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7月(1)豪雨の報せ

大変長らくお待たせしました。

インフルエンザで死んでました。

家庭内パンデミックは恐ろしい。

みなさんもお気をつけください。

「クリス!? 待て待て、言ってくれれば俺がするから!」


 何事も初めてだと勝手がわからないものである。

 莞爾はクリスが妊婦となったこともあって、いつも以上に神経質になっていた。


 クリスも生来の働き者であるから、余計に心配は絶えない。


 今も風呂釜用の薪を割ろうとして怒られてしまった。

 しゅんとして鉈を手放すクリスであった。


 七月。


 三山村も夏らしい気温になった。

 それでも平地に比べればかなり涼しいのだが、暑いものは暑い。

 八月になればもっと暑いのかと思うと嫌気が差す。


 莞爾は道具を片付けてクリスを家の中に連れ戻す。

 スミ江や智恵からはあまり世話を焼かなくてもいいと言われたが、それでも心配はつきない。


 食事の準備や後片付けをするくらいでも、いちいち莞爾が心配して傍を離れないので、クリスも嬉しいやら面倒くさいやらでどうにも困ってしまう。


「カンジ殿。少し落ち着いたらどうだ?」

「……お、おう」


 それで落ち着かないのが男である。

 とはいえ、嗣郎や孝介からすれば莞爾は心配しすぎである。

 もはや棺桶に片足を突っ込んだ嗣郎にとっては、莞爾の気持ちがわからないわけではないが、それでももっと気楽に構えていればいいのにと思うこともある。


 佐伯家は莞爾とクリスだけであるから、嫁姑問題がないだけで、その点は莞爾も助かっている。

 だが、その一方でスミ江がクリスのよき相談者である。


 親類とはいえ、違う家の間柄であるからこそ、そういう関係を築けていることもある。

 もっとも、それはクリスが素直にスミ江の話を聞き、スミ江も本心から他所に嫁いだ側のクリスが抱く心細さを心配しているからである。押しつけがましい世話ではなく、互いに思いやる気持ちがあるからこそいい関係が築けている。


「心配してくれるのは嬉しいが、多少の家事は問題ないと言われたではないか」


 先日、莞爾も一緒にクリスと産婦人科へと行ったのだ。

 医師から無理は禁物と言われ、出産までの心得のようなものを聞かされたが、莞爾としては不安でいっぱいである。


 クリスの場合、悪阻はそれほどひどいものではなく、時折気持ち悪くなる程度だが、それでも不安が押し寄せて情緒不安定気味になることもあった。

 だが、いつもどっしりと構えていた莞爾がやれ大丈夫かやれ寒くないかと、せせこましく身の回りの世話を焼こうとするのだから、どこか笑えてしまう。


 日常においても、クリスは莞爾が自分を大事にしてくれていることは理解しているが、まさか妊娠を機にこれほど彼の心配性が表に出てくるとは思ってもみなかった。つくづく愛されていると感じつつ、一方で贅沢にもちょっと鬱陶しいとさえ思うのだった。


 気分が悪くて寝ているときに周りでうろちょろされたらイライラしてしまうのと似ているかもしれない。


 決まりが悪そうに頭をかいている莞爾を見ると、クリスは小さくため息を吐いた。


「私はいいから、早く仕事に行くのだ、カンジ殿」

「お、おう……」


 それでもまだ動かない莞爾にクリスは呆れた様子で「無理はしないから」と念を押す。

 半ば渋々家を出て行く亭主の背中を見送って、クリスはどうしたものかと少し頭を悩ませることになった。



 ***



 七月といえばもう夏である。

 普段から出張の多い八尾は沖縄土産を持って莞爾の畑を訪ねていた。


 もちろん夏野菜の状況を知るためと、今後の出荷について話を進めるためである。


 シシリアンルージュはぼちぼちの成育状況だが、ナスやピーマンといった品目は今ひとつというところ。できていると言えばできているのだが。


 いくら三山村が山間にあり、気温的にそれほど高温にならないとはいっても、日照りの強さまでは変わらない。

 八月ともなればまだまだ強くなるだろう。


 とくにナスはこれでもかと言うほど肥料を食う。

 逆に言えば肥料さえたっぷり与え続ければかなりの期間実をつけてくれる。


 よく「秋なすは嫁に食わすな」と言う。

 ナスが日本に伝わったのは奈良時代。

 慣用句に出てくる「秋なす」の秋は旧暦なので、今で言うところの晩夏あたりだろう。

 現代の季節感覚で言えば、全然夏である。むしろ残暑も残暑の夏だ。


 しかし、実際にナスはこの時期頃、再度結実をする。

 これが今で言うところの「秋なす」である。


「いいね。やっぱりひと味違う」


 本来は伊東家の農地だが、三山ファームヴィレッジとして活用している畑にはこれでもかと水ナスが並んでいた。

 佐伯家の土地よりもかなり低い位置にある。


 八尾はそこで採れたばかりの水ナスを莞爾から手渡され、そのままかぶりついたのだ。

 瑞々しさが違う。


 水ナスといえば灰汁も少なく皮も薄いので舌触りがよく、また瑞々しい食感で生でも非常に美味しく食べられる。

 ベタだが、冷水で冷やしたのを砕いてもろみ味噌で食べるとすこぶる美味い。とにかく焼酎の水割りが飲みたくなる。


 この水ナスに関しては、生で食べることを考慮して消毒液などを散布していない。

 だからといって無農薬と言えないのがまた世知辛いところだ。


「この夏の目玉になると思うんですよ」

「こいつはちょっとしたもんだよ。何もつけなくてこれだけ味が濃いのは中々珍しいからね」


 嗣郎がしっかりと作り込んだ土壌に、化成肥料による追肥ではなく、とことん完全発酵させた堆肥で補うという面倒な方法をとった甲斐があったというものだ。


 有機栽培の条件には色々と制約が多くて合致しないものの、水ナス本来の瑞々しさや爽やかさを残しつつ、それでいてナスらしい味わいがしっかりとある。


「ただまあ、単価がちょっと」


 莞爾はそう言って灌水ホースを叩いて見せた。


「名付けて三山湧水ナスってところかな」


 ホースは電動ポンプに繋がっており、そのポンプの取水先は山からの湧水である。

 水田にも引いている水だ。

 位置が悪いので電動ポンプを使う羽目になったが、ホースが間に合えばポンプを使う必要もなくなるだろう。今年は実験的な栽培である。


 元々、畑に使う水は井戸水だった。

 小さな用水路がないわけではないが、用水というよりも排水という方が正しい。

 晴れている日は枯れているくらいだ。


 一方で、水田がある斜面は山の沢に通じる用水路があるため、よほど日照りが続かない限りは水が涸れることもない。


 栽培方法にとくに変わった点はないのだが、とにかく水を沢から引いたことに加え、防虫ネットや強風への対策をやり過ぎというぐらいやった。実が葉や棘に擦れないように工夫も凝らした。


 おかげで傷の付きやすい水ナスはきれいにぶら下がっている。


 野菜には傷がつきものだが、傷がついたものは商品にならない。

 例えばテレビなどで傷ものの野菜を捨てるなんて勿体ないなどとよく言っているが、スーパーの青果売り場を歩けばすぐにわかる。

 多少なりとも見栄えが悪かったり、傷が入っていたりするものは最後まで売れ残るのだ。


 消費者は素直だ。小売店のバイヤーはもっと素直だが。


「じゃあ、予定通りで」


 八尾は当初の契約通りの出荷を求め、莞爾はそれに了承した。

 一袋五個で小売価格は五百円である。

 小売、といっても卸先は小売店ではなく専らレストランや料亭だが。


 莞爾には自信があった。

 嗣郎の作った土地で細心の注意を払って作った水ナスだ。

 有名な泉州の水ナスよりもずっと美味いと自負している。


「ところで、これは?」


 八尾は畑の隅にある水ナスを指さして尋ねた。

 まるでぶどうのように袋掛けされている。

 紙ではなくポリエチレンの袋のようだが。


「実験ですよ。実験。開花後一週間でつけてみたんです」

「どうしてまたビニールなんかで?」

「水ナスは発色よくないとでしょう? 紙だと遮っちゃうんで」

「なるほどね。尻腐れは?」

「なるかなって思ってたんですけどね。案外大丈夫でしたよ。皮は普通のよりも多少柔らかくなってます」


 水ナスを袋掛けにして栽培すると、湿度や温度の関係で果皮が柔らかくなる。

 透過性は果皮の色合いに変化をもたらすが、通気性があると果皮の柔らかさは変わらない。通気性が低く透過性の高いポリエチレンなどの袋で覆うと、内部温度は若干下がり、湿度は上がる。これがどうやら影響しているようだ。(ちなみに大阪で行われた実験である)


 とはいえ、商売でこの手法をとるかどうかといえば、莞爾は絶対に断る。割に合わない。

 果実類などの高単価商品ならばまだしも、ナスはそこまで単価が高くないのだ。


 畑から出たところで、八尾は乗ってきた社用車に乗り込もうとして振り返る。


「そういえば、クリスちゃんがおめでたなんだってね。おめでとう」

「ああ、これはどうも」


 思わずぺこりと頭を下げた莞爾だった。


「あはは、家族が増えるんだ。佐伯くんも今以上に頑張らないとね」

「そのつもりですよ」



 八尾の車を見送って、莞爾は水ナスをいくつか取って家路についた。

 まだ仕事は残っているが、一旦返ってまた仕事に戻ろうと思ったのだ。


 家に帰る途中で伊東家によった。

 縁側から覗き込むと作業用のズボンにシャツ一枚でしわしわの肩を出している嗣郎がごろ寝していた。


 視線はテレビに向けられている。


「こんにちは、嗣郎さん」

「おお、カンちゃんか! お上がりよ。おーい、へいたあー」


 起き上がって縁側から外に声をかける嗣郎。

 すぐに平太が顔を汚して出てきた。


「あ、社長。お疲れ様でーす」


 汗だくの平太に莞爾は手を上げて挨拶の代わりにした。


「これ、下で作ってる水ナスです」

「どうじゃ?」

「まずまずの出来ですよ」


 嗣郎はへらっと笑ってみせた。だが、すぐに渋い顔をした。


「九州がとんでもないことになっておるんじゃ」

「はい?」


 テレビ番組はお昼のワイドショーだったが、どうやらずっと九州の豪雨について報道しているらしい。


 画面の中を轟々と流れる濁流が家々を押し流している様子は言葉を失うしかなかった。


 つい先年は熊本地震もあったというのに、次は豪雨とは。今度は福岡のようだが、いずれにせよ当該地域の住民の安否が気になった。


「うそうそうそっ、なにこれ! やばいじゃん!」


 呆然と眺める平太の言葉は妙に重たく聞こえた。

 ふと嗣郎が言った。


「気の毒じゃが、わしらはわしらで土砂崩れが起きるかどうか気にしておかにゃならんのう」

「……ですね」

「代々の土地じゃ言うても、命には替えられんわい」


 明日は我が身かもしれない。

 たまたま九州が豪雨に見舞われただけで、次はこの三山村を襲うかもしれない。

 山間部に住んでいるからこそ、嗣郎や莞爾には他人事には思えなかった。


 さすがに水没や濁流に呑まれるようなことはないだろうが、大規模な土砂崩れに巻き込まれない保障はどこにもない。

 かといって、個人でできる対策は限られている。


「平太、防災グッズ確認しておけよ」

「うん……」


 まだテレビに釘付けの平太だったが、顔を青くして頷いた。



 ***



 晩。


 クリスが風呂に入っている間に、莞爾は穂奈美に電話をかけた。

 彼女の実家の詳しい位置は知らないが、ふと不安になったのだ。


 適当な挨拶もそこそこに、莞爾は豪雨について尋ねた。


『ああ、それならうちは大丈夫。実家は市内だから』


 他県だから位置関係はよくわからないが、莞爾はひとまず安心した。


『慎治くんもね、さっき電話かけてきて大丈夫かって』

「大原が?」

『うん。つい先週なんだけど、彼と一緒に実家に行ったのよ』

「へえ。進んでるんだな」

『そっちだってクリスちゃんの妊娠おめでとう』

「おう」

『やることやってたってわけね』

「言い方をどうにかしろ、まったく」


 久しぶりに元気な旧友の声を聞けて、莞爾は少しばかり安堵した。


『まあ、そんなわけでね。うちの実家は大丈夫よ。まあうちの父は市役所勤務だし、近いうちに朝倉の方に出向命令が出るかもしれないって言ってたけど』

「テレビで見たよ。すごいことになってるみたいだな」

『私も外務省の人間だし、知ってる情報はテレビで見たものぐらいなのよね。こういうときってつくづく情報が少ないのが怖いったらないわ』

「とにもかくにも、大丈夫そうならよかったよ」

『被災者には申し訳ないけど、家族が無事で良かったって心底思ったわよ……』

「……だろうな」


 もし自分の地域が天災に見舞われたら。

 想像しただけで莞爾は頭が真っ白になりそうだった。

 被災者の気持ちもいかばかりか。


 田舎の方ともなればいくつも農地があるだろうし、立ちゆかなくなる農家も多くあるだろう。

 つくづく自然の猛威という恐ろしさを突きつけられた気分だ。


 自然を相手にしている商売だとはいえ、目の前に差し迫った猛威が見えるわけではない。

 莞爾は農家であるし、難しさはわかりやすいが、危険はそこまで感じない。よっぽど漁師の方が危険を常日頃から感じているだろう。


 電話を切ったところで、煙草に火をつけようとしたが、すぐにやめた。

 妊娠が発覚して以来、あまり煙草を吸わないようになった。手は伸びるがそれだけだ。


「ふうっ、お先にいただいたぞ」


 湯上がりのクリスが濡れ髪をパタパタとタオルで拭いながら出てきた。

 莞爾はそっと抱き寄せてうなじにキスをした。シャンプーのいい匂いがした。


「むう。くすぐったいぞ!」


 怒ったような声を出すクリスだったが、顔は嬉しそうだった。

 現金なのかどうなのか。莞爾にも今ひとつ自分の心情がわかっていないが、妊娠が発覚してから妙にくっつきたくなったのは違いない。


 愛する妻を腕の中に優しく抱いていると、なんだか安心するのだ。


「湯冷めするぞ。乾かそうか?」

「むふふっ、久しぶりだな」


 今度はクリスが莞爾を引っ張って洗面所まで行った。

 慣れた手つきでドライヤーを用意して莞爾に手渡した。

 鏡に向かってまっすぐ座り、両手は腿の上。まっすぐに背筋を伸ばしてクリスは「お願いする」と笑顔で言った。


 莞爾は細い金髪を指先で梳く。

 今この手にある幸せを、守っていきたい。一緒に育んでいきたい。

 なんだかそんなことが胸中を満たしてやまなかった。

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