2月(3)下・ビター&シュガー
お待たせしました。
軽トラに草刈り機を載せて走り出す。
林道に入りいつもなら左に曲がるところを右に曲がり少し進むと開けた場所に出た。
枯れた切り株がいくつか見える。冬は夏と違って雑草に力強さは感じられないが、それでもゼロというわけではない。種類が違って枯れたように見えるものもあれば、根が深く刈り取ったところで意味があるのかどうかわからないものまである。
この草刈りもまだまだ時期的には早いのだが、定期的にしておかなければあとで面倒だった。
「野焼きができればいいんだけどなあ……」
2反もない斜面は春にわらびが採れるが、今は雑草で覆われている。勾配は緩やかだが足場は不安定だ。落ち葉や雑草で滑りやすい。
莞爾は草刈り機のリコイルスターターを引いてエンジンをかけた。ナイロンカッターが回転する。
野焼きをすれば新芽が芽吹くのを助けてくれるが、効果を考えると必ずしも野焼きが必要というわけでもない。まず野焼きの最大のメリットは残渣焼却にある。わらびは越冬した地下茎から新芽が芽吹くので地表に障害物がない方がよい。また、焼却したあとに灰が栄養素として地下茎に働くという考え方もできるが、残渣さえ排除できるなら灰を撒けばよい。
そもそもわらびは酸性土壌を好む。さらにわらびの再生力以上に収穫を続けていれば自ずと収穫量も減るし新芽の太さも細くなる。であるならば、規模に応じて野焼きの必要性は上下する。
この広さであれば野焼きのために方々に連絡して手続きを済ませて人手を集めるよりも、人力で残渣を排除して灰を撒いたり有機物を肥料として与える方がずっといい。
軽快な機械音を響かせながら、莞爾は黙々と草を刈る。時折石ころや大きな木片などを見つけては森の方へと投げ捨てる。
野焼きをしないのは森が近すぎて延焼の危険が大きいのも理由だ。実際何度か消防署と町役場に相談したことがあるが、あまりいい顔はされなかった。もう少し余裕のある広さにすれば、とも考えたがこれ以上山を拓くと今度は豪雨の際に土砂崩れが懸念される。
ざっと一時間ほどかけて伸びた草を刈り終える。刈った草を今集めても仕方がないのでそのまま放置だ。数日後に熊手で残渣を集める予定だ。集めた残渣は燃やして灰にして撒く。
ほんの表面だけ耕耘機をかけてもいいのだが、今のところはしていない。灰を撒いてからしばらく経って堆肥も撒く予定だ。
一応は斜面なので降雨で流れそうだが、雑草の根と茎は少なからず残るので案外流れないし、むしろ畑よりも土が流れない。
一通り終えて帰宅して道具を納屋にしまう。
時刻は午後五時にさしかかろうとしている。冬の太陽は傾くのが早い。
智恵と菜摘がまだいるかと思って勝手口から家に入るが、そこにはクリスと菜摘がいるだけだった。
「ああ、おかえりカンジ殿」
「おかえり、お兄ちゃんっ!」
落ち着いた笑みを浮かべるクリスに、何が楽しいのかにこにこと企みがあるような笑顔を振りまく菜摘。
莞爾は笑みを浮かべて「おう、ただいま」と元気よく返した。
「智恵さんは?」
「夕飯の支度があるからと先にお帰りになったぞ」
菜摘は何やら用事があるらしくまだ居間でくつろいでいるようだった。てっきりクリスと遊び足りないのかと思っていたら、部屋着に着替えて戻ってきた莞爾に視線を向ける。
「あのね、お兄ちゃん。渡したいものがあるんだ!」
「渡したいもの?」
「うん!」
そういって菜摘はこたつから抜け出して土間に下り、冷蔵庫の中からラップで包まれたお菓子を持って戻ってきた。
「ごめんなさい。本当はもっとかわいいリボンとかつけたかったけど……」
「チョコレート?」
一口サイズのチョコレートがラップに包まれている。菜摘に手渡されて莞爾はようやく思い出す。
「ああ、なるほど。バレンタインか!」
「えへへ、そうだよお!」
「ありがとうな、菜摘ちゃん」
莞爾は菜摘の頭をそっと撫でてお礼を言った。
「お返し待ってるからね!」
抜かりはないとばかりに人差し指を立てる菜摘を見て莞爾はくすくすと笑った。
「ああ、ちゃんとお返しするから楽しみにしていていいよ」
「えへへー、ちゃんと三倍返しなんだからねっ!」
菜摘は今からすでに待ち遠しいのか両手を合わせてくるくる回った。そして何かを思い出したのかはっと目を見開いて言う。
「じゃあ、帰るね! お母さんが待ってるから!」
「暗いから気をつけて帰るんだよ」
「うん! お邪魔しました! クリスお姉ちゃんもまた遊ぼうね!」
送ろうかと言おうとしたがさっさと靴を履いて勝手口から出て行こうとするので莞爾は手を振って見送った。
菜摘の足音が遠く消えていく。
莞爾はクリスの方に振り向いた。
クリスはなんだかもじもじしていて、少しばかり頬を赤らめていた。
「その、トモエ殿がニホンの風習とやらを教えてくれてな……」
バレンタインデーは確かに風習として半ば定着してはいるが、元を正せば製菓会社の陰謀である。もっとも莞爾としては無下にするよりもむしろ素晴らしきビジネス戦略だと賞賛する。
「トモエ殿が言うには、女性が意中の殿方にチョコレートを贈るらしいな。その、せっかくだから一緒に作ろうと誘ってくれたものだから……」
「うん」
何を今更もじもじすることがあるのだろうか。莞爾は苦笑しながらクリスが切り出すのを待った。
「作るのは楽しかったのだが、ほら、カンジ殿は日頃からあまり甘味を食べぬし、実は嫌いなのではないかと少し不安だったのだ」
「いいや、嫌いじゃないよ。クリスが作ってくれるなんてすごく嬉しい」
莞爾は食事以外に何かを食べることがほとんどない。飲み物も酒以外は大抵無糖だ。
けれども勧められればお菓子も食べる。
クリスは面映ゆいような表情で立ち上がり、おずおずと冷蔵庫から小さな箱を持って戻った。そうしてわざわざ莞爾の隣に座って箱をテーブルに置く。
見た目は菜摘とは打って変わってきちんと包装されている。どこで買ったのか包装用のリボンまでついていた。
「トモエ殿が用意してくれたのだ」
智恵はあまり家庭的ではなかったが、昔からお菓子作りなどが好きだったらしい。実は孝一を射止めたのもお菓子作りが理由だったりする。
「菜摘もコウイチ殿に贈るチョコレートはきちんと包装していたぞ」
「へえ」
すると自分の分は適当に包んだだけのおまけだったというわけか――莞爾は頭をかいて少しだけ笑う。きっと智恵が東京に戻った折にでも孝一に渡す手はずなのだろう。
「開けていいのか?」
「う、うむ。心して開けるのだぞ!」
クリスは料理の腕前こそスミ江のおかげで上がっているが、お菓子作りは初めてだったので少しばかり緊張している。
莞爾は期待を膨らませながらリボンを解き、ゆっくりと蓋をとった。するとチョコレートの香りとは別に少しフルーティーな香りも漂ってくる。
「へえ、上手くできてるじゃないか」
少なくとも見た目はすごくよかった。あまりお菓子を食べない莞爾にとってはきれいに型を使って固められたチョコレートというだけで見栄えはよく見えた。本職からすれば児戯に等しいかもしれないが、クリスの気持ちがきちんと伝わってくる。
チョコレートは一口サイズのものが四つあった。
「食べていいか?」
「もちろんだ」
クリスは緊張が解けてきたのかわくわくした様子で莞爾の腕にくっついている。
莞爾はわくわくした気持ちを押し隠しつつ、星形に整形されたチョコレートを摘まんで少し眺めて口に入れた。
カリッと冷たいチョコレートを噛み砕くと、甘さは控えめでカカオの苦みが感じられ、続いてオレンジピールの爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「へえ……美味いな」
「ほっ、本当か!?」
「ああ、これ美味いよ」
クリスは莞爾の感想を聞いてほっと胸をなで下ろした。
「よかった。初めてだったから不安だったのだが、そう言ってもらえると安心する」
「智恵さんに教えてもらったんだよな?」
「うむ。トモエ殿は教えるのが上手だった」
案外知らないだけで隠された才能というやつなのだろう。莞爾は二つ目のハート型をとって食べる。
今度はイチジクの味がした。
由井家の果樹園で作っているイチジクだろう。ドライフルーツにして細かく刻んである。チョコレートとの相性はかなり良かった。莞爾も知らなかったので新発見だ。
「少しブランデーの香りもする。これいいな」
「そうだろう? 私もこれが一番お気に入りなのだ」
残りの二つは普通のミルクチョコレートとラムレーズン入りのものだった。
「うん。美味かった」
「むふふっ、教えてもらった甲斐があったな」
ふと思い出したように莞爾は言う。
「せっかくだから一緒に食べればよかったな。悪い」
「ふむん? 私は食べてもらえて嬉しかったぞ?」
「それならいいんだけど……」
素直に嬉しいと笑顔を浮かべるクリスを見て、莞爾は気にする必要もないかと微笑んだ。
しかし、何より後悔しているのはクリスだった。
智恵に教えてもらって作ったはいいが、あまりにも出来が良かったので莞爾に渡すチョコレート以外はすべてつまみ食いしてしまっていたのだ。なお、共犯者は菜摘である。
莞爾は菜摘から貰った残りのチョコレートに視線を落として尋ねる。
「菜摘ちゃんのはどんなチョコレートなんだ?」
「ナツミのは確かラズベリーだったかな。美味しかったぞ」
甘酸っぱいベリー系の果物とチョコレートはよく合う。
包みを開いてよく見るとところどころに赤い粒が見える。
莞爾は何を思ったのかひとつつまみ取ってクリスの口に放り込む。
「んむっ……カンジ殿に贈られたものだぞ」
クリスは抗議はしたもののもぐもぐと口を動かして美味しそうに笑みを作る。
そうして喉を過ぎたのを見計らったように、莞爾はクリスの腰に手を回して抱き寄せる。クリスは少し恥ずかしそうにはにかんだものの、すぐに彼の肩に頭を乗せてくすくすと息を漏らすように肩を震わせた。
莞爾はまたひとつ摘まんで今度は自分の口に入れた。そうして冷たいチョコレートがじんわりと溶け始めた頃合いで、クリスの首を手で支えつつ唇を奪った。
「んっ……」
雰囲気から予想はしていたのか、クリスは抵抗もなく瞳を閉じて受け入れた。
なぜだか夜よりもずっと熱っぽい。彼の吐息に共鳴するようにだんだん頭がぼんやりとし始めた。
「んんっ!?」
そして、気づけば唇を割り開くように彼の舌が侵入し、自分の舌を絡め取った。チョコレートの甘さにほろ苦い香りが鼻に抜け、追いかけるようにラズベリーの酸味が口いっぱいに広がる。けれども、それ以上に莞爾のむさぼるような接吻に、驚きはすぐに本能的な何かに上塗りされてしまう。
純真無垢な菜摘の作ったチョコレートで何をしているんだ、と思いはしたものの、莞爾はわずかばかりの後ろめたさが自らを興奮させているのだと自覚していた。
初めこそ逃げ惑っていた彼女の柔らかい舌先が、いつの間にか自分の舌の動きに呼応するように絡まってくる。
何度か唇を離して荒い息を吐くものの、薄く瞼を上げれば微かに憂いを帯びたような瞳が見つめ合う。そうしてまた情熱に浮かされて没頭した。
いつの間にかクリスは莞爾の胸に手を当てて彼の衣服をぎゅっと握っていた。
だんだん自分の体が自分のものでないように劣情に駆られていくのがわかった。優しくふわりと押し倒されて、クリスは気づかないうちに莞爾の首に腕を回して自ら唇を求めていた。
まだ甘酸っぱいままのキスだった。甘酸っぱいくせに官能的な感触に頭が真っ白になりつつあった。
莞爾の少しひんやりとした手が服の隙間から侵入し、クリスの柔肌に触れた。
冷たいはずなのに、彼が触れたところがまるで熱を持ったようで彼女はびくりと体を震わせた。
官能的で、甘美で、有無を言わせぬように唇を唇で塞がれているその暴力に、クリスはなされるがままだった。
彼のごつごつとした手の印象とは違って、その手はまるで労るように繊細に肌を伝って登ってくる。くすぐられているような感触なのに、なぜだか吐息が漏れて体から力が抜けてしまう。
頭が回らない。ただ彼になされるがまま自らの肉体は彼の微細な動きにさえ呼応して悦びに震えてしまう。
唇が離れ、やがて首筋に温かく柔らかいそれが落ちてくる。クリスは彼の頭をかき抱き、かすれるような吐息を漏らした。
鎖骨を這う彼の舌先に声が音になって漏れ、クリスは思わず片手で口元を隠した。顔を離した莞爾が優しく微笑んでその手の甲にキスをした。
「その……は、恥ずかしくて」
いつになったら、どこまでいったら止まることができるのだろう。
自らの腰に当たるそれは莞爾が興奮している証だ。顔を真っ赤にして、クリスは濡れた唇を震わせた。
莞爾は優しく彼女の手をとり、啄むようにキスをすると彼女の耳元でそっと囁いた。
「好きだ」
――ああ。
クリスはぎゅっと彼の背中に腕を回して抱きしめた。
怖くはなかった。熱情に心が沸騰しそうだ。むしろ彼の手が、唇が、どうして何かを思いとどまるようにそこで止まってしまうのか、いっそもどかしい。
「カンジ殿……私は――」
「ごめん」
突然の謝罪にクリスは口を閉じた。一体何を謝っているのかわからなかった。
男というものがどういう生き物なのか、クリスはさんざん教えられてきた。貴族の子女にあって子を成すための方法はよく聞かされている。
曰く、殿方にすべて身を任せなさい――そんな程度のものだったが、実態はどのようなものかおしゃべりな侍女から詳しく聞いたことだってあった。
だからこそ、自分が莞爾に我慢を強いていることは少しばかり申し訳なく思っていた。
熱に浮かされた今ならば、かつて自分が口にした「結婚するまでは」という言葉も忘却できそうな気がした。
「カンジ殿?」
暗に、その呼びかけには誘惑じみた響きがあったが、莞爾はクリスの頬に軽い口づけをして抱きしめた。
「その、これ以上は優しくできる自信がない」
情けないため息を漏らして、彼はクリスに体重を預ける。肘で体を支えているのでクリスもそこまで重たさは感じていなかった。
むしろ彼の重みがのしかかり、なぜだか少しほっとする。
「カンジ殿なら私は――」
「そうじゃないんだ」
顔を上げた莞爾は困ったような顔をしていた。
「嬉しくてつい暴走してた」
何が、と問うのは野暮なのだろう。
「話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」
「大事な話なんだ」
莞爾は体を離して彼女をそっと抱き起こす。そうして自分だけコタツから抜け出すと「少し待っていろ」と寝室に向かった。
先ほどまで熱に浮かされていたせいか、クリスは急に恥ずかしさがこみ上げてきて何も言わずテーブルに突っ伏した。
「何してるんだ?」
「あ、いや……」
莞爾は苦笑しつつもクリスの後ろから彼女を抱きしめるように座った。首筋に軽くキスをするとクリスは恥ずかしそうに身を竦めたが苦笑した。莞爾は彼女の眼前に一枚の書面を広げた。
クリスは小首を傾げて尋ねた。
「これは?」
「婚姻届」
一瞬、それが何を意味するのかよくわからなかった。
祖国では挙式すればそれが夫婦の証であったし、書類を揃える必要はなかったのだ。
「婚姻、届というと」
「読んで字の如く。戸籍上では婚姻届を出さないと夫婦になれないんだ。挙式は儀式的なもので、こっちはまあお役所に渡すものだな。これを書いて出せば社会的に夫婦だと認められる」
内縁もとい事実婚というものもあるが、一番確実なのはやはり婚姻届だ。
莞爾はクリスを後ろから抱きしめたまま落ち着いた声音で言う。
「挙式とお披露目はちゃんと機会をつくってしっかりするとして、まずはきちんと夫婦になったって証が欲しくてさ。その、このまま挙式まで待っていてもいいけど、俺は本気でクリスを愛してるって知って欲しかったし、書類だけ先に提出しても問題はないからさ」
クリスは尋ねた。
「では、これを書いて出せばつまり私たちは晴れて――」
「ああ。夫婦だよ」
クリスは自分を抱きしめる彼の腕を思わずぎゅっと掴んだ。
なぜだろう。
不安や家族に対する呵責がないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に胸が苦しくて仕方がない。張り裂けてしまいそうなほど胸が高鳴って、苦しいはずなのに嬉しくてたまらない。
結婚はすでに決めたことではあった。けれどもこうして実際に夫婦になれる証が目の前に提示されると、彼の気持ちが本当に自分に向けられているのだと実感できたし、夫婦になるという実感がこみ上げた。
「今日書いてすぐ提出できるってわけじゃないけど、来週には出そうと……クリス?」
後ろからのぞき込んだ莞爾に目元を指で撫でられて、クリスは初めて自分が泣いていることに気づいた。
「あっ、いやっ、これは、その……」
戸惑うクリスをぎゅっと力一杯抱きしめて、莞爾は微笑む。
「一緒になろう」
柱時計の秒針が鼓動のようにやけに大きく鳴っているように聞こえる。
クリスは両手で顔を覆って、震える声で、けれども確かに噛みしめるように言った。
「――はいっ」
短針がかちりと垂直に立つ。
気が早い鐘が響いた。