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6月(末)恵みの雨

遅ればせながら、

新年あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 梅雨時の雨は気分を憂鬱にさせる。

 これで少しは気温が低いならいくらか気も紛れるというのに、湿度に負けず劣らず温度計をひり上げる気温の高さには辟易としてしまう。


 未明からの雨は雲間に時折物憂げな太陽の顔を覗かせつつも、まるで空を見上げる人々をあざ笑うかのようにすぐに暗がりに隠してしまう。


 大地からたちこめる雨の匂いが鼻腔を満たし、冷たい麦茶を一息で飲み干した清涼感と一緒に吐き出してしまう。

 それでもすぐにまた熱気に包まれて嫌気が差し、つい天井近くの壁に視線が向いてしまう。もう買い換えた方がいいとは思いつつ、まだ使えるからと無駄な物持ちの良さでかえって電気代を嵩ませるエアコンが恨めしい。


 たかが気休めとはわかっていても、雨戸を開け放してみれば余計に湿気が屋内になだれ込む。しかし、それでもいくらか風があるだけ心地よい。昔ながらの間取りであるから、夏場はとくに風通しがいい。冬は屋内とは思えないほど寒いが目を瞑るしかない。

 庇から顔を覗かせれば、所狭しと広がる水たまりが水田の水面のように波打っている。


 せめてもう少しかわいげのある音色ならば気分がいいものを、どうしてこんなにけたたましいのかと、莞爾はため息を一つ吐いた。納屋のトタン板を打つ雨音はもっと激しい。雨垂れの音よりも自己主張が激しくてかなわない。

 軒下に干した雨合羽はすでに小一時間吊したままだというのに、未だに水滴が付着したままだ。例年のことながら、どうせまたカビが生えてしまうのだろう。いくら使ってすぐに干しても、こうも湿気があってはカビも生える。

 都合よく眠っている間だけ降ってはくれまいか、とは思うが、まさに都合がよすぎる妄想だ。


 車軸を流すような雨が降るようでは、まだ梅雨に入ったばかりであることもあいまって不安が増すというものだ。

 この調子で梅雨が続けば土砂災害も危険視される。だが、そうかと思えば天気予報では来週から雨量そのものは落ち着くのだという。それでも梅雨前線はそのままだから、なるほど今年の梅雨はせっかちな性格をしているらしい。それともいたずらっぽい性格だろうか。


 来週を過ぎればもう七月、文月だ。


「嫌な雨だな」と隣に座った新妻が言った。

「クリスは雨が嫌いか?」と莞爾が尋ねると、新妻もといクリスは大きく頷いた。

 軽く笑みをこぼして莞爾も「俺も大嫌いだ」と言った。


 だが、農家にとっては恵みの雨でもある。

 とはいえこれが難しい。


 灌水が不要なぎりぎりの雨量で収まってくれればこれほど楽なことはない。

 けれども、この調子では土が流れてしまう。


 今朝は急いで植え付けてある夏野菜の苗を見に行ったが、ビニールマルチを張っていたこともあって土こそ流れていない。だが、雨が続けば肥立ちが悪くなる。根が深く張らないので風にも弱くなる。

 かといって日照り続きでも枯れてしまう。


 時間帯も問題だ。夜ばかり降られても困る。植物の根が伸びる時間は夜だから、その時間に水があると根を伸ばさなくなる。理想を言えば午前中にパラパラと降ってくれるのがいい。


 病害も心配だ。植物の病気はカビを原因としたものが多く、主要な原因は降雨量だ。雨続きで日照時間が減ると瞬く間に病害が広まってしまう。

 見つけたらすぐに取り除くし、定期的に消毒散布もするが、だからといって安心できるわけでもない。


 一応、消毒散布は一時間から二時間ほどの乾燥で効果が見込めるから、この時期でもわずかな隙間を見つけて消毒はできる。


 だが、最小限に努めたいのは農家として、生産者としての矜恃でもある。

 莞爾は有機栽培に手を出していないが、それでも必要最小限以上の農薬は使いたくない。

 いくら安全が確立されているとはいえ、便利だからと馬鹿みたいに使っていてはなんのこだわりもない野菜しかできやしない。それは莞爾の望むところではなかった。


 もっとも、最近では有機栽培を認可できる条件も年々厳しくなる一方で、これ以上条件が増えれば自然栽培しか許されないのではないかと思ってしまう。かと思えば堆肥からの自然濃縮で有機栽培も危ないなどと言い出す輩がいるのだから、じゃあもう狩猟生活でもしてくれよと言いたくもなる。


「仕事はもう済んだのか?」


 クリスが尋ねると莞爾は曖昧な返事で濁した。

 終わっているのは確かだが、やろうと思えばいくらでも見つかるのが仕事というものだ。

 農水省の木野からもらったマニュアルは一通り見ているし、それを含めて動いてはいるが、おいそれと他の仕事の手を抜くこともできないから、仕事量でいえば倍増したと言っても良い。


 一人ではないからなんとか回っているだけで、嗣郎や孝介の労働量が増えているのは社長としてなんとも情けない気がしてくる。

 ようやくぎっくり腰から孝一が復活したというのに、この雨では圃場の改善もできやしない。


 土が水浸しでは耕耘機なんて使えないし、堆肥や化成肥料も混ざらない。

 別に代掻きがしたいわけではないのだ。


「晴れたら晴れたで暑いんだよなあ……」


 梅雨明けの粘着質な暑さは、夏に慣れ始めた身体でも厳しいものがある。

 クリスはクリスで、日本の梅雨にはまだ慣れていないらしい。

 時折パタパタとシャツを揺らして汗を乾かそうとしているのは、どこか扇情的にも見えた。


「なあ、クリス」

「ん、なん……むぅ」


 隙を見て唇を奪うと、クリスの唇は潤んでいて艶やかで柔らかかった。湿気のせいではないと思う。


「そういうのは、夜に、だな……まったく」


 顔を赤らめて抗議をするが、そんなことはなかったかのように莞爾の手を引いておかわりを要求してくるのは、彼女なりにスイッチが入ってしまったからなのかもしれない。

 いっそこのまま流されてみようかと本能が首をもたげ始めたが、柱時計が午後一時を知らせてはしごを外す。


 柔肌の上で迷子の指先を捕まれて、名残惜しさを紛らわすように啄むような接吻をすると、クリスは少しだけ残念さをにじませて息を吐いた。


「さあ、仕事の時間だぞ」

「へいへい」

「まったく、カンジ殿ときたら、むーっ」


 わざとらしく頬を膨らませるので、つっついて空気を抜いてやると、余計に怒らせてしまった。

 莞爾は逃げるように立ち上がって吊したままの雨合羽を手に取った。

 まだ水気が残っていて気持ちが悪いが、それでも着ないわけにはいかない。


 莞爾がいつもの気忙しさもなくだらだらと外に出て行ったのと入れ替わるように、智恵が訪ねて来た。

 智恵が佐伯家を訪ねるのは珍しかったが、今日はクリスが頼んでいたのだ。


「クリスちゃん、行きましょうか」

「うむ。トモエ殿、よろしく頼む」


 いつの間にかファミリーワゴンが軽自動車に変わっている。夫の孝一が維持費を考えて買い換えたのだ。


 智恵の運転で大谷木町へと向かう。

 フロントガラスに張り付く雨粒をワイパーが忙しなく払っていく。

 大谷木町についたら、そこから国道を通って隣町へと走る。


「田舎は病院が少なくて不便なのよね」


 とくに産婦人科は、と智恵は言った。


「でも、莞爾さんに言わなくてよかったの? きっと本人も喜ぶと思うけれど」

「ぬか喜びはさせたくないのだ」

「そう、確かにそうかもね」


 月のものが来ないのは初めてではなかった。

 元々クリスはその手のものが規則的な方ではあったが、それでも年に数回はずれ込むことがあったから、とくに気にしてはいなかったのだ。


 だが、今回に限ってはなんだか違和感が大きくて智恵を頼った。


「なんとなくだが、倦怠感が増したというか、あまり食事が喉を通らないようになったのだ」


 本人はそんなことを言っているが、莞爾が気づかない程度なのでほとんど変わっていない。あくまでも本人の一感想である。


「酸っぱいものが食べたくなったとか、炊きたてのご飯の匂いが気持ち悪く感じるとか?」

「酢の物は前から好きだし、ご飯も普通に美味しいぞ?」

「うーん、個人差があるものね。わたしの時はかなり気持ち悪かったのを覚えているかな」

「そうなのか?」


 智恵は苦笑した。


「まあ、でも初産はそうでも二回目は楽ってこともあるみたいだし、こればっかりはどうにも。気づかない人もいるぐらいだし」

「ふむ。他の病気でなければよいのだが……」

「そうねえ。婦人科の病気も気をつけないと怖いから」


 クリスは定期的に自衛隊病院で検査を受けているから病気などの心配はないのだが、それでもいつやってくるかわからないのが病気でもある。

 日頃から不摂生はしていないが、やはり漠然とした不安はある。


 前回の検査は先月の始め頃だったし、次回の検査は八月までない。


 車が駐車場に入る。


「さあ、着いたわよ」


 クリスは緊張した面持ちで車を降りた。



 ***



 久しぶりに大谷木町のファミリーレストランにやってきたのは、孝一と今後の計画を話し合うためでもあった。


 傍らでは会社のやり方は若いのに任せたとばかりにドリンクバーではしゃぐ老人二人――嗣郎と孝介が最初から門外漢を決めつけている。

 もっとも、問題があれば口を出す気はあるみたいだ。


 そんな二人よりも空気と化しているのは平太であった。

 午後に少し仕事をしたかと思えばいきなりファミレスに連れて来られて「なんか食うか」と言われる始末だ。ものの珍しさもあって冗談のつもりでチョコレートパフェと言ってみたら別に食べたくもないパフェがやってきてしまってひたすら口を動かしている。


 こう雨続きではろくに仕事もできないからと、今後のことを話し合うつもりで場所を変えてみたというのに、莞爾と孝一からしてみれば肩すかしもいいところだ。


 孝一が作成した会計関連の資料と、今後の事業計画その他について下半期の予定を話し合う。

 上半期ははっきり言えば赤字も赤字、大赤字である。


 だが、最初からそれは予想していたことであったし、そもそも夏野菜の最盛期が来ればいくらか取り返せる見込みだった。


「七月からはシシリアンルージュもまとまった量が出荷できるようになるし、八尾さんのところで加工に回してくれるそうだ」

「それだと小売単価よりも下がるからって悩んでいたのは忘れたのか?」

「まとまった売り上げにはなる。それにいずれ加工と販売も視野に入れるとしたら、そっちにベクトルを向けるのは悪くない」

「そういう考えがあるなら、先に言ってくれ」

「事業計画なら兄さんがぎっくり腰のときに智恵さんに渡しておいたけど?」

「……ああ、あれか。動くのも億劫でろくに目を通してなかった」


 孝一はぎっくり腰になったこともあって、治ってからは筋トレを始めたらしい。

 とはいえ、体力面では平太以下である。仕方がない。大卒から就職して以来デスクワークだったのだから。


 そもそも孝一は会計面でのスペシャリストであって、社内の人間は彼に農作業での役割なんてこれっぽっちも期待していないのであった。


 結局多少の不足分を農協から借りていることもあるが、その辺りのことは孝一に任せておけば安心できる。孝一にはキャリアもあるし、何より元金貸しもとい銀行マンである。重箱の隅をつつくような目で農協職員をしどろもどろにさせたのは莞爾の記憶にも新しい。

 別に問題はなかったのだが、孝一が指摘した箇所を農協職員が理解できていなかっただけだ。普通はそんなところ気にしないだろう、というものだから、余計に不憫でならない。


「もし早期に六次産業化を目指すなら、今のままでは資金繰りが難しいぞ」

「タマネギの件はうちからの手出しがないから安心していい」

「資料は見たが……まあ、それは置いておこう。少額だが、安定した収入源があるのは喜ばしい」


 研究用のタマネギの栽培については、委託を受けたという体裁であり、木野の方からロンダリングされて三山ファームヴィレッジに納金される。設備投資金とは別途であるとはいえ、少額ながら地味にありがたい。


 だが、それはそれとしても、新規立ち上げしたばかりの三山ファームヴィレッジにとって、目下の課題は販路と資金繰りである。


 販路は今のところ八尾が引き受けてくれるからいいとして、次に資金繰りが問題である。

 おまけに赤字であるから、下半期に向けた焦燥感もいや増すというものだ。


「頼むから、社員の給料のためにサラ金に走るようなことはしないでくれよ」

「誰がそんなことするか!」


 元銀行マンは色々と知っているのである。

 自転車操業の中小企業経営者が目先の給料に困ってサラ金を頼る事例は確かにある。

 おまけに言えば、百万二百万程度の資本金では大きな取引もできないので、そういった人たちは必死に事業計画を立てて銀行に行くのだ。言わずもがな孝一はその相談に乗って見通しが甘ければ無慈悲に「貸せません」と言うのが仕事だった。


 彼も好きでやっていたわけではないが、自分が断った経営者が首をくくったこともある。だが、孝一からしてみれば、縮小産業の経営者であったし、今のうちに技術や設備を大手他社に売って今の会社に固執しない方がいいと提案していたのだ。


 経営者からしてみれば無慈悲であったのかもしれない。

 だが、孝一だってその人の後ろにいる従業員やその家族たちのことまで視野に入っていないわけではないのだ。

 期待値が大きければ、多少の見通しの甘さは妥協できる。だが、各種業界は拡大と縮小が日常茶飯事である。それなりの技術はあっても市場が十年持たないと思えば、とてもじゃないが妥協なんてできやしない。他の道を模索してください、としか言いようがない。


 幸いにして、孝一の目から見て三山ファームヴィレッジはそれなりに期待ができる。


 農業という業界で見れば、根本的な衰退原因のひとつに高齢化がある。

 だが、こうして三十代の莞爾が社長をして、自分が経理を見て、平太が毎日ノウハウを学んでいく。その様子を嗣郎と孝介がしっかり監督してくれる。


 その状況だけを見ても、三山ファームヴィレッジの未来は明るいと思えるのだ。


 昨今、国は農業の六次産業化を推奨している。

 それまで生産だけしかやってこなかった農家が加工(二次産業)と販売(三次産業)をもやってしまおうと言うのだ。

(六次産業とは生産・加工・販売の各次産業を足した造語である)


 メリットとしては、農家が自ら販路を開拓できること、消費者のニーズをキャッチできることなど、様々ある。だが、その分デメリットもある。

 簡単に言ってしまうと、生産だけしていればよかったころに比べて、人材や設備、その他に必要な手続きなど、とにかく資金繰りが忙しく厳しくなるのだ。


 もちろん小規模でもやっていけないことはないが、規模が小さくなればなるほど、生産と加工にかかるコストが高くなる。


 金を持つ大規模農家であれば、それなりにやっていけるだろうとは思えるが、逆に言えば、小規模農家は資金繰りに困って淘汰されていく可能性も大いにある。


 だが、今後市場はさらに自由化が促進され、なおかつ他国から非常に安価な農産品が流入することを考えると、今後の成長戦略として六次産業化とは小規模農家にとってこそ生き残る手段のひとつとなり得るはずだ。


 とはいえ、それは所詮数字を見て、施策を通して想像した理想であって、実際にやるのとは大きく違う。

 それは孝一も強く感じているところだった。


「今度はうちのいちじくの出荷が始まるぞ?」

「んー? ああ、もうそんな時期か」


 由井家のいちじくは八月中旬頃から出荷可能だ。

 ちょうど夏野菜の最盛期と出荷時期が被るので、三山ファームヴィレッジとしては夏が繁忙期である。


「八尾さんところが古い樹木のやつだけ回してくれって言ってたっけ」

「初耳だぞ」

「ほとんど市場に出してただろ? でも植え付けからかなり経ったやつなら物珍しさもあるから価値がつくって」


 ワイナリーなどではぶどうの古木に価値がつくこともある。

 やはり味わいが変わるそうだ。


 孝介がようやく口を挟む。


「確かに古いのが二十本ばかしあるねえ」

「何年ものです?」

「三十年を超えたぐらいかなあ。もういつ枯れてもおかしくないといえばそうなんだけど、ちゃんと管理すれば案外枯れない」


 いちじくの寿命は果樹としては短い。

 主要な品目では盛果期が十五年目あたりだから、その短さが頷けるというものだ。


「うちのは割に長い品種だけど、まあ売り物にするならさっさと入れ替えた方がいいかな」


 それをしなかったのは孝介の手が回らなかったからでもある。


「味はどうなんです?」

「うーん、ちょっと癖が強くて甘みが薄いかな。生でそのまま食べるなら、五年目から十二、三年目ぐらいが美味しいよ。まあ、個人的な好みだけどねえ」

「味が違うなら、生以外の使い方があるでしょうし、とりあえず八尾さんところにサンプルだけ持って行ってみましょうか」

「売れるってんならそれでもいいねえ」


 実は孝一が中学に入学する年に植えたいちじくである。

 が、孝介はそれを言わなかった。なんだか恥ずかしかったのである。


「果樹の手入れは予定通りとして、出荷は野菜の繁忙期と被るんで、時間帯をずらしてやりましょう。野菜は市場じゃなくて八尾さんところで捌いてもらうんで、午後になっても間に合います」

「ああ、朝起きて日が暮れるまで仕事だね」


 からからと笑う孝介だったが、農家にとって繁忙期は当然の労働量である。むしろ日が暮れても仕事があることだってある。

 日の出と同時に仕事を始めて、日が暮れたら終わり。それでも夏場の日の出と日暮れは早くて遅い。


「お前、絶対倒れるなよ?」


 莞爾はチョコレートパフェを食べ終わった平太に釘を刺す。

 本人はどこ吹く風でスタミナ定食を頼もうとしていた。


「社長、おれ肉が食いたい。味付けが濃いやつ」

「別にいいけど、もうちょっと言い方どうにかした方がいいぞ」


 その隣で嗣郎が虚ろな瞳で天井を仰いでいた。

 つい先日病院に行ったら「さらに減塩してください」と言われたばかりである。

 本人は仕方がないが、付き合わされる平太は少し不憫であった。


「というか、今の時間に食って夕飯入るのか?」

「楽勝っしょ」

「若いっていいな」


 莞爾も二十歳前後の時は一日五食はないと足りなかったものだが、今はいくら身体を動かしているとはいっても、油ものを胃が受け付けなくなってきた。


 孝一が言った。


「四十過ぎたらもっと食えなくなるぞ。肉より魚になる」


 すると孝介が言った。


「還暦過ぎて七十過ぎたら肉も食えなくなる。魚より野菜になる」


 すると嗣郎が言った。


「タレをたっぷりつけた焼き肉が食べたいんじゃっ!」


 それは年齢のせいではなくて、ただ禁止されているから余計に食べたいだけである。



 ***



 夜。

 夕飯のあとで風呂に入って缶ビールをあけた。

 まだまだ外は雨が降っている。


 窓を打つ雨音に嫌気が差した。


「カンジ殿、カンジ殿」


 クリスが洗い物を終わらせて隣に座ったので肩を抱いた。


「少し話があるのだ……」

「話?」


 はて。何か変わったことがあっただろうか。

 莞爾は首を傾げて聞き返す。


「あっ、そういえば結婚式も九月だから、それのことか?」

「いや、そうではなくて、だな」

「前撮りの件なら来週って言ったよな?」

「そうだが、それではなくてだな」


 妙に不安げな視線で見つめられて、莞爾は居住まいを正した。


「で、話って?」

「う、うむ。その、なんだ。言いにくいのだが――」


 クリスは深呼吸をひとつして口を開いた。


「その……できた、みたい、なのだ」

「できたって……えっと、なにが?」


 クリスは頬を赤らめてお腹を撫でつつもう口を開く。


「その……カンジ殿の、子どもだ」

「……えっと、あー、その、えっと、うん。あのー、いや、そう、うん」


 しばらく頭が回らなくなって意味のない言葉が口から出てきたが、ようやく思考回路が動き出す。


「――マジか!」

「う、うむ……その、これから忙しくなるというのに、申し訳ないというか……」


 莞爾は馬鹿なことを言うなとばかりにクリスを力強く抱きしめた。


「ありがとう、クリス!」

「えっと、ありがとう?」


 ぽかんと首を傾げるクリスだったが、とにかく莞爾がいつも以上に喜んでいるのが伝わった。


「っと、あんまり無理しちゃダメだな。悪い!」

「むっ……ふふっ、これぐらいは大丈夫だぞ、カンジ殿」

「いや、でもお腹の子に障るというか、やっぱり……」

「カンジ殿」

「……ああ」


 莞爾はクリスの肩をつかんで身体を離したが、すぐにまた抱きしめた。

 今度はさっきよりももっと優しかった。


 鬱陶しいと思えた雨音が、なんだか神様の祝福のように聞こえてくるのだから、おかしなものだ。


「そ、それとだな。実はもう一つ話があるのだ」

「もう一つ?」


 まさか何かあったのだろうか。

 莞爾はいぶかしげな顔で尋ねた。

 するとクリスは首を横に振って非常に難しい顔をして言った。


「じ、実は、だな。その、トモエ殿も……」

「……できたのか」

「う、うむ」

「マジか……」


 孝一もやることはやっていたらしい。菜摘の弟か妹が生まれるようだ。

 そうなると智恵もクリスも仕事の頭数には入れられない。


 だが、そんなことは今はどうでもいい。

 まるで図ったように孝一から電話がかかってきた。


 莞爾は孝一の第一声を予想して、苦笑した。


 なんともまあ、めでたいことが続くのは嬉しいものだ。


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