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4月(1)最近の若者の意地

大変お待たせ致しました。


場違いではありますが、前書きにてご報告申し上げます。


本作『俺んちに来た女騎士がいつの間にか嫁認定されてる件』は本日7/3をもちまして、『俺んちに来た女騎士と田舎暮らしすることになった件』へと改題することになりました。

お察しの通り書籍版のタイトルであります。しばらくは併記していきます。

以後、ご注意くださいますよう、よろしくお願いします。

 三山ファームヴィレッジ。


 莞爾を社長として佐伯家、伊東家、由井家が集まってできた所謂農業生産法人だが、起業したからといってやることは今のところ変わらない。

 やり方が変わっただけとも言う。


 結論から言えば、「育て」て売る。そのために人員をどのように動かし、どこに予算を注ぎ込むか、そういう部分はあくまでも枝葉末節だ。

 会社という組織が営利団体である以上、どのような手段であるにせよ、最終的に「儲け」を目的としていることは言うまでもない。


 むしろ「儲け」なんて二の次だと言う会社は信用に値しない。社会貢献だの自己実現だのと嘯くのは滑稽ですらある。どうせお花畑を作るなら、金を生む畑にして欲しいものである。


 結局のところ、株主(株の売買による利益を求めない場合)にとっては配当金が目当てであり、経営者は純利益の増加が目的であり、社員は労働の対価として給料を得ることが目的だ。



 しかしながら、だ。

 農業生産法人もとい農地所有適格法人では、この構図でありながら、役員は農業に従事していなければならない。つまり、実際に現場で役員が働いている必要があるのだ。もっとも、実際には様々な要項があるのでこの限りではないが、役員の過半が農業(販売・加工を含む)に常時従事(年間百五十日以上)していなければならない。そしてそのうちの一人以上は年間六十日以上の農作業に従事しなければならない。


 これらの原則は一般的な企業として見た場合非常にデメリットが大きいのだが、農家が起業するという点では問題が乏しく、また企業の新規参入において殊農業に関して――日本における現代農業の弱点に鑑みれば必要な処置なのだ。


 なぜならば、農業において企業の「撤退」は由々しき事態である。


 農業は一部の例外を除いて基本的には「農地」を必要とする。

 日本の税制上、「農地」は宅地とは異なり、かかる固定資産税にも差異がある。そして、何より厄介なのは「農地」は現行法制上、生産し続けている必要がある。つまり基本は畑を耕し種を播き育て収穫し売る、という状態だ。休耕などはさておき、現状耕作されずに放置された「農地」を「耕作放棄地」と言う(将来的に栽培生産する予定のない状態を含む)。


 この「耕作放棄地」は文字通りの放棄であり、そのまま耕作しなければ名目上「農地」でありながら実態は野放しであり、鬱蒼とした雑草や雑木に支配されることは論を俟たない。


 つまるところ、新規参入したものの利益が上がらないので撤退します――耕作放棄地の増加、では困るのだ。そもそも物を仕入れて売るという基本的な商取引と、不確定要素の大きい農業とでは、産業としての性格が本質的に異なる。


 この「撤退」がもたらすものは「耕作放棄地」の増加だけではなく、各地の後継者不足問題に拍車をかけることになりかねない。農家にとっては後継者であるが、言い換えれば生産者の減少である。もっと別の言い方をすれば、雇用の減少である。


 とくに農業は地方の活性化において無視できない役割もあり、この雇用先が消失することは地方経済の停滞を誘引すると考えても不思議ではない。


 これらも含めた諸々の不安に鑑み、企業の安易な撤退を予防するため、農地所有適格法人の役員構成はかくも面倒な要項を抱えているのである。



 ***



 平太は納屋の片隅でひたすら梱包作業に追われている。


 梱包する段ボールにはしっかりと「三山ファームヴィレッジ」と銘打たれているし、包装するビニールにも社名のついたシールが貼られている。


 もっとも、今出荷準備を進めている作物の一部は嗣郎や孝介が個人で栽培したものであり、それらについては会社として直接的な売り上げにはならない。

 とはいえ、梱包材に社名とロゴがあるだけで宣伝材料にはなるのだ。


 とくに梱包材に指定がないのはむしろ大助かりである。


「なあ、社長」平太はてきぱきと手を動かしている莞爾に声をかける。


 莞爾はちらと平太に視線を向けるが「なんだ」と無愛想に答えてまた視線を作業に戻した。


「社長って社員と同じ仕事してるもんなの?」

「はあ?」


 きっと平太の中では社長といえば大きな椅子にふんぞり返っているイメージなのだろう。

 そんなもの中小企業にはあり得ない上に、大企業の社長だってその大きさに比して馬鹿みたいに忙しいのが普通である。


 人よりも多くの金を得るものは人より多くの責任と労働を強いられるのである。平太にとって「社長=なんか偉そう」という単純なものだった。確かに「なんか偉そう」なのは事実かもしれないが、会社としての意思決定権を持つのだから社内のパワーバランスにおいて「偉い」のは当たり前である。むしろ偉くない社長なんかいない。


「お前の考える社長ってなんだ?」

「なんか歓楽街を肩で風切って歩いてそうじゃん。んで、馴染みのキャバ嬢にセクハラして、ドンペリ頼んでそうじゃん。いやーん社長太っ腹ぁ、はっははー、こいつが肥やしに肥やした私腹じゃあポンポポコリン、やだ社長そこはお腹じゃなくておっぱいよお、せ・く・は・らあ……みたいな」

「……ずいぶんバブリーだな、それ。っていうかお前の社長のイメージひどすぎ。なんだよ、ポンポコリンって」

「バブリー? どゆこと?」


 平太はバブルなんて知らないのであった。もっとも、莞爾だってバブル期にはまだ幼子だったし、物心ついたころにはとうに弾けたあとだったので同じようなものだ。けれども、年代の差もあって莞爾はバブルがどういう時代だったかをかろうじて理解している。


「作れば作っただけ売れて、売れば売っただけ給料が増えた時代をバブルって呼んでんだ」

「ふーん、今は?」

「バブルでもなんでもねえ。むしろ低迷中だ。作っても売れない、売れないから給料も上がらない、そのくせ物価は上がる。そういう時代だな」


 景気はよくなっているらしい。あくまでも「らしい」だ。莞爾には依然として実感がない。大企業に勤めているわけでもなければ株の売買をしているわけでもないのだから、末端の莞爾まで実感できるようになるのは数年ないし十年からあとのことだろう。


 こればかりは仕方がない。数字と実態がズレるのは日常茶飯事である。


 平太は興味がなさそうに適当な相槌を打つだけだった。実際彼は高校を卒業したばかりで経済に精通しているわけでもないのだから、認識としては「大変そうだなあ」ぐらいのものだ。


「なんかさー、生まれる時代を間違えたって思うことねえ?」


 平太はため息混じりに言う。しかし、それに答える莞爾もため息を吐くしかなかった。


「馬鹿なこと言ってる暇があったら手を動かせ」


 そう言ってガムテープをちぎった。

 今は面接に行くだけでお金がもらえる時代ではないのである。

 いくら有効求人倍率がバブル期ピークと同水準まで上がっても、そう簡単に就職先が見つかるわけではないのだ。そもそも経済成長の状況が当時とは全く違うので、求人倍率が上がったからといって当時と同じわけでは全くない。


 ちなみに求人倍率とは求職者一人当たりに対する求人数なので、数値が一以上の場合、一人につき一つの職場がある、ということになる。この数値が高ければ高いほど売り手市場となり求職者にとって有利となる。


「でもさ、一度そういう時代があったってことは、また来るかもしれねえってことだろ?」

「そうとも言えるし、そうとも言い切れないな」


 日本のバブルとは高度経済成長期の延長に位置する。もし仮に日本にバブル経済のような状況が再来するとしても、それが喜ばしいことかどうか少しひっかかる。

 何よりバブルは弾けたあとが怖いのだ。


「一番いいのは経済成長率が毎年じわじわ上がることだな」


 莞爾の言葉に平太は首を傾げるばかりであった。こればかりは仕方がない。平太は一般教養の「経済」ですら学んでいないし、何より学力向上のための勉強しかしたことがないのだから。


「わかった。お前には仕事もそうだが、まず経済について教育が必要みたいだな」

「いや、結構です」


 急に真面目な顔をして断る平太だが、もはや時既に遅し――莞爾は平太に経済関連の教科書を読ませることを決意した。ちなみに感想文を書かせ簡単な問題を出すことまで決めた。新入社員研修である。


「ってかさ、おれ思ったんだけど、こういう単純作業ってパートさんとか雇った方が効率いいんじゃねえの?」

「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」

「は?」

「――オン・ザ・ジョブ・トレーニング」


 莞爾は何度も繰り返し平太に言う。都合の良い言葉である。


「略してOJTだ。さすがに知ってるだろ」

「なにそれ」


 平太はOJTを知らなかった。知らないことを知らないと言えるのは平太の美徳であるが、もう少し知っているフリをしながらもあとで調べるぐらいの気概が欲しいところである。

 莞爾は驚いた顔をして説明する。


「実務をさせながら仕事を覚えさせるんだよ。現場研修みたいなもんだ。習うより慣れろってことだな」

「なんかそれ失敗の予感しかしねえ」


 盛大に顔を歪ませる平太であったが、ではなぜ莞爾が今も平太の傍を離れないで同じ仕事をしているのかとは考えなかった。


「基本的にはさ、どんな仕事でも複雑なことってあんまりないんだよ」


 莞爾は会社員だったころを思い出して言う。


「どんな仕事も細分化していけばほとんどは単純な作業だ。頭を使う仕事だって慣れれば同じ……複雑に感じるのは優先順位とか、仕事が重なるとか、それだけに集中できないからだな。ひとつずつ潰せるならどれだって大したことじゃない」

「えー、それはさすがに言い過ぎじゃね?」

「難しい仕事ってのは大抵経験値の低さが原因だってことさ。まあ、稀に勤続何十年で何もできない社員とかいるけどさ……例外中の例外だな」


 それはどんな仕事であれ、比率の差異こそあれ根本的には変わらない。もっとも、仕事の規模が大きくなるにつれて、個人の「慣れ」ではどうにもならない「調整」が待っている。


「お前の場合は、まず基本の仕事に慣れること。例えば俺があれやってこいってお前に言ったら、お前が説明聞かずにわかったと言えるぐらいに慣れなきゃ話にならん」


 惜しむらくは一つずつ集中して教えたくても、それができるだけの状況と人員がいないことである。


「そんで、今やってる作業だって単純かもしれないが、絶対に必要な仕事だ。いずれパートを雇うにしても、現場を知らない人間が上に立つと絶対下に無茶を押しつける。あるいは下を甘やかす。まあ、今のところお前が一番下っ端だ」


 一通りの梱包作業を終わらせ、軽トラに載せる。運転するのは平太である。莞爾は助手席だ。

 キーを回すと古いエンジンがうなり声を上げる。ふと平太が言った。


「単純作業が慣れってのもわかるけどさ、なんていうか言葉ではわかるけど納得はできないって感じ? どんなに箱詰めが上手になっても職人とは呼ばねえだろ?」

「今日からお前は名誉箱詰め職人だ、馬鹿野郎」


 莞爾は盛大なため息を吐いた。



 ***



 ところ変わって由井家宅では孝一と智恵がせっせと事務処理に追われていた。


 孝一は元々経理に強いが、農作業は平太よりも覚えがある。智恵は全くできない状態だ。


 というか、実は智恵は土いじりに少々不快感を抱く潔癖なところがあった。そこまで重傷ではないが、今でも手袋をせずに土を触ることはできない。もっとも、視覚的な影響が大きく、今ではかなり割り切った方だ。


「あなた、莞爾くんのお手伝いはいいの?」

「あっちは平太くんを連れ回してるよ」


 実は孝一にとって法人化するにあたって平太のことは勘定に入っていなかった。嗣郎や莞爾から話を聞いてから調整を始めたのだが、地味に人件費が痛い。

 現状では最低賃金なので大した額ではないのだが、現状だからこそ生産性の低い人員を抱えることが痛い。


「今はとにかく平太くんが一人前になってくれないと、嗣郎さんや親父も彼のことは莞爾に任せてしまっているし、今のままだと莞爾の負担が大きい」


 人に教えるという行為は気楽に見えて実際はかなりの負担である。自分の仕事をしながら他人の仕事をチェックするのだから当然だ。


 しかし、嗣郎が平太の面倒を見ればどうしても甘やかしてしまうことは目に見えているし、孝介はあまり指導に向いていないので仕方がないところもある。それに何より嗣郎と孝介は莞爾に平太を指導させることで成長させようと思っている節がある。


「ところで――」


 孝一は智恵に視線を向けて尋ねる。


「莞爾のこと、いつから莞爾くんって呼び出したんだ?」

「この前集まった時に社長って呼んだんだけれど、むず痒いからやめてくれって言われて。それで佐伯さんって呼ぶのも莞爾さんって呼ぶのも、なんだか慣れないんですって」

「あいつらしいけど、あんまりよくないな」

「そう?」

「社長の立場はそんなに安くないだろう?」

「それを言うならお義父さんや嗣郎さんに言わないと、でしょう?」


 そう言われてしまうと孝一も反論できない。智恵は苦笑して言った。


「まあ、時と場所を選ぶぐらいはしているから、問題はわたしじゃなくて平太くんでしょう?」

「……そう、だな」


 孝一は腕を組んで唸る。

 道楽ならつゆ知らず、法人化したのは何より今より稼ぐためでもある。いずれ会社を大きくしていくことを考えれば、早いうちから意識改革は徹底しておく必要があった。


「平太くんは若いし、莞爾くんはいいお兄さんだったんでしょう? なら、しばらくは仕方ないんじゃない?」

「昨日まではため口だったのに、今日からは敬語で話す関係になるなんて、よくある話なんけどなあ」


 プライベートならばいざ知らず、社内では役職にふさわしい立場というものがあるものだ。旧知の仲だからと言って平社員が社長にため口を利くようなことはあってはならない。


「それに」智恵は帳簿のファイルを閉じて言う。「あのくらいの年齢なら、一度失敗しないとわからないものじゃない」


 それは確かにそうかもしれないが、と孝一は小さくため息をついた。


「莞爾が一度しっかり怒ったら意識も変わるんだろうが……二人の関係を考えると怒り怒られの状況に慣れているからなあ」


 孝一は二人の言い合いを思い出して頭をかいた。

 智恵も今でこそ二人きりだから砕けた口調だが、仕事上であれば智恵は必ず孝一に敬語を使う。それが普通なのだ。いくら夫婦でも、それはプライベートな関係であって、仕事には関係ないのだから。


 とはいえ、三家の合同会社であり、家族経営の延長であることを考えると、孝一が不満に思うのもある種諦めに似たところがあった。


「いつかは会社を大きくしていきたいが、今はまだそういう段階じゃないし……」


 なんだか不満に思ってしまうのは、孝一の経歴によるところも大きいのだろう。智恵も似たようなところはあるにせよ、彼よりもずっと順応していた。とにもかくにも、孝一が生真面目というか律儀というか、お堅いのである。


「熱意があるならいいんだが、平太くんはどうもそうは見えないから納得できないんだろうなあ」

「もしかしたら、そういう風に見せてるだけかもしれないじゃないの」

「十八歳で、か?」

「勉強してても勉強してないって言うようなものじゃない? 彼ってたぶんあんまり努力してるところ見られるのが好きじゃないような気がするのよね」

「というと?」


 孝一が聞き返すと智恵は腕を組んでしばらく唸った。


「どうなのかな。でも、たぶん平太くんは大丈夫だと思う」

「たぶん、か」

「ふて腐れるタイプじゃないし、大人しくもないじゃない。馬鹿正直にわからないことはわからないって言うし、怒られても凹むんじゃなくて、納得するタイプだと思う」

「――だといいんだが」


 孝一のため息に智恵は苦笑で頷いた。智恵は平太ぐらいの年齢のアルバイトを動かしていた経験もあり、その経験則から平太のようなタイプは大丈夫だと判断していた。


 ちょうどいいタイミングで窓の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえた。


 智恵は椅子から立って窓を開けて外に顔を出す。すると、菜摘がクリスと一緒に遊んでいるところだった。

 顔を戻して孝一に視線を向ける。


「ねえ、あなた。菜摘はちゃんと女の子らしく育つかしら」

「どうしたんだ?」


 いきなり何を言い出すのかと思って孝一も外の二人の様子を盗み見た。

 菜摘は棒きれを持って楽しそうにクリスに打ち込んでいた。一方のクリスもそれを難なく受け止めたり受け流したりして、あれそれと指南しているようである。


「いい打ち込みだな」

「そういうことじゃなくて」


 智恵は孝一の着眼点に呆れてしまいそうだった。

 孝一は「冗談さ」とかすかに笑って窓を閉めた。


「菜摘のことをほったらかしにしていた私たちが今更過保護になるのも、な」

「それはそうだけれど――」

「菜摘には女の子らしく育ってほしいという気持ちもわかるが、菜摘は……ほら、元々気が弱い子だっただろう? 私たちがちゃんとケアできていなかったとはいえ、菜摘の性質はあまり元気な方ではなかったじゃないか。クリスさんとチャンバラごっこをしているのは、むしろいいことだと思うんだがね」


 智恵は菜摘がもう少し大きくなったら、まずは習字教室に通わせ、それから華道なり茶道なりさせる胸算用だった。本人が嫌と言うならさせるつもりはなかったが、字は言わずもがな上手い方がよく、華道や茶道は正道の礼儀作法を覚えるために習わせるつもりだったのだ。

 変なところで教育ママのような状態になってしまったが、智恵が孝一とともに三山村に移住してからは、家族で過ごす時間も増えたことで、菜摘が毎日成長していく姿を見るのが楽しくて仕方がなかった。


 智恵は窓ガラスを挟んで向こうに見える愛娘の笑顔をぼんやりと眺めながら言った。


「菜摘は、わたしたちのこと許してくれるかしら」

「許す許さないという関係じゃないと思うんだが……」


 孝一はそこで言葉を区切った。下手に濁しても意味がなく、本心が伝わるとは思えなかった。


 今の菜摘は孝一や智恵と一緒に過ごせることを喜んでくれている。今はそれだけで十分に幸せだ。けれど、自分たちの怠慢が菜摘を悲しませたこともまた事実で、今の自分たちの変わりようが信じられないことでもあった。


「いくつになっても親は親なら、どんな子どもでも、我が子は我が子だよ」


 願わくば、我が子が人並みの幸せを得てくれればと、いつの間にか孝一と智恵は一緒に菜摘の笑顔を見つめていた。

 智恵は不安を隠せずに吐露した。


「菜摘、またいじめられたりしないかしらね……」

「どうだろう。だが、もしそうなっても、今度は助けてやろう」


 けれど、孝一はそう言いながらそこまで不安ではなかった。

 かつて東京で暮らしていたころ、菜摘の顔を見ることも稀だったが、それでも菜摘の笑顔を見たことは数えるほどしかなかった。なのに、今の菜摘は笑顔じゃない顔を見る方が難しいくらいだ。


 あどけないその笑みに、まるで今が一番幸せだと言わんばかりの声色が重なって、孝一も智恵も自らの不手際を嘆くしかない。


「ひとつ相談があるんだが」


 孝一の問いかけに智恵は視線を菜摘から逸らして頷く。


「もし菜摘が嫌じゃなかったら、なんだが――」


 妙に渋る様子の孝一に、智恵は微笑みかけて促した。


「その、剣道とか、習わせてみたらどうだろう?」


 智恵は目を見開いて驚き、そうして窓の向こうを一瞥して、ぷっと噴き出すように笑った。


「あははっ! 菜摘が剣道ね!」

「いや、案外いいと思うんだ。病は気からじゃないが、体を鍛えれば、自ずと心も健やかになるだろう?」


 智恵は義父母から聞いた菜摘の話を思い出して真剣な顔つきになった。


「そう……そうかもしれない。ううん、きっとそう」


 夫妻はまた窓の向こうを眺めていたが、先ほどよりもずっと楽しそうな笑顔をしていた。


 窓を閉めたのは幸いである。菜摘は「必殺!」と叫びながらわけのわからない技を(いや、むしろ業を)クリスに向かって繰り出している最中であった。そして、それを笑いながら受け流すクリスである。



 ***



 出荷から戻り、残った野良仕事を終わらせた莞爾が自宅に戻ると、クリスはちょうど夕飯の準備をしているところだった。


 炊飯器からは米の炊ける匂いが湧き上がり、コトコトと蓋を鳴らす鍋からは甘辛いような醤油の匂いがこれでもかと鼻腔を蹂躙してくる。


「ただいま」莞爾は勝手口から家に入るなりクリスに声をかける。するとクリスも「おかえり」と嬉しそうに顔を向けた。


「コウイチ殿がさっき来たぞ」

「兄さんが?」


 クリスは「うむ」と大きく頷いて、居間を指さした。


「書類を預かったのだ。居間の卓の上に置いているぞ」

「そっか。ありがとな」


 言付けを聞き、それはさておきと莞爾は手を洗うや否や鍋の蓋を取る。残念、まだ落とし蓋もあった。


「クリス、これは何作ってるんだ?」

「むふふっ、手羽先の甘辛煮だ!」

「おーっ、美味そうだな」


 醤油の匂いがする飴色の液体はそれだけで涎を招いて仕方がない。


「本当は揚げ物にしようと思ったのだがな、トロトロに煮込んだ手羽先も美味しそうだと思ってそちらにしたのだ」


 スミ江から教わったとおりマーマレードを一さじ入れたのは内緒だ。


「いや、正解だよ。こりゃあ飯が何杯あっても足りないな」


 莞爾はじゅるりと口元を拭った。


「ふふっ、先に風呂に入ってきたらどうだ? 沸かしておいたぞ」

「おっ、気が利くな」

「今からスナップエンドウとやらを茹でるからな。ちょうど風呂上がりのビールの肴にちょうどよいのではないか?」

「用意周到だな。恐れ入りました」


 莞爾がおどけてみせると、クリスは腰に手を当てて「むふふん」と胸を張った。恐れ入ったか、と言いたいようだ。


 ここ数日はずっと平太と一緒に仕事をしているので、莞爾も帰宅が遅くなっている。それでも日が暮れたら仕事は終わりだが。


 莞爾は昭和の匂いのする関白宣言を口ずさみながら、浴室に向かい、服を脱いでいざ風呂に、というところでクリスが鬼気迫る顔で扉を開けた。


「カンジ殿!」

「うおっ! な、なんだよ……」


 思わず股ぐらにタオルを当てる莞爾であった。何度見せつけたことやらわからない愚物であるが一応隠す。クリスもクリスで局部さえ隠れていれば照れないぐらいには慣れてしまった。ちょっぴり頬が赤いのはまだ恥じらいがある証拠である。


「今しがた聞き捨てならない言葉が聞こえてきたのだが?」

「はあ?」

「浮気がなんだとか、たぶんとか。覚悟しろとはどういうことだ!?」

「いや、そういう歌詞だから!」


 こんなにかわいい妻をもらって浮気をするなんて、そんなやつがいたら破砕機に突っ込んで畑に撒いてしまうところだ。なお、実際には人肉は肥料に相応しくないのでやらない方がいい。あと法律的にも。

 とはいえ、浮気をしようとラブラブだろうと、どちらにしても爆発してほしいのは変わらないのであった。


「むむぅ、浮気は……隠れてされるのはあまり良い気持ちがしないからな」

「は?」


 クリスとの価値観のズレを再認識する莞爾であった。ちなみに莞爾は全然亭主関白ではない。まるで亭主関白のような生活スタイルになってしまったのは全てクリスの献身あってこそである。


「いや、浮気なんてしないから。っていうか、日本は一夫一婦だから」

「……そうだったな」

「心配しなくても俺にはお前だけだろ?」

「はぅ……そ、そうだな!」


 全裸で股間にタオルを当てて言っても全然様にならないのはご愛敬である。





 一方その頃、平太は伊東家の食卓についていた。


 すっかり薄味の食事になってしまったが、嗣郎は一切文句も言わずに食べている。むしろ最近はそんな食事にも慣れてきたのか、はたまた薄味ゆえの野菜の旨みを再認識したのか、これはこれで美味しいと思い始めていた。


 しかし、そんな食事で物足りないのが若さ溢れる平太であった。

 しかし、文句を垂れる暇もないほどに連日疲労困憊である。

 しかし、飯も食わずに寝ることも許さない関白が隣に座って美味そうに飯を食っている。

 しかし、蓄積された疲労は関白嗣郎を前にしても隠せないのであった。


「ばあさんや」

「なんです、おじいさん」


 嗣郎の問いかけにふざけた調子で返したスミ江だったが、嗣郎が自分の隣をあごで示すと「あらまあ」と声を漏らした。


「平太は器用ねえ」

「そこじゃなかろうに……」


 平太は箸と茶碗を持ったまま舟をこいでいた。

 いつもうるさい平太も眠りこければさすがに静かだった。


「ほれ、平太。起きろ」


 嗣郎が肩を小突くと平太ははっと目を開いて大きく息を吸い込んだ。居眠り直後特有の息の荒さを整えて彼は尋ねる。


「おれ、寝てた?」


 嗣郎とスミ江が同時に頷くと、平太は大きなため息を漏らして米粒を口に運んだ。


「昨日も一昨日も疲労困憊じゃなあ」

「あんまり無理しないようにねえ」

「別にこれくらい平気だって。昨日はちょっと夜更かししちゃったからさ」


 スミ江はのほほんと間延びした声で言うが、嗣郎はどこか楽しそうな様子である。

 どんなに疲れて帰っても、毎朝文句も弱音も吐かず莞爾の後ろをついて回っているのは嗣郎が一番わかっている。


 今ばかりは平太が澄ましたにやけ顔の裏側で必死に食らいついているのがなんとも頼もしい嗣郎であった。


↓お知らせ↓

ようやく発売日等々が決まりました。

本作をご愛読くださる読者の皆様方に厚く御礼申し上げます。

詳しい情報は活動報告に掲載しております。

クリスのキャラクターデザインなども載せておりますので、

ぜひチェックしてください。




※今回は書きませんが、以後農業関連のお話について込み入った内容や専門用語ないしそれらに付随する内容について、後書きにて注釈や追記をしていきたいと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] 題名が変更になったのはやはりよく似た作品あるからなのでしょうかね?多分?
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