5月(1)上・他人の悩み
大変長らくお待たせいたしました。
更新が遅れて申し訳ありません。
莞爾は軽トラに荷物を載せて進む。隣には少しウキウキした様子の平太がいた。
「代かきって何すんの?」
「言っただろ。かき混ぜて平坦にするんだよ」
今日は田の代かきを行う予定だ。機械を使うほどの広さもないので、基本的にはレーキで行う。畦塗りは手作業なので重労働だが、やらないわけにもいかない。
代かきとは、田植え前にする作業の一つで、水深を一定にして稲の成長を均一にするために行う。
また、分解の終わっていない稲藁などを泥の下に埋め込むことにもなり、幼い稲の成育を邪魔しない。
到着し、軽トラを降りる。二人の足は今日の作業に合わせて田靴だ。長靴のように見えるが、長靴よりも脱げにくい。ゴムで脚とつま先を括ってあるので足だけすっぽ抜けるようなことがない。
「よーし、ちゃんと溜まってるな」
「こんなもん? 普通もうちょっと地面が見えてない気がするんだけど」
「代かきするときはこんなもんだな」
水と地面の見えている割合は地面の方が大きい。水が全体に行き渡っていることだけは確かだ。
「これで表面を均して、泥が落ち着いた頃にもう一回して、それから田植えだな」
「そういえばそんなこと言ってたっけ? 案外手間がかかるんだなあ」
「むしろ田植えまでに手間がかかるな。植えてしまえば極端な話、あとは雑草除去がほとんどだ」
五月はレジャーにはいい季節だが、肉体労働者にとってはすでに暑い季節だ。
気温はそこまで高くないし、湿気があるわけでもないが、日差しは夏日のそれに勝るとも劣らない。
「さすがに代かきは嗣郎さんの足腰じゃ厳しいしな。俺とお前二人で今日一日でやっちまうぞ」
「うーっす」
気合のこもっていない返事とは裏腹に、平太の動きはてきぱきとしている。
荷下ろしもいつぞやのクソガキとは思えないほどに素早く丁寧だ。
実際、四月の間はずっと莞爾の小間使いのようなことばかりしていたし、休みがあれば一日中睡眠に当てるほど疲れていたのだ。
莞爾も平太が体を痛めないようにペース配分を考えていたが、それでも疲労は蓄積されるものだ。最初の二週間は毎日が筋肉痛で、それ以降は道具の扱い方で怒られる毎日だ。
暢気な顔をしているが、平太も中々どうして根性がある。
こいつはひょっとしてひょっとするかもしれない――だなんて益体もない笑みを漏らしてしまう。
「何にやついてんだよ、社長」
「うっせ!」
平太の帽子のツバを軽く指で弾いて、莞爾は苦笑する。
「やるぞ、新人!」
「社長気合入ってるぅー」
「馬鹿にしてんのか、てめえ」
「冗談だから怒んないで」
軽口を交わすぐらいには、平太も余裕ができたらしい。
***
待合のロビーに戻ったところで、穂奈美は院内の自動販売機で缶ジュースを買ってクリスに渡した。
受け取るクリスもどこか疲労感が滲んでいる。
「お疲れ様。疲れちゃった?」
「少し、な。だがまあ、かなり慣れてきた」
今日のクリスは穂奈美と一緒に自衛隊病院に検査に来ている。莞爾はというと農作業の真っ只中で、本当は彼女に付きそうつもりだったのだが、彼女が固辞したのだ。穂奈美も付きそうから不要だと。
穂奈美はクリスの隣に腰を下ろして缶ジュースを開ける。ごくごくと喉を潤して息を吐く。
「でもまっ、次の検査まではしばらく検査はないから安心してちょうだいね」
「まったくだ」
「だいたいの検査はもう終わってるし、残りは実験の続きだから」
魔法の――とは周りの耳を気にして口には出さなかったが、クリスには伝わっているようだった。
「厄介なものだな」
少々呆れたように、また例のあれかとクリスは面倒臭さを隠さずにため息に表した。
「結果が欲しいのよ」と穂奈美は小声で言う。
「結果?」
怪訝な顔をして尋ねるクリスに、穂奈美はしかと頷いてとってつけたような真面目な顔をした。
「使い物になるかもしれないという期待が現実になることを待っている――それが例え夢物語だったとしても、新しい何かに繋がるかもしれない。簡単に辞められるほど予算は少なくないし、クリスちゃんの身柄のために講じた手間も無視できない。上は何らかの成果を欲しがってる」
なるほど、と軽く頷いてクリスは再度ため息を漏らす。
どうにも国家というものは「優位性」というものに目がないらしい。
いやはやそれも自明の理であるか、とクリスは軽く首を振る。それは当初からわかっていたことだ。今更何を言うまでもない。
「私にできることは全てやっている……というか、だ。私は指示されたことを指示された通りにやっているだけであって、その責任を私に向けられても困る」
「それもそうよね」
穂奈美は仮面を取り払ってあっけらかんと笑う。
こういう瞬間に、クリスは穂奈美の抱える二面性というか、許容するには無視できない警戒心を抱かざるを得なかった。
けれども、彼女には多大な恩があり、彼女の属する政府もとい国家に対してはそれなり以上に協力するつもりだった。
穂奈美に対して一定の信頼はあるものの、最後の最後で彼女は管理する側の人間だということを意識させられてしまう。かつて自分がそうであったように。けれど、それが穂奈美を所属から疑うべき存在だと認識するかどうか、という点についてはいまいちはっきりとわからない。
もともと伊沢穂奈美という女性はあまり本心を語らないというか、真面目な話をしたかと思うと次の瞬間にはおちゃらけて見せるところがあった。そうしていつの間にか肝心な部分が聞けなくなっていたり、すっかり忘れてしまったりする。
詰まるところ、彼女のトークスキルの一種なのだろうと思う反面、それに助けられたことがあるのも事実でどこか複雑な心境になった。
「いずれにせよ――」
クリスは努めて明るい口調で言った。
「私としては、カンジ殿の傍にいられるならどんなことにも協力はしよう。私に許容できる範囲で、という但し書きはつけさせていただくが」
「ラブラブなのね」
意味が分からずクリスは首を傾げた。すると穂奈美はすかさずにまにまと笑みを作って教える。
「愛し合っているのね、って言ったのよ」
検査のあとのせいか、常ならば顔を赤らめるような言葉に対して、クリスは不機嫌そうに顔をしかめただけだった。慣れただけなのかもしれないが、その様子に穂奈美はおやと目を細めた。
他意はなかったにせよ、どこか思うところがあるらしいと彼女の直感が告げる。
クリスが缶ジュースを開けて一口飲む。その所作一つとってもこの世界に慣れてきたのだと妙な感慨が湧いた。
「夫婦とはそういうものであろうに」
嗚呼――穂奈美は意表を突かれた。それを少しもおくびに出すこともなく「知ってるわ」と微笑んだものの、その笑みはどこか曖昧で頷く仕草はわずかに空虚でもあった。
「今日のホナミ殿はいつにもまして棘があるように感じるのだが?」
「そうかしら」
見透かされている。鼓動が一瞬高鳴って、すぐに自嘲の鼻息を漏らしそうになって、寸前で笑ってごまかした。十八歳の小娘の言葉に気づかされるとはなんたる不覚。
そうおふざけのつもりで受け流す思考回路もひねくれたものにしか思えず、缶コーヒーを飲み干して大きく息を吸い込んだ。
ゆっくりと息を吐くつもりが、ふうっと大きなため息になってようやく穂奈美は自嘲した。
「そうかもしれないわね」
今度はごまかしの利かない苦笑いだった。
ほどなくして病院を後にして、穂奈美の運転でクリスを三山村へと送る。
その道中で穂奈美は前を向いてハンドルを握ったまま言った。
「わたしもね、大原くんと結婚の話があるんだけど、中々うまくいかなくて」
「ふむん?」
クリスが首を傾げるのが視界の外でもわかる。穂奈美は片手でさっと頬をかいてまたハンドルにその手を戻した。
「お互いいい年齢だし……というか、わたしの方かな。子ども作るならもうあんまり待てないなあって。なんだかんだ言ってやっぱり若いうちに産んだ方が後々楽ってのは確かだもの」
「むう。そう言われても、私はニホン人女性の適齢期というものを知らぬのでな。祖国では十代のうちに結婚するものであったし、二十歳を過ぎれば嫁き遅れと言われるのが普通だった」
「文化の違いなのかしらねえ」
前近代的だ、とはあえて口に出さず穂奈美は軽く笑う。
しかし、クリスは肩を竦めて言った。
「文化も何も、女が日々の糧を得られるようにはできていないのだからな。若いうちに結婚して生活の保障を得なければ……貴族であれば穀潰し。平民であれば夜鷹になって春を売るくらいであろうな」
かといって、クリスはそれを不満に感じたことはなかった。自分が騎士という立場になりこそすれ、最終的には父親の決めた相手と結婚して子を残すのだろうと思っていたのだから。
「クリスちゃんはどっちがいいと思う? エウリーデ王国と日本と」
「愚問だぞ、ホナミ殿」
クリスは小さくため息をついて答える。
「歴史も、情勢も、仕組みも、民族も、文化も、全て違う。どうやって比べるというのだ」
「でも、日本なら女でも好きな仕事ができるのよ? 無理に結婚しなくても自分の食い扶持ぐらいは稼げるわ」
「だから、そういう問題ではないと言っている」
クリスは若干の苛立ちを滲ませて言う。
「仕組みに合わせて時代が動くわけではあるまい。時代に合わせて仕組みが変わるのだ。仕組みに合わせて生活をするのが普通だ」
「……そうね」
穂奈美は信号の色に合わせて車を停める。エンジン音だけがやたらと響いた。
赤から青に変わると同時に、アクセルを踏み、そうして口を開く。
「大原くんのご両親……というか、親族にね。専業主婦になるんでしょうって言われちゃって」
「ふむ」
「要するに介護が必要になってきた彼のご両親の面倒はお前が見ろよって言われてるんだけど」
「道理だな。些か私見が入るが」
「でしょうね。でもわたしはまだ仕事がしたいのよ」
穂奈美としても大原の両親の介護をしたくないわけではない。多少面倒だと思うものの、所詮は巡り巡って自分もそうなるだろうし、それを嫌がっていても仕方がない。
けれど、今は仕事が順調で、辞めて専業主婦になるとはどうしても考えられない。大原自身も仕事は続けてくれていいと言っている手前、釈然としない。
「彼はね、仕事は続けた方がいいって言ってくれてるのよ。親孝行したいときに自分のお金でしたいだろって。それもわかるけど、なんていうか彼の周りがそうじゃないのよね。もしかしたらそういうつもりで言ってるわけじゃなくて、わたしのただの勘違いなのかもしれないけれど、なんだか身構えちゃうっていうか。彼のご両親が好きにしなさいって言ってくれるから余計にね」
「では好きにすればよいではないか」
「そうできたら簡単なんだけど」
穂奈美は苦笑する。大原は悪い人間じゃないとは思う。多少面倒くさい性格をしているが、基本的には真面目で、理知的な部分もある。彼の両親も比較的緩いというか、二人の好きにしなさいと言ってくれている。
けれども、親族とはいえ無関係なところからチクチクと口撃されるのはどうも気に食わない。面と向かって直接言われたわけではないが、どうにも嫌味を言われているような気分になる。
「必要になってから考えればいいのではないか?」
クリスはあっけらかんと言う。
「仕事を辞めて主婦業に専念するにしても、将来何が起きるかわからぬし、その時になってあの時仕事を辞めなければお金があったなどと思うよりもずっとマシではないか」
「それもそうよねえ」
穂奈美は心底同意するように頷いた。
「だいたい子どもができれば何かと入り用であろうし、そのために稼ぐのだから義理の親にとっても孫のために多少は我慢しろとしか言えぬしな。無関係な人間がああだこうだと言うのは異世界といえどもあまり変わらぬようだ」
クリスはふふんと鼻を鳴らして笑う。どこにいても人間というものはあまり変わらないらしい。
「ホナミ殿もオオハラ殿も頭が回るのだから、血気に逸るということもあるまいし、おおよそのことは見越して動いているのであろう? うるさい輩には言わせておけばよいのだ」
「……クリスちゃんって結構男前よね」
「むっ、なんだそれは! あまり嬉しくないぞ!」
「ふふっ、冗談よ、冗談」
少しだけ胸のつかえが取れたような気がした穂奈美だった。まさか自分が年下の女の子から諭されることになろうとは、なんともはやだ。
「それで、クリスちゃんの方は? 最近莞爾くんとはどうなの?」
「うむ。ホナミ殿の言葉を借りれば〝らぶらぶ〟というやつだ」
むふふ、とクリスは少し照れたように笑う。穂奈美も小さく息を漏らして笑った。
「それならよかった。その調子だと二人の子どもを見るのも早そうね」
「ふむ。先んじて産婆に話を通しておかねばな」
「産婆って……今どき中々聞かないわよ。産婦人科調べておくわね」
「産婦人科?」
「出産でお世話になる病院があるのよ」
「ほう。そうだったのか。ということは産婆もそこに詰めているのか?」
「お医者さんね」
「……男か?」
「……そうね。男もいるわね」
クリスはしばらく頭をがしがしとかいてハンドルを握る穂奈美に視線を向ける。
「……やだ」
「気持ちはわかるけど、相手はお医者さんだし――」
「嫌なものは嫌なのだ!」
痛いほどクリスの気持ちがわかる穂奈美だったが、こればかりはかかる産婦人科医によるとしか言いようがない。
「莞爾くんに頼んでおきなさいよ。女医さんのいる産婦人科にしてくれって」
「……そうする」
相手は仕事だとはいえ、クリスからすれば夫以外はお呼びでないのだ。
***
庭先に車を停めて降り、二人で莞爾の家に入ろうとして足を止める。
そこには泥だらけになった青年と、手にホースを持つ莞爾。
「社長! 一思いにやってくれ!」
「いや、何のキャラだよ。ほれ、行くぞー」
傍から見ていても泥だらけの青年がふざけているようにしか見えない。莞爾もどこか呆れた様子で蛇口をひねり、ホースを向ける。
「うわっぷ! 冷たっ!」
「その格好で家あがれねえだろ」
「案外冷たい! 井戸水冷たい! 今何月ですか!?」
「五月です」
顔の泥がとれてようやく平太だとわかる。一体何をしているのやら――急に上半身の作業着を脱いで奇妙なポーズを取り始めた。爆撃を阻止せんとするニコラス・ケイジばりのポーズである。莞爾は迷わずホースの口を狭めて平太の顔を狙った。
「あばばばばっ! ちょっ! 痛い!」
「おーう、なんか楽しそうだな。次は乳首狙ってやろうか」
「やめてっ! いけないものに目覚めちゃう!」
そういって胸と股間を手で押さえる平太だったが、莞爾はさらに蛇口をひねって水の勢いを強くした。
「あふんっ! そこはやめてっ! でも悔しいっ! 感じちゃうっ!」
「ふざけてねえでちゃんと流せよ」
「……はい、ごめんなさい」
穂奈美とクリスは呆気にとられているだけであった。
「ねえ、クリスちゃん。あの二人何してるのかしら」
「ふむ。男というものはだいたいあんなものではないか?」
「それは大いに同意できるけれど、そもそもあっちの男の子誰?」
「ヘイタだな。カンジ殿の従甥で、新入しゃいんというやつだ」
「ふーん……ガリガリね」
「うむ。ガリガリだな」
外野から厳しい意見をもらう平太だった。
「社長と新入社員か……捗るわね」
「ホナミ殿、一体なんの話だ?」
クリスにはまだ早い――穂奈美は口元を拭った。
ようやく泥を流し終えたところで、莞爾と平太は二人に気づく。
「おう、おかえり」
「ただいま、カンジ殿」
穂奈美には「よっ」と手を上げるだけだ。穂奈美の方も似たようなもので軽く手をあげて応じる。
クリスは先に家に上がってタオルをとってきて、冷たい水に晒されて震えている平太に渡した。
「日中は暑いが、まだ風は冷たいのだ。風邪をひいてしまうぞ」
「うぅ、社長の奥さんが優しいぜ……社長はあんなのなのによ」
「おい、あんなのってなんだ。喧嘩売ってんのか」
冷静に見下ろす莞爾に平太はしくしくと泣く真似をするのであった。
「むふふっ、その調子ならば風邪も引くまい」
そういって、クリスは平太の背中をぱしんと少し強く叩いた。
「いてっ、クリスさんちょっと強いっす」
「気のせいだろう?」
「いや、叩かれたところめっちゃ熱くなったし。えっ、嘘、なんかジンジンする。大丈夫? これ背中に力士の手形とかついてない?」
ほんのり魔力を込めたことはクリスだけの秘密だ。莞爾も穂奈美も気づかなかった。
いくつかの挨拶と話を終えて穂奈美はまた車に乗り込んだ。
また今度、という文句で見送り終わり、平太が頭にタオルを巻いたまま尋ねた。
「社長、あれ誰?」
「大学んときの友人だ。クリスのことでちょっと世話になってる」
「ふーん。普通に美人じゃん」
「オタクだけどな」
平太は首を傾げて言う。
「全然良くね? 人の趣味は勝手だし」
「それもそうだな」
「えー、でもいいな。俺もああいうお姉さんとお知り合いになりてえ」
「お前年上趣味だったのか?」
「そうじゃないけどさ、ほら俺って見境ないじゃん?」
「あれも一応結婚するかもって相手いるからな」
平太は大きく何度も頷いた。
「わかるー。この人いいなって思ったらだいたい相手いるんだよね! 世知辛いぜ! どうせ俺は売れ残りさっ!」
「いや、お前まだ十八だろ」
明るい口調とは裏腹に仰々しく目元を拭う平太であった。
『俺んちに来た女騎士と田舎暮らしすることになった件』は
読者様のおかげを持ちまして
8月5日に発売となりました。
加えて、第五回ネット小説大賞において
金賞及びコミカライズ賞をW受賞となり、
拙作がコミカライズされることが決定いたしました。
読者の皆様には重ねて御礼申し上げます。
詳細は活動報告をご覧ください。
拙作の4コマ漫画などを載せています。