巧妙に張り巡らされた罠
お待たせしました。
莞爾はノートパソコンを使って書類を作成していた。
二世代は前の代物だが、簡単な文書作成ぐらいは今でも十分こなす。
「カンジ殿、もう十一時だぞ?」
居間の卓上で作業をしている莞爾に向かって、クリスは問いかける。
佐伯家の夜は通常短い。
そうというのも、風呂に入って夕飯を食べて、テレビもろくに見ないからだ。
莞爾はニュース番組ぐらいなら見るが、他の番組はほとんど見ないし、そもそも地デジチューナーを取り付けたのもほんの最近だ。
クリスはようやく翻訳機能つきのペンダントを使わなくても、なんとか日本語を聞き取れるようにはなってきたが、まだ難しい言葉は覚えていないし、何より話すのが難しいらしい。
なんとか片言で話せるぐらいにはなっている。
「もうすぐ終わるから、先に寝てていいぞ」
「むぅ、主人より先に休むなど聞いたことがないぞ」
莞爾はクリスとの価値観のズレを感じるのも久しぶりだなと苦笑した。
「時代錯誤だなあ」
とはいえ、クリスは婚姻届を出してからはできるだけそれを守っていた。そこまで厳密ではなく、先に布団に入るか否かぐらいのものだが、彼女なりにこだわりがあるらしい。
恥ずかしがり屋だったクリスはどこへ行ったのやら、今の彼女はずいぶん甘えん坊になっていた。
キーボードをカタカタと鳴らしている莞爾の背後に腰を下ろして、こつんこつんと額を背中にぶつけてくる。
「ああ、もう。わかったって。本当にあと十分もすれば終わるから」
「本当か?」
「本当だって」
莞爾は振り向いて彼女を抱き寄せて隣に座らせる。するとクリスは莞爾の肩に頭を乗せた。
彼はそのまま作業を続けながらふと考える。
今はまだ会社が立ち上がっていないし各自で事務作業がこなせる環境だから問題は起きていないが、そのうち専用の箱が必要になるのではないか。
というか、今だって会社の所在地は目下佐伯家の住所になっている。
会社勤めをしていた莞爾としては、くつろぐべき家と仕事場が同じ場所というのがどうしても気になってしまう。このままでは仕事と私事の区別がつきにくい。何より仕事を家庭に持ち込むのはあまり望ましくない。
「パソコンというのはすごいのだな。ペンも紙も不要とは」
「結局印刷するけどな」
莞爾はファイルを保存して小さく息をついた。
「ふう、あとは明日だな」
人心地ついて思わずタバコに手が伸びかけたが、その手をクリスがやんわりと押さえた。
「むぅ……」
寝る前にタバコを吸われるのはクリスも嫌なようだ。そういえば歯磨きもした後だったと思い出して、莞爾は「悪い悪い」と頬をかいてノートパソコンを閉じた。
その途端、クリスは莞爾をぎゅっと抱き締める。
「どうした?」
優しい声で問いかけられて、クリスは一瞬頬を緩ませて彼の胸に顔を埋めた。
きっと赤の他人が見たら大陸間弾道ミサイルを打ち込みたい衝動に駆られるだろう空間がそこにあった。
莞爾はクリスの頭を優しく撫でてふっと笑う。
彼はもう三十代なので本能的欲求は二十歳前後の頃のように強くはなかったが、もう一方のクリスには一種の寂しさがあって余計に莞爾との絆が欲しいという一面もあった。
まったくもって初めて出会った頃の武人めいた雰囲気は鳴りを潜め、今ではまるで借りてきた猫のようだ。いや、それよりもずっと甘えん坊だ。庇を貸して母屋を取られるどころか骨抜きにされた莞爾も莞爾だが。
「――よっと」
莞爾はクリスを横抱きに持ち上げてそのまま寝室に向かう。クリスは少しばかり照れくさそうにしていたがそれでも嬉しそうだった。
何はともあれ、年齢的にもがっつかないし、それなりに経験も豊富とあっては、実年齢十八歳のクリスにとって身を委ねるに心地よいのだろう。
「あの、その、できれば――」
「優しく?」
寝室のベッドにクリスを横たえさせて、莞爾は初めての夜からずっと同じ文句を繰り返す彼女に苦笑を禁じ得なかった。
暗い寝室でもわかるほどに顔を赤くして、クリスがこくこくと小刻みに震えるように頷く様子が、なんとも言えずかわいくて愛しくて、彼は目を細める。
ベッドの上での彼女は普段よりもずっとしおらしくて、初心な反応は彼にとって新鮮で、そんなクリスが自分の色に日々染まっていくのを実感して――今までの並々ならぬ我慢の甲斐があったというものだ。
優しい雨が寝室の窓を叩いている。
まるでそれは何か秘め事のような共鳴をもって、二人の吐息さえもかき消した。
***
「リア充は爆発して、どうぞ」
平太は遠目に新婚夫婦の様子を眺めて悪態をついた。
莞爾が草刈り機を回し、伊東家の畑周りの畦の草刈りをしており、平太は熊手を手に刈り終わった雑草を回収している。
未明に止んだ雨のあとに訪れた太陽は、三月という時期が嘘のように自己主張を強めていた。
ちょっとした小休止に、草刈り機を置いた莞爾にクリスが駆けよって冷たい麦茶の入った水筒を持っていき、何気ない会話をしている。しかし、その距離感というか、言葉よりも交錯する二人の視線の熱さに平太はげんなりしていた。
リハビリがてらに平太の集めた雑草をコンテナに集めている嗣郎だったが、平太の視線が莞爾とクリスに向いているのを見てくすくす笑った。
「ほれ、手を動かせい」
平太は砂糖を吐きたい気持ちを抑えて返事をする。そうして雑草を集めたところで嗣郎に尋ねた。
「なあ、じいちゃん」
「なんじゃい」
「クリスさんってどこの国の人なのさ?」
「どこじゃったかな……」
年寄りは物忘れがひどくて困る。平太は今度本人に聞くよと言ってすぐに知るのを諦めた。
「どうやったら金髪美人な外国人と知り合いになれるんだろ。こんな田舎で」
「さてのう。縁があったんじゃろ」
「縁?」
平太は首を傾げて聞き返す。ただ一言「縁」という概念だけで説明するには不十分な気がするのだ。二人がどちらも純日本人ならばまだわかる。だが、莞爾が海外に行っていたという話も聞いたことがないし、何よりこんなど田舎で外国人と知り合う機会なんてあるはずもない。
しかし嗣郎はあっけらかんとしていた。
「縁がなけりゃあどんなに好いた惚れたの関係でも夫婦にはならんじゃろ」
そういうことを聞いているわけじゃないんだけど、と平太は小さくため息をついて仕事を再開した。嗣郎は手を動かしながら言った。
「まあ、新婚夫婦が仲良しなのはいいことじゃろ?」
それはそうだろうけど、と平太は口をへの字にした。
一時間ほどかけて雑草処理が粗方終わったところで、莞爾は嗣郎と一緒に出荷予定の畑について話し合う。
汗だくの平太が軽トラの影に腰を下ろしてあぐらをかくと、クリスが冷たい麦茶を上から差し入れてくれた。
「あっ、ありがとうございます」
なぜか他人行儀になって頭を下げる平太だったが、クリスは面白そうに彼を見下ろしたまま言う。
「もっと砕けた態度でよいのだぞ? 外戚とはいえ親族は親族なのだからな」
「外戚……ですか」
今日日外戚なんて滅多に聞かないなあと平太は首を傾げる。
そもそもクリスの口調もよくよく考えるとおかしい。普通外国から来て日本語を覚えた外国人の場合、もっと丁寧な口調になるのではないかと推測した。
平太はまさか翻訳機能つきのペンダントがあるなんて知るはずもないので仕方がない。
翻訳機能は言語的な意思疎通というよりも、かなり概念的疎通に近いものがある。というのも、現段階で把握されているのは、共通知識に拠る意識のリンクに近いというもので、話す相手によっては共有できる語彙の幅が増減するのだが、実際にはクリスのいた世界と現代日本とではそもそも文明としての差異が大きすぎてそこまで気にならないという仮説で収まっている。
「ヘイタは祖父思いなのだな」
突然そんなことを言われて平太は曖昧に返事をした。
「まあ、じいちゃんは心配だし……」
「ツギオ殿も嬉しかろうな。孫が自分のために鍬を握るのであるから」
なんともまあ古風な表現だなと平太は再度首を傾げた。
「ところで、クリスさんはどこの国の人なんですか?」
平太が尋ねると、クリスはしばし逡巡して思い出したように某国名を告げた。
その様子に、平太はあまり聞かれたくないのかもしれないなとそれ以上話を振らなかった。
そんな彼の気遣いがわかったのか、クリスは荷台から飛び降りて平太の隣に体操座りで座った。
「……その、クリスさんはカン兄ちゃんのどんなところが好きなんですか?」
聞かなきゃいいのに、聞いてしまうのは彼の不徳の致すところである。
「むふふっ、カンジ殿は優しいのだぞ。きちんと体裁を図ってくれるし、大事なことは口に出してきちんと相談までしてくれる」
「は、はあ……」
それって別に普通のことなんじゃ、とはさすがに言わない。
確かに平太の知る莞爾は殊更にそういう部分があるのは事実だ。
平太に時々声を荒げることはあるけれど、それは平太が未熟であったり彼を育てるためのことだったりするので、平太としても理不尽だと思ったことはない。
年明け早々に明らかになったお年玉の件だって、なんだかんだ言って莞爾が平太の両親に苦言を呈してくれたらしいことは平太も知っている。立場的に莞爾が自分の両親にもの申すのは憚られるのはわかっているが、それでも莞爾は「平太の印象を悪くするから」と言ってくれたらしい。
それに加えて、卒業祝いやら入社祝いやらをひっくるめたお祝い金をもらったのは記憶に新しく、その金額を見ても莞爾が平太を気遣ってくれているのは彼もまた自覚しているところだ。
「最初はな、かなりお堅い印象だったのだ」
硬派というわけではないが、クリスからすれば莞爾はずいぶん不器用な男に思えてならなかった。平太はそれを聞いて少し意外だった。
「カン兄ちゃんが不器用、ですか」
「ふふっ、普通に話してくれて構わないと言ったぞ」
「あ、はい……うん」
以前向けられたはにかみよりもずっと艶のある笑顔を間近で見ると、平太はどぎまぎして視線を前に向けたまま冷たい麦茶をごくごく飲むしかない。
それにしても――一体莞爾のどこが不器用なのだろうか、と平太は一人考える。
社会人として荒波に揉まれた経験もない平太からすれば、莞爾はあれこれと手が回るタイプの人間にしか見えなかった。
とくに親族間ではきちんと根回しを怠らないし、お歳暮やお中元は欠かさない。慶事があれば必ずお祝いと称して顔を見せては包みを置き、訃報とあらば急いで駆けつける。
なにかにつけて「おかげさまで」と謙る対応は、平太からすると大人に見えたものだ。
「カンジ殿はなんというか、なんでも自分でやってしまおうというきらいがあってな」
「あ、それはなんとなくわかりま……わかる」
「だろう?」
同意を得たところでクリスはくすくす面白そうに笑う。
「お父上やお母上の影響も多分にあるのであろうが、あまり他人を頼るということがないのだ」
不服そうな表情を浮かべてクリスが言うと、平太はそうだったかなと首を傾げた。
「ご両親亡き後、それを孤独に継ごうとしていたのだから、それぐらいの気構えがあるのはまあ……当然のことではあるのだろう。おまけに中途半端にさばけた性格をしておるし、色々と冷酷に物事を考えておるのかと思えば、いきなり突拍子もないことを言い出すこともある。きっと――」
そこでクリスは一度言葉を途切れさせた。
平太が不審に思ってクリスの方に顔を向けると、彼女は苦笑して続ける。
「きっと、カンジ殿はわがままを言ってはいけないとでも思っているのだろうな」
そう言い切って、クリスはおもむろに立ち上がってお尻を両手でぱんぱんと叩いて埃を落とす。
平太にはクリスの言葉が抽象的に過ぎて意味がよくわからなかった。
けれども、なんとなくだが彼女の言わんとするところが理解できたような気もする。
「孤独な私を迎え入れてくれたのだ。せめて、私ぐらいカンジ殿のわがままを聞いてやらねばな」
ふふっと笑ってクリスは莞爾の方へと小走りに去って行く。
「ちぇっ、結局最後にのろけだよ、まったく」
平太は悪態をついたものの、クリスの莞爾へ向けた愛情がおおよそ自分の知る色恋のものとは大きくかけ離れていることに気づく。
なんだか遠い世界のおとぎ話のようだった。
条件――という意味では、クリスにはもっといい男がいるはずだ。平太にはそれが容易に想像できた。何より、自分がそうして見定められる立場だった。
お調子者で普通の容姿で成績はそんなによろしくない。そんな条件で振り向いてくれる同年代の女の子なんていたことがない。
そう考えると、莞爾が少しだけ羨ましくもある。
あまり年も離れていないように見えるクリスが、今まで同じ学び舎にいた女の子たちとは明らかに違う雰囲気で、かつ献身的な姿勢を垣間見せたのだから、平太にとっては驚きもあり、羨望もあり、また新鮮でもあった。
十代の男女の恋愛事情というのも純真さに溢れる一方で、何かと周りと比べて要望が釣り上がるのもまた事実。
友達の彼氏は誕生日プレゼントを奮発してブランドもののバッグだったとか、
甚だ極論ではあるが、だいたい若いオスの恋愛における行動原理なんてそんなものである。若い本能を持て余した肉体に純愛教育なんて知ったこっちゃないのである。性教育で純愛を説く暇があるなら避妊具の使い方を徹底して教育しろと言ったところだ。
とはいえ、平太はクリスに一目惚れした経緯こそあれ、実際には恋多き男ではなかった。どちらかと言えば純情かつさっぱりとした男である。
クリスに対して未練なんてこれっぽっちも残っていないのが証拠だ。
なんだかんだ言って、彼は諦めることに慣れている。自己評価の低さを口には出さないものの、高校進学時にへし折れた鼻は今もまだ折れっぱなしだ。
「おーい、平太!」
遠くから話が終わった莞爾が手を上げて声をかけてきた。
「うーっす」平太はぱぱっと立ち上がって莞爾のところへ小走りに近寄っていく。
彼の到着を待たずに歩き出した莞爾のあとに続いてようやく追いつくと、そこは収穫を待つばかりの野菜が元気よく育っていた。
といっても、一目見ただけでは透明なビニールの内側が曇ったようになっていてなんとなく緑色がわかるぐらいだ。
その五列ほど向こうには支柱が列をなしており、その支柱に沿って網が張られている。その網には蔓が巻き付いており、まだ若々しい莢が実っているのが見て取れた。
平太はてっきり奥の作物を収穫するのかと思ったが、手前のビニールを嗣郎が剥ぎ取ったのでそうでないことに気づく。
ビニールに隠れていたのはなんだか黒っぽくて縮れたような葉を伸ばしている植物だった。
「……何これ」
「かあぼろねろぅじゃ!」
嗣郎が胸を張って言う。正確にはカーボロネロ(cavolo nero)で、黒キャベツとも呼ぶ。キャベツというかケールの仲間である。
カーボロネロは結球せず、黒を混ぜたような深緑色で、鮮やかな美しさはない。中心の太い茎から四方八方に葉が伸びている。その葉は細長い形状をしており、中心には太い葉脈が走り、葉の縁は裏側へと丸まっている。見た目は少し縮れたような印象だ。
「これがキャベツね。全然見えねえ」
「ちょっと食ってみるか?」
莞爾が適当な葉っぱを一枚とってちぎり平太に渡す。
洗ってもいないのに大丈夫だろうかと逡巡した平太だったが、嗣郎も莞爾も平気でしゃくしゃく音を鳴らして食べていたし、クリスにいたっては一枚まるごとかじりついていたので、馬鹿らしくなって口に含む。
「ん……なんか、濃い?」
平太はカーボロネロの食感に慣れなかったが、その味の加減は普段食べているキャベツよりも濃厚な気がした。といっても、キャベツとはまた少し違う味のような気もする。少なくとも春キャベツのような甘い味わいというわけではなかった。
しかし、味は嫌いじゃなくてもどうしたってこの繊維質な食感が慣れない。キャベツのパリッとした歯ごたえがない。さくさくでもなくしゃくしゃくといった感じ。
「まあ、こんなもんじゃろ」
嗣郎があまり嬉しくなさそうな顔をして言った。
すると莞爾も「そうですね」と頷いている。二人の様子を見て平太は首を傾げた。一方のクリスはまだしゃくしゃくと葉っぱをかじり続けていた。
「初めて作ったにしてはまあまあ……ほんのり甘いから煮込みにした方がよさそうじゃの」
「確かに、これだけ繊維質が強いと煮崩れはしそうにないですよね。でもせめてもうちょっと葉が広かったらロールキャベツとかにも向いてたんでしょうけど」
ロールキャベツを作るならサボイキャベツがお勧めだ。ちりめん状の葉にソースがよく絡み、煮崩れもしにくい。
けれど、このカーボロネロはサボイキャベツのように結球しない上に、太い葉脈は巻くのに不便そうだ。
平太からしてもどういった料理に合うのかよくわからない代物だった。嗣郎や莞爾も雰囲気からしてとりあえず作ってみたような顔をしていて少し不安になった。まさかこの二人は用途も考えずに作っていたのだろうかと、なんだか信じていたものが崩れ去るような気がした。
なんかもっとこう農家って野菜の美味い食べ方を熟知しているものだとばかり思っていた平太であった。
そしてようやく莞爾が口を開く。
「まあでも味はいいですし……何にでも合いそうな気はしますね」
「アサリと一緒にクリームパスタとか美味そうじゃね?」
ふと思いついたように平太が言う。平太もなぜ自分がそんなことを言ったのかよくわかっていなかった。三人の目が獲物を見つけたように平太を捉えたので、彼は後ずさりしそうになった。
「ほうほう。ではでは」と嗣郎が言えば、クリスは満面の笑みで最後の一口を飲み込んだ。
そして莞爾が言う。
「よし、じゃあ材料用意してやるからお前が作れ」
春キャベツはアサリと一緒に酒蒸しにするのが好きです。
生でも美味いですけども。