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女騎士の不安と農家の受難

ちょいと長めです。

 人生には急な話というのが付き物だ。


 昨日まで友達だと思っていた奴が急に彼女ができたと付き合いが悪くなったり、近いうちに告白しようと思っていた女性社員が寿退社したり、日常茶飯事だ。


 さて、莞爾の場合はというと、別に突然というわけではないが、それでも急な話だなと思わずにはいられなかった。


 今朝方、クリスをどうにか(なだ)めすかして朝食を済ませ、出荷はできないまでも畑仕事はできるということで、二人で軽トラに乗り込み畑に向かった。野菜に病原菌が感染(うつ)るかもしれないと思ったが、それはもはや今更だと諦めることにした。


 最悪の場合は焼却処分だろう。もっとも野菜で焼却処分なんて莞爾も大げさだと思っているが、ないとは言い切れないので不安が募る。


 クリスは雑草を取るくらいならできると言うので、手袋を渡し、細かいところの草取りを手伝ってもらっている最中に件の人物から携帯に着信があった。


「穂奈美か。今朝は早いな」


 朝食を済ませたとは言っても、まだ午前八時だった。

 穂奈美の声はわずかに(かす)れていた。寝ていないのかもしれないと思った。


『莞爾くん。昨日の話ね、悪いんだけど、前倒しすることになったわ』


 電話からは疲れたようなため息が聞こえてくる。


「前倒しって……どういうことだ?」

『引き取りに行くって言ったでしょ?』

「ああ。それが早まったのか?」

『そういうこと。放置しておくなんてあり得ないって怒られちゃったわ』


 言わんとすることは莞爾にも理解できた。

 国籍もなければ、どんな思想信条を持った人間かもわからない。その上未知の病原体を持っている可能性すらある。


 行政側としてはクリスの人権など考慮している暇はないのだろう。


「でも、よく信じてもらえたな。クリスさんが異世界人だなんて」

『五分五分ってところかしらね。実際に見ないと信じられないって人もいるし、わたしを信用してくれる人もいる。見た目は普通の欧米人だし。まあ、まずは調べてみてそれからじゃないと話は進まないもの』

「それもそうか。で、いつ来る? 俺もお前に言われたから今日は出荷もやめてる。二、三日はできないってことにしてるけど、さすがに一週間も続いたら俺だって信用問題になるぞ」


 野菜を出荷しない野菜農家なんてもはやただのニートである。さすがに仲買の八尾であっても怒るだろう。せめて「できた分だけでいいから納品してくれ」という農家に優しい仲買であるから莞爾も安心できるのであって、今でさえ少量の出荷量がゼロになると言われればさすがに黙ってはいられないはずだ。


『そう。それは大変ね。でも安心して。今日のうちに引き取りに行くから。到着は正午ぐらいかしらね。公安も来るけどびっくりしないでね』

「……なんか物騒だな、おい」


『パンデミックが起きたら? クリスちゃんがテロリストだったら? 為政者っていうのは最悪の状況を考えて行動するものなのよ。まあ、そうは言ってもさすがに防疫服着て行くと目立つから、限定的な人間だけよ。公安も来るけど、大人しくしていれば車から出てくることはないわ』


「なるほどねえ……いやはや、お早い対応だな。正直、驚いた。てっきりお上に話が通るまでは時間がかかると思っていたよ」

『官僚だからっていつもお役所仕事ってわけじゃないのよ。なんにだって優先順位ってものがあるんだから』


 ふと視線をクリスに向けると、雑草を引き抜いてカゴにいれていたが、茄子の葉についた虫を見つけてちぎり捨てていた。さすがは異世界人である。現代の都会人みたいに虫ごときで喚き散らさない。


『……どうしたの? 急に黙り込んじゃって』

「いや、なんだ。見てはいけないものを見たような気がしただけだ。気にすんな」


 電話の向こうでは穂奈美が首を傾げている様子が想像できた。彼女は気を取り直して言った。


『まあ、そういうことだから、もちろん莞爾くんもついてきてもらうわね』

「おい、聞いてないぞ」

『今朝一番に決まったんだもの。仕方ないじゃない。二人には近くの自衛隊病院に行ってもらうわ。まずはそこで一週間検査入院よ。ついでに言うけど、事情聴取もあるから』

「マジか……」

『未知の病原体がいるかもしれないのよ? 一週間でも短いぐらいだわ。それにきちんと損害はこっちで補償するから、その点は安心してちょうだい』

「いや、それは有難いけど、そういう問題じゃない」


 一人で全て賄っているとこういうときに困ってしまう。畑が雑草だらけになるぐらいならまだいい。けれども天候によっては作業内容も変わるし、獣害もあるかもしれない。


『だから、そういうのは全部引っ括めてこっちが面倒見るって言ってるのよ。三山村にはしばらく防疫のために検問を設置するし、莞爾くんの家や私有地には監視もつける。宮崎の一件があってから農林水産省のこういう時のマニュアルも細かくなってるのよ。いえ、正確には神経質になってるって言うべきかしら。この前のデング熱で厚生労働省も過敏ね。ああ、それと会った人がいるなら教えて。莞爾くんほどではないけど、監視しないといけないから』


 莞爾は頭を抱えた。たかが一人の異世界人が来るだけでここまで大ごとになるとは思ってなかった。


 莞爾は仲買の八尾に心の中で謝りながら彼のことを教えた。


『他にはいない?』

「いないいない」


 自分で言いながら少し悲しくなった。何が楽しくて仲買の禿げたオヤジにしか会っていないのか、と。


 穂奈美に相談していたせいもあるが、それでも普段通りの生活だった。よほど自分の世界が狭くなったと痛感した。


『そう。じゃあ、詳しいことは会ってからにしましょう。それじゃあね』


 電話を切って、思わずタバコに手を伸ばす。


 ぷかぷかと煙を浮かべて、大きなため息をついた。大げさな、と笑えないところが怖いのだ。能天気に考えていた自分が少し情けない。最初から可能性を考慮して八尾のところに行くべきではなかったと反省するが、今更だ。


 せいぜい食中毒検査や防疫対策を強化するぐらいだと思っていたのだ。


 対応が早くて助かるとはいえ、自分がその手間を増やしているのだから世話がない。申し訳なく思うのは人として当然だろう。


「むぅ、サボってはダメだぞ、カンジ殿」

「あー、うん。そうなんだけどなあ」

「うん? どうかしたのか? さきほども見慣れぬ機械を耳に当てて独り言を喋っていたが……大丈夫か? 頭の病気か?」

「いや、そりゃあクリスさんは携帯とか知らないだろうけど、さすがに言い過ぎだ」


 ちょっと休憩にしようと言って、莞爾は軽トラに戻って水筒を持って戻った。

 プラスチックケースを椅子がわりに座り、まだ温かいお茶をクリスに渡した。


 クリスは莞爾がタバコを吸っているのに嫌な顔をしなかった。それどころかくんくんと匂いを嗅いで「あまり上物ではないな」と苦笑していた。


「クリスさん。ちょっと事情が変わった」

「むぅ?」


 水筒のコップを両手で持ってふうふうと息をふきかけて冷ましている様子が妙に幼く見えた。


「昨日、穂奈美が言ってただろ。二、三日したら迎えに来るって」

「ああ、聞いているぞ。必要なのだろう? 正直、転移先であるこの地をあまり離れたくはないが、ニホンという国にいるのだから、そこはきちんと従うつもりだ」

「そうか……で、だ。その件なんだが、今日になった」

「……はて?」


 意味がわからない、と首を傾げるクリスである。


「まあ、この世界にはない病原体をクリスさんが持っている可能性もあるし、その辺りを早めに対処したんだろうな」

「病原体?」

「んー、なんと言えばいいかな。風邪は他人に感染するだろ? そういう感染する病気の元はウイルスとか菌とか、目に見えない小さな生物のせいなんだわ」

「初耳だな……だが、なるほどな。とても信じられないが理解はできる。風邪をひくのは風の妖精を吸い込んで肺の()でいたずらをされているからだ、というおとぎ話があってな。息を吐くと妖精は出て行くが、近くにいた人がまた吸い込んで風邪をひくのだ」


 なるほど、と莞爾は感心した。異世界でもそういうおとぎ話を通して衛生観念を養っていたようだ。よくできたものである。


「それで、目に見えないほど小さいから、調べるのも大変なんだ。もしかしたらクリスさんには影響がなくてもこの世界の人には悪影響があるかもしれない。知らない場所に行ったら病気になったりするだろ?」

「むぅ。なるほど。私はさながら冒険家リカルドと言ったところか」


 これもまたおとぎ話であった。その昔海図にも載っていない島に上陸した冒険家リカルド一行は島を探索し、原住民と仲良くなった。けれども、数日が過ぎて船乗りたちが次々と死に、残ったリカルドたちは怖くなって大陸に逃げたが、今度は大陸にも同じように死ぬ人が増え、結果病人をまとめて焼き殺す羽目になった——というおとぎ話だった。


 おとぎ話とは言うがきちんとモデルもあるようだ。医療設備の整わない状況では、感染力の高い致死性のウイルスならば隔離(かくり)するよりもまとめて“殺処分”するのが——倫理的には決して許されないが、一番効率的であるのは事実だ。おそらくは病原体に対抗する手段が乏しかったのであろう。


 文化・文明が違うだけで、歴史上の前例は類似するものらしい。

 莞爾は漠然(ばくぜん)とそういうところも穂奈美や行政側は聞きたいのだろうと思った。文化人類学において大きく寄与することは明白だ。


「理解してもらえたならよかった。そういうわけだから、正午ぐらいにクリスさんを迎えに来るはずだ」

「そうか……カンジ殿ともお別れ、というわけだな」

「そうなるかな。まあ、俺も検査入院しなくちゃいけなくなったから、もしかしたら会う機会があるかもな」

「本当か!?」


 莞爾はどうしてこんなに懐かれたんだと苦笑した。


「期待はすんなよ。もしかしたら、だからな」

「そうか……」


 今度は目に見えて落胆してしまうクリスである。莞爾は頭をかいた。


「これは俺の推測だけど、たぶん俺は検査入院したあと、しばらくしたら帰れるはずだ。クリスさんは検査のあと拘束——っていっても時間を奪われるって言えばいいかな。しばらくは穂奈美から協力を“依頼”されるはずだ。たぶん都内のホテルかなんかに宿をとって、そこから研究施設に通うってことになると思う」

「そう聞くとなんだか恐ろしいことに聞こえるな」

「いや、さすがに人体実験なんて恐ろしいことはしないはずだ。DNA検査とか、あと魔法の実験とか、クリスさんの故郷の話を聞いたりだとか、そういう感じだと思う」


 あながち推測は間違っていないだろうと思われた。

 莞爾は行政側の人間でもないし、公安に縁があるわけでもない。


 権力を持った支配者側がその裏側で国民の生活を守っているというのも理解できるし、最悪の場合、クリスを“処分”することだってあるかもしれない。


 しかし、それは今考えても仕方ないことだし、可能性としては低いだろうと思った。異世界人が地球の、それも日本にいるなんてことは未来永劫あり得ないかもしれない。つまりはクリスは貴重な研究サンプルでもあるのだ。少々の危険には目を瞑るだろう。


 ましてや治癒魔法という存在を聞かされては、厚生労働省も黙っていないだろう。彼女には“可能性”が多すぎる。


 何はともあれ、おそらく倫理的に許されないところには手を出さないと期待はできる。


「もしかしたら本当の意味での自由は一生得られない可能性だってある」


 口に出して、相手が十八歳の女の子なのだと思い出すが、莞爾は言葉を続けた。


「——でも、しばらくしたら普通に市井(しせい)で生活できると思う。調査的な仕事が入ることもあるだろうし、クリスさんの場合は事情が特殊だから衣食住は国がどうにかしてくれると思うぞ。まあ、無責任なこと言ってるかもしれないけどな」


 クリスは困ったように苦笑した。しかし、口を開く余裕はなかった。


「もしそうなったら、たまにはうちに遊びに来いよ。美味いもん食わせてやるぜ?」


 莞爾は努めて笑顔を保った。彼女の心情を(おもんばか)ることができるほどに人間ができていないことは自覚している。だから、楽観論で誤魔化すしかなかった。


 クリスはお茶を啜って言った。


「自由、か。私は別に自由などどうでもいいさ。私は騎士だ。初めてこの身を剣として、騎士道に殉ずと決めたときから、私は死ぬまで騎士でいることを誓ったのだ。たとえ誰かの妻になろうとも心の在り方、行動の規範、職分が変わろうとも生き方は騎士としてありたいと。不安はないかと言われれば、確かに不安ではある。しかし、もうここがニホンであるということは十二分に理解したし、私の価値観で理解できることが少ないことも、(つちか)った知識が何の役に立たないことも理解した。だが——」


 クリスは思う。

 このニホンで自分が騎士道に生きることはきっとできない。

 誰かを守るために、時に剣となり、時に盾となることは難しいだろう。


 故郷の民を思っていたからこそ、心に迷いはなかった。騎士になった当初はその在り方に自己陶酔(とうすい)して偉そうに振る舞ったこともある。今では傲慢(ごうまん)だったと反省しているが、初心は忘れていない。


 けれども、見ず知らずのニホンの民のために騎士道を貫くなどできるはずもないし、莞爾から話を聞けば聞くほど、この世界がエウリーデ王国とはかけ離れたものだと感じられた。


「私が恐れているのは、私の生き方が否定されることなのだ」


 クリスは呟くように言った。

 きっと莞爾にはわからないだろう。クリスは詮なきことだと自嘲気味に笑ったが、莞爾がため息を漏らしたのを聞いて顔を上げた。


「クリスさんは堅物なんだなあ」

「……悪いか。私は騎士だ。カンジ殿が恩人とはいえ、さすがに愚弄(ぐろう)されて黙ってはいられないぞ」


 彼女は思わず視線を鋭くした。けれども、莞爾はどこ吹く風とばかりにタバコを落として靴底で踏み消した。


「誰だって怖いさ。俺だって今の生き方を否定されたら怒る。人には人の人生ってもんがあるだろ。今に至る道ってもんがある。誰かの生き方を否定するっていうのは、その人の通ってきた道を否定するってことだ。そうだろ?」


 莞爾にだって思うところはある。

 かつて一流企業に勤めていたからこそ悔しい思いをしたことがある。


「農家なんて学歴のないやつがする仕事だ。せっかくいい会社に入ったのにそれを捨てて農家になるなんて馬鹿のすることだ。そんなこといくらでも言われたさ。けどな。俺は俺の生き方を誰に否定されようが、俺は否定しない。農家で何が悪いってんだ。お前らの飯を誰が作ってんだって話だよ。馬鹿にするなら飯食うな、馬鹿はお前らだ、ちったあ敬えって話だよ、ほんと」


 口に出せば、当時のことを思い出してしまい、余計に愚痴っぽくなってしまうのは仕方ないことだった。

 彼にだって今に至るストーリーがあるのだから。何の苦労もせず辛酸(しんさん)も舐めず今を生きているわけではないのだから。


「まあ、話は逸れたけど、つまりだ。感傷的になるのは、らしくないって言いたかったんだよ」


 クリスはしばらく呆けていた。この男は——と開いた口が塞がらなかった。


 会ってまだ三日目だ。自分の何が彼にそこまでのことを言わせたのかはわからなかった。


 けれども、赤の他人であるはずの莞爾が自分のために怒っているのは、なぜだか心が動いた。嬉しいとか悲しいとか、そんな言葉ではきちんと説明ができないけれど、なんだかおかしくなった。


 穂奈美はクリスの莞爾に対する感情を「戸惑い」だと言ったが、それは違うと今なら断言できた。彼は誰かに似ているのだ。いつも厳しいくせに時折娘を愛おしむように道を指し示してくれる誰かに。


「……なに、笑ってんだよ」


 莞爾は柄にもないことを言ってしまったと、気恥ずかしそうに目を逸らした。少々臭い台詞だったかと。


「ふふっ、ふっ、はっ、はははっ、あー、いや、なんだ。その……ふふっ。まったく、貴殿には敵わないな」


 その時の彼女の笑顔を莞爾はきっと忘れられないと思った。


「カンジ殿は本当にデリカシーのない男なのだな。ふふっ。普通は慰めるところだぞ、はははっ」

「よく言われるよ、ったく」


 悩み苦しんでいる人間に、優しい言葉を吐けばいいというものではない。


 莞爾も経験がある。


 自分が間違っていたのではないかと思ったこともあった。自らを否定した奴らが正しかったのではないかと悩んだこともある。


 けれども、そんなときに弱音を吐いて良い方向に向かったことなんて一度もない。むしろ悔しさに奥歯を噛み締めて必死に耐えていたときの方がずっといい結果を残してきた。


 そんなことを考えると、ふと脳裏に今は亡き父親の姿が浮かんだ。ぶっきら棒で畑仕事以外はとんとダメな男だった。けれどもいつだって一直線ないい男だった。


——不安ってのは厄介だ。近づいたら呑み込まれ、遠ざかれば絶対に失敗する。でも、見えなくなるまで遠ざかって突っ走らなきゃならねえこともあるから困るよなあ。


 寡黙(かもく)な父親がいつか言った言葉だ。いつだったかは莞爾も覚えていない。けれども、なぜだか言葉だけはずっと胸の中に残っている。その時の似合わない雄弁さが余計に印象的だったのだ。


 全くもってその通りだ、と内心で呟いて、莞爾は微笑んだ。


 クリスが吹っ切れたように笑っているのが、どこか嬉しかった。


 彼もまた優しさの似合わない男かもしれない。



***



 正午過ぎに彼らは来た。


 昼食はせめて豪華にしてやろうかと莞爾がクリスに尋ねても、彼女は「今度またとっておきを食わせてくれるのだろう?」と不敵に笑うものだから、彼もまた「それもそうだな」と言った。


 結局適当な残り物で昼食を済ませたのが正午ぎりぎりで、貴重品を整理しているうちに穂奈美たちが来た。

 黒塗りのセダンに、ハイエースが一台だった。


「よう、昨日ぶりだな」


 穂奈美は見るからに疲れている様子だったが、今はそれどころではないのだろう。目元がむくんでいた。車の中で仮眠を取っていたのかもしれない。


「ええ、クリスちゃんは?」

「兜の異言語翻訳だったか? あれを外してる」

「ああ、なるほど。確か取り外せるんだったわね」


 穂奈美は納得して手を打った。あたりを見回してコンクリートジャングルではない、日本の原風景に目を細めた。


「それにしても……ここ遠すぎない?」

「霞ヶ関からは確かに遠いなあ」

「おかげで睡眠時間は確保できたけど」


 やはり推測は当たっていたようだ。しかし、穂奈美はまだまだ眠たそうで欠伸(あくび)を噛み殺していた。


「じゃあ、先にすることしちゃいましょうか」


 そう言って彼女はスーツの裏ポケットから三山村周辺の地図を取り出した。


 マーカーを取り出して彼に渡して言う。


「はい。じゃあ、莞爾くんがクリスちゃんと出会ってから今までの行動範囲をマーカーで書いて」

「……おう」


 私有地である山の一部と、畑の全てが範囲内だった。


「案外狭いわね」

「いや、あとは大谷木町も行った。けど車だったし、八尾さんとこだけだ」

「なるほどね。ルートは?」

「県道31号線で真っ直ぐだな」

「了解っと。ありがと、助かるわ」


 実際、事前に拡散範囲を絞れるのはかなり有益だった。疫病が発生した後ではこうはいかない。後手後手になるのは致し方ないのである。


 穂奈美は地図をしまいポケットからタバコを取り出した。女性用の細いタバコだった。


「怒らないで聞いてくれる?」

「……予想はついてる。仕方ない。気にすんな」

「そう……悪いわね」


 損害分を補填すると言ってくれているのだ。怒ったところで国の決定に逆らう方が馬鹿らしい現状である。

 穂奈美は長く煙を吐いて尋ねた。


「出会わなければよかった、とか思ってる?」

「どうだかなあ……まあそれは思わないでもないかな。でも、会ってよかったとも思う。もしうちじゃなかったら、街中だったら……まあこんなに簡単にはいかないだろ」

「そうね。こんなに“簡単”にはいかないわね」


 疫病の怖さは病状ではない。気付かないうちに拡散することが一番怖いのだ。

 不特定多数が集まるような街中にもし転移していたら。そう考えるだけで後始末のことなど考えたくもなくなる。


「まあ、検査で問題がなければ気にしなくてよくなるんだけどね」

「ああ、それを願ってるよ」

「でも、莞爾くんのは無理よ? こういうのは後手に回ることの方が多いし、先手を打てるなんて本当に珍しいんだから」

「わかってるさ。でも、できたら焼却処分だけはやめて欲しいかな……」

「焼却処分まではさすがにしないと思うけど……でも、天秤はもう傾いたまま戻らないの」


 似合わない言い回しだ、と莞爾は苦笑した。自分もタバコを取り出して紫煙を燻らせた。彼女はもっと現実的な言葉で理路整然と語る女だと思っていた。学生の頃とは変わったのだと感じた。


「ただ、野菜っていうのがね。家畜なら蔓延(まんえん)してからじゃ遅いってなるけど、実際野菜に病原体が感染するって考えられないのよね」

「野菜だって病気になるし、カビでやられる。結構デリケートなんだぞ。種蒔けば勝手にできるってわけじゃないんだからな。未知の病原体だと仮定したらあり得ない話でもないさ。それに野菜だって食中毒なんかの感染経路になるだろ」

「言われてみれば確かにそうね。まあ結果が出るまで出荷停止は確実ね。たぶん一月ぐらいは様子見でしょうし」


 一月も放置していれば時期を若干ずらして栽培している夏野菜も、収穫はできるかもしれないが味は落ちるだろう。生育途中のものはまだマシだが、それでも雑草一本も抜かずに検査入院の間放置し続けるのは不安だ。


 一度病気にかかれば農薬を散布しても再発する可能性が高まるし、何より様子を見れないのが怖い。


 莞爾は頭の中で作付けしているものを浮かべて思案した。茄子はもう終わりかけ。トマトはぎりぎり来月の頭まで。ピーマンはもう終わり。オクラもダメ。


 結果的に全滅である。大した売り上げではないが、そうは言っても結構な打撃である。上手くいけばあと半月は収穫が続けられたかもしれないので、余計に残念だった。


「八尾さんって人には連絡してるの?」

「とりあえず一週間検査入院するとは言った。その後のことはまだ」

「そう」


 莞爾は自分の商売が今後上手くいかないことを予期して憂鬱な気分になった。当然だ。一週間も納品できず、さらに防疫のために焼却処分ともなれば、今後の収入は絶たれる。いくら損害を補填(ほてん)すると言われても、失った信用を取り戻すのはとても難しい。


 そして今回の事態がマスメディアの知るところとなれば、言わずもがな風評被害も出てくるのは必然だ。

 元の生産体制を構築するよりも、風評被害で売れなくなる方が怖かった。


「安心して、とは軽々しく言えないけれど、八尾さんって人にはきちんと言っておくわ」

「だったらおっさんの抱えてる借金帳消しにしてやれよ。事業立ち上げでまだ一千万は残ってるぞ、たぶん」

「金で済むなら楽な話ね、ほんと。いっそクリスちゃんが密入国者の方がわたしも助かるんだけど」


 実際問題、仲買——個人経営の農作物卸問屋(おろしどんや)は自転車操業が当たり前なところも多い。黒字倒産など珍しくもない。それゆえに設備を新たに作るには借金をするしかない。それが嫌なら右から左に納品書を流すような商売をするしかない。それも一種の商売のやり方である。


 けれども、八尾の場合は直送のための冷蔵倉庫や車両も抱えているので相応に借金があるだろう。


 何はともあれ、秘密裏に進めば進むほど、莞爾としては再起もしやすいのが実情だ。金で済めば楽な話、というのはそういうことだ。


 やれ秘密主義だなんだと言われても、実際に全ての情報を晒して良い結果は出てこないだろう。


 そんなことをすれば、胡散臭い団体が出てきてみっともなく喚き散らすだけで、大抵ろくはことはない。


 日本の食品は危ないだとかなんだと裏付けもないのに叫んで良いことをしたような気になるのだ。


 莞爾からすれば、気持ちはわからなくもないが、一農家として悲しい限りである。農家だって作った作物が売れなきゃ来年の種も買えないことだってあり得るのである。全く関係ない産地からすれば、とばっちりもいいところである。


「はあ……まあ……うん。もう何言ったって仕方ないしな」


 莞爾は先ほどまで渦巻いていた思考を紫煙と一緒に吐き捨てた。考えても仕方がない。不安に思うだけ無駄である。


 今朝偉そうにクリスに弱音を吐くなと言ったばかりなのだ。自分がこれでは世話がない。もっとも、彼はまだ弱音を吐いたわけではなかったが、このままではボロが出ると思ったのだ。


 タバコを吸い終わる頃合いでクリスが出てきた。


 両手で甲冑と剣を持っていた。身につけていないだけでずいぶんと重たそうだ。


「昨日ぶりね、クリスちゃん」

「むぅ、急過ぎるぞ、ホナミ殿」

「ごめんなさいね。でも仕方なかったのよ」


 莞爾からもクリスには一通りの説明をしているので彼女には異論がなかった。


 甲冑や剣は国が引き取ることになった。滅菌処理をしたあとで甲冑だけは返却してくれるそうだが、剣は無理なようだ。その辺りは銃刀法と関わってくるし、日本刀ではないので色々と面倒な側面がある。


「で、それが異言語翻訳の魔法道具ってやつね?」

「うむ。意外と小さいだろう?」

「うーん。少なくともスマホよりは小さいわね」

「すまほ?」


 穂奈美はまた今度教えてあげると言って切り上げた。

 クリスはペンダントにした魔法道具——どこからどうみてもただのプレートに宝石がついただけに見えるそれを服の中に入れた。


 一緒にハイエースに乗り込んで、指定された座席に座る。クリスは軽トラの前例があるのでシートベルトをきっちりと締めた。


 莞爾は不満こそ漏らさなかったがそれでも憂鬱な表情を浮かべていた。けれども、穂奈美の一言で顔を引き締めた。


「検査入院する羽目になったのは莞爾くんだけじゃないのよ」


 この場にいる全員が、その対象者だった。

シリアスモードはできるだけ一話に収めたかったのです。

次はまた雰囲気戻ると思います。



16.11/21、修正。

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