章末 絆と約束と決意と
お待たせしました。本当にお待たせしました。
柔肌のなめらかな肌触りに、うとうととしていた意識が徐々に覚醒した。
莞爾が瞳を開けると、少し布団がずれてクリスが寒そうに身を寄せているのに気づく。
彼はぼやけた頭のまま布団を片手で引き寄せて、ついでにクリスも自分の腕の中にすっぽりと埋めてしまう。
クリスの表情が綻んだ。
窓の外から差す光はまだ弱々しく、時計の秒針が朝の静寂に時を刻んでいる。外から聞こえてくるかすかな小鳥の囀りに意識は再度深みへ落ちそうになるが、莞爾は寸前のところで留まってクリスの額にそっとキスをした。
部屋の中にはまだ昨晩の情事の匂いが立ちこめているような錯覚がある。ふと肩甲骨のあたりがヒリヒリとして手を伸ばしてみると小さくかさぶたになっている擦り傷がある。
快感と熱情の中では気にならなかった痛みも、朝の幸福な微睡みの中では冷静な苦笑をもたらした。
安心しきった寝顔で体を預けているクリスの体温や、その鼓動、穏やかな吐息――莞爾は眠ったままのクリスの背中をなで回す。
「……んっ」
わずかにクリスが身悶えして声を漏らす。
つい興が乗ってしまったのか、はたまた今までため込んだ我慢のせいで制御ができないのか、莞爾は眠っているクリスにいたずらを実行する。
クリスも立て続けのあくまで優しい攻勢に目を覚ますが、昨晩の幸福が支配しているのか莞爾に抱きついて離さなかった。
――残念ながら、非常に残念なことだが、二人がどうなったかは二人だけの秘密である。
*
「おかげでもう昼だ!」
結局風呂で汗を流して朝食もといブランチが済んだのは正午にさしかかった頃だった。
尤も、全年齢向けには表現できない行為による疲労感というか倦怠感に身を任せて二度寝を敢行しなければよかっただけなのだ。
クリスはぷんぷんと頬を膨らませているが、その頬は仄かに赤く染まっている。
「悪かったよ」
そっと抱き寄せられて頬に口づけをされると、頬袋に溜まった空気がぷすーっと抜けてふやけてしまう。
「まったくもう! まったくもう!」
負けじともう一度頬を膨らませるが、はいはいと莞爾はクリスの頭を撫でてやり過ごす。
残念ながら二度目のほっぺにチューは敢行されなかった。
急に恥ずかしさが押し寄せて顔を逸らすクリスだった。
朝食の間に洗ったベッドシーツの脱水が終わり、莞爾は家の裏側の物干し竿にシーツを干す。
何が、とは言わないが染みになりやすいのだ。早めの洗濯が肝心だ。
それが終わって莞爾は作業着に着替えようとしたが、なんだかやる気が出ない。
正確に言うと、あと二、三日はクリスといちゃいちゃしておきたかった。
けれども、仕事柄そんな悠長なことも言っていられない。
名残惜しさをかき消して身支度を調える。
今日は事業計画策定のために各家々の農地を調べておかなければいけなかった。
「じゃあ、クリス。行ってくるから、留守頼むぞ」
「むぅ……もう行くのか?」
いつもなら明るい笑顔で送り出してくれるはずなのに、今日に限ってクリスは莞爾の袖を引いている。
「そう言うなよ。すぐに帰ってくるんだから」
「それはそうだが、もう少しだけ、もう少しだけいいだろう?」
いつになく甘えてくるクリスに、莞爾は小さく息を吐いて苦笑する。
「どうしたんだよ、そんなに甘えん坊になって」
「別に、甘えているわけでは……むぅ」
莞爾に引き寄せられて、クリスは彼の胸に額を埋める。
こうして夫婦としての絆を結ぶ前から、一定の睦み合いはあったけれど、昨晩の熱が続いているのか、莞爾が視界にいるだけで自然と頬が緩んでしまうのだ。
無知だったころには戻れないのだろう。
あの形容しがたい焦燥を伴う胸の高鳴りも、今や心を静めて何か温かいものに包み込まれているような感覚だった。
しばらく莞爾の体臭を嗅いで充電しようにも、洗濯済の作業着からは爽やかな洗剤の匂いしかしないし、彼もまた風呂に入ったばかりなので汗の匂いなんてしない。
クリスは額を莞爾の胸にどすんとぶつけて名残惜しさを紛らわす。
「できるだけ早く帰ってくるのだぞ」
「おう。夕方には戻るから、美味しいご飯作って待っててくれよ」
「むふふっ、そうだな。とびきり美味しいのを準備しよう」
ようやくクリスが微笑んで、莞爾はほっと胸をなで下ろした。
クリスの反応は、莞爾からすればどこか幼くて、十八歳らしいと言えばその通りだったけれど、彼にはそれを無下にするつもりなんて毛頭なかったし、どこか新鮮にさえ思っていたのかも知れない。
「じゃあ、いってきま――」
勝手口から出て振り返り手を振ったところで、大きな声がした。
「来たぜっ! 伊東平太参上!」
莞爾は振り返る。そこにはうっとうしいほどのハイテンションでダサいポーズを決めている平太がいた。
白い歯を輝かせて流し目を決める平太のどや顔に、莞爾は思わず殴りたくなった。
*
縁側に腰掛けて、莞爾は平太の話を聞いていた。
平太はクリスから熱いお茶をもらって「あっ、ども」と頭を下げる。その辺りは弁えているらしい――というか、父親の一彦からさんざっぱら言い含められているだけである。
曰く、社長夫人に余計なことをするな、らしい。
莞爾は風下で煙草を吹かして耳を傾けている。
「――で、お前がどんだけ勉強したかって苦労自慢は置いといてさ、結果はどうだったんだ?」
「カン兄ちゃん、それはひどくね? 学年最底辺常連の俺がどれだけ頑張ったかわかってねえだろ!」
「お前なあ……ちゃんと周りに置いて行かれないように勉強するのって別に大変なことでも特別なことでもないからな? 真面目に勉強する方が普通なんだぞ」
「いや、スタート地点が違うって言ってんの!」
憤慨して反論する平太だったが、彼はまだそういう意味では甘えているのだろう。
莞爾は「まあお前にしては頑張ったんじゃねえか」とため息混じりに投げやりな返事をした。
「まあ、お前が死ぬほど頑張ったのはわかったから、試験結果はどうだったんだ?」
こうして莞爾を笑顔で訪ねて来た時点である程度の予想はついているが、それでもきちんと証拠を見せてもらわなければならない。
平太は「にっひっひ」と笑って懐から折りたたんだ紙を取り出して立ち上がり、莞爾の目の前で開いた。
まるで裁判所から「勝訴」と書かれた紙を持って走り出てくる人のように見せつける。
もう少し紙面の字が大きければ様になったかもしれない。
「どうよ! 百四十三位! 半分以上の順位だぜ!」
莞爾は平太からその紙を奪い取って隅から隅まで目を通す。
「……学年生徒数二百八十九名中百四十三位って後ろ百四十六人しかいねえじゃねえか。ほとんどギリギリだな――」
「それでも半分より上には違いないだろ?」
「まあ、それでお前が満足してるなら別に何も言わないさ」
莞爾はクリスの淹れたお茶を飲んで息を吐く。クリスは嬉しそうな平太に「よかったな」と声をかけていた。平太は一丁前に照れていた。
「まあギリギリなのは俺もわかってるよ。でもさ、約束は約束だろ。俺は約束を守ったぜ。今度はカン兄ちゃんの番だろ」
本当に一丁前のことを言う――莞爾は紫煙を吐いて灰皿にもみ消した。
「なあ、平太。お前、今回の試験で勉強すればちゃんと成績残せるってわかっただろ? 今年はもう無理かもしれないけど、来年だったらなんとかいいところ入れるんじゃないか?」
平太はむっとして莞爾を睨みつけた。
「それじゃあ約束が違う」
「俺だって約束は守るさ。お前の気持ちを聞いてるだけだって」
莞爾はため息を吐いて再度尋ねる。
「平太。お前は本当に農業でやっていこうって気持ちがあるのか? 今更こういうことを言うのは俺もずるいと思うけど、それでもお前はまだ十代で、これからいくらでも選択肢が残ってるんだ。わざわざそれを狭める必要はないんだぞ?」
「本当にそれ今更じゃん!」
莞爾は苦笑いを漏らす。
「お前に心変わりがないならいい。けど、社員にしてくれって言うなら、社員としての態度を取れよ。親戚だからってそんなところで甘えられちゃ仕事にならないからな」
「わかってるって! 任せとけよ!」
平太の意気込みを聞けば聞くほど不安になる莞爾である。
莞爾の気持ちを察したのかクリスは言う。
「ヘイタも初めてのことなのだろう? ならば少しずつ教えていけばよいではないか」
「そりゃあまあそうだけどな」
すると平太はいつものごとく調子に乗る。
「そうそう! やっぱクリスさんはわかってるよね!」
莞爾は冷静に言った。
「お前、その口調と態度が許されるのも今だけだからな」
「じゃあ、今のうちに生意気言っとくわ」
懲りない平太だったが、急に居住まいを正して言う。
「そういうわけだから、カン兄ちゃん。いや、社長! よろしくお願いします!」
頭を深々と下げる平太に、莞爾は頭をがしがしとかいて短く答えた。
「おう」
顔をあげた平太はいたずらが成功したような子どもっぽい笑みを浮かべていた。
「卒業式終わったらすぐにまた来るからさ」
「別に四月からでもいいんだぞ?」
「えー、なんか決意が揺らぎそうじゃんか」
「お前の決意はその程度のものなのかよ」
「冗談だって!」
莞爾は思い出したように言う。
「じゃあ、ちょっと今日の仕事見学でもするか?」
「えっ、マジ? いいの?」
「まあ、仕事って言っても農地の確認と計画案を出すだけなんだけどな」
「いや、よくわかんねえけど、邪魔にならねえならついてくよ」
莞爾としても全体像は大まかに把握しているが、それでも実際に聞いた話ではなく自分の目で細かく確認しておきたかった。
「その格好じゃあれだな。長靴貸してやるからついてこい」
平太は納屋へ向かう莞爾の後ろをひょこひょこと付いていった。
*
荒い息を吐きながら斜面を歩く。
平太は一人だけ遅れていた。
前方を行くのは莞爾と孝一の父親である。
孝一の父の孝介はもう七十代で見てくれもおじいちゃんといった風貌だが、足腰はまだまだ衰えていない。まるで心臓が弱いという医師の見立てが嘘のような足取りだ。
二人はあれこれと言葉を交わしながら歩いている。内容は果樹の年数ごとの収量や、立地上の差など、かなり細かい話に及んでいる。
前の二人が立ち止まったのをいいことに、平太はいちじくの幹に手をついて息を整える。
若くて体力があるはずの自分が一番体力がないのだ。まったくもって不甲斐ない。
平太は深呼吸を繰り返して二人のもとへ急いだ。
しかし、なんとかそばにいっても話の内容は全くわからない。それどころか二人はここは終わりだとばかりに斜面を登って行くではないか。
平太はげんなりした顔でまた後を追う。
確かに年齢的に言えば平太の方が若いし体力はある。
けれど、平太は足場の悪い斜面に慣れていなかった。
孝介も莞爾も日頃から歩き慣れているので、疲れないような配分で歩いているのだ。
平太はと言えばいつものお調子者を発揮して最初から奇声をあげる勢いで歩いていたツケが今に回っている。
それもこれも莞爾の「ゆっくり歩け」という忠告を無視したせいである。
登山道があればまだしも、足場の悪い場所を歩くのは予想以上に足腰に負担がかかる。それに履いているのは長靴だから疲れやすい。
経験者の言葉は聞いておくものである。
由井家を後にして、今度は伊東家に行く。
莞爾と平太を出迎えた伊東夫妻は久しぶりにあった孫に相好を崩す。しかし、時間は有限である。
休む間もなく平太は莞爾についていかざるを得なかった。
まさか自分から「やっぱり疲れた。もう無理」とは言えない。
莞爾も平太が疲れ切っているのはずっと前からわかっていたが、良い機会だからと無視していた。この程度でへこたれてもらっては困るのだ。尤も、彼の疲労の原因は彼自身にある。
前日からの疲労度で言えば絶対的に莞爾の方が疲れているはずなのだ。何が原因かまではさておき。
そうして全ての農地を見終わったところで、ようやく平太は伊東家に戻る。
スミ江から麦茶をもらって莞爾と一緒に一気飲みした。
「くぅーっ! キンッキンに冷えてやがるっ!」
「うるせえ……」
疲れていても平太は平太だった。
「だからゆっくり歩けって言っただろ。農作業だって少しずつ根気よくしないとすぐに疲れるんだから」
肉体労働は疲れないように続けるのが鉄則である。
今はまだ冬だからいいが、夏になれば炎天下の中で作業が続くのだから〝疲れない〟というのは想像以上に重要なのだ。
「いやー、痛感したわ。カン兄ちゃんが疲れてないのはまだわかるけどさ、孝介おじいさんより疲れ切ってるのはさすがに自分でもちょっとショックだったかな」
平太は足の裏と太股を叩いて「明日絶対筋肉痛だなあ」と嘆いていた。
「ところで、お前ひとりでこっち来たのか?」
「そうだけど?」
「帰りは?」
「明日じいちゃんに駅まで送ってもらうよ?」
「軽トラで?」
「そうだけど?」
ついこの前倒れたばかりの祖父に頼むとはどんな神経をしているんだ、と口から出かけた莞爾だったが、そういえば嗣郎は退院してすぐに軽トラを乗り回していたのを思い出す。
さすがに本人が自分から無理そうだと言わないならいいのだろう。
「あっ、そうだ」
莞爾は唐突に立ち上がって「そこにいろよ」と平太を伊東家の玄関口に留めさせる。
急いで家に帰り、クリスが笑顔で「おかえり」と出迎えてくれるのを「ただいま」と短く返して寝室に行く。
「むぅ、どうしたのだ? そんなに急いで」
クリスは少し不機嫌そうな顔をして追いかけてくる。莞爾は机の引き出しから封筒と金を出していた。
「いや、平太が来てただろ? ちょっと早いけど卒業祝い渡しておこうと思ってさ」
「ふむん?」
「作業着と長靴代ぐらいは出してやらないとな。田舎じゃ遊ぶ場所もねえし、先に遊ばせておかねえとあとで何言い出すかわかったもんじゃねえし」
莞爾は封筒に「卒業兼入社祝い」と筆ペンでさらさらと書いて、中に五万円を入れた。もちろんポケットマネーだ。
「また出て行くのか?」
「今度は十分もあれば戻るよ」
「そうか、ならばよいのだ」
むふふ、と上機嫌な笑みを浮かべるクリスの頬に不意打ちの口づけをして、莞爾はまた家を飛び出した。
伊東家に戻った莞爾は玄関に寝そべっている平太に声をかける。
「あ、おかえり。どったの?」
「ほれ」
起き上がった平太にそっと差し出すと、平太はしばらく首を傾げていたがすぐに察して立ち上がる。
「これはどうも、お気遣いいただいて、わざわざありがとうございます!」
莞爾は呆れて言う。
「なんでそんなところだけしっかりしてんだ」
思わず笑ってしまった。それもこれも父親の一彦の薫陶あってのことなのだろう。
平太からかしこまった言葉が出てくるとつい笑いそうになるのは、癖になりそうで自制が必要だ。
「じいちゃーん! カン兄ちゃんからお祝いもらったーっ!」
平太が大声で家の奥に叫ぶと、しばらくして嗣郎がのそのそと出てきた。
「おお、カンちゃん。ありがとうございます」
こんな時ばかりは年長者の嗣郎も膝をついて頭を下げる。莞爾は苦笑しつつ「いえいえ、少ないですが」とぺこぺこと同調した。
嗣郎は口を酸っぱくして平太に言う。
「ちゃんと一彦に言うんだよ。お前はすーぐ忘れるからのう」
「わかってるよ!」
莞爾はくすくす笑って注意する。
「平太、一応それ入社祝いも兼ねてるから、農作業用の作業着と、長靴に、それから軍手じゃなくて作業用の手袋も買っとけよ。替えもな」
「げっ、マジ?」
「安心しろ。二セット買っても余るように入れておいたから」
「ひゃっほーいっ! マジであーざーっす!」
「素が出てるぞ、素が」
「おっとっと」
平太は慌てて口元を押さえていた。
莞爾は嗣郎に「今日はこれで」と玄関から出る。
平太が外まで付いてきて莞爾の背中に声をかけた。
「カン兄ちゃん、俺頑張るからさ! 今日はへとへとだったけど、今度はこんなことならないようにするから!」
莞爾は煙草を咥えて苦笑する。
「おう、期待はしないでおく」
「期待してくれてもいいんだぜ? 俺がいないと仕事が回らないって言わせてやるぐらいになるからな!」
「――じゃあ、まずさっさと自動車免許マニュアルで取ってこい。軽トラも運転できねえのに使いもんになるか」
「あっ……」
やはり、平太は平太だった。
莞爾は煙草に火をつけて紫煙を吐き出した。
「さすがに免許代は自分でどうにかしろよ。一彦兄さんに頼め。そこまで面倒は見てやれないからな」
「う、うん……」
莞爾は楽しげに片手を上げて帰路につく。
愛しい恋女房が夕飯の準備をしているのだ。
自然その顔はにやついていた。
閑話入れるかどうかちょっと迷ってますが、今の章はこれで終わりです。
※新作始めました。
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