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8月(2)期待と焦燥と

大変お待たせいたしました。

随時更新再開していきます。

 平太はハラハラしていた。


 三日前まで晴れの予報だったのに、今朝の天気予報は夕方から雨になっていたからだ。


 降水確率は低い。しかし、今はいつどこでゲリラ豪雨が起きるかわからない。

 せっかく一大決心の末に柚を花火大会に誘ったというのに、雨天中止だなんて救われない。


 そんな気もそぞろな平太の様子を、莞爾は不気味な気分で見ていた。


 つい先日までは妙に浮かれた様子で気持ち悪かったのに、今朝ニュースを見ながら奇声を発して以降、奇妙にそわそわしているのだ。


 そういうわけで、莞爾は平太がミスをしないか、もしミスがあったら軽く注意を促すつもりでいたのだが、不思議とミスはない。

 そのアンバランスさが不気味で、莞爾はついに尋ねる。


「平太。お前今朝から気持ち悪いぞ。なんか心配でもあるのか?」


 反応は曖昧である。

 反感と気まずさと焦燥をこねくり回したのに全然混ざらない。そんな顔だ。


 莞爾にも思い当たる節はあった。けれども、尋ねるのも野暮かと思って黙っていたのだ。

 しかし、いざ尋ねてみると、その表情にやはり訊かなければよかったと嘆息した。


「ちょっと早いけど、昼飯にしよう。うち来いよ」

「……うっす」


 気のない返事だが、深呼吸ひとつで顔色を切り替える。

 まだ十代とはいえ、その一瞬の端然に男らしくなったような錯覚があった。



 *



 仕事を一時中断して佐伯家に向かう。

 クリスはいなかった。

 家人不在であるにも関わらず、戸締まりは一切していない。


 それだけ平和ということだが、さすがに夜は鍵をかける。

 鍵をかけたところで、隙間はいくらでもあるので、アオダイショウが天井を走り回るのも日常茶飯事である。


 世間では家屋の屋根裏にハクビシンが巣を作り、糞尿の被害が多く出ている。

 獣害の一例だろう。かつては薪を燃やした煤が建材の保護になっていたし、漏れた煙が害虫や害獣避けになっていたとも言うが、近代化も一長一短だ。


 ガスや電気の有用性を考えると、薪炭材で料理や暖を取るのは非効率に過ぎる。


「クリスさんは?」

「最近身体も動かせなくて鬱憤がたまってるみたいだからな。智恵さんと一緒に街に出てるよ。気分転換にはちょうどいいだろ。薦野さんもついて行ってる」

「飯はどうすんの?」


 平太は腕をまくって手を洗う。

 男の料理は大雑把が持ち味と思われがちだが、単純に習熟度が低く面倒がっているだけである。それゆえに、普段料理をしない男が料理をすると無駄に高価な食材を使ってみたり、やったこともないのにこだわりのレシピを使って失敗したりする。


 たまに料理をしたぐらいで偉ぶるのは主婦業を全くわかっちゃいない。

 毎日毎日家族の健康を考えて、家計とにらめっこをしながら料理を作るのは大変なのだ。


 感謝こそすれ、見下すのは愚か極まる。


 莞爾の場合、逆に心配のしすぎでクリスに面倒がられている。

 一応、家事を任せているが、それでも妊婦であるから、莞爾としてはクリスが心配でならないのだ。

 何をするにも大丈夫かと心配されてはクリスも息が詰まる。

 もう少しのびのびとしたいところに智恵の誘いがあったので、クリスとしても渡りに船だったのだろう。


「素麺でいいだろ」

「素麺ね。手っ取り早くていいや」


 しかし、莞爾は野菜かごの中から長芋を取り出す。


「とろろも作ろう」

「素麺にとろろ?」

「意外か? うどんもそばも山かけにするだろ? 結構合うぞ。滋養強壮にもなるし。あと温泉卵も冷蔵庫に入ってる」

「買ってきたの?」

「いいや、作った」


 温泉卵は案外簡単に作れる。

 常温に戻した卵を、炊飯器に入れ、沸かしたお湯を卵が浸かるくらいに注ぎ、十五分から二十分ほど保温にしておくだけ。

 炊飯器によっては保温の温度が高かったり低かったりするので、その辺りは要注意である。


「夏はついさっぱりしたのが食いたくなるからなあ。スタミナ食も元気なうちはいいけど、消化不良になったらかえって胃腸に悪い」


 長芋は泥を洗い流し、たわしで擦る。

 それでも皮にひげ根があり、黒い斑点が残る。

 気になる場合はスチールウールなどで軽く擦るか、ピーラーで剥いてしまってもいい。

 多少混ざっても大したことはない。擂ったあとに多少色味が悪くなるだけだ。


 平太はすり鉢の下に布巾を置いてぐるぐると回すように長芋を擂る。

 たちまち白い実が細かく潰れてねっとり糸を引く。

 最初はすぐできる気がするのだが、案外時間がかかる。


 その間に莞爾は湯を沸かして素麺を茹でる。

 素麺やっぱり……(商標的問題)。


 二人とも働き盛りなので、二人しかいないのに六束も茹でる。

 とろろがあるので少し控えめだ。オーソドックスに食べるならもう二束茹でたいところ。


 薬味も用意する。

 刻んだネギに、薄切りにして水に晒したミョウガ、刻んだ大葉。千切りにしたキュウリと焼き海苔を刻む。


 茹で上がった素麺はザルに上げて流水で揉むようにぬめりを取り、氷水を張った桶に。


「さあ、食うか!」


 ガラスの蕎麦猪口にめんつゆととろろをたっぷりと。

 いただきますもそこそこに、わさびを溶いてひと啜り。


 ねっとりとした舌触りに爽やかなわさびの香りが鼻に抜ける。

 鰹の利いたつゆが飲み下したあとに冷たさと喉越しの軽やかさを演出する。


「うまっ!」

「だから言ったろ。素麺にとろろは美味いんだって」


 莞爾は温泉卵を投入して箸で割る。とろりとした白身が混ざり、柔らかい黄身が控えめに色味を帯びる。そこにたっぷりのネギと海苔を。


 素麺でとろろを包むようにして口の中へ。

 温泉卵のまろやかな味わいと、海苔とネギの香りが加わって、感想よりも次の一口が待ち遠しくなる。


「飲み物だな」

「うん。いくらでも食える」


 素麺は飲み物である。間違いない。


 夏バテにも食べやすい料理だ。肉類はどうしても避けたくなるが、とろろならまだ食べやすい。

 工夫すればバリエーションも豊富。

 酢とごま油でさっぱり中華風にするのもいいし、ごまだれにするとゴマの濃厚さがまたいい。

 冷たいものばかりで胃腸が弱っているときは煮麺にするのもいい。


 結局、莞爾と平太は二人で六束をペロリと平らげた。


 食後は夏でも熱い緑茶だ。

 暑気払いというより、冷たい料理のあとに温かい緑茶は存外に胃に染み入るような美味さがある。


「さて、午後はどうするかね」


 基本的に夏の労働スケジュールは早朝に収穫して出荷して、午前中のうちに大部分の作業を終わらせてしまう。

 昼食から一番暑い正午から十四時までの時間を午睡でやり過ごし、残った作業を片付ける。

 ひぐらしが鳴き始めるころには引き上げる。


 仕事は探せばいくらでも見つかるのだが、今年の夏は殺人的な暑さだし、早朝からすでに暑い。ど田舎だからこそ都会よりもわずかに涼しいが、長袖長ズボンに長靴を履いて直射日光に当たっているのだから、体力の消耗も激しいのだ。

 唯一の救いはアスファルトの照り返しがないことだ。


「お前、今日確か早めに上がりたいって言ってたよな?」

「まあ、うん」

「もう上がるか? あとは片付けておくから別に帰ってもいいぞ」

「いや、社長がまだ働くのにさっさと帰るって新入社員としてどうなんだよ」


 平太が呆れ顔で尋ねると、莞爾はタバコを咥えて肩を竦める。


「夏の多忙もルーチン化すると余裕ができるからな。最近はお前といい、薦野さんといい、若い働き者がせっせと働いてくれるから、老人の出る幕がないって言われるぐらいだよ」


 実際には、今年の夏は暑すぎて嗣郎や孝介には危ないため、収穫と出荷作業だけやってもらっている。

 気持ちだけは二人とも若いままなので、不満たらたらなのだが、莞爾としては高齢の二人に無理をさせるわけにもいかない。


 とはいえ、手が足りないのは事実である。

 せめてもう一人いれば、とも思うが、懐事情を考えればこれ以上従業員を増やすわけにもいかない。


 土作りから植え付け、栽培管理を経て収穫するのが農家だ。

 工場で自動生産されるわけではない。数ヶ月から数年のスパンで商品を作る。もちろんその過程で天候不順や病気などのリスクがあり、商品とならないものも出てくるし、売れなかったから在庫として倉庫に保管することもできない。


 その点に関して言えば、全量買取をする農協は(たとえ単価が低くても)助かる存在だ。


 また、農繁期と農閑期のバランスもあり、下手に従業員を増やすと収入が乏しいのに給料を払わなければならないということになる。

 そのため、多くの農家が農繁期に合わせて臨時にアルバイトを雇用する。


 莞爾としては、平太がもう少し成長して、いくつかの品目を完全に任せられるようになれば、もう少し本格的に動き出したいと考えているが、まずは目先の利益である。

 しっかりと現体制の地盤を固めてからでないと、無茶をすれば瓦解する。何事も石橋を叩く慎重さが肝要だが、一方で経営者には一歩踏み出す決断も必要なのだから、莞爾も苦しいところである。


「仕事熱心なのはいいが、せっかく休みにしてもお前は休むってことを知らない。こんな田舎じゃ娯楽もないから、仕方ないかもしれんが、休めるときは全力で休め。気分転換はお前が思ってる以上に大事だからな」


 平太は首を傾げて「そんなもん?」と聞き返すが、莞爾はため息をついて頷いた。


「仕事が楽しいのはいいことだけどな」


 お前はまだ十代なんだからもっと遊べ、とは口に出さなかった。

 仕事を楽しいと思ってくれるのは莞爾としても嬉しいし、期待が大きくなってしまう。だが、それは諸刃の剣だ。

 厳しく教えつつも、ある程度の気楽さをもって、失敗を許容し、どうして失敗したのかを考えさせ、彼の自立した成長を促してやる時期だと莞爾は見ている。


 だが、こうして仕事に責任感を持つようになったのは、働き始めて数ヶ月とはいえ、莞爾としても頼もしい限りである。



 ***



 クリスは洋菓子に舌鼓を打っていた。

 ショーケースに並ぶ様々なケーキたち。


「んーっ! ふわっふわだっ!」

「これよ、これよね」

「クリスさん、ほっぺにクリームついてます」


 智恵に連れられて行ったのはケーキバイキングである。

 なお、智恵の徹底的なリサーチのもと、この店はカフェインレスの紅茶も取り扱っているので、妊婦やカフェイン過敏症の女性たちにとって天国である。


 見渡してみても、クリス以外にも妊婦は多い。


 ちなみに、カフェインレスの飲料として、最近はデカフェとも呼ぶが、日本ではそれらを区別する明確な基準がないので注意が必要だ。


 妊婦がカフェインを摂取できないのは広く知られたことだが、ある日突然カフェインを受け付けなくなる人もいる。

 嗜好飲料のコーヒー、紅茶、緑茶などにはカフェインが含まれる。含有量はそれぞれ違うが、栄養ドリンクや錠剤タイプの栄養剤、薬などにもカフェインが含まれているものが多くあり、過敏な人にとっては悩ましい存在だ。


 急性カフェイン中毒で死ぬ可能性はかなり低いが、稀に死ぬこともある。身体的症状としては、吐き気や動悸、頻脈、めまいなど。精神的には躁状態になることもある。

 特効薬がないので、吸収したカフェインが体外に排出されるまで待つしかない。


「ところで、柚ちゃん。このあと平太くんとデートなんでしょう?」


 智恵が突然尋ねると、柚は紅茶を噴き出しそうになった。


「い、一緒に花火を観に行くだけです」

「世間一般にデートって言うのよ」

「トモエ殿、デートとは何だ?」

「クリスちゃん……」


 クリスがモンブランを堪能しながら問う。智恵は呆れた様子でデートとは何かを説明した。


「ふむ。恋仲の男女が一緒に出かけること、か。つまり、逢瀬だな」

「逢瀬って今日日聞かないけれど」

「せっかくだから一緒に行こうってなっただけですよ!」


 とは言うが、この後のスケジュールを考えると、その言い訳はなんとも苦しい。

 浴衣も帯もしっかり持ってきた上に、美容室もしっかり抑えてあるのだ。


「気合入ってるね、柚ちゃん」

「ちっ、違いますから!」


 なぜだか恥ずかしい。

 自分ではデートだとわかっているし、平太の前では彼が可愛らしく思えたほどだったのに、他人から言われると恥ずかしくなって否定したくなる。


「まあまあ、若いんだし、間違いさえ起こさなければいいのよ、間違いさえ」


 智恵はそう言ってまたケーキを取りに席を立った。

 間違いとはなんだ、と尋ねればそれこそやぶ蛇である。

 柚はため息を吐いてクリスを見る。彼女はケーキに夢中だった。


「ケーキ、そんなに美味しいですか?」

「うむ。一度だけ食べたことはあるが、こんなに甘いのはないな」


 モンブランを食べ終わると、今度はラズベリーのタルトだ。

 タルト生地のさっくりしつつしっとりとした食感に、ラズベリーの甘酸っぱさと中のクリーミーなムースが溶け合って悩ましい。


「クリスさんって、結構たくさん食べますよね」

「うむ。甘い物は好物だぞ!」

「その、体重とか気にならないんですか?」

「元々食べてもあまり太らない体質ではあるな」


 羨ましいにも程がある。

 だが、実際のところクリスの体重は微増の傾向にある。

 運動量が減ったので仕方がない。だが、以前は筋肉質だったのが、少し柔らかく、女性らしい丸みが際立つようになってきたこともあって、特別太り始めた、という感じではなかった。


 そもそも妊娠とは体重が増加するものである。適切な範囲内であれば、それは〝太った〟というよりも、順調な証拠だろう。

 昔は妊婦はよく食べて太った方が、などと言う言説もあっただろうが、今と昔では食料事情が大きく異なる。栄養バランスの取れた食事は簡単ではないが、そう難しくもない。


 何よりも大切なのは、過去の迷信や素人の経験談よりも、産婦人科医の適切な判断を仰ぐことである。いくら出産経験者であっても、科学的根拠のない「昔はこうだった」という思い込みほど危ないものはない。

 出産は命がけなのだから、研究が進めば進むほど様々な変化があるのは当然のことである。


「油断しちゃダメよ、クリスちゃん」


 戻ってきた智恵が釘を刺す。


「若い頃はね、食べても食べてもそんなに激しい体重の変化はないの。太っても落としやすいしね。でも、三十を過ぎたら要注意よ」

「そ、そうなんですか……」


 柚は智恵の皿を見る。

 ケーキが五つ。つい先ほど三つ平らげたはずでは、という台詞は飲み込んだ。


「柚ちゃんはもっと食べなさいね。あなた、ただでさえ痩せてるのに、外で汗流してるんだから、もっと食べないと」

「うーん、結構食べてるんですけどね」


 柚も平太や莞爾と同じく体を動かしているので、摂取カロリーよりも消費する方が多いくらいだ。


「ところで二人とも平気なんですか? 悪阻とか。よく言うじゃないですか。ご飯の炊ける匂いで吐きそうになるって」


 クリスはきょとんとしていたが、智恵は得心したように頷いた。


「菜摘のときはかなりきつかった覚えがあるけど、今回はそうでもないかな。個人差もあるし、一人目はきつかったのに、二人目は気楽だったとか、その逆もあるみたい」

「はあ、そうなんですね。クリスさんは平気そうですけど」

「いや、悪阻なら私にもあったぞ。我慢できないほどでもなかったし、生活に支障がない程度だったが」


 そういうときこそ甘えておけばいいのに、と智恵はいう。

 無理は禁物だが、クリスが働き者であることはすでにみなの知るところである。


「ある意味、程度問題ではあるけど、そういうときは多少なりとも休んで、あとのことは旦那に任せておけばいいのよ」

「社長ならお優しいですし」


 二人がそう言っても、クリスとしては首を傾げてしまう。

 莞爾が優しいのは今に始まったことではないが、それだって妊娠が発覚してから執拗に気遣いが増えて、逆に面倒になる瞬間だってあるのだ。

 それはそれで嬉しい悩みなのだが、自分でできると思っていることを殊更に気遣われては鬱陶しくもある。


 その悩みを打ち明けると、今度は智恵と柚が首を傾げてしまった。

 それのどこが嫌なのか、と言いたいのがクリスにもわかった。


 だが、クリスだって莞爾の気持ちを慮ることができないわけではない。

 彼はクリスが心配で仕方がないのだ。

 それに、初めて自分の子どもができるということに、ひどく浮かれて、一方で強い不安と、高まる責任感に緊張している。


 そして何よりも、二人には話せないことだが、クリスだって感じているのは、莞爾とクリスの間に、本当の意味での絆が生まれるということに他ならないのだ。

 クリスが妊娠を知ったときに抱いたのは、これから家族になるという期待感だった。


 妻として、母として、そして家族の一員として、そこに暮らすという充足感への期待に他ならない。

 その感情を、智恵や柚が十全に理解してくれるとは思えなかった。


 莞爾が優しい性格だと知っているからこそ、クリスは彼がある種の不安と願望に葛藤を抱いていたことは手に取るようにわかっていたのだ。


 頼る実家も、肉親も、友もないクリスが、三山村という新天地で家庭を築く意味は、世間一般とは大きくかけ離れたものだ。


「逆にのろけているようにも聞こえるわ」と智恵が言った。


 孝一は二人目であり、一度の体験があるため喜んではいるが、莞爾ほどの変化は乏しいのだという。ある意味、慣れているといえばいいのか、智恵はそれはそれで寂しいものだと言った。


「うちの主人も優しくなったかしらね。銀行員だった頃よりも、ずっといい父親にはなったと思う」


 そう言いながらも、内心では自分も変わったものだと思ってしまう。

 子どものために仕事を辞めた、という言い方はしたくなかった。

 それは孝一も同じだと信じている。

 菜摘への罪滅ぼしというわけでもない。仕事や孝一との諍いで溜まったストレスが、ちょっとしたことで表に出てしまい、それが菜摘を苦しめていたのはいくら反省しても足りない。

 けれども、今は生活が多少金銭的余裕を失っても、充足感がある。


 お金はいらない、だなんて言えない。

 お金は幸せになるための必要条件だ。人生の悩みの大半が「お金さえ」あれば解決できてしまうくらいには必要不可欠だが、決してお金が全てではないのだ。


 菜摘との親子関係がぎこちなさを失ったのは、今が楽しいと感じ始めたころだ。

 それは孝一に対しても言える。

 結局は、ある種の鏡のようなものだったのかもしれないと思えてならなかった。


 それに、いざ三山村に飛び込んでみれば、慣れるまでにそう時間はかからなかった。

 都会でよく見たネズミが見当たらない代わりに虫は増えたけれど。


「柚ちゃんも、相手はよく選びなさいね」

「まだ早いですよ」

「若さはステータスなのよ。男女問わず、ね」


 もっと若かったら、そう思うことが多くなったのは四十が目前に控えてからだ。

 二十代の頃はまだまだ何でもできると思えたし、失敗してもやり直せると思っていた。けれど、今は簡単にやり直せない年齢だと思ってしまう。

 だからこそ、目の前にある幸せを、絶対に見逃したくはない。


 けれども、そんな思いを教訓にして話したところで、柚には実感もないだろうし、何より年寄りの戯言としかとられないだろうことはわかっている。

 互いに跡取り同士なのに何を考えているの、だなんて野暮もいいところだ。


 そうして失敗するのもまた青春だろうし、もしかすると何かが転じてそのまま結ばれるかもしれない。こればかりは、大人でさえ確信して導くことはできないことだ。


 それこそ、莞爾とクリスが夫婦になったことがいい例のように思えた。


「ん? なぜ私を見つめる?」


 ケーキを口いっぱいに頬張っているクリスを見ると、菜摘も連れて来ればよかったなと思えて、少し残念だった。今頃学友たちと勉強をしているのだろう。ケーキバイキングに行ったなんて聞いたら、きっと連れていけとごねるに違いない。


 智恵がひとりニヤけているのを、クリスと柚は不思議そうに見ていた。

コミカライズ版はマンガボックス公式様にて、

ご覧いただけますので、

気になる方はぜひそちらをチェックしてみてください。

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