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2月(末)下・旧交と兆し

大変お待たせ致しました。

「へえ、味見は穂奈美がしたのか」


 戻ってくるとすっかり料理は完成していた。

 クリスと穂奈美は分担して作業をしたみたいで、いつも通りの表情のクリスに比べて穂奈美はどこか得意げに見える。


「わたしだってやればできるのよ!」


 期待しているのは大原だけである。もっとも、大原は別に家事は女性に任せるものといった旧態依然の価値観に縛られているわけではなかったが、やはり愛する女性が自分のために手料理を振る舞ってくれるというのは中々男冥利につきるというものだ。


「あれ? この煮物――」

「なんちゃってがめ煮風!」

「がめ煮?」


 大原と莞爾は首を傾げる。穂奈美はため息交じりに言った。


「郷土料理で言うところの筑前煮よ。煮込む時間なかったからそんなに味は染みてないと思うけど、味付けは近いと思うわよ」


 がめくりこんで(いろいろ混ぜて)煮るからがめ煮である。


 四人は席について缶ビールを開ける。開けたところで莞爾は思い出したように尋ねた。


「あっ、そういえば二人とも帰りどうするんだ? 泊まるにしても明日仕事じゃないのか?」

「今更ね。朝一で駅まで送ってくれる?」


 穂奈美はそう言うが、大原は「タクシー呼べばいいじゃないか」と言う。


「いいのよ、今回は莞爾くんが呼びつけたんだし」

「……いいのか、佐伯?」

「まあ早起きは慣れてるし、別にいいけど。むしろお前らの方が大丈夫か? 朝一の新幹線ってこっち五時過ぎには出ないと間に合わないぞ。早朝だから交通量は少ないからマシだけど」

「わたしは慣れてるからいいけど、慎治くんは?」

「僕もまあ別に問題はないよ。社宅は会社のすぐ傍だし」

「そう。じゃあ問題ないわね。わたしもロッカーにスーツ一式入れてるし」


 莞爾は呆れて言った。


「お前、どんな生活してるんだよ……」

「色々あるのよ、色々」


 そうしてようやくビールをグラスに注いで莞爾は乾杯の音頭を取った。


「えー、この度は――」

「かんぱーい!」


 穂奈美がぶち壊した。学生のような振る舞いに莞爾と大原は苦笑いを浮かべた。



 ***



 宴会はつつがなく進む。

 クリスは初対面の大原がいるせいか少しばかり大人しいが、主人となる莞爾の旧友ということもあり客をもてなすように接している。


「クリスちゃん、あんまり世話を焼かないでいいのよ」

「む、むう。そうか?」


 大原はもともとあまり酒が強い方ではないので、水割りをちびりちびりと飲んでおり、一方の穂奈美はお湯割りでごくごく飲んでいた。


「九州ってこんなに甘い味付けなのかい?」


 がめ煮もとい筑前煮を食べながら大原が穂奈美に問う。

 大根以外は冷蔵庫に入っていた人参と牛蒡。残念ながら蓮根と筍はなかった。鶏肉もだし取り用の骨付きかしわ肉ではないが、それなりに仕上がっている。


「まあ、わたしの実家は割と砂糖強めね」


 甘辛い味付けは中々酒に合う。酒がなければご飯が欲しいところだ。


「このミルフィーユ鍋っていうの、簡単な割に美味しいわよね」


 穂奈美は白菜と豚肉を頬張りながら言う。豚肉の味が白菜に染みこんでおり、だしの味が上品に感じさせる一品だ。


「このほうれん草の白和えも中々美味しいよ」


 大原は苦みやえぐみのないほうれん草に舌鼓を打っている。この男、中々繊細な舌を持っているらしい。莞爾は少しばかり得意げだ。


「こっちの菜の花のお浸しは?」

「ん……うん。春の味だね。菜の花のちょっとつんとくる風味がいいよね。塩梅もいい。ちょっと甘めの……これ穂奈美が作ったの?」


 ようやく気づく大原であった。


 さてさて、食いしん坊のクリスはと言えば、酒精の強い焼酎を莞爾と一緒にロックで飲んでいた。莞爾も最初はビールだったが、今は焼酎に心を奪われている。酒の肴はたくさんある。味が濃いので余計に酒が進む。


「式はいつ頃挙げるんだい?」大原が問う。


 莞爾は「夏かな」と短く答えた。

 穂奈美は心配そうに言う。


「式場間に合うの?」

「まあ、なんとかなるだろう。市内の神社に頼もうと思ってるし、披露宴はそんなに大きなところでするつもりもないしな。問題は夏の方が忙しいからドタバタになっちゃうってところかな」


 莞爾の主力は現状夏野菜なので夏場にプライベートの用事をあまり詰め込みたくないのが本音だ。しかし、そうも言っていられない。それに今までは個人事業主だったが、これからは会社になるので少しは個人の負担も軽減できるはずだ。

 莞爾としては起ち上げ間もない会社がしっかり機能してくれるかどうかが不安要素だが、こればかりは始めてみないとわからない。


「新婚旅行も今のうちに考えておかないと」


 穂奈美は言う。


「新婚旅行かあ……夏は難しいかもしれないな」

「だったら時期を空けて、秋か冬にって手もあるじゃない」

「クリスはそれでいいのか?」


 莞爾はちびちびと酒を飲んでいるクリスに視線を向ける。クリスは首を傾げて尋ねた。


「新婚旅行とはなんだ?」

「あー、結婚したら夫婦で旅行するって慣習があるんだ」

「ふむ……旅行か。ならば、わざわざ忙しい時期に行かずともよいだろう」


 日本で生まれ育ったわけではないのもそうだが、クリスには乙女的な願望がないのが救いだった。


「せっかくだから海外旅行に行く?」


 穂奈美がにやにやと顔を緩ませて尋ねるが、莞爾は首を横に振る。


「無茶言うなよ」


 経済的な問題はさておき、今の状況では中々難しいだろうと莞爾には推測できた。

 大原は何も知らないので気を遣ったように言った。


「国内でも十分楽しめるだろうね。京都や奈良を巡るのも楽しいだろうし、沖縄旅行もいいかもしれない」

「京都いいよな。古い町並みとか、寺社仏閣はクリスも見たことないだろうし」

「二人きりなのか?」

「新婚旅行だからな」


 クリスは何かを考えている様子だったが、口には出さず鍋の具を頬張った。



 話題は昔話へと変わる。


 クリスを除く三人は懐かしそうに話しており、クリスもまた昔の莞爾の話を聞くのは楽しそうだった。


「そうそう。みんなでキャンプに行こうって話で決まってたのに、佐伯が山に行って楽しめるかって息巻いてね」

「あれはみんな引いたわよね。何が何でも海がいいって言い出すんだもの」


 莞爾は決まりが悪そうに言う。


「そう言うけどな、山育ちからしたら山ん中に泊まっても何も楽しくないからな」

「あー、出た出た。大自然の絶景見たって一人だけ感動してないのよね。林の手入れが悪いとか言い出すんだから」


 とはいえ、ど田舎育ちの人間に緑溢れる自然の景色なんて見せたところで「きれいだな」と思いこそすれ別に感動するほどではない。見慣れた景色の一つだ。日本全国どこの山奥に行っても見える景色は大抵、だいたい、おおよそ一緒である。北海道を除いて地形もだいたい一緒だし、植生も遠くから見る限りは素人目にあまり変わらない。違うのは人工物ぐらいだ。もっとも、その人工物でさえも雪国以外はほとんど一緒だ。


「結局多数決で山でキャンプに決定して、いざ行ってみたら一番役に立ったのが莞爾くんって皮肉ね」


 穂奈美は当時のことを思い出して笑う。莞爾はため息まじりに言った。


「夏山に入るのに半袖半ズボンで行く方が悪い。誰も虫除けスプレー一本すら持ってきてなかったからな。あれは俺の方がびっくりしたさ」


 おまけに計画性のない学生たちのキャンプである。いろいろな問題も出たが、その都度莞爾が対応したのだ。


「あのときは助かったなあ……さすが田舎育ちだってみんなで言ってたけど、まさかこれほどの田舎に住んでるとは思ってなかったよ」


 大原は莞爾の住まいが予想以上に田舎だったことを殊更に印象深く語った。

 莞爾は苦い顔で反論する。


「そう言うけど、あのときはずいぶん田舎育ちだって馬鹿にした風だったじゃないか」

「僕は馬鹿にした覚えなんてないけど、他の奴らはどうかわからないね。まあ、仕方ないよ。川原さんや楠木さんあたりにいいところを見せたい奴らが張り切ってたわりに何もできなくて、それで佐伯がいいところを奪っちゃったんだからさ。やっぱり田舎育ちは違うだなんて、からかわないと体裁が保てなかったんだよ……たぶん」


 すると穂奈美もしきりに頷いて言う。


「まあ、莞爾くんは地味に人気だったわね。特別かっこいいとか、面白いとか、そういう人気じゃなかったけど」

「……知らねえ」

「それは当然だよ。だって――あ、いや、今のなし」


 大原は当時莞爾と穂奈美が交際していたことを口に出しそうになって思わず口を噤んだ。学生時代のことである。今はともかくどうしてもその手の話題に絡んでしまうのは仕方がない。


 気を遣ったわけではなかったが、クリスが大原に尋ねた。


「オオハラ殿は、ホナミ殿のどこに惚れたのだ?」


 ずいぶんと直球の質問だった。

 穂奈美は楽しそうに大原の脇腹を肘で突いて促した。


「あー、いや、あはは。その、なんだか恥ずかしいね!」

「いいから言えよ、早く」と莞爾。

「そうよ、早く聞きたいから言って」と穂奈美も攻勢をかけた。


 追い詰められた大原は年甲斐もなく恥ずかしそうに顔を真っ赤にして水割りを飲み干した。


「ああ、もう! 言わせないでくれ!」


 思春期の男子のような反応に大原以外の三人は笑った。



 ***



 早朝五時半の駅前は閑散としていた。

 いつもなら一時間はかかる駅までの道程も、時間帯のせいもあって三十分とかからなかった。

 莞爾の車から降りた穂奈美と大原は揃ってあくびをしている。それでも穂奈美は元気そうだが、大原はどことなく体調が悪そうだ。


「うー、久しぶりの二日酔いだ」

「飲み過ぎよ」

「……僕より飲んでた君に言われてもなあ」


 大原は昨晩クリスから質問されるたびに恥ずかしさをごまかそうと飲み続け、結局こたつでそのまま眠ってしまったのだ。

 起き抜けに大量の水を飲んだものの、まだ二日酔いがひどい。自分の息が酒臭いのもマイナスだ。穂奈美はいつも通りに飲んだが元々酒が強いので二日酔い知らずだ。莞爾は今朝の運転があるので途中から控えていたので平気だった。


 クリスもいつも通りに起きて見送りをしたいと言うので莞爾と一緒だ。


「時間、間に合うか?」莞爾は腕時計を確認して尋ねる。


 穂奈美は「大丈夫よ」と頷いた。


「むしろ早いわね。最初の新幹線、たしか六時二十分ぐらいだったし」

「間に合うならいいんだ」


 莞爾は改めて頭を下げて礼を言った。


「わざわざ来て貰ってありがとう」

「うふふ、お幸せに」

「少し早いけどおめでとう」


 穂奈美も大原も微笑ましく莞爾とクリスを見つめていた。

 クリスも深々と頭を下げて「ありがとう」と言った。


「それじゃあ、わたしたち行くわね」

「ああ」

「佐伯、結婚式には呼んでくれよ」

「おう」

「クリスちゃんもまた今度ね」

「うむ」


 構内に消えていく二人の姿を見送って、自然と莞爾とクリスは見つめ合ってふっと笑い合った。

 クリスは言う。


「ホナミ殿も楽しそうだったな」

「あいつら案外似合ってるのかもな。まあ、大原は尻に敷かれるだろうけど」


 莞爾が運転席に乗り込むのにつられてクリスも助手席に乗り込んだ。

 ラングラーを走らせつつ、クリスはほっと一息ついた。


「なんだか急に静かになってしまったな」


 先ほどまで穂奈美と大原が乗っていたのでそれなりに会話があったのだが、二人きりになるといつも通りだ。


「騒がしい方が好きなのか?」

「いいや、そういうわけではないぞ」


 クリスはふふっと笑って莞爾の腕に手をそっと置く。運転席と助手席とは少し離れているので彼の肩に頭を置くこともできない。


「……たまには喫茶店でモーニングでも食べてみるか?」

「喫茶店というと、お茶を嗜む店のことか?」

「ああ。この時間はちょっと開いてるところないだろうけど、ファミレスなら開いてるだろ」

「ふぁみれす?」


 首を傾げるクリスに莞爾は「ファミリーレストラン」と言い直した。


「家族向けの安いレストランなんだけど、まあ別に家族だけが使うってわけじゃない。通称だな」

「ふむ。行ってみようではないか」


 そうして莞爾は記憶にあるファミレスへ向けてハンドルを握る。

 十分ほど車を走らせてたどり着いたファミレスは二十四時間営業で、六時から十時までは朝食セットが提供されていた。


 店員に案内されて窓際の席に座り、莞爾がメニューを広げる。


「どれがいい?」

「またずいぶんといろいろあるのだな……」


 カラフルなメニューの写真に驚きつつも、クリスは真剣に料理を選んでいる。


「ご飯と味噌汁に鮭の塩焼きか……いつでも食べられるな」

「せっかくだから家で普段食べないやつ選べよ」


 莞爾が促すとクリスは頷いてメニューを指さした。

 まだ片仮名がうろ覚えで自信がなかったらしい。朝食の定食風の写真は見た目からすぐにわかったものの、洋風の朝食は料理名の予想がつかなかったようだ。


 莞爾もメニューをのぞき込むが何やらオシャレな写真が掲載されている。フレンチトーストにホイップクリーム、いくつかのフルーツが盛られている。なるほど、確かに舌を噛みそうなネーミングの朝食セットだった。


「朝から甘いのがいいのか?」莞爾は呆れ気味に尋ねる。

「美味しそうではないか」とクリス。


 考えてみれば今まで自宅で和食ばかり食べさせていたし、スミ江から教わっているのも基本的には和食なので、洋食が珍しいのもあるのだろう。莞爾は勝手に納得して店員を呼んだ。


 しかし、いざ注文しようとすると朝食セットはどれも六時からだと言われてしまった。注文だけして六時になってから提供してもらうように頼むとそれは大丈夫だった。

 店員が注文を把握して戻ったところで莞爾は小さく呟いた。


「マニュアル通りっていうか融通が利かないっていうか……まあ、朝番がまだ来てないから対応できないってのもあり得る話か」

「料理人が来てないということか?」

「料理人っていうか、パートかアルバイトだろうけど」


 二十四時間営業年中無休の飲食店は何かと従業員不足に頭を悩ませるのが常である。昼間から夕方までの時間帯ならば主婦層がパートとして集まってくれるのだが、それ以外の時間帯は難しい。夕方から夜までは学生のアルバイトもいるが、深夜から早朝までや早朝からランチ後までのシフトはどうしても枠が空きがちだ。


 そして、人員不足の穴埋めは店長をはじめとした社員が担うのだ。時給を上げれば多少の人員不足は緩和できるかもしれないが、元々客単価の設定が低いので人員に割けるコストもそこまで大きくない。


 悲しいかな――飲食業界の離職率は高い。


「さて、と。ドリンクバーなら別に今からでも文句言われないだろ」

「ドリンクバー?」

「飲み物だよ。自分で注げってこと」

「ふむ?」


 莞爾はクリスを連れてファミレスの仕様を説明しつつドリンクバーに向かった。


「俺はアメリカンでいいや。クリスはコーヒー苦手だったっけ。紅茶でいいか?」

「ひとまずおすすめのにしておこう」


 クリスはティーパックに興味津々だった。


「ははあ、これを考案した者は頭がいいな」


 そうして次第にお湯が紅茶の色合いに染まり始めるとクリスは目を剥いて驚いていた。


「どうした、そんな顔して」

「いや……これは祖国のお茶と似ていると思ってだな。香りも……うむ。祖国のものより少し弱いが似ている」

「へえ……紅茶があったのか」


 席に戻って莞爾はアメリカンコーヒーを無糖のまま飲む。クリスもティーパックのダージリンを飲むが期待していた表情からすぐさま微妙な顔つきになった。むしろ神妙でさえある。


「不味かったか?」

「……飲める」


 要するに不味いとまではいかないが美味しくはなかったらしい。

 どうやらクリスからすると香りも味も今ひとつのようだ。


「渋みも足りんな」

「渋くない方が美味しいんじゃないのか?」

「逆だぞ。ほんの少し渋みがあるからこそ茶葉の香りや甘みが際立つのだ」


 かといって長く茶葉をお湯にさらせば渋みは増すだろうが香りが弱いのにする意味はあまりない。

 クリスは中々紅茶にうるさいようだ。これならカフェラテでも飲ませておけばよかったと莞爾は少し後悔した。


 莞爾もずいぶん前にコーヒーにこだわっていた時期があるので、嗜好品にこだわる気持ちはわかる。


「今度紅茶のいいやつ買いに行くか。ポットも専用のがあった方がいいだろ」

「別に私は緑茶で構わぬよ。あれも中々美味しい」


 それはそうだろう。莞爾は緑茶をスーパーで購入していない。きちんと日本茶の専門店で購入している。安い煎茶だが少なくともスーパーで買うものよりも美味しい品だ。


「いや、そうじゃなくてさ。せっかく故郷のお茶と似てるんだろ? だったらたまには飲みたくなるだろ」

「む、むぅ……それは、そうだが。いいのか?」


 何を遠慮しているんだ、と莞爾は苦笑して大きく頷いた。


「それくらいならお安いご用だ」

「あ、ありがとう」


 ずずっとクリスはごまかすように紅茶をすすったが、やはりあまり美味しくなかったようで変な顔をした。



 ***



 ファミレスから出たのは午前七時を過ぎたあたりだった。

 莞爾はオーソドックスなトーストのセットを食べ、クリスはオシャレなフレンチトーストのセットを食べたのだが――


「ふむ。小腹も満たしたし、一度帰るか?」


 莞爾はクリスの発言に呆れてため息をつきそうになった。

 結局クリスはフレンチトーストだけでは足りなくてサラダとサンドイッチまで頼んでいたのだ。それでも最近はクリスの食事量は減った方だ。魔法で睡眠不足をごまかしていた頃はもっと食べていた。それこそエンゲル係数が高くなりすぎて目を剥くくらいには。


「そうだな。時間もまだ早いし」


 いつもなら今ぐらいの時間から朝食を食べる。

 車に乗り込んでゆっくりと走り出す。

 さすがに七時を過ぎると交通量も多くなった。それでもいつもより早く自宅へ帰り着く。


 やり残している仕事をやっておこうとする莞爾だったが、クリスに手を引かれてしまった。


「少し、歩かないか?」

「いいけど……」


 いざ婚姻届を出すとなると、なぜだか緊張してしまっていた莞爾は少し慌てた様子で頷いた。


 クリスの後に続いて歩く。彼女は山の方へと向かっていた。


「カンジ殿は覚えているか? 初めて会ったとき、貴殿はデリカシーの欠片もなかったのだぞ」


 ふふっと微笑むクリスに「ああ、すまなかった」と莞爾は謝って、頭をがしがしとかいた。


「それにしても、よく見ず知らずのものを泊めてやる気になったものだな。私が言うのもおかしいかもしれないが」

「そうだなあ……言われてみれば確かに」


 あの時、知ったことかと追い返していればどうなっていただろうか。ふとそんなことを考えるが、とくに意味はない。


「縁があったってことだろ」

「ふむ。運命の女神の思し召しということなのやもしれぬな」

「運命の女神?」


 莞爾が聞き返すとクリスは苦笑して首を横に振る。


「忘れてくれ、妄言だ」

「なんだよ、言っておいてだんまりか」

「むぅ、そう言われるとなんだかひどく思わせぶりに聞こえるな」


 けれども転移魔法の研究に関わることだと言われれば莞爾も聞き出しにくくなった。


「まあ、カンジ殿ならばよいと思うから簡単に説明するとだな。運命の女神が関わる魔法はそんなに多くないのだ。人生の節目の儀式などで出てくるのだが、要するに婚姻を結ぶときにも運命の女神が関わっている」

「はあ……」


 莞爾は神道的な分野ごとに違う神々の姿を思い浮かべた。あながち間違ってはいないだろうとあたりをつけて尋ねる。


「すると、縁結びの神様ってことか?」

「そういうわけではないが、まあ確かにそういう側面もあるな。口説き文句の常套句でよく出てくる神様でもあるし」


 クリスは林道に入っていく。莞爾も行き先の予想がついて無言であとに続いた。


「子どもみたいな発想かもしれないが、もしかしたら運命の女神が私をカンジ殿に引き合わせてくれたのではないか、と時々考えるのだ」


 それが都合のいい想像だとはクリスも自覚している。

 けれど、もしもその仮定が成り立つなら、どうして家族の元に連れて行ってくれなかったのかとも思う。そうなっていれば、莞爾とも出会うことはなかったかもしれない。


「その都度、与えられた選択肢の中から自分で選べるものを選んでいるだけなのに、どうして人は運命なんて言葉を使うのだろうな。偶然を必然だったなんて言い方もするが……あとから知ったことを必然と言い切ることほど簡単なこともないし、決まったことに納得するために運命だったなんて言い方をするのも、なんだかかえって空しいものだ」


 莞爾はクリスの手をとって彼女を追い抜いた。


「ずいぶん冷めた意見だな」


 クリスは辛辣に言い返す。


「自分の力ではどうにもならないことに、神の思し召しだとか神罰だとか名付けて無理やりに納得するのだ。ニホンの科学からすれば滑稽に見えるのではないか?」

「いやまあ、科学ってのは説明できない事柄をなんとか説明しようと頑張る学問だからな。仮に人類史が何万年と続いたって全ての事柄を説明することなんてできやしないさ。どれだけ科学が趨勢を極めても、結局神様ってのはいなくならないだろうし……って、こんな話をしているんじゃなかったな」


 目的地にたどり着いたところで莞爾は後ろに振り返ってクリスの目をまっすぐ見つめた。


「俺と結婚するのは、自分を無理やり納得させないといけないことなのか?」

「――違う」


 クリスは莞爾の手を強く握り返す。


「私は、私の意志で、カンジ殿の妻になると決めたのだ。この場所に投げ出されて、祖国に帰ることもできないから仕方なく結婚を選んだわけではない!」

「……クリス」

「――悔しかった」


 莞爾はクリスの言葉に首を傾げた。


「悔しかった?」

「ああ」とクリスは小さく頷く。


「昨晩のことだ。以前は知りたいと思っていただけなのに、今度は知らないのが悔しい。ホナミ殿やオオハラ殿がカンジ殿の昔話を楽しそうに話しているのが、その……夫婦になるはずの私の方がカンジ殿を知らないから――」


 少しばかり頬を膨らませたクリスを、莞爾は苦笑して引き寄せた。抱きしめて背中をぽんぽんと優しく叩いた。


「カンジ殿はあまり自分のことを語らないではないか」

「そうかも」

「もっと語ってくれてもよいのだぞ?」

「うーん、聞いて欲しいこともあるけど、クリスにはわからないこともあるだろうなって遠慮してたんだ」

「その理屈なら私の話だってカンジ殿はあまり理解していないではないか」

「あ、いや。それもそうだな」

「まったく……わからなくてもいいのだ。私はカンジ殿に私のことを知ってほしいし、私もカンジ殿のことをもっと知りたい」


 こっぱずかしいことを、と莞爾はくすくす笑った。


「クリス、覚えてるか? この場所でプロポーズした」

「……も、もちろん覚えているぞ。翻訳できていないと高をくくってカンジ殿は大声で宣言していたな!」


 恥ずかしさをごまかそうとしたのかクリスは莞爾をからかうように言った。


 改めて言うよ、と莞爾はクリスの左手を取り、ポケットから取り出した小さな指輪を薬指に嵌めた。その意味にまだ気づいていないクリスは不思議そうに首を傾げたもののなんとか察して少し笑う。


「――一緒に俺との未来を考えてくれ」


 莞爾は優しくクリスに口づけした。クリスもそれを受け入れている。


 ぎゅっと力強く抱き締め合っていたが、莞爾から切り出した。


「さあ、婚姻届出しに行くか」

「う、うむ」


 クリスの顔は真っ赤だった。



 ***



 その日の夜。


 入浴を済ませたあと、まだ午後二十一時にもなっていない頃合い。


 莞爾とクリスは二人でお酒を飲んでいた。

 珍しくもらい物のワインを空けている。


 アルコールが少し回り始めたところで、莞爾はクリスを抱き寄せる。クリスも抵抗しない。


 熱い口づけを交わしているうちに我慢できなくなったのか、莞爾はクリスをお姫様だっこの要領で担いで寝室に連れて行く。

 ベッドに優しく寝かせて覆い被さるように体を密着させた。


 何度も唇を合わせ、そうして見つめ合ってクリスが小さく頷くのを見て、莞爾は手をすべり込ませ――携帯電話がなった。


 莞爾は舌打ちをひとつして起き上がり机の上の携帯を見る。

 相手も見ずに着信を切り、マナーモードに切り替えた。


 さて、これで邪魔は入らない――と思いきやすぐさま着信が入り無視しようとしたがバイブレーションがやたらとうるさい。


 またもや着信を切って今度は電源を切ろうとしたところでまたもや着信が入った。

 莞爾は相手の名前を見て電話に出て開口一番に言った。


「明日にしろ! 明日!」


 それだけ言って電話を切り、携帯の電源も落としてしまった。


 クリスが体を起こして不思議そうに見ていた。


「だ、誰からだったのだ?」

「生意気なクソ坊主だよ……」


 莞爾はふっと笑ってクリスの口を塞いだ。

 肝心な場面で邪魔が入るのはいつものことらしい。

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