5月(1)中・他人の悩み
お待たせしました。
平太はいつも以上に元気だった。
本人が気づいていないだけで、クリスの魔力によって一時的に疲れ知らずになっているだけだが、それにしたって若い肉体には有り余る余力を与えてしまったらしい。
「いやはや、平坊は若いなあ……」
元気いっぱいに山を登っていく平太の後ろから呆れた声を上げるのは孝一だ。
しばしば農作業もするようになったが、それにしたって書類業務を一手に引き受けていることもあり、その頻度はかなり少ない。つまるところ、年相応に運動不足である。
そんな彼の隣を歩く智恵の方が幾分か元気だが、長袖長ズボンに、麦わら帽子には黒いメッシュの布地をぶら下げて顔を覆うという、完全防備スタイルである。ちなみに最近モンペに目覚めた。因果なものである。
まだ夏というほどに日差しがきついわけではないが、さすがに三十路を過ぎるとお肌のシミが気になって仕方がないようだ。
「若さっていいわねえ……」
智恵は平太に平然と、むしろ彼よりも余裕のある表情で歩くクリスの後ろ姿を眺めて思わず口走る。
さすがに二十歳前後の二人には敵わないが、けれども自分たち夫婦の前を歩く莞爾の顔もまた余裕が見てとれる。
「二人して何嘆いてるんだよ。嗣郎さんが聞いたら笑われるぞ?」
莞爾は振り返って苦笑を漏らすが、対して若き老夫婦はため息で返した。
「そうは言うがな、普段運動不足のアラフォーを甘く見ないでくれ」
「……わたしはまだ三十代半ばよ。アラフォーじゃないわ」
「智恵、四捨五入のやり方を菜摘から教わった方がいいな」
老いたふりをしたがるのは二十代の特権ではないらしい。いやはや三十路も四十路も、棺桶に片足を突っ込んだ嗣郎に比べれば赤子のようなものである。
なにせ三山村はほぼ限界集落なのだ。若者なんていないのだ。強いてあげれば、還暦を迎えるまでは全員若者である。姑がいる限り銀婚式を挙げても新妻なのだ。やんぬるかな。
「ところで、莞爾。結婚式の準備は進んでいるのか?」
唐突に尋ねた孝一に、莞爾は軽く頷いて前を向いたまま答えた。
「稲刈り前にって思ってたんだけどなあ。市内の神社は土日祝日ほとんど埋まっててさ。ホテルの式場ってのもな」
「だが、手間を考えるとブライダルプランナーに任せた方が気楽だろう。私たちのときもそうだった」
智恵も思い出したのか「そうねえ」と視線を上に向けた。
ちょうど枝葉の隙間から木漏れ日が漏れているのが見えた。山の中はどこか涼しげで、湿気た空気がやんわりと体を冷やす。五月の山は案外涼しいが、梅雨が明けると一気に蒸し暑さが増す。
「莞爾くんは式場選びにこだわりがあるの?」
「俺よりクリスの方がこだわってるよ」
「クリスちゃんが?」
智恵もクリスと打ち解ける中で愛称で呼ぶようになっていた。
莞爾は言う。
「婚姻を結ぶのだから、きちんと由緒正しい場所で誓うべきだってさ」
「あらまあ。しっかりしているのね」
智恵は意外そうな反応を見せるが、莞爾も真実は言えない。
まさか神々の前で云々というクリス本人のご高説を教えるわけにもいかない。言ったところで古式ゆかしい印象を通り越してしまう。
そういえば、と莞爾は昨日の穂奈美について思い出す。
クリスの話では穂奈美は大原との結婚の話が進んでいるということだったが、親族が余計な茶々を入れているらしい。
言わんとするところはわからないでもないが、かといって省庁勤務で忙しく駆けずり回ってきた穂奈美に「専業主婦にならないの?」とはなんともはや、又聞きでも呆れてしまう。
所詮は外野の戯言なのだろう。その点、ビジネスマンとして頭角を現した大原は理解も深いはずだ。
省庁ともなればきっと女性も働きやすいだろうし、産休・育休は心配する必要もないだろう。
とはいえ、地方公務員のそれと、国家官僚のそれとでは多忙ぶりも違うだろうし、その辺りの差異は莞爾もわからない。
雑念を振り払うように、莞爾は背筋を伸ばして息を吐く。
「まあ、市内のホテルにも行ったんだけど、そっちで頼もうかなって。挙式できる神社まで送迎もしてくれるらしいし。挙式は親族だけになっちゃうけどさ」
「まあ、それでもいいんじゃないか?」
「そうねえ……」
頷く孝一に対して、智恵はいまいち釈然としない思いを抱いているようだった。
「てっきり、クリスちゃんはチャペルじゃないと嫌だって言うかと思っていたわ」
「あー、うん。クリスはキリスト教徒じゃないからさ」
「そうだったの? お国柄からしてそうだと思っていたんだけれど」
「俺も詳しく知らないけど、クリスはうちのやり方を嫌がってるわけじゃないし、むしろ大切にしてくれてるから、俺としても別にクリスが何を信じていようと気にしないさ」
というか、だ。
神秘的な存在を感知できない莞爾にしてみれば、実際にその存在を感じ取れるクリスの意見を信じるしかないのだ。
もともと信仰心というよりは慣習として生活の一部だったものが、クリスのせいでずっと踏み込んだものになってしまった。それをよかったととるべきか、それとも面倒になったと考えるべきか。いやはや、さすがに面倒だからいいやと言えるほど、莞爾は恐れ知らずではなかった。
とりあえずお天道様が見てるの精神である。
「しゃちょーっ! 早く早くー!」
「おー、後で筋肉痛で泣いても知らねえぞ」
「はっはっはー! 今日の俺に怖いものはなーい!」
先を歩く平太は腰に手を当てて自信たっぷりに仰け反った。
「元気だなあ……」
「若返りたい……」
アラフォーの嘆きは莞爾の失笑を誘うだけだった。
すると孝一が渋い顔をして莞爾に苦言を呈した。
「あのなあ、お前も笑っていられるのは今だけだからな?」
「……と言われてもな。俺からすればこれは普通だし」
すげなく返されて、孝一はため息をついた。
「我々の運動不足か」
「まず間違いなくそうだな!」
うんうん、と力強く頷く莞爾であった。
***
例年わらびを採る斜面には事前にロープを垂らしていた。
斜面の上側の木にくくりつけたものが数本。
一応の安全策として、やはり手の届く範囲に掴めるものがあると安心だ。それになにより、登るときに楽なのだ。
登山をしているとよくわかるが、手を使わずに斜面を登るというのは難しい。おまけにわらびを採る間は腕にビニール袋を通して行うので、バランスが悪くなる。
とはいえ、それほど急な斜面でもない。
しっかりと注意していればそれほど危険ではない。
「下から採っていくぞー」
莞爾は先に全員にレクチャーをする。
ある程度の長さがあるものを採る。根元は硬くなって食べられないが、どのみち長さを揃えて束ねるので、大凡合っていれば問題ない。しかし、先が開いておらず、まだ丸いものを採る。
取り方は、ハサミやナイフは使わず手で折り取る。左腕にはビニール袋を通し、採ったそばから中に入れるという寸法だ。わらびは簡単に折れるポイントがあるので、こつを掴めば手早く採集できる。
「ある程度長かったらもう採っていいから。どうせすぐに新しいのが出てくる」
とはいえ、狭い場所なので限度はある。出始めからひと月弱は採り、その後は放置する。あまり取り過ぎていると年々わらびの茎が細くなる、と莞爾は教わった。
それを補うために、畑で出た残渣を燃やした草木灰を斜面に撒いている。カリ成分はわらびの茎を太くしてくれる。
「よーし、じゃあ安全第一で! 無理せずゆっくりでいいから」
クリスと平太が威勢のいい返事をしたあとで、孝一と智恵は苦笑いで間延びした返事をした。
先に飛び出したのは平太だった。
目に入るものからどんどん手折る。鼻歌でも歌いそうな陽気さだが、手の早さに比べて斜面にはまだ慣れていないのか足取りはぎこちない。
しかし、社長に安全第一と言明されているので、平太は一歩ずつしっかりと踏みしめて足場を確保する。
斜面に生える山菜といえば、どちらかというとわらびよりもゼンマイの印象が強いものだ。
というのも、ゼンマイは基本的に沢のそばに群生する。山奥の沢はほとんどが谷になっており、自然と勾配のきつい斜面となるわけだ。
一方で、わらびは森林の伐採跡などの陽当たりのよい場所に自生する。また、場所によっては畦道や河川敷などにも生えている。
ゼンマイが玄人の獲物だとすれば、わらびは素人でも手軽に取れる初心者向けの山菜だろう。実際にわらびは里山なら見慣れた山菜だ。
平太は夢中になってわらびを採り、目の前からわらびがなくなると足を進めた。
ふと小休止に顔を上げると、一メートルほど前にクリスがいた。
「……速くね?」
思わず呟く平太であった。
自分が一番乗りだったはずなのに、と少し悔しくなって平太は急ぐ。
不思議と今日は調子がいい。この様子なら下手にペース配分を考えるより一気にやってしまった方がいいかもしれない。
「うしっ! やるぞー!」
やる気に満ちあふれた平太は袖口を巻くって鼻息を鳴らした。
しかし、体力でクリスに敵おうなどとは平太も浅はかである。
莞爾はゆっくり確実に。由井夫妻は自分たちのペースでゆっくり。
クリスだけは平太以上の勢いでどんどん先に登っていく。
「おーい、早いのはいいけど、取り残すなよー」
後ろから注意する莞爾に平太とクリスはそれぞれ返事をするが、目が合うとにやりと笑って両者斜面の頂上を一瞥した。
まだまだ血気盛んな若者二人であった。
後ろから見ていても、二人のペースがさらに上がったのはすぐにわかった。
莞爾は呆れつつ後ろを振り返る。
えっちらおっちらロープをたぐり寄せるように斜面を登るのはアラフォー夫婦である。
ふと顔を上げた孝一が曖昧な表情を浮かべる莞爾に首を傾げる。
「……なんだ。何が言いたいんだ。その目は」
「いや、なんにも」
逃げるように莞爾は前を向いて作業に戻るのであった。
そうして、数十分も続けていると、上からクリスの声が聞こえた。
「私の勝ちだな! ヘイタ!」
高らかに勝利宣言をして、クリスは膝をつく平太にびしっと指を差していた。
平太もどこかノリノリである。まあ初めて見た瞬間に告白してしまうような男なのである。お察しである。
「ぐぬぬっ、次は負けねえ!」
「ふっ……ヘイタよ。下を見るがいい。コウイチ殿やトモエ殿はまだ道程の半分。つまり、もう一度私たちがやれば同じ頃に終わるはずだ」
「つまり……」
クリスは不敵な笑みを浮かべて言う。
「再戦の機会を与えようではないか!」
その自信たっぷりの様子は、まるで本物の女騎士のようである。
やっていることはわらび採りなのだが。
それに乗っかる平太も調子に乗っていた。全てはクリスから与えられた魔力によるまやかしの体力などとは思いもしない。
「やってやろうじゃねえか。吠え面かかせてやるぜ、社長夫人!」
「だが、一応安全第一で頼むぞ」
急に真面目な顔をして言うクリスに平太は少しばかり拍子抜けした。
こんなにはしゃいでいてもクリスはクリスなのである。久々に外で体を動かして楽しいのもあるが、それで怪我をしては面白くない。何より、自分なら怪我をしない自信はあるが、平太はちょっと体力が増強されただけで普通の人間なのだ。
体操選手じゃあるまいし、空中で体勢を立て直すような荒技ができるわけもない。
クリスの基準はとことん自分の身体技能であった。
「よし、では行くか」
「はーい」と平太。
さっきまでの勢いはどこへやら。二人は斜面を降りるのではなく、一度迂回してきちんと道を通って下に戻る。
なんともはや行動力のある姉と刃向かえない弟のような構図である。
「あいつら、案外気が合うのかもなあ」
莞爾は二人の様子を眺めつつ一人口ずさむ。別に嫉妬をしているわけではない。
クリスがどれだけ莞爾のことを好きでいるか、クリスの次に知っているのは莞爾以外にいないのだ。不安になる要素なんてありはしない。
クリスにとってこちらの世界での友人は穂奈美や大原になるのだろう。菜摘とは友達だと言っていても、思春期直前の子どもと青年期の大人とでは差が大きい。
そう考えると、平太は実年齢では同じであり、年の近さはそれだけで友好的になりやすい。
「考えてみれば、ちゃんとした友達なんてこっちでいないしな、クリスって……」
なんだか自分のせいでこんな閉塞された村の中に閉じ込めてしまったような気がして、莞爾は少しだけ申し訳なくなった。
かといって、クリスをおいそれと外で活動させるわけにもいかない事情がある。
ある種の程度問題ではあるが、クリス自身がそれで満足している以上は莞爾からも口を出しにくい。
その一方で、クリスが知る村の外とはつまり病院や研究施設ばかりで、もっと他の面白いものを見ていないだけじゃないか――莞爾としてはそれももったいないような気がしてしまう。
かといって、莞爾自ら外に連れ出すような時間もないのが惜しい。
「新婚旅行は奮発しねえとなあ」
ざっくりと頭の中でそろばんをはじく莞爾であった。




