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章末 見えない何か

大変ながらくお待たせいたしました。

 八尾の反応は落ち着いているように見えたが、実際には動転していた。


 莞爾は平太の紹介も兼ねて大谷木町の八尾のもとにタマネギの子球のサンプルを持参した。


 とりあえずアルミホイルで包んでグリルで焼くだけという調理法で食べてもらったところだ。


 八尾は表情を変えずに咀嚼し、塩をかけてみたり、オリーブオイルをかけてみたり、はたまたたっぷりの鰹節をかけて上から醤油を垂らしてみたり。

 そうして色んな食べ方をした上で莞爾の前に黙って契約書を出したのであった。


「は……」

「ひとまず百キロ。名前は何にしようか。これを市場に出すなんてもったいない。ぜひうちで専売したい。できればサンプルが欲しい。二十セットあれば本当に美味い野菜を使っているレストランや料亭に紹介できるかな」


 とんとん拍子どころかすっ飛んでいる。

 莞爾はため息を禁じ得なかった。横でおとなしくしていた平太もいきなり飛び出した契約書に驚いている。


 そもそも、契約書がこんな段階で出てくる方がおかしいのだ。

 卸が農家にあれを作れこれを作れと頼んで作ってもらい、成果物を買うことはよくある話だが、それでも最初から契約書なんて出てこない。

 まずは口約束だ。

 それでも信頼が基本の日本であるから成立しているのだが。


「八尾さん、こいつは今のところ三十キロあるかないかってところですよ。在庫がない」

「じゃあ、作ってくれ。タマネギは品種ごとに旬が違うけども、秋から北海道産、年明けから新タマネギで産地は変わるけど五月ぐらいまでは続くだろう? これなら五月から六月までの新しい旬が作れると思わないかい?」」

「……本気ですか?」

「グラム単価四百、一個当たり二百ちょっと。果物ばりの高単価だね。小売価格はそれくらいでいこう。だからまあ卸値はもうちょっと下がるけど、初年度はうちが勉強させてもらうよ」


 その言葉に、莞爾は脳内で算盤を弾く。

 もっとも、計算しているのは金勘定ではなく農地の割当だった。

 その一方で平太は隣で金勘定をしていた。

 来年二百キロだとグラム単価四百で目減りするとしてもいくらになるのか。


「軌道に乗ればトン単位で作って全国規模で商売ができる。ネット販売もいいけどね」

「八尾さん、そりゃあ夢を見すぎでしょう」


 ところが莞爾の苦言を八尾は笑って受け流す。


「すぐにって話じゃないさ。いいかい、佐伯くん。僕はね、これでも全国各地の野菜を食べてきた。美味しい野菜には適正価格を、というのが僕の信条だ。決して大手小売業のように買い叩くなんて農家を潰すような真似はしたくない。僕には仲卸としての矜恃がある」


 八尾はその昔、小売業の青果部門でバイヤーをしていた経歴を持つ。全国各地で美味い野菜を少しでも安く買うために奔走した。

 そうして会社での実績で自信を持って独立した。


 しかし、会社の看板があることと、新規企業とでは全く違う。

 八尾の事業は何度も倒産の危機に遭い、そのたびに不屈の精神で耐え忍んで来たのだ。


 最初は仕事がなかった。ようやく仕事が増えたと思ったら黒字なのに支払う金がなかった。なんとか金の工面をしたら今度は生活するための金がなくなって消費者金融に走ったこともある。

 にっちもさっちもいかずにもうやめようと思ったことは一度や二度ではない。

 それでも八尾は自分の経験と舌に自信があった。

 良い物を見つけて買う人さえ見つければ、あとはどうとでもなる――楽観的だが、やってきたことは決して楽観的ではなかった。


「佐伯くん。本当に良いものは、本当に価値があるものは、決して廃れないんだ。価値がわかる人は絶対にいる。その人を見つけられるかどうかなんだよ」


 仲卸を始めた当初、八尾は小売業への仲卸を主軸にしていたが、それでは百キロの野菜を売って数百円にもならないということがよくあった。

 それでも今があるのは、そうした苦労が確実に自分自身の力になったからだ。意味のない苦労、無駄骨だったことなんて八尾はないと信じている。


「こいつは売れる。それは僕が保証するよ」


 八尾は自信満々だった。

 けれども莞爾の頭の中では現在の作付計画とのバランスが左右にぐらぐらと揺れていた。


 今のままだと来春に二百キロというのはできない話ではない。

 農地も足りないわけではない。

 今回の子球からまた種を取れば心許ないがなんとかならないわけでもないだろう。


 だが、踏み切れないのはそんなことが理由ではなかった。

 果たしてこの子球が次世代でもこの味を引き継いでいるか。それがわからない。

 やはり、八尾に相談したのは時期尚早だったかと頭を悩ませた。


「八尾さん、少し考えさせてくださいよ。こちらももう俺一人じゃないですし、みんなと相談したい」

「構わないよ。そちらが決まればうちはすぐに買い手を募るからね」


 八尾の顔は楽しそうな商売人の顔をしていた。



 ***



 大谷木町から三山村に戻ったところで、平太は莞爾に尋ねた。


「やるならやろうぜ、社長」


 簡単に言ってくれる、と莞爾はため息を漏らした。

 しかし、平太がそう言うのも仕方がない。彼はクリスの身の上を知らないのだから。


 平太が帰り、莞爾は雲行きの怪しい空を眺めながら縁側でタバコを吹かしていた。


「……どうかしたのか?」


 クリスが隣に座る。彼女は冷たいお茶を莞爾に手渡した。


「この前食ったタマネギあるだろ?」

「ああ、あれは美味かったな。ヤオ殿に持って行ったのだろう?」

「そうそう。そんで、作ってくれたら買うって話になったんだけど……」

「よかったではないか」

「そうだよなあ……」


 莞爾は例のタマネギがクリスの魔法によって突然変異したものだろうという推測を話した。

 事の経緯を思い起こすと、クリスとしてもなんだかこそばゆい思いがする。


「思えば、あれがあったおかげで、私はカンジ殿と結ばれたのだな」

「まあ、あの頃はクリスも失敗したと思っていたんだろ?」


 災い転じて福となしたかどうかはわからないが、どうやら今は岐路であるらしい。

 クリスは言う。


「そう言えば、カンジ殿は勘違いしているようだが、私は別に魔法と呼べるほどの魔法は使っていないぞ」

「ん? どういうことだ?」

「あれは(まじな)いのレベルだな。祈りを込めて魔力を充てた……まあ、それだけだ。初歩中の初歩と言えば、まあ魔法にあたるかもしれぬが」


 何がどう違うのかは莞爾にわからないことだが、クリスが違うというのならば違うのだろう。

 そういえば、と思い出す。


「二十日大根も美味かったよな」

「元来、祈りとはそういうものだぞ。願いを口に出して言うことで、それがやがて本当になることもある。まあ、例のタマネギに限って言えば、魔力自体が変質するわけではないし、同じようにすれば同じ結果にはなるだろうな」


 一種の言霊のようなものなのだろうか。それとも母親の隠し味のようなものなのか。

 クリスは続けた。


「大事な人が戦場に赴けば、無事に帰って来て欲しいと願う。大事な我が子があれば、無事に育って欲しいと願う。人の願いは千差万別だな」

「……そう、だな」

「それでも、自分のことはうまくいかないのだから面白い。きっと、自分がどうなりたいのかを自分でもわかっていないから、思いが固まっていないのだろう」

「そんなもんか」


 クリスは苦笑して頷いた。


「自分以外のことを大切に思う願いは、それだけで魔法に匹敵する力だ――とは、騎士学校時代の寮母が教えてくれたことだったかな。説教くさいと思っていたが、今ならなるほどと思うことが多いものだ」

「すると、俺がクリスを幸せにしたいって気持ちも、魔法なわけだ」

「むっ、いきなりなんだ、恥ずかしいではないか」


 慣れたとは思っていても、不意打ちを食らえば恥ずかしいものらしい。

 クリスは少しだけ顔を赤らめた。


「なあ、クリス」

「ん……」


 莞爾はクリスの手を取った。

 灰皿にもみ消したタバコの火は消しきれなかったようだった。

 微かに煙が糸を引く。まるで誰かの心細さのように、小さな火種はぽつりと消えた。


「むふっ、なんだその顔は」


 クリスはくすくすと笑った。

 久しぶりにゆったりと二人で過ごす時間だった。


「カンジ殿も、中々かわいいところがあるのだな」

「かわいい?」

「ああ、かわいいぞ。不安そうな顔をするなど、らしくない……だが、まあかわいく見えるものだな」


 釈然としない莞爾だったが、クリスは彼の手をぎゅっと握って言う。


「私にできることなら何でもする。私たちは夫婦なのだ。夫婦とは助け合うものではないか」


 まあ、魔法が初めて役に立って嬉しいのは否定しないが――クリスはそう言って肩を震わせた。


 莞爾は「そうだな」と頷いて軽く笑った。

 やらなければならないことが多くある。

 もしものことを考えてもきりがない。


「どんなに大きな商会も駆け出しの行商だったころがある。どんなに優れた職人でも見習いだったころがある。どんなに名高い偉人でも赤ん坊だったころがある。私は幸せものだな」


 前後の文脈がわからずに、莞爾は首を傾げる。けれども、クリスは笑うだけで答えてはくれなかった。けれども、思うところがあったのか一つだけ言った。


「一人で成功できるわけではなかろうよ。一緒に歩み、支えてくれる人が傍にいるものだ」


 ああ、なるほど――莞爾はようやく納得して笑う。

 こうして自分を支えてくれる、そのことに幸せを感じてくれるなんて、どれほどいい女なんだ、と莞爾は痛感した。

 今も感じる彼女の体温を、この手を、決して離したくはない。

 彼女の思いに応えられるだけのことをしているだろうか。

 そんな漢でいられるだろうか。


 不安はある。けれども、今更だ。

 もう夫婦なのだ。式こそ挙げていないが、秋には挙式する手はずになっている。


 おかしなものだ、と思わなくもない。

 結婚とは安定を求めてするものではないか、とは少々旧いのかもしれないが、莞爾としてはそれが普通のようにも思える。


「そういえば、嗣郎さんも言ってたっけ」


 首を傾げるクリスに、莞爾は笑って「なんでもない」と流した。


 ふと、雨が降り始めたことに気づいた。

 空を見上げれば雲間から太陽が顔を出している。


「狐の嫁入りか」

「なんだそれは」


 クリスと一緒に洗濯物を取り込んだ。

 きちんと乾いていたようで、濡れる前に取り込めて幸いだった。


「晴れてるのに雨だと、なんだか化かされたような気になるだろう? だから狐の嫁入り」


 諸説ある。

 クリスは適当に頷いた。


「まっ、騙されたと思って私にもっと頼ってよいのだぞ。夫婦なのだからな」

「女房に騙されるってのもどうなんだ?」


 するとクリスは胸を張って言った。


「スミエ殿が言っていたぞ。亭主をうまく転がすのが良妻だとな!」


 なるほど、と莞爾は笑った。転がされているとわかっていたら世話がない。

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