閑話 キュウリのぬか漬け
大変長らくお待たせ致しました。
閑話です。
働いていることを怒られるのは初体験だった。
柚は与えられた仮部屋ならぬコンテナの窓を開け放して扇風機を回す。
九州の夏に比べると幾分かマシだ。もともと平地に住んでいたので、山間部の気温は日射の割に高くないと感じてしまう。
とはいえ、コンテナの屋根はどうしても熱くなるので、すだれを縦横交互に二枚重ねて乗せている。水をかけて置けば気化熱でずいぶん涼しくなる。
朝食のあとはクリスが庭中に水を撒いているので、そのついでに屋根に水を掛けるようにして正解だった。
「休みっち言われても、暇やん……」
何せドがつく田舎である。
電車なんて通っていない。
バスはそもそも停留所がない。
タクシーなんて呼んだら街までいくらかかるかわからない。
暇すぎて納屋の掃除をしていたら莞爾から怒られたのだ。
曰く「休日は従業員に与えられた権利である」
曰く「中々まとまった休みをやれないから、たまの休日ぐらいは自由に過ごしなさい」
曰く「リフレッシュは潤滑油」
曰く「勤労も度が過ぎればただの奴隷」
云々。
仕事が趣味化している莞爾の台詞とは思えないが、まあ真っ当なところである。
せっかくだから三山村でも散歩しようと麦わら帽子を被った。
おしゃれな服もなくて、白いシャツにオーバーオールを着た。
孝一の妻である智恵から「女の子なんだから日焼けはダメよ!」と言われて以来、日焼け止めクリームを塗るようになったが、同時に化粧の仕方も教わった。
教わったのはいいが、化粧品なんてファンデーションとチークぐらいしか持っていない。
元々目鼻立ちはくっきりしている。
クリスに見せたら「化粧する必要がどこにあるのだ」と言われたぐらいだ。
ついでに言えば、莞爾は「まあ年頃だから」とクリスをなだめた。
覿面だったのは平太だろうか。
もしかすると人見知りなのかな、と思っていたが、化粧をした顔を見せると顔を背けられてしまった。地味にショックだったのは秘密だ。
あとになって、「化粧をしなくてもかわいいのに」とぼそり言われたのがなんだか嬉しかったのも、実は秘密だ。
「む、どこかお出かけか?」
母屋のクリスに声をかけると、彼女はぬか床をひっくり返しているところだった。
ぬか床は毎日天地を替えて管理してやらないと、とくに夏場はかびが生えたり異臭がしたりしてしまう。
金髪の異邦人がぬか床をこねくり回しているところを見るのはなんとも奇妙なものだ。
「ちょっとお散歩に」
柚が答えると、クリスはまだ漬かりきっていないキュウリを一本取り出して、流水でさっとぬかを落とし、柚に手渡した。
「おやつだ」
「あ、どうも」
「あっ、これを平太に届けてやってくれ」
「はあ、わかりました」
手渡されたのは氷と一緒にビニール袋に入ったキュウリのぬか漬けだった。
「えっと、平太くんはどこに?」
「今なら田んぼにいると思うぞ」
クリスはそういってまたせっせとぬか床に手を突っ込んだ。
***
佐伯家を出て、ひとまず道を下っていく。
今日は平日なので由井家を訪ねても菜摘がいない。
柚の見立てでは、菜摘は平太をよき兄として慕っているようだ。
彼女が来たことで平太と遊ぶ時間が奪われるのではないか、と少しだけ嫉妬しているのが微笑ましい。
その割に、柚と遊ぶのも嫌いではないようだ。
男の平太とは違って、同じ女の子同士だからわかることもあった。
由井家を過ぎて、さらに道を下ると三叉路に突き当たる。
右に行けば水田のある斜面。左に行けば大谷木町だ。
少し汗をかいた。
手に持ったキュウリを一口かじる。
パキッといい音がした。
シャリシャリと噛み砕く。キュウリの青臭さに仄かな塩味がしてほんのり甘い。
ごくりと飲み干して、柚は右に足を進めた。
細い水路にせせらぎが聞こえる。
風に夏草が揺れ、その隙間を縫うようにシオカラトンボが飛んでいた。
夏らしい草木の瑞々しい匂いと、ごった返すような蝉時雨が満ちて、余計に暑さが際立った。
しゃくしゃくとキュウリを食べ終わるころには水田にたどり着いていた。
実家の周囲にも水田はあったが、三山村のような棚田はあまり見たことがない。
何度見ても「狭い」という感想が浮かぶ。
かなり背の高くなった稲の中から平太が顔を出したので、驚いて声を上げそうになった。
「……何やってんの?」
「えっと、お散歩?」
「ふーん。あ、今日は休みだっけ?」
柚が頷くと、平太は手に持った雑草の束を道路に放り投げて慎重に水田から出てきた。
一息ついて畦道に置いた水筒を取る。中の氷がカランコロンと音を立てた。
口元から麦茶を溢しながら喉を鳴らす姿を見ていると、無性に羨ましくなった。
「くぅーっ、キンキンに冷えてやがるっ!」
平太は首に巻いた手ぬぐいで顔を拭って、それから柚に水筒を差し向ける。
「飲む?」
少しぶっきらぼうな言い方だった。
柚は少し悩んで、
「いいと?」
「うん」
少し恥ずかしそうな平太がどこか面白かった。
水筒を受け取って一口飲む。
冷たい麦茶が喉を通って、食道と胃の形がわかる。
「生き返るー」
「今日暑いもんな」
平太が微笑んでいるのを見て、柚は思い出したようにビニール袋を渡した。
「これ、クリスさんが平太くんにって」
「さんきゅっ」
すぐに中からキュウリを取りだしてかじる。
パリッと音がなる。暑い中働いた身体にぬか漬けの塩気がちょうどいい。
「うん。うまい」
「はい、お茶」
「お、さんきゅっ」
水筒を返すと、麦茶で流し込むように飲んだ。
柚はいたずら心が芽生えて言う。
「間接きっすぅー」
「――ぶほおおおおっ!」
砕かれた緑色の物体が宙を舞った。
盛大に咳き込む平太が面白くて、柚はケラケラ笑った。
涙目になってちらりと彼の顔を覗く。
平太は顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。
耳まで赤い。
――あれ? えっと、あの、その、うそっ、いや、だって、あれは冗談で……えっ。
柚は沈黙した。心なしか顔が赤くなった気がして麦わら帽子を深く被り直した。
平太は黙々とキュウリを食べた。
ほんのり利いた塩味よりも、青臭い味が強かった。




