閑話 大捕物
大変長らくお待たせいたしました。
閑話です。
(山菜について書いておきたいことがあったので)
「ひとつ、わかったことがある」
平太は指を一本立てて言った。
「新婚夫婦の近くにいるのはつらい!」
「お兄ちゃん何言ってるの?」
怪訝な顔で首を傾げる菜摘に、平太は何度も頷いた。
「菜摘ちゃんもそのうちわかるようになるよ」
今日は日曜日だが、平太も八割方回復したこともあって早朝に採った山菜の処理を手伝っている。
どうやらまだ違和感があるようだが、それなりに動けるようにはなったようだ。
「莞爾お兄ちゃんとクリスお姉ちゃんは?」
菜摘が尋ねると平太は小さくため息をついて答えた。
「田植え前の代かきに言ってるよ。俺も行くって言ったんだけどねー。無理はすんなって怒られちゃった」
「平太お兄ちゃんは自業自得だってお父さんが言ってた」
ぐうの音も出ない平太であった。
ちなみに、なぜこの場に菜摘がいるかと言うと、単純に暇で平太に構ってもらおうと思って家を抜け出してきただけだ。
「菜摘ちゃん、友達と遊ばないの?」
「いっつも遊んでるよ?」
今日が暇なだけだ。
かつては不登校児であった菜摘だが、今は友達もできて楽しい学校生活をおくっている。
孝一と智恵が傍にいるだけで変わる部分があったようだ。
ところ変わって、莞爾とクリスは水田にいた。
クリスも莞爾に買ってもらった作業着に田靴を履いている。
代かきはすでに一度しているが、都合二度することでより平坦にすることができるし、そもそも一度目の代かきとは意味合いが違う。
一回目の代かきは水を少なくするが、二回目は水を張って行う。
これによって一度目の代かきの後に発芽した雑草が浮かび上がるので、それを排除ないし土中に練り込んでしまう。
また、土の粒子も水が細かいものが浮かび、大きな粒子から先に沈む。最後に細かい粒子が蓋をするように膜を張る。
この状態で田植えをすることで、田植え直後の稲の発育を雑草に邪魔されずに済む。
ちなみに、厳密に二回しなければならない、ということはない。
農家によっては一回きりのところもある。
莞爾の場合は立地上水持ちが悪いこと、加えて初期段階での除草剤の使用をできるだけ抑えたいので二回行う。
もっとも、それらのやり方も嗣郎の受け売りで、嗣郎もまた米農家の受け売りである。
今のところ大きな失敗はしていない。
「おー、なんだかひんやりするな」
クリスは莞爾に言われた通りに、レーキを動かす。
以前よりも水を多く張っているので、動く度にちゃぷちゃぷと水が動いた。
田靴を履いていても泥の冷たさが感じられる。まだ季節は五月であるし、水は山から引いてきた湧き水である。
クリスは見よう見まねでなんとか作業をしていく。
足場が悪いこともあって、いつものクリスらしからぬ慎重さだ。
高いところは周りと揃えるように広げ、そうでないところはかき混ぜるようにして小さな粒子を浮かせる。
「むう。泥に足を取られるのが厄介だな」
「はは、慣れるまでは大変だな」
とはいえ、そこは体力自慢のクリスであるから心配ご無用だ。莞爾よりも体重が軽いこともあってそれほど深く沈まない。
そもそも底が浅い水田である。沈み込んでもせいぜいふくらはぎまでだ。膝までは沈まない。それに厄介だなどと言いながらも、クリスは莞爾よりも軽々と足を抜いて歩いている。
「本当はトラクターで均して、その後にちょろちょろっと手作業でするくらいなんだけどな」
トラクターに専用の器具(水田ハロー)を装着して代かきを行うのが普通で、全て手作業で行うのは稀だ。
もっとも、棚田などの区画整理されていない水田に関してはその限りではない。耕すだけなら気楽なのだが。
莞爾は浮き上がった雑草や稲藁の残骸などを丁寧につまみ上げて作業を続ける。
一度目の代かきで粗方平坦にはできているので、縦横と繰り返したところで作業は終了だ。
実際のところ、圃場の高さを均一化するという意味では耕起を繰り返した方が効率的だ。代かきでは部分的な凹凸を減らすことしかできない。今はレーザーレベラーなど、機械で計測をしながら凹凸を減らすこともできるので一概には言えないが、田起こしの段階でできることもある。
代かきを一度で済ませる場合には、圃場をしっかりと乾燥させた上で繰り返し耕起し、土塊を小さく、より粒子を小さくすることが肝要だ。
とはいえ、結局は農家によってやり方は千差万別であり、これといった正解はない。
今主流の方法でさえ、数年後には変わっている可能性がある。
根幹は変わらないものだが、農業技術も日進月歩である。
土地、気候、作物、多様な要素によってそれぞれ必要な手間や準備も異なるのは当然だ。
「ん?」
水田から出て、田靴の泥を落としているところでクリスがふと顔を上げた。
「どうした?」
「いや……気のせい、ではないな」
気楽に尋ねた莞爾に対してクリスは渋い顔をして彼方に視線を向ける。
その方角は山の畑が繋がっている林道の方に向けられている。
水田は位置的に佐伯家の家屋を挟んで林道とは反対側にあたる。
クリスは田靴のゴムを素早く取り払って脱ぎ、即座にスニーカーに履き替える。最近莞爾に買ってもらったもので、安物だがこちらの方が歩きやすいので気に入っている。
畑ではさすがに使わない。
「カンジ殿、すまぬが後は任せてもよいか?」
「どうした?」
真剣な様子のクリスに莞爾も眉間に皺を寄せた。
「なあに、少し斥候に向かうだけだ」
「斥候って……はあ?」
尋ねるよりも先に、クリスは「すまぬ」と言って走り出してしまった。
舗装路を一旦駆け下りたかと思うと横に折れ、急な斜面を飛ぶように駆け上がって向こう側に消えてしまった。
首を傾げながらも急いで後片付けを済ませて軽トラを走らせ、納屋に戻ろうとしたところで平太と菜摘が伊東家の表に出ているのが目に入った。
隣に停車させて尋ねる。
「クリス見たか?」
二人は同時に大きく頷く。何やら驚いているようにも見えた。
「なんだよ、二人して。鳩が豆鉄砲を食ったような目して」
「いや、クリスさんが……」
平太曰く、信じられないような速さで林道の方に走り抜けて行ったらしい。
「ほへー、やっぱりクリスお姉ちゃんってすごかったんだねー」
菜摘は純粋に感動しているようだったが、平太は色々と複雑なようだった。
適当に別れてそのまま林道に向かう。
クリスの姿は一向に見えないが、ずっと登っていくとどこからか声が聞こえてきた。
何やらクリスの声ではないようだが、と莞爾は首を傾げつつ別れ道を右に曲がる。
ようやくクリスを見つけたかと思ったら、彼女は見知らぬ四十代夫婦と口論の真っ最中だった。
「誰だ、あれ」
よくわからないが、奥には古い国産セダンが駐車されている。
おまけに夫婦は重たそうなビニール袋を持っているようだ。
それだけ条件が揃えば莞爾にも想像がついた。
「あー、珍しいな。こんなところまで来るやつがいるなんて」
暢気なセリフだが、口調とは裏腹に声色はやや冷たい。
軽トラで道を塞ぐように停め、のしのしと彼らの方に向かって歩くと、男の方が気づいてこちらに視線を向ける。するとクリスもすぐに莞爾に気づいた。
「カンジ殿! カンジ殿! 大捕物だ! 盗人だぞ!」
クリスは憤慨している様子で叫ぶように言った。
すると中年夫婦は反駁するように言った。
「誰が盗人だ! 山に生えてるもん採って何が悪い!」
あー、と莞爾は頭を抱えたくなってしまったがそうもしていられない。
どうやらクリスはこの夫婦と同じ問答を繰り返しているらしい。
それになんだかこの中年夫婦、なんだか偉そうにふんぞり返っていて言葉が通じそうにない。
ようやく近くに歩み寄ったところで莞爾は尋ねる。
「で、あんたら誰?」
「失礼なやつだな! 口の利き方も知らねえのか!」
「失礼だあ? あんたその手に持ってるのなんだ? わらびだろ? どこで採った?」
莞爾も負けじと尋ねる。すると男はふんっと鼻を鳴らして言った。
「そこで採ったんだよ! いっぱいあるんだからいいだろうが!」
「よーし、言質取ったからな。不法侵入と森林窃盗罪だな。警察呼ぶからちょっと待ってろよ」
「ばっ、馬鹿言うな! 看板も何も注意書きなんてここまで見てない!」
ただの見落としである。
男は途端に狼狽した様子を見せたが、莞爾が携帯を取り出した途端、焦ったのか腕を伸ばしてきた。
しかし、即座にクリスに腕を弾かれる。
「てめえっ!」
頭に血が上ってしまったのか、はたまた元からおつむが弱いのか、そのどちらかはわからないが、男はクリスの肩を突き飛ばした。
「おいこら、あんた人の女房に――」
「盗っ人猛々しいな」
冷静な声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、男は崩れ落ちていた。
莞爾にも見えなかった。間に入ろうと一歩踏み出したのに、何の役にも立たなかった。
やや遅れて汚い呻き声が聞こえ始める。
「いでえええええっ」
「ふんっ、気安く触るな。下郎め!」
クリスは膝を両手で押さえて悶絶する男を見下ろして、さも軽蔑したような様子だった。
さすがに莞爾も熱くなりかけた感情が一気に冷静に引き戻される。
クリスの蹴りは見事に男の膝裏を的確に打ち抜いていた。
「何すんのよ!」
そうしてさらに事態を悪化させる人間がまだ一人残っていた。
夫が返り討ちに遭ったことが気に食わなかったのか、はたまた信じられなかったのか、残された女がクリスに突進してきたのだ。
「あっ……」
しかし、クリスはこれを軽やかに避け、その際に見事に女の足を引っかけて転がす。
枯れ枝や落ち葉が溢れる道の脇に女は盛大に突っ込んで行ったが、顔を盛大に打ったらしく、両手で泥だらけになった顔を押さえて転げ回っていた。
「さすがに女に暴力を振るうのは騎士道に反するのでな」
「……一緒じゃね?」
「細かいことは気にするな。男だろう!」
「そういう問題じゃねえよ! やり過ぎだって言ってんだよ……」
「いやしかし、ホナミ殿から聞いたところによると正当防衛ならば――」
「ああ、もう……あいつ何教えてんだよ」
今度こそ頭を抱える莞爾であった。
「痛いぃー、病院、病院に行くからっ――」
「うっせえなっ! それくらいじゃ死なねえからちょっと黙ってろ!」
「そうだそうだ。利き手を切り落とされるのに比べればずっと優しいではないか」
「いや、クリス。お前もちょっと静かにしていてくれ。それから脅すな。ややこしくなる」
結局、警察を呼んで来るまでにしばらく二人の呻き声を聞く羽目になった莞爾とクリスであった。
***
結果的に言えば、盗っ人猛々しい夫婦は連れて行かれた警察署で色々と丁寧な説明を受け、実際に刑罰が下るということにびびったらしく、莞爾に示談にしてくれと頼み込む羽目になった。
もちろん莞爾からすれば知ったことじゃないので、きっちりと被害届を出した。他人の土地から何かを奪おうとして罪に問われないと思っていること自体がおかしいのだ。
子どもの万引きではない。自分の行動に責任を持つべき大人が犯したことなのだから。
相手の中年夫婦は傷害で被害届を出すやら、治療費と慰謝料を請求するやら、はじめのうちは息巻いていたのだが、そこは本職の警察官のドス――ではなく懇切丁寧な愛情たっぷりの説明が効いたらしい。
おまけに莞爾がきっぱりと被害届を出すと告げたものだから、示談にしてくれと追いすがったわけだ。警察官も後々のことを考えると示談にした方が無難だとは言ったが、莞爾からすればたまったもんじゃない。
すでに恨みは買われているのだから、同情する余地などない。
仮に知らなかったから斟酌してくれと頼まれたところで、無知を許されるのは十代までだ。
ちなみに、最初はクリスがやり過ぎたように見えたのだが、警察署に行ってみれば、男は膝裏にあざができたくらいで骨に異常があるわけでもなく、女の方は完全な自業自得という状況だったので不問だった。
「この時季はやっぱり増える事案なんでね、佐伯さんももうちょっと気をつけてくださいね」
所轄の警察署で事情聴取を終えて出るときに、強面の警察官から優しく忠告されたものの、莞爾からすれば、これ以上何に気をつけろと言うんだ、といった具合だ。
帰りの車内ではクリスが未だ憤慨している。気持ちはよくわかるし、クリスが怒ってくれているのは嬉しいことでもあるのだが、さすがに正当防衛だからと一発で戦闘不能状態にしたのは驚いた。
「カンジ殿は腹が立たないのか!?」
「いや、当然腹は立つさ。クリスがやらなきゃ俺がキレてただろうし」
「こんなことなら利き腕を切り落としてしまえばよかったのにな!」
「物騒だな、おい……」
「子どもの喧嘩ではないのだ! 法を守らぬものに手加減などする必要があるか!」
クリスの言葉にも一理あるが、とはいえここは日本である。法治国家である。法と刑罰にはきちんとした比例原則があるのだ。
莞爾としても、手を出されて穏便に済ませようと考える性格でもない。
あの夫婦が窃盗犯だと察したときからすでにどうやって警察に突き出そうかと考えていたのだから。
さすがにクリスのように一発でケリをつける、なんてことはなかっただろうが、体力と打たれ強さには自信があった。
「いずれにしても、クリスが気づいてくれてよかった。助かったよ」
「むふふ、そうであろう?」
助手席で得意気に鼻を膨らませるクリスだった。
春になると、山菜採りに行く人も増えてくるが、採る場所に気をつけなければならないのは大人として知っておくべきだ。
そもそも舗装路から手軽に山に入って行けるような場所は、ほとんどが私有林だと考えていい。
「畦道に生えてるのを採るくらいなら文句も言わねえけど、さすがに山菜用に手間かけた場所で採られると腹が立つよな」
あの夫婦が採ったものの大半は、まだ採るには小さいので待っていたものばかりだった。
実際、今回は場所が場所だったことと、林道入り口には関係者以外立ち入り禁止の看板があったため、いくら見落としがあったとはいえ言い逃れできる状況ではなかった。
しかし、そうでない場合は、被害届を出しても受理されない場合がある。
というか、一番いいのは現行犯逮捕だ。
道の脇に生えてるようなものを採ったところで裁判沙汰にはならないが、きちんと整備をしているところで採れば、それは大問題だ。
かといって気軽に山菜採りがしたい、という人は「じゃあどこに行けばいいんだ」となるだろうが、ちゃんとお金を払えば採らせてくれる場所もあるし、道端で見つけたくらいのものならばどうぞ勝手に持っていってくれと言った具合だ。
ちなみに、国有林であれば問題ないか、というと決してそんなことはない。
厳密に言えば、国有林も私有林もきちんと許可をとった上で採取しなければならない。
これを破った場合、三年以下の懲役または三十万円以下の罰金となる。(保安林の場合は五年以下の懲役または五十万円以下の罰金。保安林≠国有林なので注意)
だが、実際はどうかといえば、管理する側もそんなことにかかずらっていられないので、目が届かない場所は黙認している、という現状がある。
その黙認が常態化しているために、よく勘違いする人も多いし、裁判になったとしても必要な措置を講じていなかったとして土地所有者側が負ける。だからといって堂々と我が物顔で採っていいというものでもない。
山菜採りは、よくよくその場所が管理されているのか否か、確かめる必要がある。
稀に道があるから私有林だと思わなかった、などと戯れ言を吐く輩もいるが、私有林にだって車が通れるように林道を整備するし、場合によってはコンクリートで舗装する。
最近ではネット上で簡単に航空写真を見られるとあって、適当にあたりをつけてやってくる人も多いが、よくよく注意するべきだ。
「帰ったら、看板もっと目立つように変えておくか」
「それでも馬鹿は入ると思うがな」
辛辣なクリスに莞爾は乾いた笑みで頷いた。
「三山村の警備は任せておけ! 私がいる限り不届き者はすぐさま成敗してやるからな!」
頼もしい限りではあるが、やり過ぎてくれるなよと釘を刺すのも忘れない。
それに莞爾にはひとつ気になることがあった。
「そういえば、クリス。どうして泥棒が来てるってわかったんだ?」
「勘だ」
「勘?」
そんなよくわからない感覚なのかとため息をつきそうになった莞爾だったが、クリスは続けて言った。
「なんだか森がざわめいているような……ああ、こういうのは祖国では精霊に呼ばれると言うのだ」
「虫の知らせ的なやつか」
はっきりとはわからないが、さすがは異世界人なのだろう。
なんにしても、クリスには不要な心配かもしれないが、彼女が怪我をせずに済んでほっと一安心の莞爾であった。




