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5月(1)下・他人の悩み

大変お待たせ致しました。

 バランスを崩した平太が眼下に転げ落ちそうになるのを、クリスはとっさに伸ばした手で彼の手をつかんだ。


 ぎゅっと握ったロープがピンと張り、クリスはほっと安堵の息を漏らしたが、平太は苦々しい顔をしたまま言った。


「クリスさん、このままじゃクリスさんまで一緒に――」

「馬鹿を言うな!」

「ダメだっ! クリスさんだけでも……」


 懇願する平太である。彼は片手をクリスにつかまれたまま、もうどこにも力は入らないのだと諦めの境地に達していた。


「へへっ、勝負はクリスさんの勝ちだぜ」

「……何を言うか。一緒に上まで行くと約束したではないか!」

「……残念だけど、俺はどうやらここまでらしい。達者でな、クリスさん」


 そう言って、平太はクリスの手を離し――落ちていくはずもなかった。


 いつの間にか横たわる平太の隣に立った莞爾が彼の頭をタオルでぺしりと叩いた。


「……三文芝居が長い」

「すまねえ、社長。なんつうか、糸が切れた」


 ここは崖ではないのだ。多少足下が不確かな斜面とはいえ、踏み外して下まで転がっていくような場所でもない。平太はうつ伏せになって倒れていただけである。


「糸が切れたって、お前。早く起きろよ」

「いやそれがさ……足腰に力入らないんだよね」


 平太は上半身だけもぞもぞと動かしているが、腰から下が動かないようでどうにも困っている。

 動かないと言っても、まるで生まれたての子鹿のようにプルプルと震えており、全く動かないというわけではない。


「あー、これやばい。だんだん痛みが出てきた」


 平太は冷静な顔をしたままだが、なんとか仰向けになる。


「肉離れか?」

「タイミング的におかしいじゃん。急に力出したわけでもねえし、そこまで無理な動きはしてないと思うんだけど」


 ため息をつく平太だったが、両腕をついて上半身を起こしたところで顔を歪める。


「あっ、これ筋肉痛のひどいやつっすわ」

「はあ?」


 莞爾は首を傾げそうになったが、視線の先にいるクリスがあからさまに狼狽えているのを目撃してしまった。まさに「しまった!」とでも言いそうな顔だ。


 盛大なため息が漏れる。


「平太、立ち上がるのもきついか?」

「悪いけど、無理だね。いや、俺もくっそ恥ずかしいんだけど、ちょっと起き上がるのもきついっていうか、動かすと痛い」

「やっぱり肉離れじゃねえか」


 莞爾はやれやれと肩を落とす。少し上に立って待っている孝一にわらびの入ったビニール袋を渡して、しゃがみ込んだ。


「なんで俺がお前なんかを担ぎあげなきゃいけねえんだ?」

「まあまあ、社長さん。ここは俺を美少女だと思ってひとつよろしく頼みますよー」

「こんなにごつごつした美少女なんているわけねえだろうが」


 最初はお姫様抱っこの要領で平太を持ち上げた莞爾だったが、筋力に任せてそのまま米俵を担ぐように肩に乗せた。


「ごふっ! ちょっ、苦しっ」

「我慢しろー」

「もうちょっと優しくしてよねっ、初めてなんだから!」

「よーし、投げ落とされる覚悟はできてるみたいだな!」

「うわっ、ちょっ、タンマタンマ! 冗談だって!」


 なおもふざける平太に莞爾は呆れた様子で対応しているが、彼の額に脂汗が滲んでいるのを見て、わざと気を逸らすように話をしていた。


 平太を担いだまま斜面の下まで降り、ちょうどいい切り株を背もたれにして彼を下ろす。


「すぐに戻る。とりあえずアイシングさせてから病院連れて行かなきゃ、だな」


 莞爾は孝一にそう告げたものの、まだ仕事を始めて二時間も経っていない。ちょうどいい頃合とは言い難く、さてどうしたものか、と少し頭を悩ませる。

 すると智恵がやってきて言う。


「下まで行ったら、あとはわたしが車で病院に送っていけるけれど」


 孝一を一瞥し、智恵は座り込んでいる平太を心配そうに見つめている。

 彼女の申し出はありがたいが、どのみち一人では立ち上がることもできない平太のことを考えると、女一人では介助にならないだろう。


 莞爾は小さなため息を内心でついて全員を集める。


「今日のわらび採りはここまでにしよう。平太も動けないし、病院に連れて行かなきゃな。それにしたって女性の力だとこいつの補助にはならないし」

「こんぐらい一日寝てれば歩けるぐらいには戻るって」


 楽観視する平太に莞爾は軽く拳骨を落とした。


「いてっ――」

「ちっとも動かないなんて重症だろうが。あんまり強がるな」

「……へーい」


 渋々といった様子の平太だったが、彼は仕事中の怪我の治療費が労災によって賄われることを知らないようだった。

 一応莞爾も平太には社会保険やら厚生年金やらと一緒に説明したわけだが、初めて就職する平太であるし、あまり頓着していなかったらしい。


「まあ病院行ってみて診察してもらわないことにはどうしようもないな」


 孝一が言う。


「私の車を出そうか」


 彼の車はまだファミリーワゴンだった。


「あー、助かる。いいか?」

「もちろん。こっちではあまり使い道がなかったからな」


 何せ狭い道を走るのも、ちょっと大谷木町あたりまで買い物に行くのも、軽トラさえあれば楽ちんなのだ。

 重たい農機具だって荷台に載せればいいだけ。


 それに孝一の父親である孝介が持っている乗用車もあるので、ファミリーワゴンは比較的に取り回しが面倒でつい使わないことが多かった。

 しかしこういう時はとにかく助かる。


 四人で来た道を戻る。

 平太は莞爾の肩に担がれて些か苦しそうにしていたが。



 ***



 大谷木町ではなく、市内にスポーツ選手もよく通っているクリニックがあるらしく、莞爾は孝一の運転で平太をそこへ連れて行った。


 精密検査とまではいかないが、まずは触診し、レントゲンなども撮ってもらった。


「触った感じからして、肉離れってところまで行ってるわけじゃなさそうだし、ほんと筋肉痛で動けないって感じだね」


 診察した医師は面白そうに言う。


「よく事故の直後にアドレナリンで痛みがわからずに落ち着いたころに激痛が来て動けなくなるってことがあるんだけど、それに近いかもしれないね」


 一風変わった医師のようで、触診の際、平太が痛みを訴えるとどこか楽しそうに頬を緩ませる男だった。


「まあ若いうちはついつい無理しちゃうし、それだけ元気があるのもいいことだけど、ちゃんとインターバルを取らないと、人間の体ってのはそう都合よくできちゃいないからねえ」

「……うっす」


 身に覚えのありすぎる平太であった。


「まるで久しぶりに運動をして三日ぐらいあとに筋肉痛で動けなくなる中年男性みたいだよ」

「まだ十八っす」


 平太の後ろで戦々恐々としているのは孝一であった。


 結局、医者の見立てではそれほど重症ではないらしい。

 一日二日もすれば元通りになるとは言うが、もし痛みが強くなったり全く快方に向かわなかったりすれば、また来てくれということだった。


 帰りの車内で莞爾は言う。


「いずれにせよ、大事にならなくてよかったじゃないか」

「そうだなあ。まさかこの忙しい時期に動けなくなるなんて平坊もタイミングが悪い」


 やれやれと、孝一は少し苦笑いを浮かべる。

 当の本人はどこ吹く風――とはいかなかった。


 ふくらはぎと太股をアイシングしている。

 痛みは鈍痛で、じんじんと熱を持つような痛みがあり、動かそうとするとずきりと走るような痛みがあった。

 動かさなければどうということはないが、腕の力だけで上半身を支えるのは中々しんどいものがある。


「平太、お前今日うちに泊まれ」

「なんで?」


 莞爾の命令に平太は首をもたげる。彼は今後部座席に横になっていた。


「嗣郎さんところだときついだろ。孫の介護をする祖父母の体力を考えてみろ」

「あー、なるほど」


 確かにそれは言えている、と平太はため息を漏らした。

 伊東家の家屋は佐伯家ほどではないが、それなりに古く、当然バリアフリーなどではない。

 とくにトイレは未だに和式である。

 莞爾の家ならばトイレだけは洋式であり、ついでにウォシュレットである。

 リフォームするほどの予算はなかった莞爾がトイレだけ改装したのである。


「でもさあ、さすがに新婚夫婦の家に一晩でも世話になるのって気が引けるじゃん?」

「クリスの手料理食べるチャンスじゃないか」

「社長、お世話になります!」


 変わり身の早い平太であった。

 しかし莞爾は言う。


「クリスから世話されるわけじゃないからな?」

「えっ、嬉し恥ずかしお着替え介護とか、仕方ないわねはいアーンとか、ダメよ主人がすぐそこに……いや、すんません調子乗りました」


 助手席から身を乗り出して振り向く莞爾の眼光に、平太は素直に謝った。

 運転しながらも二人の掛け合いを見ている孝一は楽しそうに笑っていた。


「それだけ元気ならすぐに治るな」

「じゃなきゃ困る」


 莞爾の呆れたため息が聞こえた。



 ***



「もう食い切れない」


 平太は座椅子の背もたれに寄りかかりながら口元を押さえた。


「まだまだ食べろ。そんなことじゃ治らないぞ!」


 空になった平太の茶碗にご飯をよそうのはクリスである。

 優しく微笑むクリスであるが、最初こそ天使のごとく見えた彼女の微笑みも、今はもはや悪魔に近しいそれであった。


「クリスさん、それちょっと日本昔話サイズじゃん?」


 こんもりと山を築く茶碗を見て、平太はげんなりとした表情で尋ねた。すると、莞爾もやれやれと肩を竦める。


「さすがにそれは盛りすぎだけど、それにしたってお前少食だな」

「いや、二人とも食い過ぎなだけだから……」


 確かに平太の言にも一理ある。

 クリスは言わずもがな、莞爾もよく食べる。平太は一汁山菜に山盛りご飯を一杯食べてギブアップだった。


「でもやっぱ味付けがいいよね」


 平太は言う。


「うち今じいちゃんが薄味じゃないとダメだからさ。基本減塩なんだよね」

「そりゃあ仕方ねえな」


 嗣郎は一度倒れて以来食生活ががらりと変わっている。スミ江は同世代であるからまだいいが、平太はまだ十八歳。濃い味付けとタンパク質を求めてやまないお年頃である。


「だいたい高校だって進学校だったから運動部なんて体裁整えたぐらいでさ。基本は受験第一だったもんね。俺も帰宅部だったし、あんまり食わなくてもよかったんだよ」

「では、食わないのか」


 クリスは平太のためによそったご飯を持って項垂れる。


「あ、いや、食べます。はい」

「おっ、そうか! たくさん食べるんだぞ、ヘイタ」


 一転、嬉しそうに差し出したクリスに、平太は引きつった笑みを浮かべた。

 莞爾は無言で食卓の上の漬物が入ったタッパーを平太の方に寄せ、彼の食べた主菜の皿を持って立ち上がる。


「今日から伊東平太肉体改造計画を開始する」

「勘弁してよ……」


 再度目の前に置かれた鶏もも肉の唐揚げの山にげんなりする平太であった。

特設ページにて、

限定SSが公開されました。

ぜひご覧ください。


http://www.cg-con.com/novel/publication/05_treasure/01_kishi/index.html

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