7月(末)はじまりはいつも……
大変長らくお待たせいたしました。
私事ですが、引っ越しなどがありまして、
環境が中々整わず(今も外で投稿しております)、
時間がかかってしまいました。
ご容赦ください。
後書きにてお知らせがあります。
定期的な検診と並行して、クリスは産婦人科も受診している。
穂奈美としても、初めての異世界人が妊娠・出産するとあって、色々と調べることが多いようだが、クリス本人の前ではあくまでも友人として祝福する態度を崩さない。
少し無理を言って柚も付き添わせたが、クリスと柚は短期間ながら良好な関係を築いているようで、穂奈美は安堵した。
市内の病院での検査を終えて、穂奈美はせっかくだから、と二人を昼食に誘った。
クリスは莞爾の食事を用意しなければ、と固辞したが、いざ電話して聞くと「滅多にないから行ってこい」と言われてしまった。
柚に関しては昼の仕事に間に合えば問題なかった。
今時分の正午から十四時にかけてはほぼ休憩時間なので、昼食を食べてもゆっくり帰ることができそうだ。
「というわけで、こっち出身の代議士先生が教えてくれたお店に行きましょうか!」
「はー、ほな姉の口から代議士っち、そげな単語が出て来るとか信じられーん」
「せからしか。いいけん着いてこんね。奢っちゃらんばい?」
穂奈美は柚のほっぺを摘まんでぐりぐり捏ねくり回した。
クリスが笑う。まるで仲の良い姉妹のようだ。
穂奈美の車に乗って向かったのは地元で有名なうなぎ屋だった。
「絶滅危惧種やん」
「なんでもかんでも安売りする奴らが悪いのよ。高級品は高級品のままでいいの。たまに良いところで食べるから美味しいんじゃない」
確かに、と柚は頷きかけたが、やはり安価に手に入るならそれに越したことはないなと思い直す。
それにね、と穂奈美は言った。
「自然淘汰は世の常よ」
「ほな姉、それ他所で言わんどって」
「失礼ね。言わないわよ。っていうか、滅多に食べないんだから、ちゃんと高いお金出して食べるのに文句言われる筋合いなんてないわ。文句を言うなら必要以上に乱獲している人に言えばいいの」
そんなやりとりをしながら、穂奈美は病院から車を走らせる。
市内の湖畔のほど近くに、その有名店はあった。
暖簾の一部が色落ちしており、それだけでもこの店の繁盛ぶりがわかるというものだ。
「むむっ、醤油の香りがしてきたぞ!」
「やっぱりこれよねえ。食欲をそそる匂いだわ」
店に入ると数人が待っていたが、穂奈美は店員に予約の旨を伝える。
柚は呆れた。最初からここに来るつもりだったのだ。
予約席に通されると、三人はこぢんまりとした座敷の内装に感嘆した。
豪華さはないが、きれいに掃除された一室は埃ひとつなく、品のいい調度品がぽつんと置いてあった。だが、寂しい雰囲気はない。むしろ、全体的に格式を感じる。
煙草盆なんて旅館の和室にだって中々置いていない。
「落ち着く部屋だな」
クリスはすぐにこの座敷を気に入った。
柚は慣れないこともあって部屋の中をきょろきょろと眺めている。
穂奈美は柚の様子を見て面白そうにしていた。
仲居が煎茶を持って注文を取りに来ると、穂奈美はうな重を三人前頼んだ。
「ほな姉、やっぱり慣れとうね」
「場数よ、場数。あと、そういう意味ではクリスちゃんの方がよっぽど美食家だから」
するとクリスは謙遜して首を横に振った。
「私は生まれもあるが、それでもかなり質素な食生活だったぞ。好きなものを食べられるのは誕生日や特別な日だけだった。まあ、そういう時は料理人に頼むのが楽しみでもあったが」
「りょ、料理人……」
家に料理人がいるような生まれとは、一体どういうことだろう。
柚は混乱した。
どうしてそんな家に生まれて莞爾のような田舎農家のもとに嫁いだのか理解に苦しむ。
「えっと、クリスさんってご出身は――」
「秘密よ」
機先を制したのは穂奈美だった。
にっこりと微笑まれ、それ以上聞くなと言われているようだった。
いくら想像しても世界の広さをまだ知らない柚にはわからないことだ。
知らない方がいいこともある。
柚も、まさか異世界のお話だとは思いもしないだろうに。
***
「というわけで、クリスも薦野さんもいないから、昼食は適当に食うぞ」
老人組が大谷木町北区の老人会に出席したので、莞爾は平太と孝一に智恵という(農家的には還暦迎えるまでは全員)若手を集めて昼食会を開いた。
昼食会とはいっても、いつもの調子だ。
取り出したるは大谷木町北区にある蕎麦屋で買ってきた生の蕎麦。
「生麺だなんて珍しい」
「いいな、そば湯もとろう」
「平太。畑から大根取ってこい」
平太一人を差し置いて、大人組は大はしゃぎである。
大人三人は稀に見るチームワークで蕎麦を茹でる工程に入った。
大きな鍋にたっぷりの水を張って火にかける。
盥に氷と水を入れて、竹製のザルも用意した。
湯がく蕎麦は実に十人前。
適当に、と言っていたくせに用意周到である。
ざっと水洗いを済ませた大根を持ってきて平太が尋ねる。
「蕎麦って秋からじゃねえの?」
「まあ、新蕎麦と言えば秋新がメジャーだな。物流ベースで言えば、夏新。蕎麦の旬は二回ある。最近じゃ、春蒔きで、夏新よりも早い新蕎麦も出回ってる。つまり、年三回も美味い蕎麦が食える」
「へえ、それは初耳」
平太は素直に驚いて聞き入る。
「じゃあ、これも新蕎麦?」
「当然。夏新だな。通は秋新の方が好きだって人が多いけど、夏新はまた違った美味さがある」
夏の新蕎麦といえば、基本的には北海道産である。
秋新に比べると、香りや味わいが劣ると言う人もいるが、逆に爽やかで雑味がないとも言える。
個人の好みが大きいが、莞爾にはそこまでこだわりがない。
こだわりなく蕎麦が好きなだけである。
(というか、夏場の直射日光の中で働いていると、冷たくて、しかも手軽な麺類に軍配が上がる)
「まあ、昔は冷蔵技術が皆無だったから、新蕎麦と言えば秋だったわけだ。それに、今でもこだわってるところは石臼で挽いてるしな。でも、結局技術革新があって、ほとんど一年中蕎麦を楽しめるようになったし、機械で挽いても普通に美味い蕎麦が食えるようになったと。おまけに、だ。こういうのは確かに職人が作る方が美味いけど、素人でもそれなりに食えるようになったってのは本当にありがたい話だろ?」
農業が工業技術の発展とともに進化したように、食文化の普及と発展もまた、工業技術の恩恵を大いに受けている。技術の進歩なくしてあらゆる産業の成長もないのだ。
そのためには研究開発に膨大な資金と時間、そして人材が必要不可欠である。これを蔑ろにしては競争社会から取り残されるだけだが、それに気づかない(あるいは気づいていても余力がない)企業は数多い。
智恵が大根の皮を剥いていく。
夏の大根は品種にもよるが、辛味が強く、身も締まっている。
ざっと泥を流水で洗い落として、皮を剥いたら鬼おろしで荒くすりおろす。
夏大根を鬼おろしですりおろすと、辛味が抑えられ、また水分も出にくくなるので、食べたときにシャリシャリとした食感と瑞々しさがある。
「さて、投下するぞ」
莞爾は鍋のお湯が沸騰したのを見計らって、とりあえず五人前の蕎麦を投入した。
店の主人に言われた通りにタイマーを設定する。
ぐらぐらと鍋の中で泳ぐ蕎麦を見ていると、自然と生唾が出て来る。
「社長、つゆと椀は?」
「全部まとめて冷蔵庫に入ってるぞ」
平太が冷蔵庫を開けると、そこにはめんつゆのたっぷり入った瓶と、拳大に切られた青竹が冷やされていた。
「竹?」
「心配すんな。ちゃんと洗ってる。夏らしくていいだろ?」
青竹の爽やかな香りに、鰹節の利いたつゆが合わさって、ついそれだけで一口飲みたくなってしまうが、我慢だ。
竹椀はひとり二つずつ。
ひとつは通常のつゆ。もうひとつは大根おろしも入れる。
タイマーが頃合いを知らせ、莞爾は蕎麦をザルに上げる。
氷水を張った盥の中で孝一がしゃかしゃかと蕎麦のぬめりを落とし、同時に熱を冷たさに変える。
それから大きな竹ザルの上にどっさりと載せて、平皿を水受けに食卓へ。
智恵がネギや刻み海苔、追加の大根おろしなどの薬味をたっぷり別皿に用意する。
いざ全員が席につくと、どこからともなく感嘆の声が漏れた。
「それじゃ、まあ」
莞爾の合図で全員がいただきますと声を揃え、思い思いに箸を伸ばす。
莞爾はまずちょんちょんと箸先をつゆに付けて口元に。つゆの味を確かめると蕎麦を摘まんで、つゆにどっぷり付けて啜る。
氷水で洗った蕎麦の食感を楽しみ、のど越しの爽やかさのあとで蕎麦の香りがふわりと鼻に抜ける。
孝一は通なのか、まず蕎麦をそのまま啜り、二度頷いて今度はつゆに軽く付けて。
智恵は最初からネギをたっぷり大根おろしの入ったつゆに投入して、蕎麦で大根おろしを巻き取るようにして口の中へ。夏大根の瑞々しさと軽やかな食感を楽しむ。
平太はわさびを最初から大量につゆに溶いて、そこに蕎麦をどっぷりと付けて啜り、鼻を押さえた。
若干一名、不意打ちを食らったものもいたが、概ね満足する味だったようだ。
「やっぱり乾麺とは比べられないな」と孝一。
莞爾も頷く。智恵は全くこだわりがないのか、黙々と食事を続ける。
ようやく復活した平太が、今度こそはと摘まんだ蕎麦を少しだけつゆに付けて啜る。
今度は美味しかったようだ。
ちなみに莞爾の作るつゆは醤油よりも出汁をしっかり利かせて、少し甘みが舌先に乗るぐらいの薄口仕様だが、二口三口と食べているといい塩梅だ。
「素麺もいいけど、やっぱり蕎麦だな」
孝一が少し頬を緩ませて言う。
夏の昼食と言えば専ら素麺だが、食べ方を工夫すれば中々飽きの来ない麺類だ。
「刻んだ夏野菜と一緒に、めんつゆで溶いたごまだれかけて食うのも美味いぜ」
莞爾が新しい食べ方を紹介すると、孝一はすかさず智恵を一瞥する。
智恵は呆れたようにはいはいと頷いた。
「いや、ここ一週間、ずっと素麺だったんだ」と孝一が莞爾に吐露するが、どこも似たようなものだ。
忙しい時間の合間を縫って用意できる昼食――しかも夏の暑さを乗り切るための食事、となれば、自ずと手早く冷たい食事に結びつく。
大人たちの談笑を無視して、平太は黙々と食べる。
気づけばザルの上に残った蕎麦は残りわずかだ。
莞爾はよっこらしょと若干年寄りめいた声を漏らして立ち上がる。
「全部湯がくか。まだ全然足りないだろ?」
智恵は肩を竦めるが、孝一も平太も頷いた。
莞爾は自身の腹具合も考慮に入れる。
これから始まるのは、食卓と言う名の戦争だ。
***
かわいい子には旅をさせよとも、他人の釜の飯を食ってこいとも言うが、やはり親は子を心配するものである。
薦野家から取り立てて連絡があるわけではないが、一人娘を預かっているということもあって、莞爾は定期的に電話で報告をするようにしていた。
具体的には柚がどんな仕事をしていて、どういう風に働いているのかといったことだ。実際、薦野家とはまた違う作物が大半なので、彼女の両親は柚にとってもいい勉強になっていると確信しているようだ。
とはいえ、寂しいものは寂しいのだ。
七月も終わりに差し掛かった日の午後。
急な通り雨で仕事が一時中断となった。
莞爾は雨でできなくなった作業の代わりになる作業を割り振っていくが、合羽を着るのも面倒だ。最近は日もかなり長くなった。通り雨が止むのを待った方が、ちょうどいい休憩にもなる。
ハウス栽培ならこんな苦労はないのに、とも思うが、無い物ねだりだ。
柚は作業の中断の最中、一度部屋に戻って濡れた下着を取り替えることにした。
作業服も夏場は薄着だ。おかげで雨に濡れると下着が透ける。
普段は濃い色合いのキャミソールを着るようにしているが、今日に限って淡い色合いのもので、そのくせ真っ黒なブラジャーなんて付けていたものだから、透けてしまった。
自分で気づくよりも前に、莞爾から「そのままじゃ風邪を引くから着替えておいで」と言われたので戻って来てみれば、鏡を見て驚き、そして恥ずかしくなった。
はっきり口に出してしまうとセクハラになるとでも思ったのかもしれない。そういえば、社長はともかく平太くんはあんまり目を合わせてくれなかったな――濡れタオルで汗を拭ってから着替える。
最近は、平太との仲も良好だ。
つい先日の彼の赤面は、柚の中でも整理がついていない。
もし自分の勝手な妄想が正しいとしたら、それはなんだかとっても素敵なことだ。
実家の田舎にいてもこんな出会いはきっとやってこない。
けれど、平太もゆくゆくは三山ファームヴィレッジの後進となるだろうし、もしかすると伊東家の土地を継ぐかもしれない。
だとすれば、柚もまた実家の農業を継がなければならないのだから、相容れぬ仲だ。
せめて同業者として、切磋琢磨できるライバルになれたら――脱ぎ終わったブラジャーを指先にかけて振り回しつつ、そんな益体もないことを思った。
汚れた衣服を入れる洗濯かごの中に濡れた服を放り投げて着替える。
「平太くん、かあ」と口に出してみる。
顔は悪くない。
頭も悪くない。本人は落ちこぼれだったと言っていたが、そもそも進学校にいたくらいだから、柚の基準からすると平均からは大きく上だ。
柚自身も、農業に関する知識は同じ年頃の若者に比して蓄えている自負はあるが、それ以外の一般教養はあまり自信がない。
そういう意味では、平太は年相応におちゃらけた部分こそあっても、同じ年頃の柚から見れば、地元の同級生に比べて――幸か不幸か――賢く見える。
厄介だ。
顔は悪くないし、体つきも細い部類とは言え、仕事柄筋肉質だ。コミュニケーション能力も高い。言動とは違って仕事に対する姿勢は極めて真面目だ。
「うーん、どう考えても優良物件……」
かといって、三山村というこんな山間の村落で、他に同じ世代の独身男性が見つかる可能性があるのか。平太以上のポテンシャルを持った男性がいるのか。
田舎出身とはいえ、柚の地元は三山村よりもずっと拓けている。電車も一時間に数本あるかないかとはいえあるのだ。
地元で見つけた方が無難だというのはわかるけれど、若い感情を持て余しているのもまた事実。
「とにかく真面目にこつこつやれる男を選べ。吐いた言葉に責任を持てる男ならもっといい」
――とは、父親の言葉だ。
少なくとも真面目でこつこつなのは合致しているが、吐いた言葉に責任が持てるかどうかはまだわからない。
そういう発言をまだ聞いていない。
「まあ、うちまだ二十歳にもなっとらんし」
でも、せめて彼氏ぐらい欲しいなあ――なんて独り言は唇の内側で止まった。
外から平太が呼ぶ声が聞こえる。
ちょっぴり胸が弾んだのは気のせいだ。
『廃墟の怖い話』宝島社文庫
6月6日 発売予定。
上記ホラーアンソロジーに
書き下ろしという形で参加いたしました。
詳しくは活動報告をご覧ください。




