とある村落の門出
大変お待たせいたしました。
種まきは腰を曲げて行うので、慣れないと中々疲れる作業の一つだ。
「あー、腰に来るわ、これ」
平太は一度背筋を伸ばして腰を拳でとんとんと叩いた。
ちらりと視線を向ければ嗣郎も孝介も莞爾もどんどん先へと進んでいる。
作業に慣れていないというのも大きいが、それでも一番若いのに一番遅いのは少々悔しい。
平太は「よしっ」と気合を入れ直して作業を再開した。
三センチほど手先で土を掘り返し、そこに三粒の種を入れ、上から土を被せる。最後に手のひら全体で優しく押さえ込む。
一つの穴に三粒の種を入れるのは、あとで元気なものだけ残して他を間引くからだ。
中腰のまま少しずつ横にずれて同じ作業を繰り返す。
「手伝おうか?」
声をかけられて顔をあげると、クリスが苦笑して立っていた。平太はなんだか少し恥ずかしかったが、素直にお願いしますと頼んだ。
畝には都合二列で播種しており、クリスは平太の向かい側で作業をすることになった。
作業の手を進めながら、クリスは言う。
「まだまだ慣れぬであろうし、遅れるのは仕方がない」
「早く一人前になりたいよ」
平太はクリスから気軽に話してくれと何度か言われているので、最近は敬語の数も減ってきた。実際、クリスも同年代の平太から畏まられるのは違和感が大きかった。
「でも、今はまだ慣れてないだけだから。おれはあんまり考えるの得意じゃないし、体動かす方が性に合ってるんだよな、たぶん」
ちらりと視線だけあげると、クリスも中腰になって作業をしている。自然前傾姿勢となっており、胸元が――見えるはずもない。彼女は今や莞爾から買い与えられた作業着を完全に着こなしているのである。
「まだまだ未熟者ということだな」
クリスは表情を変えずにそう言って、平太の顔を歪ませた。彼は一瞬むっとしたが、言い返す言葉を持ち合わせていない。クリスは小さく息をついて続けた。
「まずは半人前にならねば、カンジ殿もヘイタに頼ろうとは思うまいよ」
相も変わらずクリスは表情を変えていない。彼女の作業速度は莞爾たちには劣るが、平太よりもわずかに早かった。次第に距離が開いてしまうが、平太はなんだか悔しくなって作業速度を上げた。
ようやく平太の担当している畝をクリスと一緒に終わらせたところで、莞爾がやってきて眦を鋭くして言った。
「だらだら仕事するな。疲れないようにテンポよくしろ」
ちょっとしたコツを教えるのは莞爾の優しさだが、手取り足取り教えてやるほど優しくはない。というか、教えたところでこればかりは本人の習熟度の問題なのだ。単純作業をみっちり教え込むなんてそんな馬鹿な話はない。
疲れないようにテンポよく、とは矛盾しているような気がする平太だったが、抗議するほど馬鹿ではなかった。
莞爾はさらにクリスにまで注意した。
「クリスも、あんまり平太を甘やかすな」
「う、うむ……わかった」
まさか自分まで注意されるとは思っていなかったのか、クリスは少し驚きながら頷いた。
内心では「甘やかしたつもりはないのだが……」と考えていたが、それが顔に出ていたせいか、莞爾は小さく息を吐いて、けれど何も言わずに嗣郎たちのところへと二人を連れて行く。
今回莞爾たちが植えたのはスティックセニョール――茎ブロッコリーである。初心者でも育てやすいが、春に植えると害虫被害が心配だ。
耐暑性が高いが、根腐れをおこしやすいので、土壌は少し乾燥しているぐらいがちょうどいい。
なお、ビニールマルチなどは保温性と保湿性に優れているが、日照量が高いと、植え付けのために開けた隙間などからどんどん湿気が抜けてしまう。そうでなくても、ビニールマルチを張っていたのに中は乾燥しているということがある。
そのため、農家はビニールマルチを畝に張る前に、その下に潅水ホースを設置する。これは植える予定の作物にもよる。乾燥に弱い作物には使うが、雨に弱い作物には使わない。とはいえ、乾燥しすぎるとどうしようもないので、程度問題ではある。
潅水ホースはホースに微細な穴が開いており、水を流せばそこから少しずつ水が供給される。どばどばと流れないのがポイントだ。
「収穫はだいたい五月中旬からじゃのう」
「わらびもあるんで、ちょっと忙しいですかね」
嗣郎が言う。
「うちの花ニラが来月からぼちぼち出始めるじゃろうし、スナップエンドウもそろそろとっていいじゃろう。夏からは孝ちゃんところで忙しくなるしのう」
なんだかんだ言って仕事は詰まっているのである。人手を畑ごとにローテーションして集中して運用するので、作業効率は上がるはずだ。その分、小規模だった栽培作物の量を増やしていける。
「平太もおるし、もうすぐ孝ちゃんとこも帰ってくるじゃろう?」
すると孝介が答えた。
「孝一も智恵さんも素人だから、平太くんと変わらないでしょ」
少し苦笑気味だったが、嗣郎も莞爾も、孝一夫妻に農作業で期待している部分は薄かった。もっとも、せめて手伝い程度はしてもらわなければ困る。
時刻はちょうど夕刻に差しかかろうかという頃合である。
片付けを済ませれば、あとはそれぞれ家路に就くだけだ。
嗣郎の後ろを歩く平太は少し疲れた顔をしていた。
「なんじゃ、そんなに疲れた顔をして」
嗣郎が少し呆れた様子で尋ねると、平太は軽く笑って背筋を伸ばしてみせた。
「大丈夫、大丈夫。これぐらいへっちゃらだよ」
「慣れん仕事じゃから仕方なかろうに」
「いや、うん。どっちかって言うと、そっちで疲れてるわけじゃないんだ」
「怒られ疲れたか?」
嗣郎は声をあげて笑う。
今日の平太は莞爾に怒られてばっかりだった。けれど、それは慣れてない作業にあたふたしている平太を怒っているというよりも、惰性でやる気を失いつつある平太に向けたものだ。
端的に言って、平太には丁寧さや忍耐というものがない。慣れていないならば慣れていないなりに丁寧に仕事をこなそうということもないし、急いで慣れようという必死さもない。そんな態度では怒られて当然だ。
もっとも、本人からすれば必死にやっているつもりだったが、それはあくまでも「つもり」であって、至極単純に言ってしまえば、嗣郎がいる手前甘えているのだ。
だから嗣郎も仕事の最中は平太に口を利かなかったし、莞爾もわざと厳しく接した。
それに気づくほど、平太は年長者の機微に聡くない。
しかし、口に出して言ったところで、それはそれで恩着せがましい印象を拭えないのだから難しいところだ。
「まあまだまだカンちゃんも甘いからのう」
嗣郎はくすくす笑って先を歩いている。平太は首を傾げた。
「農業が嫌なら就職活動でもしてみたらどうじゃ?」
「就活かあ……」
そう言われても、進学校を卒業して普通自動車運転免許しか持っていないのに、平太は簡単に仕事にありつけるとは思えなかった。
そのあたりは平太も冷静である。有効求人倍率だなんだと難しい言葉はわからないが、今の自分が会社から求められる人材だとは思えない。
猫も杓子も大学に行くような時代に、大学に行っていないのだ。
学歴は昨今それほど重要視されない風潮になりつつある――口で言うのは簡単だが、同じ能力を持つ人間が二人いて、片方は高卒、もう片方は大卒だったら、迷わず大卒を採るだろう。
学歴が重要視されない状況とは、つまるところ学歴が必要ない状況が想定されるわけで、広く浅く考えれば特殊な資格が必要だったり、職人的な技術を持っていたり、個人が特別なバイタリティーを持っていたり、そういう状況に帰結してしまう。
学歴なんてどうでもいい――そんな言葉は「お金が全てじゃない」と言うのと一緒だ。あるならあった方がいいのだ。
そして今や農家だって大学に行く時代なのだ。農業大学だってある。
経験に左右されない、より科学的で洗練された農業を学べるとあれば、それはそのまま飯の種だ。多少の無理をして入学したところで、それは必要な先行投資でしかない。
莞爾からすれば、平太に厳しくするのはそういう部分も加味してのことだ。
平太は自分から進学を諦めた。ならば、それに見合うだけの能力を身につけさせるしかない。幸いにして彼はまだ若いのだ。時間はたっぷりある。
いずれ平太が農業を辞めるにせよ、ずっと続けていくにせよ、彼には自信を持ってもらわなければ困るのだ。なんでもやってやるぞという気概を持って欲しいのである。
「まあ、平太は覇気がないからのう」
嗣郎は少しばかり苦笑して言う。老人の若者論である。そんなことは戦前の新聞でさえ言っているし、数千年前から言われているのである。
しかしまあ、一つの真実でもある。
老いれば過去の自分は大抵美化されるものなのだ。
「やる気ならあるんだけどなあ」
若者に覇気がないとか、やる気が見られないとか、そういうのは端的に言って、やる気を出す場所がわかっていないだけだったり、期待されるハードルが高すぎたりするだけの話だ。つまり両者の要領の問題である。平太にだって言い分はあるし、怒られても腐らずに受け止めて真面目にやるだけのやる気はちゃんとあるのだ。
とはいえ、先達の求めるハードルの高さは、自然素人には高くなるものだ。それはどんな仕事でも大差ないことなのだろう(もっとも、仕事のあとの飲み会に来ないから仕事へのやる気がないなどと言い出すのはお門違いも甚だしいのだが)。
「やる気があるならしゃきっとせい」
若者のやる気は潤滑油の如しである。とはいえ、それを期待される若者の方はたまったものではないのであった。
***
夕飯を食べながら、クリスは莞爾に尋ねた。
「今日は平太を怒ってばかりだったな」
すると莞爾は首を傾げつつも「そうか?」と返す。
クリスの作った漬物をぽりぽりと音を立てて食べていた。
「別に怒った覚えはないんだけど……まあ、そう見えているなら怒ったってことなんだろうな」
莞爾からすれば怒ったわけではなくて注意したというレベルである。莞爾の場合はどういう風にしろ、と注意するからまだマシな方だが、世間には八つ当たりにしか思えない怒りをぶつける上司というのも存在する。
「ヘイタはあんな調子だが、根っこは真面目なのだろうな」
「そりゃあ、なあ」
莞爾にとって、平太は数少ない十代の親族であるし、彼のやる気には一目置いている。それだけ期待しているから厳しくしているのだ。
いずれ嗣郎も孝介も先に死ぬ。不謹慎だがそれは事実なのだ。
そう考えると、孝一は経理面では頼りになるが、農作業では全くあてにならない。一から初老の男に叩き込むよりも、若い平太に叩き込んだ方がよっぽどいい。
「私が口を挟むことではないかもしれないが、飴と鞭は使い方次第で薬にも毒にもなると思うぞ」
いつにも増してまっすぐ見つめるクリスだが、莞爾はそうだなと軽く頷いてビールを一口飲んだ。
「今はまだ厳しくする時期だよ。これからどんどん忙しくなる。必死にやって、耐えて、頑張って、そうしてようやく褒められた方があいつは伸びる。最初から褒められてたんじゃただの自信過剰になって失敗する」
物知り顔で莞爾は呟くように言ったが、自身の体験談でもあった。
どうだ、やってやったぞ、見てみろ、これを見てまだ認めないか――そういう時になって褒められた方がいいのだ。最初から褒めていたのでは「これぐらいでいいんだ」と勘違いさせてしまう。
「それはそうかもしれないが……少し不憫でな」
クリスは口を尖らせて平太の様子を思い出した。彼女からすれば自分も素人同然だからこそ平太が一生懸命やっていることには気づいている。もう少し褒めてやって欲しいというのは(クリス自身は気づいていないが)、自分も褒めて欲しいという裏返しでもあった。
「平太はよくやってる。そんなの知ってるさ。あれだけやってへばってないし、遅れても任された分はちゃんとやろうとしてる。ちゃんと見てるよ」
けれど、今は甘やかしてはいけないのだ。
そして、潰れてもらっても、萎縮されても困る。
「だからさ、俺の口からは言えない。嗣郎さんや孝介さんからも言えない。もし平太がへこたれそうになったら、その時はクリスが教えてやってくれよ。俺が影であいつのこと褒めてたって」
「回りくどいことをするのだな」
クリスは呆れたように言った。すると莞爾は「そうかもしれない」と認めた上で言う。
「クリスだけなら褒めてるだろうな。別にクリスを贔屓してるわけじゃなくて、クリスと平太とじゃ、期待するレベルっていうか、ハードルの高さが全然違うからさ」
「そんなものか?」
「憶測で話すけど、王様になるための勉強と、騎士になるための勉強って同じなのか?」
そう言われて、ようやくクリスは納得した。
「そういうことならばわかる。いや、差し出口だったな。すまない」
神妙な顔つきで軽く頭を下げたクリスに、莞爾は別にいいと首を横に振った。
「まあ、俺だって手探りだからさ、クリスには平太のことよく見ておいて欲しいんだ」
「私が、か?」
「うん。歳が近いってのもあるし、平太はクリスなら愚痴とかも言いやすいと思うからさ。迷惑だったらいいけど」
クリスはふっと笑って言った。
「迷惑ではないぞ。ただ、心配なのはカンジ殿がヘイタに嫉妬しないかどうか、だな」
いたずらっぽくくすくす笑うクリスに、莞爾は頬をかいて言う。
「むしろかわいい女の子が近くにいる方があいつもやる気出るんじゃねえかな」
「か、かわいい? 私が!?」
あれ、と莞爾は首を傾げそうになった。しかし、よくよく思い出してみると、クリスに対して「かわいい」などと面と向かって言ったことは少ない気がした。というか、言ったことはないかもしれない。
「いや、出会ったときから思ってたけど……言ったことなかったっけ?」
莞爾が尋ねると、クリスは何かを思い出そうとして、すぐに顔を真っ赤にした。
なんだかんだ言って、かわいいなんて言葉よりもずっと恥ずかしいことを言われた思い出しかないのである。
「わ、私はその、カンジ殿から見てかわいい、のだろうか?」
「今更何言ってるんだ? そりゃあかわいいさ」
「そそそそそそ、そうか!」
ふつふつと胸に湧き上がる気持ちは、愛する人から言われたからか、それとも単純に嬉しかっただけなのか。莞爾にはちょっとわからない。
というか、だ。
散々ベッドの中では睦み合っている仲なのだ。一体何度だだ甘いだけのピロートークをしたことかわからないのだが、それはそれ、これはこれ、ということなのかもしれない。
ひたすらに残念なのは、公序良俗に反するため、ベッドの中での二人の様子を詳細に書けないことである。嗚呼、惜しむべくは青少年の健全な成長を願う良心である。
夕飯を終えて、クリスが片付けをしている間に莞爾は風呂を沸かす。
いつも通り、タバコの吸い殻を燃え盛る火の中に放り込んでしまう。
彼が風呂釜を沸かすこの時間は、ちょうどいい思考時間でもあった。考えをまとめたり、つい忙しさにかまけて忘れていたことを思い出す。
今はやはり平太のことだ。
「慣れないなりに頑張ってるとは思うけど……」
ついつい独り言が漏れてしまうぐらいには、莞爾も平太を心配しているのだ。
いや、期待しているからこそ厳しくしてしまう。
「まずは自分のことだってのになあ」
平太を教育するのも大事だが、何より自分が未熟なことは自分が一番わかっている。けれども、自分のことばかりしていては、それは社長として会社を引っ張る存在にはなれないこともわかっている。
しかし、平太の教育方針は嗣郎や孝介とも話し合った末のことだ。
まずは農作業に慣れてもらう。話はそれからなのだ。
慣れてからようやくあれは楽しいとかあれはつまらないとか、そういうことがわかり始める。何もわからないのに教えたところで何がどう繋がっているのかもわかるはずがない。
莞爾は一度平太に仕事を教えるのを嗣郎に頼んだことがある。けれど、嗣郎は断った。嗣郎では平太を甘やかすから――ではなく、莞爾もまた人に教えたことがないからこそ、嗣郎は莞爾に平太の世話を任せたのだ。それに何より、頭を下げさせたのだから最後まで自分で面倒を見ろという意味もあった。
「さて、と……」
ゆっくり立ち上がり屋内に戻る。
クリスはちょうど洗った皿を拭き上げているところだった。
「先に風呂入ってきたらどうだ?」
「んむ? カンジ殿こそお先に」
亭主を立てる若い女房である。
莞爾はとくに意味もなく言った。
「なんなら一緒に入るか?」
そういえば、以前は無理やり一緒に風呂に入ったことがあった。けれど、こうして誘ってみるのは初めてだ。
「なななっ、一緒に風呂だと!?」
予想通り、クリスは皿を取り落としそうになって驚いたが、どこかしおらしい態度で目をそらす。
「ならば、カンジ殿が先に入っていてくれ……」
断られなかったことが驚きである。莞爾はてっきりクリスが恥ずかしがって断ると思っていたのだ。けれども、もう互いに隠す場所などない間柄である。
かくして莞爾は変な緊張をして風呂に入る。
なぜ以前は無理やりにでも事を進めたくせに今になって緊張するのか。まったくもってこの男は予想外の事態に弱いのであった。
髪と体を手早く洗って湯船に浸かっていると、クリスが浴室のドアを叩いた。
「か、カンジ殿、よいか?」
少し緊張した様子の声だったが、莞爾は努めて平静を装って「おう」と短く答えた。
「その、あっちを向いていてくれるか? は、恥ずかしいのだが」
「わ、わかった!」
莞爾は水しぶきをあげて急いで壁の方を向いた。
恐る恐る、クリスは先に顔だけ覗かせて莞爾が反対側を向いているのを確認してから浴室に滑り込む。
「そのままだぞ! そのまま!」
「わかってるって」
クリスは顔を真っ赤にしたままかけ湯をして、髪を洗おうか、体を洗おうかと悩む。洗っている間に莞爾が振り向いたら見られてしまうと思って中々判断できず、結局そのまま莞爾の隣にざぶんと飛び込んでしまった。
「うわっぷっ!」
水しぶきが顔にかかって驚く莞爾だったが、振り向くと同時にタオルを顔に当てられて何も見えなかった。
「みっ、見るな! ここは明るすぎるのだ!」
恥じらう新妻であった。
クリスは莞爾の両足の隙間に入り込んで彼に背中を預けた。こうしていれば、まず正面を見られることはない。少なくとも覗き込まれなければ、だが。
「も、もういいぞ」
クリスが莞爾の顔に当てたタオルを取ると、莞爾は目の前にすっぽりと収まったクリスを見て笑ってしまった。
「そんなに恥ずかしかったか?」
「当然だ!」
どこか怒ったような口調で言うクリスだったが、その顔は耳まで真っ赤だった。
素肌を密着させることの安心感に、温かいお湯の気持ちよさが相まって、莞爾はふうっと長い息を吐き出した。
クリスは髪を上げてお団子のようにまとめている。そのせいで彼女のうなじがよく見えた。
細い首筋に流れる水滴がなんとも扇情的だった。
後ろから腕を伸ばしてクリスを抱き締める。
「い、言っておくが、ここは風呂だからな!」
「わかってるよ」
「そ、その、そういうことはだな、その、こういう場所ではなくて、だな――」
「ベッドの上で、だろ?」
「む、むぅ……」
クリスは小さくコクンと頷いた。
それがなんだかかわいくて、莞爾はクリスの耳元で囁く。
「クリスはかわいいな」
ぞわぞわと背筋を走るのは快不快のどちらかわからないが、クリスは一瞬身震いして彼の腕を掴む。
「たまにはいいな。二人で入るのも」
「しょ、しょうか?」
「声裏返ってるぞー」
「そんにゃことにゃい!」
「裏返ってるよ、それ」
莞爾は苦笑して、彼女の首筋に顔を埋め目を閉じた。
「あー、癒やされる」
それは心底沸いてくる思いである。
むしろかわいい新妻と一緒にお風呂に入って癒やされない方がどうかしてる。
一方のクリスはと言えば、心臓が高鳴って仕方なかったが、それでも今となってはずいぶん慣れた方だ。
このドキドキ感が何ヶ月、あるいは何年続くかわからないが、こうして後ろから抱き締められると心地よい安堵感があった。
正面からぎゅっと力強く抱き締められるよりも、後ろから包み込まれるように抱き締められる方がずっと好きだった。
難点があるとすれば、莞爾の吐息がかかっていちいち反応してしま――これ以上はいけない。
抱き締めている側の莞爾としても、愛する妻の柔肌に触れているのであるから、肉体的な生理反応も当然現れるわけで、ともすれば冷静でいようとしても本能に流されてしま――それ以上はいけない。
「なあ、クリス……」
肌を合わせれば熱くなるのは、若さゆえか、それとも愛ゆえか。
一つだけ言えるのは、浴室は声がよく響くという事実である。
つまり、二人はさっさと風呂を出ることになった。
***
三月も終わりに差しかかった頃、孝一夫妻が戻ってきた。
戻ってくるなり、役員を招集しての話し合いの連続だ。
しかし、日々の仕事をこなしながらも、全員の顔に疲労感は見えない。
久しぶりに会うはずの菜摘も、どこか楽しそうで、それでいて頼もしそうな父親の――少し熱っぽい顔つきに、自然と笑みが漏れた。
侃々諤々の議論ではないが、より冷静な意見の応酬である。
現実論の老人二人に、経理屋のくせにチャレンジャー精神のある孝一、そしてなぜか間をとりもって妥協案を出す莞爾である。
何はともあれ、いよいよ四月がやってくるのだ。気合の入り方が違う。
「そういえば、会社名はなんじゃったかのう?」
嗣郎が尋ねる。
ずっと前に適当に決めていた社名だったが、嗣郎や孝介は社名にあまり興味がなかったのである。
莞爾は大きく頷いて言った。
「――三山ファームヴィレッジ。なんか語呂がいいでしょう?」
「かあーっ、すぐに横文字を使いたがるんじゃからのう!」
時間は待ってくれない。老爺の嘆きは時代と世代に抗えない。
次話は来週。