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  英雄 バルトロメウス

読者の皆様、お久しぶりです。

大変お待たせいたしました。

今回はちょっぴり長めです。

後書きにてお知らせもあります。

「嗚呼、やはりボクの直感は正しかった。バルトロメウス様。あなたの魂は誰よりも美しい」


 ルイーゼは双眸を淡い紺碧色に光らせて、陶酔するように呟いた。

 まるで何かが憑依したかのように、紅潮した頬に手を当てる。目を細めて彼を見据え、どこか劣情に身を流されるように、彼女の熱を孕んだ視線はバルトロメウスの首筋や胸元に注がれた。


「ルイーゼ、具合は大丈夫か?」


 バルトロメウスが尋ねると、ルイーゼは調子を取り戻すようにくすりと笑う。その妖艶さに彼は思わず生唾を飲み込んだ。

 ほんの数秒前までは子どものような振る舞いや仕草が目立ったというのに、今は大人の女性というよりも、何やら妖魔めいた艶やかさに胸がざわつくような雰囲気がする。

 それどころか彼女の瞳には魂が引きずられるような感覚があった。


「大丈夫ですよ。本来のボクはこの状態なのですから。いえ、ペンダントを外す前のボクも本当のボクですけどね」

「我を失ったというわけではないのか。ならばよい」

「ふふっ。ご心配には及びません。久しぶりに解放したせいでちょっと興奮しているだけですよ。ここは周りに人もいませんし、バルトロメウス様だけですから」


 バルトロメウスはわずかに眉根を寄せる。


「己の心も読めるか?」

「思考まではさすがに。ですが、漠然と」

「そうか」

「はい。とってもあったかいですね。ああ、なるほど。兄様が……。ふふっ。これ以上心を覗くのはズルですね」


 愉快そうに微笑むルイーゼに対して、バルトロメウスは少しも心象を害したところがなかった。むしろ隠すところなど彼には何一つとしてないのだ。いっそ彼の心の裡を全て見透かされたとしても、何も恥ずべき点などない。


 ルイーゼは気を取り直して言う。


「では、聞いて見ましょうか。と、その前に」

「むっ……」


 視線を藪の方に向ける。ルイーゼに気を取られていたバルトロメウスも遅れて気がついた。

 数匹のゴブリンが近寄ってきているようだ。

 だが、騒々しい。どうやら他の魔物から逃げている。


 剣を抜こうと柄に手をかけたバルトロメウスだったが、ルイーゼから声をかけられた。


「ちょうどいいですから、あの魔物たちの命を対価にしてクリスについて聞きましょうか。バルトロメウス様、命までは取らないように、お願いしますね」

「……心得た」


 残酷な力だ、と思ったが、それもまた自分と似たようなものだ。むしろ親近感が湧く。

 その思考も、ルイーゼには筒抜けだったようで、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 藪から飛び出してきたゴブリンに、バルトロメウスは抜剣するや否や両脚を切りつけた。

 たちまちのうちに五体ものゴブリンの血臭がたちこめる。だが、彼は油断せずに大上段に剣を構えたまま、後続の魔物を待った。


 ゴブリンを追ってきたのは牡牛を一飲みにするような大蛇だ。

 バルトロメウスはすぐにその魔物がバジリスクの幼体だと見抜き、同時に剣を一閃した。

 バジリスクと言えば、目が合うと石になると言われるが、実際には鋭い牙から噴射する毒による症状だ。この毒に触れたり吸い込んだりすると、身体が石のように固まって動かなくなる。

 彼は的確に毒腺を切り落とし、次いでバジリスクの胴体を真っ二つにした。

 それでも切り落とされた蜥蜴の尻尾のように蠢く様子はおぞましく気味が悪い。


 数多の騎士がバジリスクの前に命を落としてきた。だが、幼体とはいえ、バルトロメウスの前では悪名高きバジリスクも形無しである。


「しばらくは生きているはずだ。ルイーゼ、頼むぞ」

「うふふ。救国の英雄に手向ける言葉ではありませんが、上出来です」

「光栄だな」


 バルトロメウスが軽口で返すと、彼女は妖艶さをどこかへ消し去って、双眸を強く光らせた。


「それでは……」


 彼女の唇が彼の知らない言葉を紡ぎ出す。

 精霊の言葉だろうか。魔法の呪文ともまた少し違う。

 ルイーゼの紡ぐ言葉は不思議な響きをしていた。

 バルトロメウスもエウリーデ王国の古い言葉を知っているが、それともどうやら違う。かといって他国の言葉でもない。


 それは精霊たちが使う、音もあってないような言葉なのだ。

 あるいは森羅万象の囁きこそ、その精霊言語たる発声方法なのかもしれなかった。


「――答えよ、答えよ。バルトロメウスが妹、クリスティーナ・ブリュンヒルデ・フォン・メルヴィスが居所を、答えよ。或いは心当たりを示せ」


 周囲が精霊の光で満ちあふれるが、バルトロメウスには見えない。

 ルイーゼには二人を包み込むような光が渦巻くのを見た。


 しばらくの時を待って、その光はルイーゼの眼前に収斂し、数体の精霊がその言葉を彼女にわかるように伝え出す。


 ルイーゼは静かに頷きながらその言葉を聞いた。

 そうしてゆっくりと光が消え、それと同時に魔物たちは息を引き取った。

 辺りを突然静寂が支配し、それを打ち破るようにルイーゼは呟く。


「……バルトロメウス様。クリスの居所がつかめましたよ」


 彼女は深呼吸をひとつしてペンダントを付け直す。

 困ったように微笑んでバルトロメウスに振り向いた。

 息を呑む彼に、ルイーゼは泣きそうな顔で告げた。


「この世界に、クリスはいません」


 その言葉の真意を知るよりも先に、彼女は続けた。


「それでもあなたは、クリスを、妹を助けに行きたいですか?」


 ――もう二度と帰ってこれないとしても。


 バルトロメウスが決断するのに、そう長い時間はかからなかった。

 口を開くまでもない。尋ねるからには、天界に召されたというわけではあるまい、と。

 ルイーゼには彼の顔を見るだけでそれがわかった。


 わかっていて、惚れたのだ。

 覚悟は決めていた。


「では、王都に戻りましょうか。色々と準備がありますから」

「……ああ」


 ルイーゼの様子を、バルトロメウスは訝しく思った。

 結婚を約束したのだ。

 もう二度と戻れないと、自分で言っておきながら、その場所にバルトロメウスを送り出すことに、何も思わないはずがない。

 そう思ってのことだったが、詳しいことは彼にもわからない。説明されても理解できるとも思えない。


 ルイーゼの真意に気づいたのは、帰りの馬車でのことだ。


「バルトロメウス様だけではすぐ戦闘になりそうですからね。ここはちゃんと考える頭のあるボクがいないと」

「まさか、ついてくる気か?」

「当然です。だって、ボクたちは夫婦になるのですよ?」


 さも当然のように、ルイーゼは胸を張った。しかし、すぐにその勝ち気な顔色を寂しさに曇らせる。


「もう待ってるだけなんて嫌です」


 たとえ道半ばで潰えようとも、そのときに傍にいたいのです――ルイーゼはバルトロメウスに口づけをした。


「あなたの命の潰える時、その御霊はボクが守りましょう。誰に邪魔をさせるものですか。ボクが死ぬとき、天界へと共に召されるように」



 ***



 エウリーデ王は激怒した。


 最も信頼する騎士――バルトロメウスが暇乞いを申し出たのだ。

 珍しく私室を訪ねて来たと思えば予想外の願い出。


 近衛騎士として、その力に目覚めてから長い間、王の傍で護衛に努めてきた彼が、まさか暇乞いをするなどとは到底信じられなかった。

 その上、婚姻を約束しているルイーゼも連れ出すと言うではないか。


 王は心当たりゆえに憤りを抑えて尋ねる。


「妹のことか?」

「左様であります」

「どことも知れぬ妹を探しに旅に出るとでも?」

「居場所はルイーゼの魔法がどうにかしてくれるでしょう」

「なるほど。あれは優れた魔導師だ。だが、今更貴様の妹が生きているという保証がどこにあるというのだ」


 バルトロメウスは王の面前で目を閉じ、震える声で告げるが、最後には決意に満ちた確固とした声色で断言した。


「知らねばなりません。もしクリスが死んでいたとしたならば、その死に様を。己の妹である前に、クリスは騎士なのです。誰にもその最期を知られぬまま逝くなど、兄の己には耐え難きこと。彼女の名誉を守らねばなりません」


 口ではそう言うが、最初からバルトロメウスはクリスが死んでいるかもしれないなどとは微塵も思っていなかった。

 今でもどこかで彼女が生きていると信じている。何度も疑った。だが、その疑惑に信頼が崩れ去ることはついぞなかったのだ。

 エウリーデ王はそんなバルトロメウスの心情を全て理解していた。

 ゆえに続けて尋ねた。


「貴様が抜けた穴はいかがする」

「ハルマン家のゲルゴールという男を推挙致します」

「ゲルゴール? ああ、シュビット家のエリーゼと結婚したあの……」

「はい。あのエリーゼと」

「ああ、あのエリーゼだな。なるほど。人選に間違いはなさそうだ」


 王はなぜか納得した。だが、また尋ねる。


「帰国はいつになるのか」

「はっきりとは申し上げられませぬ」


 バルトロメウスの口ぶりに王は嘆息した。

 猪突猛進な性格であることは熟知しているが、それでもここまでとは知らなかった。

 妹のこととなるとちっとも頭が回らないのだ、この男は。

 だが、そういう愛情深いところが王にとってもかわいいところだ。


 ルイーゼとの婚約がなければ、自分の娘をあてがってもいいとさえ思っていただけに、彼が暇乞いをしたことが殊更に悔しかった。

 とくに三女はバルトロメウスを熱烈に慕っている。側室に降嫁しても構わないとさえ言うぐらいなのだ。王族が側室などあり得ないが、父親としては惚れた男に嫁がせてやりたいとも思うから厄介だ。それが信頼する男なのだからなおさら。

 それを事もあろうに、王国屈指の先鋭たる魔導師のルイーゼと婚約をしてしまった。


 いかに王とあれども、先に婚約した貴族令嬢がいる状態で、自分の娘を正妻にして、ルイーゼを側室に降格せよ、とは命ずるのは憚られる。それは王とはいえ傲慢に過ぎる。


 旧態依然とした不文律にも、男女の愛を守るための暗黙の了解はあるのだ。その不文律を破るのはいつだって若々しい情熱に浮かされた恋慕だけだ。


 王はしばらく沈黙していたが、何かを思い直して口を開いた。


「五年だ。五年のうちに帰還せよ。何やら隣国がきな臭い。貴様の力があれば安心するというものだ。もし、帰還せぬ場合は、貴様もルイーゼも死んだものとみなす。よいな?」


 バルトロメウスはエウリーデ王の恩情に深く頭を下げた。

 しかし、王は重ねて言った。


「メルヴィス卿には伝えたのか?」


 バルトロメウスは首を横に振った。

 王は何度目かわからないため息をついた。

 もう憤りもどこか遠くへ逃げていってしまった。


「貴様の父親には、余から知らせておこう」


 そうして、王はバルトロメウスに命令した。


「どこへなりとも行くがよい。だが、必ず帰還せよ。娘が……。アメリアが悲しむ」


 バルトロメウスが去った後で、エウリーデ王は訪ねる者がいた。


「父上、バルトロメウス様がお帰りになったとお聞きいたしました」


 第三王女のアメリアだった。

 いつになくおめかしをして、バルトロメウスの好きな向陽花を思わせる淡い黄色のドレスを着ていた。

 溌剌とした表情の中に、奥ゆかしさを忍ばせる。利口さを映した瞳の奥には、何者にも左右されない芯のような光が輝いていた。


 親のひいき目だとしても、嫁がせるには惜しい娘だ。


 王は困り顔で告げる。


「アメリアよ。今やあの男も婚約者のいる身。余計なことをしては、あれにとっても不都合な噂が立つというものだ」


 するとアメリアはくすりと笑った。


「旅立つ殿方に手向けの言葉さえ申し上げることができぬおなごになりとうございません」


 それが惚れた男ならばなおさらに、とアメリアは父親を前にしても臆せず答えた。

 エウリーデ王は額を押さえてため息を吐く。


「お前は、今もまだあれの側室で構わぬと言うのか?」


 確かに騎士としてはこれ以上ない逸材である。

 だが、その人格はシスコンで、仕事一辺倒の堅物だ。

 そういう意味では、アメリアを退屈させるのに十分だと思える。


 しかし、そんなバルトロメウスの実情も、アメリアにとっては好ましいものであるようだ。


「バルトロメウス様に愛されるのならば、他の何を恐れることもありません。父上にはおわかりになりませんでしょう。けれど、わたくしにはわかるのです。バルトロメウス様の築く輝かしい将来が」


 また始まった――というのが正直なところだ。

 アメリアにはこういう空想癖があった。

 だが、不思議とその空想が外れたことはない。

 幼い頃から人を見る目だけは確かだった。


 アメリアがあの貴族は嫌いだと言えば、その貴族が横領をしていたことが発覚したり、あの新人文官は才能があると言えば、いつの間にか宰相の片腕となったり。

 バルトロメウスの時はどうだったか。


「確か……。ああ、そうだ。お前が初めてバルトロメウスを見たとき、こう言ったのだ」


 その続きはアメリアが自ら言った。


「――テーセウスの再来、と」


 その言葉の意味を、当時は今ほど真剣に考えたことがなかった。

 何せ、その時のバルトロメウスはまだ剣術が得意なだけの見習い騎士だったのだ。


 魔法も扱えず、魔力もなく、剣術だけで他の騎士の群れに埋もれていた。

 それがいつの間にか王国を代表するような騎士にまでなっていた。


 テーセウスといえば、建国の父でもある。

 初代王の父にして、大精霊より王権を賜った偉大な人物だ。


 よもやエウリーデ王国が亡国の危機にあるのか、ともとれる言葉だが、意味するところは違うようだ。

 アメリアは王の不安げな顔を見つめたまま言う。


「例え旅立とうとも、数年のうちにバルトロメウス様はご帰還なさるでしょう。いえ、そういう宿命なのです」

「宿命、とは?」


 王の問に、アメリアは何気なく答えた。


「王国が、バルトロメウス様を必要とするその時が、もうすぐそこまで迫っているのですから」


 それはまるで予言のようだった。

 だが、不思議とそれは確信できる事実のようにも聞こえた。


 王は呟くように言った。


「隣国か……」

「さて。そこまではわかりません。ですが、遠からず大きな争乱が起きるかと」

「争乱、と来たか」


 空想癖もここまで来れば妄想だ。

 隣国がきな臭いとはいえ、数年のうちに何かが起きる可能性は小さい。

 むしろ王やその側近らの見立てでは十年後に起こるかどうか、といったものだ。


 もしかすると自然と収まるところに収まるかもしれないし、動乱となる可能性もある。

 それゆえにバルトロメウスには五年を目処に帰還せよ、とは伝えたが、それでも余裕をもったつもりだった。


 いずれにせよ、今わかる話ではない。


 アメリアは告げた。


「父上、わたくしは本気でバルトロメウス様に嫁ぎたいのです。例え側室であろうとも。それに愛する殿方は奪い取ってこそ女子の本懐でしょう?」


 今更な発言ではあったが、王はそれを許容するわけにいかない。

 しかし、それを見越したように彼女は言う。


「不文律も、事実さえあればねじ曲げられるのです。その事実は、今日だと告げております」

「……アメリア」


 その方法を、王はよく知っている。

 アメリアはいたずらが成功した子どものような顔で笑う。


「父上、わたくしはバルトロメウス様が欲しい。あの美しい魂と共にありたいのです。いっそあのたくましい両腕に抱かれて死にたいほどに。いえ、むしろあのお方の御霊を抜き出して愛でていたいくらいなのです。ですが、それはあのお方の宿命に逆らうこと。できぬことです」


 悪寒だ。

 自分の娘が何やら恐ろしいことを言った――王は視線を逸らした。


「父上、いえ、陛下。今宵起きることはお耳に入れてもお聞き流しなさりませ」


 善処できるか否か。

 父親に向かって惚れた男を夜這いします、と宣言する娘がどこにいるというのか。


 どうやらバルトロメウスという男は、頭のねじが数本外れた女に好かれる運命にあるらしい。

 王は本日何度目かわからないため息を盛大に漏らした。



 ***



 数ヶ月の時が過ぎ、ルイーゼの研究開発はその集大成を結実させた。

 だが、これは公にできることではない。


 ルイーゼがクリスを救い出すための個人的な研究成果だ。

 それに、ルイーゼ以外が使うと危なっかしくて、公表なんてできるわけがなかった。


 そも、この欲望渦巻く大陸の中ですら、世界がどこまで広がっているのかもわからないというのに、事もあろうに「異世界」である。

 世迷い言に近い。


 彼女にとっては精霊のいる異次元があるのだから、別次元ないし可能世界的な分岐が存在し得るという仮説こそ思い浮かぶが、だからといって現実に起こり得るかと言えば、あくまでも思考実験の枠を出ない話だ。


 それに、その仮説を事実だとすれば、今までの魔導研究における魂の在り方に一石を投じることにもなる。あるいはその利便性という罠に、これからの研究方針が左右されかねない事態を引き起こすかもしれない。


 ルイーゼはその点、研究者として慎重だった。

 そして、貴族の女としての覚悟もあった。


 出立の一週間ほど前。

 ルイーゼは第三王女アメリアの私室を訪ねた。


 ここ最近、アメリアは理由もなく公務を断り、私室に籠もりきりである。

 彼女の私室に入れるのは今や気の置けない長年の侍女だけだが、ルイーゼもその部屋に入ることができる数少ない人物のうちの一人だった。


「アメリア殿下、お久しぶりです」

「あら、ルイーゼ。少しやつれたかしら?」


 幸せそうなアメリアの表情に、ルイーゼは苦笑する。

 優しい手つきで指し示された向かいの席に座ると、優雅な所作で侍女がお茶を用意した。


 飲み頃の温かいお茶で唇を潤す。

 ほっと一息つくには少し甘ったるい香りがした。

 それも侍女にはお見通しだったのか、二杯目には爽やかなハーブの入ったお茶になった。


 ルイーゼはニコニコと微笑むアメリアの前でしばらく心を落ち着かせ、そうして二杯目のお茶を飲み干したところで口を開いた。


「三日後に王都を出立致します」

「あら、七日後ではなかったのかしら」

「モザンゲートまでは急いでも四日ほどかかりますから。荷物も多いので」

「そう。寂しくなるわね。道中気をつけて」


 バルトロメウス様がいらっしゃるのだから不要な心配だろうけれど、とアメリアは微笑んだ。

 そうして慈しむように自分のお腹を撫でる。

 ルイーゼは呟くように告げる。


「アメリア殿下、無理をお聞きいただきありがとうございました」

「わたくしにとって都合の良いお話だったもの。願ったり叶ったりね」


 それよりも、と焼き菓子をルイーゼの口に押し込んでアメリアは尋ねる。


「あなたこそ、本当にこれでよかったのかしら。愛する男が自分以外の女を抱いて子どもを作って、挙げ句には正妻の座すら奪われる、だなんて」


 あなたの頼みでなかったなら身を引くつもりだったのに、と彼女は苦笑した。

 ルイーゼはもぐもぐと可愛らしく口を動かして飲み下し、三杯目のお茶でさっぱりしてから答える。


「それを言うのならば、殿下こそ未亡人になるかもしれないのですよ? バルトロメウス様が死ぬとき、ボクは傍で見守ります」

「心配いらないわ。バルトロメウス様は必ずご帰還なさるだろうから」


 ルイーゼは一瞬視線を鋭くして言う。


「殿下の未来視も完璧ではないのです。ボクの精霊視がそうであるように」

「だから、あなたは保険をかけたのでしょう? 十分だわ。もしものことがあっても、この子さえいれば、王国は安泰だもの」


 そう言って、アメリアはまたお腹を撫でた。

 ルイーゼは苦笑する。


「本当に、殿下と友人となれたことは幸いでした。世継ぎも残さない妻なんて、メルヴィス家に申し訳が立ちませんから」

「あら、そういう考えは学者らしくないわ。あなたは十分に実績を残しているんだもの」

「それは研究者として、でしょう。ボクは研究者である前に、ひとりの女です。アメリア様と同じように、愛する殿方の子どもを産み、育みたいと思っても不自然ではないでしょう?」

「それは一方では典型的な幸福の形であっても、もう一方では不幸でしかない。良いこと、ルイーゼ。男も女も、人を愛するということに、決まった形なんてありはしないのよ。こうでなければならないだなんて、そんなものは所詮不平不満を垂れ流すしか能が無い者の戯言。凝り固まった理想論にすら劣る妄想」


 ルイーゼ、とアメリアは彼女の頬に手を当てる。

 端正な顔立ちが近づいても、ルイーゼはその双眸から目を離せないでいた。


「わたくしも、あなたも、同じ殿方を愛してしまった。奪い合うだなんて無駄な争いをする必要はないわ。年齢的に、わたくしはもう待てないけれど、あなたはまだ十代だもの」

「これでも適齢期なのですが。というか殿下はボクと三つしか離れていないではありませんか」


 ルイーゼの拗ねた様子に、アメリアはくすりと笑う。


「大丈夫。あなたにも幸せな未来が待っているのだから」

「……そう、ですか。信じます。殿下は未来に嘘をつきませんから」

「ふふっ。そうよ。わたくしは自分が視たものに嘘をつけないの。そういう力なんだもの……。でもね、羨ましいわ、少し」


 アメリアは軽くルイーゼの頬を摘まんで手を離す。

 ルイーゼは摘ままれたところをさすりながら眉間に皺を寄せる。


「殿下が、ボクを、ですか」

「ええ。だって、わたくしはバルトロメウス様の隣で共に戦えない。きっと足手まといになって困らせるだけね。叶うことならば、不確かな未来を覗き見る力よりも、愛する人を守る力が欲しかったわ。祈るだけでは何も変えられないわ」


 運命を知るよりも、それに抗う力が欲しかった――アメリアの瞳にわずかばかりの陰りが差す。しかし、それはすぐさま微笑みに隠された。


 ルイーゼはふと兄のことを思い出す。

 兄は赴任先で戦死したが、その前にアメリアから引き留められたのだ。最後にもらった手紙に――詳しいことを話す時間はなかったが、言葉を交わしたこともない一介の騎士に声をかけるなど珍しい。怪我には気をつけるようご案じくださった――と不思議そうに書かれていた。

 もしかすると、アメリアには兄の戦死が見えていたのかもしれない。そう考えると、未来視とは悲しい力だと思った。


 明るい未来だけ見ることは、決して叶わないのだから。


 アメリアはルイーゼの瞳をじっと見つめた。まるでその眼光の奥底に輝く源を辿るように。



 小首を傾げるルイーゼに、彼女は目を細めて言った。


「わたくしには奇妙な力があるけれど、それゆえに嘘をつけないのよ。言えないことは黙っているしかない。だから、これだけはあなたに言っておきたい」


 アメリアはルイーゼの額に優しく接吻する。


「大丈夫。あなたはきっとバルトロメウス様と幸せになるわ」


 そこにアメリアの存在が含まれていないことに気づいたのは、王都を出立したあとのことだった。

大変長らくお待たせいたしました。

賞の発表から約一年。

まだか、まだかと期待された方々に、

こんぷらいあんす的なアレと、

こんせんさす的なソレで話せないのが忍びない限りでありました。

ようやくコミカライズが始動となります。

詳しくは活動報告をご覧ください。

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