8月(4)青春の影
お待たせしました(´・ω・`)ちょいと短めですが、お許しをば。
「やっちまった……」
平太は悶々としていた。
帰宅したのは二十一時頃。
莞爾の家に柚を送り届けたまではよかったが、その莞爾がニヤニヤしながら「早かったな」と言うので、平太は「ったりめえだ!」と半ばヤケになって返した。
風呂に入って飯をかき込み、ベッドに転がったまではよかった。
寝よう寝ようと思えば思うほど、つい数時間前の熱が胸を焦がして眠れない。
不意打ちのキス。
それは唇ではなく頬だったけれど、平太の頭を沸騰させるのには十分だった。
都合よく荷台にくくりつけられたバケツに汲んだ水を頭からかぶるべきだったかもしれない。
熱に浮かされると何をするかわかったものじゃない。
平太は自分がしたことを思い出し、両手で顔を覆ってベッドの上を右へ左へと転げ回った。
正直、自分が何をしたのか、何を口走ったのかさえ、記憶が定かではない。
はっきりとわかるのは、明日どんな顔をして会えばいいのかということだけだ。
*
柚は悶々としていた。
帰宅したのは二十一時頃。
莞爾の家に送って貰ったところまではよかったが、妙に艶っぽいクリスに「思いは伝えたか?」と言われて思わず「そんなんじゃありませんから!」と慌ててしまった。
雨で冷えたはずの体は信じられないほど熱かった。
風呂に入って汗を流し、布団に入っても、唇だけが熱く感じられる。
自分は何をしたのだろう。
いつのまにか、平太のことが好きになっていた。
どうやってこの気持ちを抑え込んだらいいのだろう。
二人きりだったせいで、つい気持ちの箍が外れてしまったのかもしれない。
そうでなければ、平太の頬に不意打ちのキスなんてきっとしなかった。
けれど、それだけで済んだなら、きっと柚はこんな悶々とした思いをせずに済んだ。
シャイでかわいいとさえ思っていた男の子が急に見せた力強さに、柚は胸が弾んで仕方がなかった。まるでミイラ取りがミイラになってしまったみたい。
不意打ちのキスで顔を真っ赤にした平太。
柚はいたずらが成功したように面白かった。けれども、急に肩を引かれて抱き締められた。
筋肉質な胸板に顔を埋め、背中に回された手の指先のごつごつとした感覚さえもはっきりと感じた。
「ずるいやん、あんなん、絶対ドキドキするやん!」
今も鼓膜に彼の声が残っている気がした。
いつも「薦野さん」と呼んでいたくせに、そういうときだけ名前を呼び捨てにするなんて。
好きだ――なんて、なんの変哲もない真っ直ぐな言葉。
けれど、なんの含みもないストレートな一矢が胸を射抜いてしまった。
思わず見上げた彼の真剣な顔につられて柚は目を閉じていた。
雰囲気に流されたとも言えるかもしれない。けれど、彼の見せた唐突な強引さが奇妙なほど心地よかった。このまま流されてしまいたいと思った。
実家のことが頭を過らなかったわけではなかった。むしろ自分の立場というものを嫌というほど思い出した。
だから目を閉じた。一切合切を平太ならなんとかしてくれるんじゃないかと思えて。
けれど、期待した温もりはやってこなかった。
急に突き放された挙げ句、平太は謝った。
違う。謝罪の言葉が欲しいわけじゃない。
悲しくなった柚に平太は確かに言ったのだ。
「全部、俺がなんとかするから」
平太だって柚が実家の跡を継がなければならないことは知っているはずだった。
けれど、それを全部どうにかすると言ってくれる。
そんなことできっこないと思った。なんとかだなんて、具体的な方法はこれっぽっちもないに違いない。根拠なんてひとつもない口約束だ。けれど、続く言葉にそんなことはどうでもよくなった。
「隠れて付き合うなんて、俺は嫌だ。だから、待ってて欲しい。全部ケリつけて、そんときは俺が柚を奪うから」
――ああああああああっ!
平太の言葉を思い出して、柚はベッドの上を右へ左へ転がった。
胸に抱いたぬいぐるみにチョークスリーパーをかけて。
「明日、どげん顔して会えばよかと!? ぜっ……たいっ、目も合わせられん! 仕事にならんっちゃがああああっ!」
叫び声は壁に頭をぶつけるまで続いた。
痛みが冷静さを連れ戻してくれる。
父は、母は、自分が実家を継がずに嫁ぐと言いだしたらどう思うだろう。
きっと反対するに決まっている。
幼い頃からひとり娘として、跡継ぎとして育てられた。
良い婿を選べ、と散々言われてきた。
もしかするとその反発もあって絶対にダメな相手を好きになってしまったのかもしれない。
――じゃあ、諦める?
「……馬鹿みたい。何が先祖代々の土地やか」
生まれたくて生まれた家庭なんかじゃない。
物心ついた頃からそういう定めだと思い知らされて生きてきた。
母校には同じ境遇の同級生がたくさんいたはずだ。自分もその中の一人に過ぎないのだ。
自分を可哀想だなんて思っても何も変わらない。
でも――平太は違う。
彼は自分の意思で農業をしようと思ったはずだ。
たまたま祖父が農家で、色々な事情があって、それでこの道に入ったはずだ。
消極的な理由しかない自分なんかとは違う。
「ああ、そっか。そういうことやんね」
きっと、平太が羨ましいのだ。
自分で決めたことに邁進できる彼が、きっと眩しくて仕方がないのだ。
彼ほどの素直さがあれば、自分も何かが変わるのだろうか。
両親の反対を押し切るだけの覚悟が自分にあるだろうか。
考えてみても、夜はそれほど悠長に朝を待ってはくれなかった。
***
「薦野さん、風邪でもひいた?」
莞爾はかわいらしいくしゃみをした柚に問いかける。
夏の暑さも激しい日中。熱中症かと思って休憩を取ったが、くしゃみをするところを見ると別の心配が胸を過る。
「いえ、これくらいはへっちゃらです。昨日、ちょっと雨に濡れちゃって」
「ああ、昨日は残念だったね。花火大会、中止になっちゃって」
「はい。でも、もっといい花火を見られましたから」
ありがとうございます、と柚は頭を下げる。
少しばかりお節介が過ぎたかな、と莞爾は苦笑した。
「……社長。ひとつ、相談してもいいですか?」
「俺で答えられることならなんでもどうぞ」
莞爾は納屋の影にどっしりと腰を下ろして煙草に火をつける。
その仕草が妙に親父臭くて柚はくすりと笑みを漏らす。
「失礼だったら謝ります。どうしてわざわざ帰農したんですか? 東京で普通に就職して、農家なんてやるよりもずっといい収入だったと思うんですけど」
てっきり恋愛相談かと思っていただけに、莞爾は拍子抜けする思いだった。けれども、彼女の境遇を考えれば、それは当然の疑問だと思えた。
「昨日、何かあったのかな。今朝も平太とはぎくしゃくしていたみたいだけど」
「それは……。また別の問題です」
「そう。まあ、色恋沙汰に突っ走るのは若者の特権だから、そこに口出しするつもりはないさ。節度を弁えていれば、ね」
急に顔を赤くした柚に、莞爾は頬をかいて答える。
「収入面だけを見れば、確かに農家なんてやらない方がよかったね。今だってかつかつ。昔の貯金を切り崩してるだけ。それでもなんとか生活できてるだけありがたいけどね。死んだ親父は俺に農家を継いで欲しくなかったんだ。まあ規模の問題もある。うちみたいな零細は兼業でやっとって感じだったからね」
「でも、専業でやっていく決め手があったんですよね?」
「そんなもんありゃしないよ」
「はい?」
「だから、ないって。絶対成功するって確信があって始めたわけじゃないよ、俺は」
柚はぽかんとして今度は口早に問う。
「で、でも! 作付計画だけ見てもすごい計画的だし、その、やっぱりちゃんとした計画があって、成功の見込みがあったから始めたんじゃないんですか!?」
「そりゃあ事業主だもの。見込みがなくてやるわけないよ。でも、所詮は水物みたいなものでさ。実家が農家だったってだけで上手くいくほど農業って甘くないだろ? それは薦野さんの方がよっぽど理解してるんじゃないかな。とにもかくにも、俺にも色んなことがあって、色んな思いがあって、それで親父が諦めた農業で自分なりにやってみようって思ったわけ。なんていうか、悔しかったのかもな。俺だってできるんだぞって、見せつけてやりたかっただけなのかもしれない」
「そんな理由で?」
莞爾はここ一番の笑顔でにっかりと歯を見せた。
「くだらないだろ? 男が大事なことを決めるときってのは案外、そんな簡単な理由だったりするもんさ。一度決めたら一歩踏み出して、壁にぶつかって試行錯誤して、やっともう一歩踏み出せたと思ったらまた壁にぶつかって、その繰り返しだよ。計画通りにいったことなんて一度だってありゃしない」
でもね、その苦労の数だけ俺には自信がある――莞爾は煙草をもみ消してまた笑った。
そうしてよっこらせと立ち上がると大きく伸びをして言う。
「若いってのはそれだけですごいことなんだ。若いうちだけだぜ? なんでもぶつかって思いの丈をぶちまけて、失敗しまくって、それでも一からやり直せるのはさ。俺もまだまだ若い。平太や薦野さんが挑戦してるんだ。負けてられっかってな」
先に戻ってるよ、と歩き出した莞爾の背中は伸びやかに見えた。
家族を背負う大黒柱の重みが彼の両肩にあるのだ。
父の背中はどうだっただろう。幼い頃に自分を負ぶってくれた父の背中は、大きくて、とても温かかった。
平太はどんな背中をしているのだろう。
莞爾のように伸びやかな背中をしているだろうか。
それとも父のようにどっしりと大きくて温かい背中をしているだろうか。
今はまだそうでないとしても、いつか背中ではなくてその隣を歩いていきたいと思える男になるのだろうか。
「まだ若い、か……」
大きなため息のあとで、柚は自分の頬をぴしゃりと両手で叩いた。
コミカライズ1&2巻、好評発売中!
重版もかかり、ありがたい限りです!
今後ともよろしくお願いします。




