ一つの言葉も、僕の一つ下とは思われないくらい大人っぽくて、堂々としていた。


「でも、ときどき――」女の子は、背もたれに身体をあずけながら、やわらかい声で話した。


「私が何をしたいのか、分からなくなります。自分のやりたいことをやっているはずなのに、これでいいのかな、とか、失敗したらどうしよう、とか…他の人の言うことも耳に入って来て、何が何だか分からなくなって…そういうとき、私は私がすっごく嫌になるんです。だから、まっさらの状態になりたくて、…」


女の子は少し口をつぐんでいるようだった。僕がけげんそうに彼女の顔をのぞきこんでみると、彼女は、変わらない調子でつづけた。「まっさらになりたくて、たまにわけもなく雨に打たれたくなることがあるんです」


僕はとくんとくんと胸が高鳴るのを感じた。


それ、僕もです。


突発的にそう言おうとした。しかし、のどのもうすぐそこまで出かかった言葉は、ガラスの壁に隔てられたかのように、外へ出てこなかった。まるで吃音のときにあらわれるように、僕はくっと息をつまらせて、深呼吸をしてから言った。


「そうなんですね。…僕も、なんとなくわかるなぁ、そういう感覚。実は、僕もそういうことしたことがあって」


「本当ですか!?すごい、私と同じようなこと考えてる人がいるなんて…」


女の子は、はっきり身をこちらに向けて、驚きと喜びの入り混じった幸せそうな顔を僕の方へ向けてきた。今では、彼女の温柔な息遣いの一つ一つまで聞こえてくる。僕は、まるではじめて恋に落ちるときのように、そのきらきらした瞳と、すっとやわらかい線を描く口角とに、言い知れない感動を覚えながら見入っていた。


バスは交差点を曲がり郊外を抜けて、再び市街地に入りはじめていた。気の早いビルは、もうネオンを灯しはじめていて、まるで夜の闇がこの街を早く覆うようせかしているみたいだった。


「私、いまだに覚えている出来事があって。夢なのか、それとも本当にあったことなのか分からないけれど」


女の子は、すっと目を閉じて、まるで夢を見ているときのような優しい顔で話し出した。


「私が田舎の小学校に通ってたとき、人間関係でどうしようもなく悩んでた時期があって。それで耐えきれなくなって、雨に打たれたくて雨の夜に家を飛び出したことがあるんです。そのときは、やっぱり孤独でした―――でも、不思議なことにその日だけは、私のそばに誰か男の子がいてくれて、その男の子とどこまでも遠くまで行きたいなって思ったんです」


「――そうだったんですね」



僕の頭はぼうっとなった。


「もちろんただの夢かも知れないですけど。それから私、辛かったり寂しかったりすると、あの夜のこと、あの男の子のことを思い出すんです。ひょっとしたら、私、その男の子が・・・なんて、ありえないですよね!その時暗くて、顔もよく見えなかったのに」


女の子は、「…それでも、なんでか、忘れられないんです」と付け足して、また歯を見せずにふふふと笑った。その表情は窓から漏れる最後の西日に照らされて陰がなく、凪いだ水面のように穏やかだった。それがなぜだか妙に寂しかった。


女の子は、目を閉じたまま、遠いどこかに思いを馳せているかのようだった。それは、記憶の奥底かも知れないし、どこか遥か遠くにある夢想かも知れない。しかし、彼女のこのようすはまぎれもなく、あのとき林の中で黙って雨に打たれていた、あの女の子の面影にそっくりなのだ!


僕の脳裏に、記憶の電撃が一瞬のうちに轟き渡った。…林の雨に濡れた樹々の香り、土の香り、暗闇でかすかに見えた女の子の瞳、ことばの数々、雨の中で聞いた海の音、静かな息遣い…。


バス停はもう数メートル先だった。


僕はもう何も言わなかった。のどの近くまで言葉は出かかっていて、その言葉はあまりにも多かった。だが、それらを言い表すには、僕はあまりにも舌足らずだったのだ。


気づくと彼女は、不思議そうな顔や寂しそうな顔は少しもせず、僕の方を直視していた。

 

…〇〇駅、〇〇駅です。お降りのお客様は、足元にお気をつけてお降りください…



「じゃ、就職活動、頑張ってくださいね。私、応援してますから!」


女の子は優しく笑って、胸の前で小さくガッツポーズしてくれた。さらりと、彼女の前髪が揺れた。僕も、笑顔をつくって言った。


「ありがとう。話せて良かったです」


また会えたらいいですね、とは言わなかった。


僕はあわただしくバスの前方へ行く。財布から小銭を出し、バスを降りた。


バスは、まもなくエンジンをふかして、バックライトを点滅させて、ゆっくりと動き出しす。やがて、バスの姿はだんだん小さくなって、夕闇とネオンの光の向こうに紛れて消えた。


駅は、雑踏だった。バスから降りた人も多く、それぞれがめいめいの方向に向かって歩いている。


僕は今さら、多くを考えようとは思わなかった。――彼女は、どこの誰かもわからない。あの雨の夜に会った女の子もそうだ。だが、それでいいのだ。僕はさっきまでの会話を思い起こして、それらをいっそ忘れてしまおうと思った。


明日、旅に行こう。僕は、あまりにもこまやかになりすぎていたのだ。自分に言い聞かせながら、力強く踏みしめるように、雑踏の中を進む。もちろん、行くあてなんかない。それでも、なにもかも忘れて遠い場所に行ってみたくなった。


夕闇はすでに濃く視界を覆いはじめていた。


僕は、プラットホームのベンチに座りながら、ふと目を閉じた。すると――美しいリフレインのように繰り返される、あの雨の夜――


あの雨の夜に、いつか帰ることができたらいいな。


僕はそう願って、あたかもひどく満足したみたいに、幸せなため息を一つついた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 美しい文章ですね。 一つ一つの情景をとても大事にされていることが分かります。 [一言] 二人とも初対面の人とすぐに話せる社交性を持ちながら、あと一歩踏み出せないのが少しもどかしかったです。…
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