2月(末)中・旧交と兆し
お待たせしました。
二話にわけるつもりが三話分割になりました。
「きさ――貴殿は?」
今絶対に「貴様」と言おうとしただろう、と大原は少し泣きそうになりながらも平静を装って答えた。
「初めまして、クリスティーナさん。僕は佐伯くんの大学時代の友人で大原慎治と言います」
どうぞよろしくと営業スマイルを作った大原だった。
莞爾も穂奈美も隣でその笑顔を見ていたが、なるほど確かに彼の言うとおり商売人の笑顔である。相手が一般人ならば大人の落ち着きのある商社マンという印象を抱かせたかもしれないが、今回は相手が悪かった。
「その、こういう言い方は悪いと思うのだが、あまり無理はされない方がよいな……」
クリスにはお見通しであった。
表情の変わらない大原だったが、付き合いの古い莞爾や穂奈美にはわかる。彼は相当なショックを受けているのだ。
たまらず莞爾が救いの手を差し伸べる。
「まあまあ、ここじゃなんだから上がってくれ。あっ、クリス。こいつは穂奈美の連れで印象は悪いけど性格は悪くないから安心していいぞ」
「む、そうなのか? なんというかそれは損だな」
初対面の相手から憐れみを抱かれるとは、大原も不憫な男であった。
先に上がった莞爾をよそに、穂奈美は大原の肩を叩いて言う。
「だから言ったのに。ついてこない方がいいって。クリスちゃんは鋭いから、あなたみたいな人とはそりが合わないのよ」
「無理をしているつもりはないのに」
「そう? あなた莞爾くんと会ってからずっと緊張してるじゃない」
「そんなことはない」
「ならいいけど。でもついでだから言っておくけど、あなたが思っている以上にわたしと莞爾くんの仲はもう精算済みなのよ。本当にただの友人ってだけだし、今はクリスちゃんの件で付き合いもあるけど、あなたももう大人なんだからその辺りについては弁えなさいよ。あなたらしくもない」
言われてみればその通りかもしれないが、自然と身構えてしまうのはどうしようもない男の性なのかもしれない。確かに大原にとって佐伯莞爾という人間は馬が合わない相手だ。どこかしら同族嫌悪に近い部分もあるし、かと思えば全く正反対の人間だとも思うことはある。
大原は自分が感情的な人間であるということを自覚しているからこそ理知的であろうとしているが、そんな自分の苦悩も知らずに莞爾は自然体としてどっしりと構えているように見えて、なんだか羨ましくもあり、悔しくもあった。
「今日ぐらい大学時代の気分でいたらいいじゃない」
「最初からそのつもりだよ」
それでも顔が少し強ばっている大原に、穂奈美は苦笑して彼の頬をそっと撫でて言う。
「大丈夫よ。昨日の夜みたいに自信持ちなさいよ。あんなにまでしておいてまだわたしが他の男に靡くとでも思ってるの?」
「なっ……」
大原は思わず首を回して莞爾とクリスが聞いていないか確認したが、穂奈美以外には誰もいない。
「ほら、わたしの男ならもっと堂々としていなさいったら」
自信満々に艶のある笑みを浮かべる穂奈美に、大原は小さく息を吐いて頷いた。少しだけ肩の力が抜けたようだった。
***
せっかく大学時代の友人が集まったとはいえ、やるべきことは先にやっておくという人間しかいなかった。
婚姻届の保証人だなんてすぐに書き終わってしまう。
書面にはすでに嗣郎の名前があり、穂奈美は残された欄に署名と捺印を済ませた。
「はい、これであとは提出すればオッケー」
「ありがとうな」
「ホナミ殿、ありがとう」
莞爾とクリスが揃って頭を下げる。個人情報も含まれるので、大原は自ら蚊帳の外を決め込んで視線を外に向けていた。そういうところでは気遣いのできる男だった。
「大原も悪かったな。わざわざこんなど田舎まで来させて」
莞爾が水を向けると大原は首を横に振る。
「いや、僕は彼女に無理を言ってついてきただけだからね」
大原は穂奈美を一瞥して言った。先ほどまでのどこか堅い印象は薄れていて、クリスも少しばかり彼の評価を上方修正した。
「時間も時間だし夕飯食ってけよ」
そう誘う莞爾だったが大原はつい断ろうと口を開きかけた。しかし、穂奈美が待ってましたとばかりに「今日は宴会ね!」と言い出して、その上どこに持っていたのか焼酎の四合瓶を取り出したので大原もさすがにびっくりして目を剥いた。
「おっ! 國乃長じゃねえか! いい趣味してんな」
「ふっふっふっ! こんなこともあろうかとね!」
確かに大阪ではなぜか酒屋に連れて行かれたな、と大原は思い出す。てっきり同僚へのお土産だとばかり思っていた。
「君、焼酎もいける口なの?」
「慎治くんのリサーチ不足ね! わたしは酒なら全般好きよ」
「……あ、そう」
昨日はワイングラスで二杯しか飲まなかったじゃないか、という疑問はすぐに解消される。穂奈美が彼に耳打ちしたからだ。
「大事な日に酔っ払うなんてもったいないでしょ?」
とどのつまり穂奈美もその気でいたということなのだろう。とはいえ、大原からするといちいち顔が赤くなるようなことを言わないでほしいものだ。もう三十二歳といっても耐性がない人間もいるのだから。
かくしてクリスは意気揚々とスミ江お手製の割烹着を身につけて土間に下り、料理のスキルに自信がない穂奈美もちょっとした手伝いならばと莞爾からエプロンを借りた。
「ちょっと野菜取ってくるわ」
莞爾が長靴を履くと、一人だけ取り残されるのが気まずい大原が「ああ、僕も何か手伝おう」と席を立った。
莞爾は彼の気まずさを察して一言「頼む」と、二人で一緒に自家消費用の畑に向かおうとしたが、莞爾は一度納屋に大原を連れて行き、彼に革靴から長靴へと履き替えさせた。
「そのままじゃ汚れるからな」
「悪いね。お古かい?」
「いや、洗った時用の替え」
そうして今度こそ畑に向かう。
家庭菜園とは言ってもそれなりの広さがある。夏ほどたくさん作付けしているわけでもないし、見た目からして大半が背の低い作物ばかりなので少し物足りなさを感じるが、大原からすればそうではなかったらしい。
「すごいね。こんなにたくさんよく管理できるね」
「当たり前だ。誰に言ってんだ?」
農家に向かって言う言葉ではない。もっとも一度も野菜を育てたことがない大原には何が普通かもわからないのは当然だ。
「これは?」
「それぐらいわかるだろ。大根だよ」
「こっちは?」
「白菜。寒に当たってるから美味いぞ……っと、ほうれん草も甘みが増してるな」
「あっちのビニール張ってるのは?」
「ああ、あれは春キャベツだけど、あと一ヶ月は先だなあ。あっ、菜の花も食おう」
莞爾は大原に質問攻めにされながらもてきぱきと収穫して持ってきたビニール袋に入れる。
野菜が寒さに当てられて甘みが増すのはよく知られている。寒いと野菜は凍るのを防ぐために糖分を蓄えようとする。これによって甘みが増す。
「ははっ、面白い形の大根だね」
「下に石か何か、硬いのがあるとこういう股ができるんだ」
「へえ、でも味は変わらないんだろう?」
「そう言うけどな。実際はきれいな形してる方が美味いらしい」
「知らなかった」
「まあ食ってみてわかるかって言われたら難しいレベルだと思うけどな」
一通り収穫したところで納屋に戻り、今度は冷凍庫を開ける。
「一般家庭に冷蔵庫とは別にもう一台冷凍庫?」
「いや、普通じゃないか?」
「佐伯……言っておくが、普通じゃないぞ。いや、農家にとっては普通なのか?」
「まあ、どうでもいいだろ」
莞爾はてきぱきと冷凍庫からカチコチに固まった肉類を取り出して大原に手渡した。
「ひとまずこれだけあれば足りるだろ」
「四人なのに、食い過ぎじゃないかい?」
莞爾は大原の方を見て、彼の体つきをじろじろと観察する。
「……お前、ちゃんと食ってんのか? 痩せてねえ?」
「いや、これでも最近中性脂肪が気になり始めたんだけど」
「三十二で中性脂肪って、ただの運動不足だろ」
大原は図星だったのか苦笑いを浮かべた。
そうして土間に戻るとクリスがてきぱきと夕飯の準備を進めていた。穂奈美は危なっかしい様子で包丁を握っている。
まさかクリスから教えられる立場になるとは考えもしなかったのだろう。どこか悲壮めいた表情をしていた。
「大根はこっちの鶏肉で煮物かな。白菜は豚バラもあるしミルフィーユ鍋ってのをしてみよう」
「みるふぃーゆ?」
クリスは首を傾げる。穂奈美と大原は名前だけは聞いたことがあったみたいだ。
「よくレシピ本にも載ってるわよね?」
「僕も聞いたことがあるよ」
白菜と豚バラを土鍋にぎっしり重ね合わせて並べ、あとはだし汁を少量いれて弱火でぐつぐつ煮るだけ。
「菜の花は軽く茹でてお浸しにしよう」
穂奈美が「辛子和えにしないの?」と尋ねるが、莞爾は首を横に振る。
「辛子和えも美味いけど、さっと茹でただけなら辛みも残ってるし、辛子和えじゃなくても十分美味いよ。あと豆腐あっただろ? ほうれん草は白和えにしよう」
メニューは適当に言ってみたものの、クリスもスミ江から教わっているので彼の言うメニューは一通りこなせる自信があった。
クリスと穂奈美は土間で調理を続け、莞爾は大原に指示を出しながらコタツの上に皿などを用意していく。当然莞爾らの方が終わるのが早かった。
莞爾はコタツに入ってしまったが、大原は手持ち無沙汰で少しばかり挙動不審だった。
「おい、少しは落ち着けよ」
「いや、女性が働いているのに動かないのもなんだか落ち着かないじゃないか」
「気持ちはわかるけど、伊沢も率先してやってるんだから任せておけばいいだろ?」
「それじゃあまるで亭主関白みたいじゃないか。君はクリスティーナさんに家事を任せっきりなのか?」
「適材適所だな。それと今日はお前はじっとしてろ。せっかく伊沢がお前の前で良いところ見せようとしてるんだから」
「そう……なのかい?」
「たぶんな。だから、お前は黙って待って、食ったら美味い、惚れ直したって素直に賞賛すればいいんだよ」
なるほど、とまるで恋愛初心者のような頷きを見せる大原の後ろで、穂奈美は呆れた顔で莞爾と大原の様子を眺めていた。なお、莞爾はそれにずっと気づいていたが、大原は全く気づいていなかった。
「ねえ、莞爾くん」
穂奈美が大原の後ろから声をかけると、大原は驚いたように振り向いた。穂奈美は意に介さず莞爾に言う。
「せっかくだから、明るいうちに慎治くんに畑見せてあげてくれない?」
「畑? さっき一緒に行ったのにか」
「そっちじゃなくて、売る方の」
「別にいいけど……」
どうして穂奈美がそのようなことを言い出したのか莞爾にはわからなかったが、大原が穂奈美に色々と言っていたことを思い出して了承した。大方、大原に莞爾がどのような仕事をしているのか教えたかったのだろう。
「よし、大原。ちょっと散歩がてら畑見に行くか」
***
莞爾と大原がまた外に出たところで、クリスが手を動かしながら尋ねた。
「あの者がホナミ殿の、その、恋人でよいのか?」
穂奈美は一瞬考える素振りを見せて「一応、そうね」と答えた。
そういえばはっきりと交際を申し込まれたわけでもないし、答えたわけでもない。ただお互いにそういうつもりだったから初々しい言葉を必要としなかった。それに、そのつもりでなければベッドをともにするなんて、いくら穂奈美でもするわけがなかった。
「クリスちゃんは慎治くんが苦手?」
「苦手というか……」
クリスはすり鉢の中で水気を切った豆腐を潰しながら言う。
「私はニホンの殿方を詳しく知らぬからな。研究者とやらには数多く会ったが、あれはまあ仕事の感覚であっただろうし、そういうしがらみの無さでいえばカンジ殿しか知らぬ」
「そうね」
潰した豆腐に白だし少々に薄口醤油を少し入れて混ぜる。そこに茹でたほうれん草を一口サイズに切って和える。もう箸の使い方もお手の物で、菜箸を使って器用に混ぜ合わせる。
「オオハラ殿は、なんというか損をする性格ではないか?」
「あながち間違いでもないけど」
「つい憎まれ口を叩くとか」
「その通りね」
「そのくせ涙腺が緩いとか」
「本当に初対面?」
クリスの言うことがいちいち当たるので穂奈美は驚いて尋ねた。クリスから言わせれば大原のようなタイプの人間はよく知っているタイプだった。というか、騎士連中にはそういうのが多かった。
「ふふっ、なんとなく雰囲気がそれっぽかったのでな。騎士団に入団したはいいものの事務方に移された者があんな感じだな。知らず嫌われるように振る舞うタイプといえばいいかな」
「まあ、そうね。慎治くんはそういう人よ。結構面倒なの。根が真面目過ぎてルールは少しでも守らないのは許せない人間だし、逆に言えばそのルールの中でなら何をしてもいいって考えるというか。ある意味極端なのよね」
完成したほうれん草の白和えを大皿に移してラップをかけておく。もう手慣れたものだ。穂奈美もいくつか手伝いながらクリスのてきぱきとした仕事ぶりに感心しきりだった。
「その様子ならいつでも奥さんになれるわね」
「むぅ、あまりからかわないで欲しいのだが……ふふっ。礼を言わねばな」
クリスは手を止めて穂奈美の方に向き直り改めて礼を言った。
「私がカンジ殿と夫婦になれるのも、間を取り持ってくれたホナミ殿のおかげだ。ありがとう」
そう言われると、逆に穂奈美は「そんなに大層なことはしていない」と恐縮してしまう。むしろ莞爾にちょっかいをかけていたように思われても仕方がないとさえ思っていたのだ。
「わたし何かしたかしら」
「何を言うかと思えば……最初にカンジ殿の妻になるという選択肢を提示したのはホナミ殿ではないか」
クリスが呆れた表情で言うが、穂奈美からすれば返事の難しい内容だった。
完全にただの友人だから何の問題もない、と口では言っていたが、あの頃の自分を思い出すとやはり莞爾に対して少しばかり期待するところもあったような気がしてしまう。
それももしかしたら勘違いかもしれないが、大原と恋仲になったことで少しばかり彼に悪い気がするぐらいにはその気持ちもあったのだろう。
「でも、本当のことを言えば、あのときクリスちゃんが転移した土地からあまり離れたくないって言い出したのが始まりなのよ?」
「それはそうかもしれないが、私の要望を逐一聞き入れて協力をお願いする権力者というのも珍しいと思うのだが」
「それはクリスちゃんがそれだけ重要人物だったからってのが大きいわね。魔法だなんて今まで空想の産物だったんだから」
「そこで下手に出るのがよくわからないと言っているのだ。権力者ならば命令すればよいのだ」
仮に行政命令だったとしても、日本では担当が「お願いします」と頭を下げることも珍しくない。即ち有権者――主権が国民にあるからこそとも言える。それに比べれば、確かにクリスの故郷のような王権によって成り立つ国家では上意下達、絶対服従が原則なのだろう。
そのあたりの微妙なニュアンスの違いはクリスにとって如実に感じ取れたに違いない。
穂奈美は話を変えて尋ねる。
「ところで、クリスちゃんは莞爾くんと結婚するわけだけど……」
「うむ」
「絶対二人の子どもならかわいいわよね」
「ふにゃっ!?」
クリスは慌てて菜箸を落としそうになった。
「い、いきなり何を言うのだ!」
「だってそうじゃない。クリスちゃんは端正な顔立ちだし、なんだかんだ言って莞爾くんも濃い顔だから、男の子ならイケメンで、女の子なら美少女だと思うのよね。二人ともそれなりに身長あるし」
「か、顔などどうでもよいではないか! け、健康にすくすく育ってくれればよいのだ! うむ!」
クリスは一人でうんうんと頷いていたが、穂奈美は嗜虐的な笑みを浮かべて尋ねる。
「そうねえ、健康に育ってくれるのが一番よね。それで、子どもはいつ頃って予定はあるのかしら?」
穂奈美に尋ねられてクリスは顔を真っ赤にして固まる。
そのような計画は一切ないのだが、これまでの経緯を考えるに結婚してしまえばいつできてもおかしくないと思うくらいの自覚はあった。
「そ、その、別にいつという話はまだないのだが」
「へえ。それで、クリスちゃんは男の子がいいの? 女の子がいいの?」
「わ、私としてはやはりサエキ家の跡取りとなる男子を産まねばならぬと考えているが……むぅ」
「別に男でも女でもどちらでもいいじゃないの。子どもは何人いてもいいじゃない」
「しょ、しょれはしょうかもしれにゃいが……」
クリスは何をか想像してもう頭がぐるぐる回っていた。
「ああっ!」
土鍋が吹きこぼれていた。具材を詰めすぎたようだ。
一方、その頃の男二人は段々畑にいた。
大原は黒いビニールマルチの張ってある畑を指さして言う。
「これは?」
「空豆」
「へえ……なんで棒が刺さってるんだ?」
「風に弱くて倒れやすいからだな。もう少し成長してから支柱を立てるのでもいいんだけど、先に刺しておけば根を傷つけずに済むだろ?」
莞爾は簡単に説明をするが大原には全く理解できなかった。
空豆はまだ三十センチにも満たないぐらいで、この状態から空豆がどのように結実するのか大原には想像がつかない。
「空豆の名称の由来って知ってるか?」
「いや、考えたこともないね」
「豆類って大抵ぶら下がるように莢がつくんだけど、空豆は空の方――つまり上を向いて莢がつくんだ。といっても、収穫するときには重たくなって下を向くんだけどな」
大原は感心しきりでしゃがんで空豆をつんつんと突いていた。
「水はやらないのかい? 土が乾いてるけど」
「本格的に暖かくなるまでは水はやらない。あと、乾いてるのはマルチの外だけで、中はちゃんと水分保ってるから」
空豆の栽培は秋から冬に植え付けて初夏の収穫だが、冬の間は乾燥気味に生育させる。細かい違いはあるが、莞爾の場合はマルチで水分と土中温度を保ち極力水を与えない。
雨が降った場合も、マルチの外に雨が流れ、畑の特性上ほんのわずかに傾斜があるので水が溜まらない。
「だいたい何キロぐらい採れる?」
「さあ。はっきりとした数字はできてからじゃないとわからないけど、去年は一株あたり莢が二十ちょっとだったから……」
莞爾は空豆の畝をざっと眺めて首を傾げながら言った。
「仮に一株一キロで計算して、百キロちょっと」
「二千個莢ができる計算か。それでだいたいいくらになるんだ?」
「キロ単価五百円ぐらいかな。初夏は量も出るし四百円切ると思うけどな」
「じゃあ、これだけ植えてもだいたい四万円にしかならないってことか」
「市場に流せばそんくらいかな。まあ、ここはちょうど去年トマト植えてたところだし、ローテーション組み直したら隙間ができたから空豆植えたって感じだな。採算は考えてない、というか出荷するつもりがまずない」
「ローテーション?」
大原が首を傾げたが莞爾は他の畑へと歩き出す。大原も慌てて彼の後へ続いた。
莞爾は言う。
「連作障害って知ってるか?」
「聞いたことはある」
教科書にすら載っているような言葉だ。
「同じ作物を同じ場所に植え続けると、その土地の養分が減って収量が減ったり、虫害が多発するようになったりする」
「それで?」
「だから、単純な話、同じ作物は繰り返し同じ場所に植えられない。一年か二年、長ければ四年とか五年のサイクルで植え付ける場所を変えていかないとダメだ。まあ、野菜によっても必要な養分が違うから、同じ野菜ばかり植えてると土壌は特定の栄養素だけ欠乏する状態になるってわけだ。この空豆で言えば余裕を持って四年ぐらいは植え付けの場所を変えたいところだな」
「なるほど……」
「まあ、野菜によっても連作障害の度合いは変わるけどな」
マメ科は地力を復活させるから良いと言うが、品種によってもちろんばらつきはある。莞爾はさらに続けて言った。
「広い土地があれば、単価の低い野菜でも量を揃えて売ることができるし、まとまった収入にもなる。それで次の年は違う畑でって……要するに輪栽農業ってやつだな。有機物なら堆肥で補えるけど、ミネラル分となると……まあ補えるんだけど、安易に撒くとアルカリ性に偏って今度は育たなくなる」
「そうすると、果樹なんかはどうなんだい?」
「野菜と果樹は前提が全然違うけど、場所を変えずに毎年決まった収量を確保できることとするなら、きちんと栄養を補給してやる必要があるな。一年草と多年草ではまた特徴が違いすぎるし、俺が言ってるのは一般的な野菜の話だよ。果樹はまた大変だぜ? 初年度から実をつけるわけでもないしな」
大原は納得したのかしていないのか、首を傾げながらも畑を眺めていた。
「広さは?」
「全部合わせて約2町だな。といっても小さな畑がいくつも点在してるから使い勝手はすこぶる悪い」
「ふーん、場所が山だからってのもありそうだね」
「そりゃあ、仕方がない。水田は割に合わないから自家消費分しか作っちゃいないし」
そんな調子で大原の素朴な質問に莞爾はさらさらとよどみなく答えていく。
大原は莞爾の話を聞いているうちに眉根を寄せていた。
「佐伯……失礼だと思うけど、このやり方って儲かるのか? それとも何か補助金の出る作物でも育ててるとか」
「あー、俺は補助金絡みは作ってないな。儲かってるかって言われれば、正直プラマイゼロ。生活できるだけ稼ぎはあるから十分と言えば十分だけど」
莞爾のあっけらかんとした態度に大原は渋い顔をした。
理解できないといった表情だった。
そもそも大原の記憶違いでなければ、莞爾は元々高給取りだったのだ。それがどうして田舎で農家を始めたのか、そのきっかけがわからない。親が農家だったからと言えばそれはそれで単純明快な話かもしれないが、たった一人で農作業に明け暮れて、その上生活ができるだけの収入と言われればサラリーマンを続けていた方がよかったんじゃないかと苦言を呈したくもなる。
「聞いた限り、全然スローライフじゃないんだなあ」
大原がぼやくと莞爾は短く「そうだな」と答えた。しばらく腕を組んでそれから言う。
「よく実業家とか、新しい分野で起業したやつがテレビで出るだろ?」
「ああ」
「でも、実際十年会社を保つのだって難しいじゃないか」
「そう、だな……」
大原はふと独立すると夢を語って会社を辞めた同僚を思い出す。風の噂で彼の会社は黒字倒産したと聞いた。
「大成功している人間なんてどこの業界でもほんの一握りだろ? 使う側か使われる側、自分に向いてる方で働くのは当然だけど、ある意味農家ってのはその感覚から離れてるからなあ」
「企業戦士に戻りたいとか?」
「どうだか。でも、結局また会社勤めになるしな」
「なんだ、農業辞めるのか?」
莞爾は首を大きく横に振った。
「違う違う。農業生産法人起ち上げるんだ。んで、今度は代表取締役」
「……牛後は嫌いか」
「そういうわけじゃないんだけどな。成り行きだ。今のまま続けていてもこの村でやっていくには限界があるし、その限界が振り切ってるから人が残らないのは確かなんだ。だったら、その受け皿を作らないとどうしようもない」
地方再生という意味では確かに働き盛りの受け皿を用意しなければならないだろう。けれども、大原はそんなに俯瞰的な立場で莞爾が働く意味がよくわからないし、そういうつもりで言っているわけじゃないだろうとも容易に想像がついた。
「で、本音ではどうして農家になったんだい?」
すると莞爾は肩を竦めて言った。
「お前はどうしてサラリーマンになったんだ? 効率を重視して他人の看板で商売する方が稼ぎが大きいからか? それとも自分がしたい仕事を一から始めるのは難しくて、願望に適う仕事が今の仕事だったからか?」
莞爾の切り返しに大原は苦々しい笑みを浮かべた。
「どうだろう。最初はとにかく良い会社に入って両親を安心させなきゃって思っていたから。僕みたいな人は多いだろうね。内定がもらえたところで一番いいところを選んでそのままってパターンさ。けど、佐伯はそれを辞めて農家になったんだ。サラリーマンとは違う道だ」
「そんなに大層なものじゃないんだけどなあ……」
今度は莞爾が苦笑いを浮かべる番だった。
「ほんと、なんでだろうな。さっきの話、スローライフじゃないって言ってたけど、俺も今は楽しいから苦労してるって感覚が薄いのもあるし、使命感みたいなのがあってやってるわけじゃないからな」
莞爾は言葉を濁した。大原は「ずるいなあ」とため息をついて珍しく自然な笑みを浮かべた。
「昔っから、そういうところで口を閉ざすのは変わらない」
「そうか? 本音と言えば本音だぜ?」
「本当に?」
「そんなに大志ある人間に見えるか、俺が?」
「……見えないなあ」
そりが合わない間柄とはいえ、旧い仲だ。学生時代のやりとりが自然と頭に浮かんだ。
「けど、仕事の愚痴ぐらいあるだろう?」大原は言う「異業種だから興味はあるよ」
莞爾は腕を組んで山の方を向いていたが、ふと思い出したように言った。
「仕事の愚痴は酒場で落としてくるもんだろ」
「時代遅れな感覚だね。だいたいこの辺りに居酒屋なんてあるのかい?」
ないな、と莞爾は笑った。
でも、と大原は頷いた。
「気持ちはわかる」
少し真剣な表情を浮かべた大原に、莞爾は思わず尋ねていた。
「ところで――」
そこで一旦声を途切れさせてしまったが、悔やむよりも先に言葉が続いた。
「どうして伊沢と?」
すると大原は何も気にする素振りを見せずに苦笑して見せる。
「昔みたいに穂奈美でいいよ。そういうところで気を遣われると返って気になる」
「あー、すまん。いらない世話だったか」
大原は視線を落として乾いた声でかすかに笑った。
「きっかけというきっかけは、一昨年の結婚式かな」
莞爾はドクンと心臓が鼓動を一際深く波立たせたのを自覚して、白々しく相づちを打とうとしたが喉がしまって声にならなかった。
「正直に言うと、学生の頃は彼女に魅力なんて感じてなかったんだ。まず君のカノジョだったし」
けれど、と大原は続けた。
「久しぶりに再会したとき、伊沢さ――穂奈美はすごくきれいになっていたんだ。容姿はもちろんそうだけど、それだけじゃなくてなんていうか昔はなかった気の強さっていうか、わかるかな」
「……ああ」
「たぶん、あのときには一目惚れしてたんだと思う。芯があって、艶のある笑顔なんだけど、どこか強がってるように見えるというか……」
大原はさも昨日のことのように思い出して語る。
「けど、二次会が終わって僕が彼女を誘うよりも早く、君と一緒にどこかに消えてしまった」
莞爾は沈黙を守っていた。大原はふっと笑って彼の緊張を解すように言う。
「まあ、あのとき二人の間に何があったかなんて今更どうでもいいし、聞くつもりもないんだ。ただ、僕はあのとき確かに二人がまたよりを戻すんだろうって諦めたし、少しくらいは嫉妬したけど、まあそれだけだ」
そうして一年が過ぎて秋。
穂奈美から一通のメールが届いた。写真付きのそれには西洋人の若い女の子と照れた表情の莞爾が写っており、文面は二人が結婚するという旨だった。
「あのときはびっくりしたよ。まさか佐伯が国際結婚なんてさ」
「それは別にいいだろ」
茶化す大原に莞爾は小さくため息を吐いた。大原は頷いて続ける。
「そう、それで、諦めたはずだったんだけど、どうやって誘ったものだろうって悩んで、ちょうどそのとき大事な仕事があってそれどころじゃなくなって、いざ連絡を取ったのが去年の十一月末だったかな」
「そうか……」
莞爾はどう言ったものかと頭を悩ませて、結局何を言う必要もないと頭をかいた。
「じゃあ、今日はお互いの幸福を祝って乾杯だな」
「僕はまだプロポーズだってしちゃいない」
「なんだ、もういい歳だろ?」
「あんまり早くてもいけないだろう? 物事には順序ってものがある」
「だったらさっさと両親に挨拶して、さっさと結納して、さっさと結婚しろよ。男の三十過ぎは余裕あるけど、女は焦ってるもんだ」
「それ、下手したらセクハラって言われるよ」
「いや、現実問題として女の方が焦って当然だろ。子ども産むのには若い方が体力あるし、高齢出産はリスク高いだろ」
「そういうことを言ってるわけじゃないんだけどなあ」
大原は内心でため息をつく。
「さあ、帰ってメシだ。あと、酒」
「ご相伴に与るとしようか」
「おう、今日は特別に与らせてやろう」
「そいつはありがたい」
いつの間にか昔の調子で話していることに二人は全く気がついていなかった。