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5月(3)田植えとタガメ

お待たせ致しました。

 なんとか動けるようになったとはいえ、やはり体力は落ちているようだった。


 平太はすぐに息が上がる自分に盛大なため息をつく。

 いくら機械化が進んだとはいっても、農業は基本的に体力勝負だ。


 ただ力持ちならいいというわけでもなく、炎天下でも耐えられる体力がいる。

 夏場などはさすがに一番熱い時間帯を避けることが多いが、五月でも十分に日差しは強い。

 風がまだ涼しいのが幸いだ。


 今、平太は水田に来ている。

 言わずもがな田植えのためだ。


 田植え、といっても、平太がするのは田植機で植えられない場所に入って植えることぐらいだ。それでも中々の広さがある。


 嗣郎と莞爾が粗方機械で済ませ、残った部分を平太が植える。ちなみにクリスも手伝っているが、やはり二人とも慣れていないのか動作がぎこちない。


「こんなに細い稲から、あれだけの米ができると考えると不思議なものだな」


 クリスは苗の束を持って感慨深く言った。

 そう言われてみれば、と平太も「確かに」と頷く。


 視線を向けた先には莞爾が嗣郎から指図されながら田植機を動かしていた。

 さすが、機械は綺麗に等間隔で植えていく。おまけに速い。

 苗を前にもたくさん積んでおり、苗がなくなる前にどんどん後ろに載せ替える。


 それでも作業速度としては一段も二段も遅くしてある。最高速度だと、機種によっては歩くスピードよりも速い。


 綺麗に区画整理された水田ならば、ほとんど手作業で植える必要もないが、ここは棚田と同じで、かなり歪な形をしているので、手作業で植える箇所が多かった。


「機械がなけりゃやる気起きねえよなあ……」


 平太はぽつりと漏らした。

 至極尤もである。


 機械で田植えをするずっと前は、集落のものたちが総出でやっていたのだ。

 きちんと順序を決めて、誰の水田かは関係なく、全員で集落全ての水田を植える。


 人が足りないときには隣近所の集落から助っ人に来てもらう。その逆もまた然りだ。


 そうして互助的に集落は結びついていた。


 各地には田植え歌などが残っているし、昭和初期頃までは日本の村風俗における重要なイベントだったとも言える。


 田植えの前後には豊作祈願のお祭りがあったり、はたまた収穫後には豊作のお礼のためにまたお祭りがあったりする。

 今や廃れている場所もあるが、歴とした伝統行事である。


 中身のない形式的な行事、と若者からすればそう思っても仕方ないことだが、同時に地域住民が惰性で続けているようでは廃れて当然でもある。


 形式ばかりに囚われて伝統行事の「本質(意義・由来、根本的精神性)」を伝えていなければ、ただ面倒なだけで終わってしまうのは仕方がない。受け継ぐ側の責任ではなく、引き継ぐ側の責任だ。


 伝えるための努力をせずに、ただ守れと言っても、それこそ中身のない形式的な姿勢に他ならない。



 機械の方が先に終わり、いつの間にか田植機には嗣郎が乗っていて、水田から道に出す。

 あとで泥を落として返却するのだ。もちろんレンタルである。


「おう、お疲れ。疲れたろ?」


 莞爾がやってきて、畦でへばっている平太に尋ねる。

 平太はクーラーボックスから冷たいお茶の入ったペットボトルを取り出して莞爾に渡した。


「やっぱり慣れないよね」


 莞爾は軽く笑ってお茶をごくごくと飲んだ。基本的に作業着は年中長袖であるし日差しの中の作業なので汗で下着が張り付くのは日常茶飯事だ。

 冷たいお茶で幾許か熱くなった体が冷やされて、ほっと息をつける。


「さすがにいきなり運転させるのもな。手作業だときついよなあ」

「昔の人すげえってなったわ」

「……だなあ。俺だって全部手作業なら絶対無理だ」


 莞爾だって機械化が進んでいなければ農業を続けられるとは到底思っていない。

 そも、現代農業では、いかにシステマチックに収量をあげるか、というベクトルに傾きつつある。ある種、自然回帰型農業とでも呼ぶべき循環システムの提唱は、そういった近代化へのカウンターとも取れるが、それはさておき、多様な農業形態があって然るべきだろう。


 大量生産、大量消費という時代を経て、今は多様化した消費者のニーズに合わせて、生産方法も多様化していくのは時代の流れである。


「あいつ、何してんだ?」


 莞爾が指さしたのは用水路に顔を突っ込んでいるクリスであった。

 平太は肩を竦めて答える。


「なんかちっちゃい魚がいるって、さっきからずっと観察してる」


 そんなクリスを二人で眺めていると、クリスがいきなり手を掲げて振り向いた。


「捕まえた!」


 一体何を捕まえたのかと思ったら、クリスは駆け足で戻ってきて獲物を自慢げに二人に見せた。


「むふふっ、捕まえたぞ! 中々気持ち悪いな!」

「おっ、タガメじゃん」


 タガメ。

 カマキリのような腕を持ち、近くを通った魚やオタマジャクシなどを捕食する。ちなみに体液を吸うのであって、がぶがぶ食べるわけじゃない。

 体液を吸うというのも実はちょっと違う。

 消化液を獲物に流し込んで、どろどろに溶かした肉などを啜るのである。


「なんだかかっこいいな!」

「ここらへんじゃよく見るけどなあ」


 三山村の水田周辺では比較的見かける昆虫である。

 絶滅危惧種である。


「タガメって何気初めて見たかも」


 平太は興味深げにタガメを観察する。クリスに渡されそうになったが、触るのは嫌らしい。


「ちなみに、タガメはカメムシの仲間だ」

「げ、マジ?」


 カメムシ目、コオイムシ科。日本で最大のカメムシである。

 成虫の体長は約五センチから六センチほど。ちなみに繁殖期には飛ぶこともある。


「こいつが卵植え付けてるところ見てみろ。鳥肌立つぞ」


(ブツブツが苦手な人はやめておいた方がいいので、あとで調べて気持ち悪くなっても筆者は責任が取れない)

 タガメの繁殖期は五月から六月だ。


 里山の水辺に棲息する昆虫としては、他にミズカマキリなどがいる。


「つーか、魚探してたんじゃなかったのか?」

「うむ。魚もいたぞ。底の方にいた」


 どじょうか、かじかなどの魚だろう。

 里山の魚といえば、メダカが有名であるが、外来種であるカダヤシとの見分けが付きにくい。ヒレの形が違うので、よく見ればわかるのだが、いまやメダカも滅多に見なくなってしまった。


 みんなでタガメについて話をしていると、嗣郎がやってきた。


「タガメか……久しぶりに見たのう」

「あれ? じいちゃんもあんまり見てないの?」

「いちいち気にしてないだけじゃ」


 嗣郎はそう言って笑ったが、ふむと一度頷いて言った。


「昔はトキも来たことがあると聞いたんじゃがのう」

「へえ、トキが」


 すでに日本のトキは絶滅してしまったが、主に東北地方や日本海側に棲息していた。

 ありふれた鳥だったそうだが、今や昔の話である。


 明治期以降、羽毛の需要が高まったことによる乱獲や、農薬などによる獲物の減少によってトキは絶滅したという話である。だが、実際に化学農薬などの汚染や餌の減少がトキの絶滅に一役買ったか、というと時期的に疑いは残る。


 そうというのも、日本で化学農薬が使われるようになる以前、明治から大正にかけて、すでにトキはその数を激減させており、一九五二年には特別天然記念物に指定されている。化学農薬が広く普及するのはその後だ。



 嗣郎も自分の目で見たことはないし、そもそも伝聞で、彼も祖父から聞いたという話であるから、明治以前の話なのだろう。


「クリスちゃん、気をつけるんじゃぞ」

「ん?」

「タガメに噛まれたら大変じゃからのう」


 死ぬような毒は持っていないが、消化液を流し込むので、噛まれたところが壊死する可能性はある。

 嗣郎から聞いた途端、クリスはタガメを平太に突きつけた。


「うわっ、ちょっ!」

「むははははっ、臆病だな、ヘイタは」

「……勘弁してくれよ」


 慌てて田んぼに落ちそうになった平太である。



 ***



 田植えが済んで、水田を見渡す。


 水面にゆらゆらと揺れ動く苗を見ると、なんだか日本人のアイデンティティーのようなものを感じないこともない。


「これが一面緑になると考えると、植物というものは不思議なものだな」


 クリスも作業を終えてどこか満足げだ。

 上下ともに作業着だったはずだが、彼女は上の作業着を脱いで腰に巻いている。上半身はシャツで、かなり涼しそうだ。腕を組んで眺める様は中々どうして様になっていた。

 彼女が水田を眺めている頃、平太は莞爾から田植機のレクチャーを受けていた。


 レクチャーといっても、すでに田植えは終わった後で、しかも使い方ではなく、田植機の構造のレクチャーだった。


 機械の使い方を覚えることはそう難しいことではないが、構造を知っているかどうかでやはり使い方は変わる。

 複雑な構造であるがゆえに、どうしてもデリケートな部分が出てくるのは仕方がない。


 それをわかっていないと、どうしても使い方が荒くなって、機械の寿命を早めてしまうことになる。


 例えば自転車やバイクのチェーンは高負荷によって伸びる。スプロケットも摩耗する。

 長く使うためには、きちんとした手入れが必要であり、そのためにはまず構造を理解する必要があるのだ。


 もっとも、技術者レベルで理解する必要はないが、概要を知っておくことで機械寿命は延びる。


「思ってたより結構単純な構造なんだな、これ」


 平太は田植え機の構造を観察しながら頷いている。


 実際、農業用機械は単純な構造をしている。

 用途が限られていることもあって基本的には単純だが、そんな方法で? と疑ってしまうようなアナログな調整方法が採用されていたりする。

 例えば、トラクターの耕起用アタッチメントの耕起深度の設定などはネジによる手動で高さを変える。中には高性能なものもあって、自動で高さを調整するようなものもあるが、大抵は手動調整だ。


 手動で調整できるアナログさが、農業の現場では非常に即している。最新機種が出てくると、機能はそれほど変わっていないのに、調節がしやすくなっていたり、安全機構がちゃっかりとりつけられていたりする。


 なお、農業用機械を使用中の事故では、使用者が油断して駆動したまま調整しようとして巻き込まれる場合がある。

 これは農業に限った話ではないが、機械を扱う以上は、常に安全に気を配り、悪い意味で「慣れ」ないことが、事故を減らす最善策だ。



 田植え機は様々な農家に合わせて機種も多様であるが、基本的には何条植えることができるかで分けられている。

 大型のものであれば、一度に八条から十条も植えることができる。小さいものでは二条のものもある。


「ここ、ここにあるのが植え付け爪。これが上で苗を挟んで、下に移動したら植えるようになってる」

「へえ……案外単純」

「こっちには肥料入れて同時に施肥ができる」

「ははあ、よくできてんなあ」


 エンジン以外が違うだけで、トラクターやコンバイン、田植え機は、農業用に特化した車のようなものである。ランボルギーニだって元々はトラクター製造の会社である。

 もしかするとそのうちク○タやヤ○マーが一般車両を製造販売することもあるかもしれない(ちなみにヤ○マーは一時期軽トラを製造・販売したが、たった二年で撤退した)。


 嗣郎に促され、莞爾は平太へのレクチャーを終える。

 平太は助手席に乗り込んで、嗣郎は運転席から軽く手を上げて走り去ってしまった。


 今から借り物の田植え機の泥を落とすのだろう。

 農業用機械に汚れはつきものとはいえ、気持ちよく返したいものだ。


 莞爾とクリスは田靴を履いたまま道を下りて行く。

 斜面を上がっていけば家がある方の道に出るが、急ぎの用もない。


「クリス、どうだった? 初めての田植えは」

「中々面白かったぞ」


 二人の歩く足跡はコンクリートの私道に泥を残していく。

 この時期の農道は靴底の型がついた泥がよく落ちているものだ。


 歩く方も足が重たいのか、莞爾はすぐ傍の用水路に降りて、田靴を履いたままじゃぶじゃぶと泥を落とした。クリスも同じように真似をする。


 田靴は他の長靴などに比べて、靴底がのっぺりとした形をしており、泥が流しやすくて使い勝手がいい。ただ、畑などでは踏ん張りが利かないこともあるので、やはり適材適所である。


「うわっぷ! 冷たっ!」

「むははははっ!」


 クリスがいたずらを仕掛けたせいで、莞爾は頭がびしょびしょに濡れた。

 いくら日差しで暑く感じていても、用水路を流れる湧き水はかなり冷たい。


「はーあっ、やはり体を動かすと気持ちがよいものだな」


 田靴のゴムごしに伝わってくる湧き水のひんやりとした冷たさが心地よい。流れる水による刺激が疲れた足をほどよく解してくれるような感覚があった。

 五月晴れの空に向かって両手をうんと伸ばしてみると、ふっと体が軽くなったようにも感じられる。


「んーっ、ニホンは埃っぽくなくていいな。空気が澄んでいる」


 深呼吸をして、クリスはふと思い出したように瞳を細くして言った。

 クリスの祖国は異世界のエウリーデ王国だ。国土は広いが、内陸性の気候で全国的に乾燥した気候である。


 とはいえ、今の日本の空も大して綺麗ではない。

 三山村は山間部なので排気ガスなどがないから綺麗ではあるが、今は天気予報でPM2,5まで予報される。


「梅雨が来たらそんなこと言ってられないぞ」

「ああ、雨季があるのだったな……まあ、大丈夫だろう」

「言ったな? 梅雨明けの晴れた日なんて氷水に足突っ込みたくなるけど」

「それはそれで楽しみだ」


 むふふ、とクリスは足を用水路につけたまま縁に腰を下ろす。

 莞爾は何かを見つけたのかその場でしゃがみ込んだ。


「おっ、クリス。珍しいもん見つけたぞ。ほら、捕まえた!」

「ん? なんだなんだ?」


 何やら足下で両手を包むように水につけている莞爾が気になって、クリスも顔を寄せる。

 すると次の瞬間、たっぷりと両手に貯めた水をぶちまけられてしまった。


「ちゅめたっ!」

「あははははははっ! さっきのお返しだ!」

「むふうーっ! やったなあ!」


 いきり立つクリスだったが、今は上がシャツなので、濡れてしまえば当然透ける。


「……む、むう」

「あー、悪い」


 少々申し訳なく思う莞爾だったが、クリスは口を尖らせて言った。


「私はカンジ殿の妻であって、他の誰ぞに見せるつもりなどないぞ……」


 拗ねて腰に巻いた作業着を着直すクリスだったが、いたずらをやり返してよかったと内心でガッツポーズをとる莞爾であった。


 最近恥じらいがなくなってきたなと思っていただけに、莞爾としては下世話ではあるが、男心をくすぐられるセリフだったのかもしれない。


「さて、帰って夕飯の支度をせねばな!」

「おう。先に風呂沸かすか」


 歩きながら手を取ると、ちょっぴり耐性がついたのか、クリスは素知らぬ顔で「うむ、そうだな」と棒読みで答えたが、耳が少しだけ赤かった。

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