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8月(1)茜の陰り

お待たせしました

 八月は夏野菜を主軸にする野菜農家にとって繁忙期である。


 疲労が蓄積していても、野菜は成長を待ってくれない。

 早朝の収穫を終え、出荷を平太に任せて帰宅すると、クリスが包丁を研いでいた。


 砥石にしっかり水を吸わせて、リズムよく刃先が滑る音が聞こえる。


 刃物を扱っているときのクリスの顔は真剣そのものだ。

 父親から授かったという愛剣は未だ没収されたままだが、甲冑はいつのまにか戻ってきて押し入れにしまってある。


 勝手口で急に立ち止まったせいか、後続の柚が莞爾の背中に顔をぶつけてしまう。


「あたたっ……」

「あ、ごめんな。大丈夫か?」

「は、はい……」


 柚は赤くなった鼻先を両手で押さえて涙目になっていた。

 その手をそっと避けて、莞爾は様子を見る。どうやら怪我はしていないようだ。

 他所様から預かった女の子の顔に傷をつけてしまっては、どんな言い訳をしてよいのやら。


「鼻、赤くなってるけど」

「わわっ、本当ですか?」


 さっと取り出したスマートホンの画面で自分の顔を見て、柚は鼻先を指でそっと撫でる。そこまで痛くはないようだ。鼻血も出ていない。


「ふふっ、柚はドジなのだな」


 奥から声が聞こえて顔をあげる。

 クリスが和包丁を握ってにこやかに笑っていた。

 その瞬間、急に悪寒が走り、柚はハッと何かに気づいて莞爾から一歩離れた。


 気のせいだろうか。

 莞爾もクリスも何も気にしていないようだ。


「ただいま、クリス」

「うむ。温め直すから座って待っていてくれ」


 柚はバタバタとエプロンをかけて手を洗い、クリスの手伝いを始める。


 最初のうちは何もしなくていいと莞爾から言われていたが、七月の終わり頃から何もしないのが苦痛になってきたので、今は細々したことを手伝うようにしている。

 実家でも何かにつけて家事を手伝っていたので、勝手が違うとしても動いていないとなんだか落ち着かないのだ。

 小忙しい性格なのかもしれない。


 ちらりと横目でクリスの顔を覗き込む。

 先ほどの恐怖はどこかへ消え、今は鼻歌でも口ずさみそうに微笑んでいた。

 柚の視線に気づいてクリスが不思議そうに小首を傾げた。

 つくづく、所作が絵になるなあと柚は視線を逸らした。


「どうかしたか?」

「いえ、楽しそうだなって」


 少し恥ずかしそうに答えると、クリスは「ああ、楽しいぞ」と胸を弾ませて続ける。


「ホナミ殿からは、妊娠を機に情緒不安定になる女性は多いと聞いていたのだが、自分がそうなってみるとそうでもなかったな。まあ、それは別の問題だが」


 クリスはふっと笑う。


「憧れていたのかもしれないな……」


 わずかに彼女の面差しに陰りが見えて、柚は見なかったふりをした。

 あまり追求してはならないような気がしたのだ。

 そのあとに続く言葉を。


 クリスは話題を変える。


「ユズはどうだ。ここの暮らしはなれたか?」

「はい。社長も、クリスさんもよくしてくださって、ありがとうございます」

「何かあれば、遠慮なく言ってくれて構わないからな。歳も近いのだから、遠慮されると逆に傷つくぞ」

「あはは、わかりました」


 公的に、クリスは柚や平太の二つ年上ということになっているが、実際には同年齢である。

 とはいえ、クリスの今までの経歴からして、彼女は平太や柚と比べて非常に大人びている。平和しか知らない二人と比べるのは不公平かもしれないが、そういう意味でクリスは年齢にそぐわない雰囲気を持っていた。


 敵兵とはいえ、自分の命を、部下を、祖国を、守るために剣を振るい、そして命を奪った経験がある。兵士たちの命を駒として動かした経験もある。

 若さゆえにその経験は他の騎士たちより少ないが、平太や柚からすればとても信じられないものに違いない。


 若い頃に憧れた兄の姿を追いかけて、クリスは騎士になった。

 自分の根底にあるものが、誇り高き兄の姿だという自覚はある。

 だが、こうして異世界にやってきて、そこで出会った莞爾の妻となり、子どもを作った。


 祖国にある妊婦の苦労を考えると、日本はずいぶん恵まれているように思うが、一方で疑問符が浮かぶこともある。

 とくに不満を感じているのは、妊婦だからという理由で日々の運動を制限されることだ。


 一応大人しく聞いているが、クリスとしては「これぐらい平気」というのが正直なところ。魔力で身体を強化できるし、妊娠中は体内の魔力が赤子の安全をある程度守ってくれる。


 その話を穂奈美にしたとき、彼女は驚いていたが、同時に羨ましがった。

 曰く、妊娠中も仕事のパフォーマンスを維持できるのは素晴らしい、と。


 クリスは日本の労働環境がいかに妊婦に冷たいかを知らなかった。しかし、穂奈美から色々と聞かされて思ったのは、憤りではなく困惑だ。


 もちろん、自分らしく生きたいという穂奈美の意見には大いに賛同した。だが、一方で机上の空論だろう、と疑問が浮かぶ。

 整理のつかない頭の中をだらだらと穂奈美に話してみれば、彼女は言葉少なに「もはや構造的欠陥なのよね」と笑っていた。意識格差だとか企業側の責任だとか、そんなものは些末なことだと。


 クリスとしては、自分も農作業で汗を流したいと思うが、莞爾の安心のために大人しくしているのだ。


 また、莞爾も父親になるために、仕事の合間を縫って様々な情報を調べている。親としての責任感が増すのは当然だろう。


「社長は優しくて理想の夫って感じですね」


 唐突に柚が言う。クリスは頷きそうになって、苦笑した。


「理想、か。まあ、確かに優しいな」


 不満があるわけではない。顔にそう書いてあったので柚は困惑した。

 余計なことを聞いたと自覚して思考を巡らせていると、クリスが笑った。


「カンジ殿は優しいだけではないからな。あれで実は裁けた性格をしているのだ。少々優柔不断なところもあるが、仕事に関しては即断即決がモットーだそうだ」

「そう、なんですか?」

「まあ、商売とはそういうものなのだろうな。自分を安売りしない男だよ、カンジ殿は」


 プライドが高いわけではないのだが、とクリスが苦笑する。

 柚にはいまいちわからなかった。


「一族郎党の暮らしを守る当主なのだ。それくらいの気構えがなくては困る」


 いつの時代だ、と柚は愛想笑いを浮かべた。



 ***



 夕刻。

 蛙の声がうるさくなったのも束の間、夏のざわめきをかき消すような雨が降り出した。

 昼頃に見えた入道雲がそのまま落ちてきたかのように、納屋のトタン板を打ちつける。


「柚はこっちで片付け続けてくれよ。俺が全部集めてくるから」


 平太は軒下から空を眺める柚に声をかける。

 いつの間にか、お互いに下の名前で呼び合うぐらいに仲良くなっていた。


「いいよ、うちも行く」

「いいって。濡れて風邪引くのも馬鹿らしいし」


 そう言うや否や、平太は取るものも取りあえず納屋から飛び出した。

 柚は小さく息をついて集めた道具を片付け始めた。


 社長である莞爾が几帳面なせいか、それとも嗣郎の性分が移ったのか、佐伯家の納屋は道具の位置が厳密に決まっている。実家の納屋を思い出すとその違いが明らかだ。

 最初こそ戸惑ったが、慣れてしまうとかえって気楽で済む。


 それにしても、と柚は雨粒の向こうにぼやける平太を見つめた。


 避けられているのだろうか、という不安があった。

 以前、気まずい思いをしてからというものの、よそよそしさやぎこちなさはないが、平太は妙に冷たい。

 いや、冷たいというのも違う。実際には仕事に忠実で、私語の類が消えたくらいだ。それでも、軽口を叩くことだって稀にある。しかし、以前に比べるとその頻度は確実に減った。


 エンジン音が雨音をかき消すように聞こえる。

 平太が軽トラを走らせて納屋の前に後ろ向きに付けた。


 急いで降りると、荷台に橋を渡して機材を下ろしていく。

 一通り片付け終わると、今度は軽トラをいつものスペースに駐車した。


 平太は水の滴る髪を首にかけたタオルでしゃかしゃかと拭い、蒸し暑さに顔をしかめた。


「はい、どうぞ」

「さんきゅ-」


 柚がお茶の入ったペットボトルを渡すと、平太は礼を述べてがぶ飲みした。

 さすがにもう間接キスだなんて冗談は言わない。


 人心地ついたと思ったころ、平太は思い出したように言った。


「あっ! マルチ出しっぱにしてた!」

「どこに?」

「トマトんところ。防草シートもだ」

「まあ、濡れて困るものじゃないし」

「泥がついたままでしまうのは怒られそうだし、取ってくる」


 よりにもよって遠い畑に置きっぱなしにしたものだ。

 柚は自分がその片棒をかついだことを思い出して声をかける。


「うちも行くよ」

「いいよ。ひとりで足りる」

「濡れるけん、軽トラで行こ」


 二人で軽トラに乗り込んでエンジンをかける。

 クーラーを最大にすると涼しいが、雨に濡れたあとでは冷えすぎる。

 風量を抑えると肌寒さはかろうじて減じた。


 走り出すと、泥濘にタイヤが沈み、サイドミラーにも泥の飛沫が移った。

 ワイパーは古くなったのか、劣化を知らせるように鳴く。


 現地に着くと、すぐに平太が駆け下りて、マルチと防草シートを荷台に放り込むように積み、運転席に戻った。


「あー、これちょっと長引きそうだね」

「激しいもんね。ワイパーないと前見えないし」


 来たときよりもゆっくり走らせながら、平太はふと言った。


「次の日曜日の夜、ちょっと付き合ってくれねえ?」

「日曜日? 何かあると?」

「市内で夏祭りっていうか、花火大会があるんだ」

「うん。別にいいけど……」


 いつもの調子で適当に答えながら、柚ははたと我に返る。

 今、何に誘われたのか。


 目を見開いて勢いよく振り向く。

 平太は済ました顔でハンドルを握っていた。

 何食わぬ顔でフロントガラスの向こうを見つめている。

 だが、よく見れば、彼の耳は真っ赤だった。

 つられるように柚も頬を染めたが、急におもしろくなって笑みが漏れた。


「なんだよ、何か面白かったか?」

「ううん。全然」

「……なんだよ」

「やけん、なんもなかっち」


 けれど、どうしてもクスクス笑ってしまう。

 今日はまだ週明け。

 今から実家の母に頼めば、速達で日曜日に間に合うかもしれない。


 去年母方の祖母が買ってくれた綿紅梅の浴衣が箪笥の肥やしになっているはずだ。

 一度しか着ずに勿体ないと思っていたのだから、せっかくだから送ってもらおうと思い至る。


「楽しみやね」

「お、おう。そっか」


 心なしか頬をひくつかせている平太の横顔に、柚はいたずらを実行する。


「うち、デートなんて初めてっちゃん」


 平太は大きな声で反駁しようとして、すぐに黙り込んだ。

 大きく開いた口が行き場を失ってもにょもにょと波打った。

 ついには顔を赤くして口を尖らせる。

 そういうところが中々かわいく思えてしまうのだから、柚も案外毒されてしまったのかもしれない。


 けれど、彼の横顔を見ながら、どぎまぎする一方で、自分が実家の跡取りであることも思い出す。

 平太もそうだ。

 同じ境遇なのだ。

 仮に恋人になっても報われないことはお互いに承知しているに違いない。


 でも、と内心でため息を漏らして前を向く。


 今少しの青春を楽しんでもいいはず――柚は西の雲間に茜が差すのを楽しげに眺めていた。

 雨粒に反射して、柔らかな西日に影が差した。


 もう少しだけ。

 夕立は名残惜しむように、若い二人を雨粒で隠し続けた。

7月7日、マンガボックス様にてコミカライズ版第四話公開です。

ぜひご覧ください。

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