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2月(3)上・ビター&シュガー

お待たせしました

 六歳の誕生日。


 普段は質素倹約で料理人の工夫が盛りだくさんな食卓も、誕生日ともなれば豪勢だった。


 いつもなら絶対に食べられないような鳥の丸焼きも、希少な山の幸を生かした蒸し料理も、はたまた食後のデザートまで用意されている。そのデザートも酸っぱい果物ではなくて貴重な砂糖で作った飴細工があしらわれた小麦菓子。バターがふんだんに使われたそれは鼻を近づけるだけで口の中が唾液でいっぱいになるほど芳醇な香りがする。


 その日ばかりはいつも厳しい両親がとやかく作法に口を挟まない。もっとも娘に物心がついた時から作法については厳しくその都度躾けてきたので何を気にする必要もなかった。


 たっぷりと誕生日の豪華な食事を堪能して、子どもらしく満腹に眠気が出てくるとしても、そこは教育の成果と言うべきか、目を擦りながらも食後のお茶が終わるまで両親の話に耳を傾ける。


「さて、クリス」


 父は先ほどまでの柔らかい笑顔を真面目に染めて娘に尋ねた。


「もうお前も六歳だ」

「はい、父上。母上も、兄上も、皆さんお祝いいただきありがとうございます」


 もう眠くて仕方ないだろうに、愛娘が日頃の成果とばかりに席を立ってしっかり礼の仕草をするのを、両親は微笑ましく眺めている。兄はふんっと顔を逸らしているが照れ隠しだったことは周りにもわかりきったことだ。


 父は鷹揚に頷いてちらりと妻と視線を合わせた。一瞬交錯した視線になにがしかの合意があったのは明白。父はお茶で唇を湿らせて、物音も立てずにカップを置くと言う。


「クリス。お前は将来何になりたい?」

「しょうらい?」

「ああ、大人になったらどんな人になりたいか、教えておくれ」

「えーっと……」


 娘はしばし悩む。眠気もあって頭が回っていない様子だったが、何か思い当たることがあったのか途端に半分閉じていた目がぱっと開いた。


「わたし、兄上のお嫁さんになります!」

「は?」


 これにはさすがに両親も兄も驚き言葉を失った。されど愛娘は本心からそう言っているようで、さらに兄の方を見て「ふつつかものですが」などと、どこで覚えたのか一丁前に宣う始末。

 兄は狼狽して挙げ句顔を真っ赤に染めて開いた口を塞げず、ようやく言葉の意味を理解した両親は揃って頭を抱えることとなった。


 母は盛大なため息をついて娘に言う。


「ねえ、クリス」

「はい、母上」


 にんまりと、まるで「言ってやった」と言い出しそうなほど満足げな娘に世の中の常識を教えるのは少し悪い気もするが、勘違いは正してやるのが親の務めと、母は諭すように言った。


「よいですか。兄妹は結婚できないのです。あなたたちが大人になったら、あなたたちそれぞれにふさわしいお方と結婚するのです。もちろん我が家の者ではありませんよ。メルヴィス家と家格が釣り合うお家のお方でなくてはなりません」


 娘は首を傾げて尋ねる。


「母上、なぜわたしは兄上と結婚できないのですか?」

「そういう決まりなのです」

「なぜそういう決まりがあるのですか?」

「エウリーデ王国の議会で貴族の婚姻に関する法律として定められているのですから、理由も何も、そういうものなのですよ」


 どうして、と聞かれると母もよく理由はわからない。経験則として血の近い者同士では子どもに悪影響があるとは知っているものの、目の前の娘はそこから先の理屈にまで「なぜ、どうして」と首を傾げるだろうとすぐに予想がついた。


 しかし、そうした「ダメなものはダメ」という理屈を、父は苦笑しつつやんわりと咎めた。


「お前、それではクリスも納得できないだろう」

「貴方……」


 父はクリスの方を見て言う。


「お前の母上が間違っているわけではない。我々は貴族だからこそ、王国の法律を誰よりもきちんと守らねばならぬ。よいか、クリス。法律とはきちんと理由があって作られるのだ。例えば血が近いものと結婚してはならぬという法律は、近しいものの間に生まれた子は武術が苦手だったり文字の読み書きが苦手だったりする。みんながみんなそうではないが、そういう風に生まれてくることがある。貴族として一人前になるためには武術か、あるいは読み書きや算術、いずれかが優れている方がよいのだ」


 父の言葉に娘はしばらく考えて言う。


「父上。では、貴族として一人前になれる子でなければ、わたしは捨てられてしまうのですか?」


 小さな瞳が不安げに揺れている。そこで父ははっとして椅子から立ち上がり娘を抱きかかえる。


「クリス。馬鹿なことを言わないでおくれ。私がクリスを手放すわけがない。こんなにも愛おしい我が子を手放す親がどこにいる」


 そう言って父は娘に頬ずりをする。


「ち、父上。おひげが痛いです」

「あ、ああ、すまぬ」


 母は親子の微笑ましい様子に安堵し息子を見る。何やら真剣に考え込んでいるように見えた。


「バルトロメウス。どうしたのです?」

「母上……いえ、なにも」

「そのわりには何か考えに耽っているようでしたけれど」

「それは……はい。大したことではありません。兄妹で結婚はできないことは存じておりましたが、別に結婚できずとも兄妹であることは変わりないのだと考えていました」

「あら、まあ」


 両親は顔を見合わせて笑い合った。この兄にしてこの妹あり。いや、この両親にしてこの子らありなのだろう。


 父は娘を優しく椅子に降ろして自分も席に戻る。そうして元の真面目さを顔に出して尋ねた。


「さて、話を戻そうか。大人になったら何になりたいかだ。クリス?」

「それは今決めなければならないのですか?」

「今でなくてもよいが、いずれは決めねばならぬ」

「そう言われましても……母上も先ほど仰いました。家格の釣り合うお方と結婚するのだと。わたしが大人になったら父上がお相手の殿方をお決めくださるのではないのですか?」


 父は愛娘の頭の回転の速さに驚きつつも、きちんと説明せねば我が子は疑問を浮かべたままだろうと気づいた。


「クリス。それは女として生まれた以上はいずれ嫁ぎ子を成すのが定め……とはいえ、妻になる、母になるからと何もできぬのではメルヴィス家の長女として恥ずかしいとは思わぬか? 何もわからぬのに、どうして我が子に物事を教えてやることができようか」


 二度三度とかみ砕いて説明すると娘はなんとか理解してくれたようで頷いた。もっとも本当の意味では理解できていないようだったが、六歳の女の子に多くを求めすぎるのも酷だ。


「例えば今は女でも騎士にだってなれるのだぞ。主に女性の王族の護衛が任務になるが」

「きし、ですか?」

「ああ。騎士とは主君に仕え、武を以てその助けとな――」


 夫が熱くなりかけて妻がそれを優しく正す。


「貴方。それではクリスにはわかりませんよ」

「あ、ああ。そうだな。うむ……」


 父はしばらく悩んで頷くとまた口を開いた。


「騎士とは……」

「はい」

「自分の信念に従い信念を守り通す者だ」

「しんねん?」


 父は大きく満足げに頷いてさらに言った。


「信念とは、自分が自分らしく生きるための約束のようなものだ」

「自分が自分らしく?」

「うむ。理想の自分とでも言おうか」

「理想、ですか」

「そうだとも。例えば、だ。お前が道を歩いていると、目の前に怪我をして歩けない平民の子どもがたった一人で座り込み泣いていたとしたら……そのときお前はそのまま通り過ぎるか?」


 娘はさも当然とばかりに首を横に振った。


「困っているでしょうし、怪我をしているのに一人だなんて、きっと不安だと思います。わたしなら声をかけてその子の母親を探します」


 子どもらしい純粋さなのか、それとも自分たちの教育の成果なのかわからないものの、愛娘の言葉は決意に満ちていた。それはとても喜ばしい結果だ。


「クリス。それが信念だ」


 娘は首を傾げた。意味がわからない、と顔に書いてある。


「どうしてでしょう。だって困っている人がいれば助けるのが当然ではありませんか。父上も以前そのように仰いました」

「そうだとも。当然だ。しかし、もしその当然のことができないようなことがあったら、もし我欲に負けて困っている人を助けるよりも自分の欲しいもののために見捨てたくなったら、そのときお前はどうする?」

「……よく意味がわかりません」

「そうだな。もしバルトロメウスと一緒にいて、兄が『見捨てろ』と言ったならば、お前は兄の言いつけ通り痛みと寂しさに泣く子どもを見捨てるか?」


 兄である息子は「そのようなことは申しません」とやや憤慨した様子だったが、父は「例えばの話だ」と濁した。

 娘はしばらく考え込んではっきりとした答えは見つからなかったがなんとか口を開いた。


「その、見捨てない、と思います」

「なぜ?」

「……きっと後で気になって気になってそわそわしちゃうと思うのです」

「見捨てることは後悔すると?」

「こうかい……えっと、はい」

「では兄ではなく私が『その子どもは汚いから見捨てなさい』と言ったら?」

「父上はそのようなこと――」

「答えなさい」


 父はわざと鋭い目つきで正面に娘を見据えて問う。

 娘は蛇に睨まれた蛙のように身を強ばらせ、しかし必死に頭を悩ませて、泣きそうになりながら恐る恐る口を開いたのだった。



 ***



 小鳥の囀りで目が覚めた。


 クリスはしばらく天井を眺めていたが、今見たばかりの夢に呆れたように息をもらし、それから自分が泣いていることに気づいた。


「あ……」


 きっと昨晩遅くまで昔話を口にしていたからだろうと、雑念を振り払うように目元を擦った。

 そうして顔を横に向けると、自分はまだ莞爾の腕の上に頭を乗せていて、彼はまだ目覚めていないことに気づく。


 記憶は定かではないが居間の柱時計が午前二時を知らせたところまでは覚えている。ちらと部屋の時計を覗くと午前九時になろうとしている。


「まったく、今朝は早いのではなかったのか?」


 クリスは両肘をついて莞爾の寝顔をしばらく眺めていた。

 安心したように眠っている。彼の寝顔は少しばかり間抜けだった。

 きっと自分が泣き疲れて眠ってしまったあともしばらく起きていたのだろう。静かに涙を流していた自分を、彼はずっと優しく背中をとんとんとゆっくり叩いていた。まるで子どもをあやすかのようだったが、なぜだか安心してすうっと意識が薄れていったようだ。


「しかし、よくずっと頭を乗せられて腕が痺れないものだな」


 試しに腕をつついてみると、間抜けな寝顔がうっとうしそうに歪む。


「むふっ」


 クリスは面白がってつんつんとつついた。


「うーん……」


 莞爾は眠ったまま腕を引っ込めて寝返りを打ち向こうを向いてしまった。


「むぅ……そっぽを向くな。このう」


 クリスは莞爾が寝ていることをいいことに後ろから抱きついて彼の体を無理やり自分の方に向ける。

 そうして彼の顔がぐるんと自分の目と鼻の先に現れて思わず息を呑む。さすがに近い。

 そっと顔を離して息を吐く。


「びっくりした……」


 そうして正面から莞爾の顔をじぃーっと見つめて――


「……だ、大丈夫だ。起きてない」


 触れた唇が異様に熱かった。


「カンジ殿……」


 クリスは莞爾に抱きついて彼の服の開けたところ――鎖骨に口づけをする。そしてそのままぎゅっと抱きしめた。


 一体自分は何をしているんだろう、と思わなくもない。というか、完全に浮かれているのは自覚していた。


 だんだん気恥ずかしくなってきたが、それと比例してなんだか楽しくなってきた。


「ふふっ……カンジ殿。ふふっ」


 ぐりぐりと莞爾の胸板に額を擦りつけてしばらく彼の体臭を堪能していた。



 しばらくしてようやくクリスは我に返る。


「大丈夫だ。うん。大丈夫」


 見れば莞爾は死んだように眠っている。よほど疲れていたのかもしれない。そう考えてクリスは一人合点する。


 さて。

 クリスが莞爾を起こさないように部屋を出て行ったあと、実に一分ほど待って莞爾は目を開いた。


「……あいつ、いつもああなのか?」


 実は、腕をつつかれた時から起きていた。起きていたが、面白がって寝たふりをしているうちに目が開けられない状況になってしまっただけだ。


「わからん。夜の甘え方とベクトルが違う。違いすぎる」


 昨晩は除き、一緒に寝るようになってからのクリスは、少し色っぽい感じがしていた。甘え方もどちらかと言えば熱に浮かされたような印象だった。

 けれど、今朝のはまさに違う意味で熱に浮かされているようだった。


 莞爾は額に手を当ててため息をつく。自分もクリスほどの年齢だったならば少しは同じように浮かれることもできたかもしれないが、さすがに誰が見ていなくてもこっぱずかしい。


「あんなところもあるのか……」


 両腕を挙げて背筋を伸ばして、それからふっと苦笑した。



 ***



 朝食を終えたあと、莞爾は畑ではなく大谷木町へと出かけた。


 クリスを家に残して一人で町役場にやってきた。車を駐車場に停めて携帯電話を取る。かける相手は穂奈美だった。


『仕事中!』

「おう、すまん。あとでかけ直す」

『ちょっと待って。すぐこっちからかけ直すわ』


 穂奈美はデスクワークの真っ最中だった。すぐにかけ直してきたが息遣いからして喫煙所にでもいるのだろう。


『で、突然どうかしたの?』

「証人になってくれ。印鑑頼む」


 莞爾の突拍子もない言い方に穂奈美はすぐさま言い返す。


『残念だけど、連帯保証人なら他を当たってくれる?』

「馬鹿。誰がお前に頼むか」


 穂奈美も案外鈍感だった。


「婚姻届の証人に決まってるだろ」

『はあ?』


 わかっていたとはいえ、さすがに急だと穂奈美は驚きを隠さずに尋ねる。


『夏頃に挙式するって言ってなかった?』

「挙式はそのつもりだ」

『先に籍だけ入れるの?』

「そのつもりだ。一人は伯父に頼むから、もう一人はお前に頼むよ。一応クリスの背景って面倒だから役人が証人の方がいいだろ?」

『……なんか詐欺師みたいなこと言うのね』


 とはいえ莞爾の言い分もわかる。少々呆れてしまうが、彼もよほど焦っていたのかもしれない。いや、浮かれていたのだろう。


『マニュアルもう一度読みなさいよ。婚姻届に書く情報なら全部記載されてるはずだから』


 婚姻届には新郎新婦それぞれの両親の名前が必要だ。

 書類上、クリスは某東欧出身で日本国籍を取得したことになっている。もちろん身分を証明する上で必要な情報はすべてでっち上げられている。でっち上げとはいえ、外務省のやることだから抜かりはない。どこからどう調べても問題はないようにできている。


「書類書くだけなら電話なんかするか。証人が必要だって言っただろ」

『別にわたしじゃなくても他にいるでしょ?』

「そうじゃなくて、伯父夫婦にはクリスも世話になってるし、それにも増して世話になってるのがお前だから、筋としてはお前に証人になってもらうのが一番いいんだ」

『そう言われればそうかもしれないけど……』


 確かに、と頷きはしたが、いちいち霞ヶ関から三山村に行こうとは中々思えないのが実情だ。


『別に今すぐじゃなくてもいいんでしょ?』

「できるだけ早い方がいいな」

『だったら……』


 穂奈美は手帳を調べて予定を見ているようだった。しばらくして穂奈美は「まあいいか」と何かを諦めて言った。


『来週の火曜日空いてる?』

「平日か。俺は平気だけど、いいのか?」

『あー、平気平気。もともと有給取ってるし』

「……なんか悪いな。どっか旅行にでも行くつもりだったのか?」

『大阪にね。彼と観光で』

「彼? あー、大原か」


 莞爾は一瞬苦い顔をしたもののすぐにどうでもいいかとタバコを咥えて火をつけた。


『彼には悪いけど、土日と月曜日だけにしてもらうわ。今ならキャンセル料も安いし』

「……キャンセル料ならこっちで払おうか」

『別に気にしなくていいわよ。クリスちゃんのことはわたしの仕事の一部だもの。それに宿代は全部大原くん持ちだから』

「……初めてあいつを不憫に思ったよ」


 仕事が忙しいと穂奈美から聞いていたが、それでも土日会わせて四連休を取ったのにそのうちの一日をふいにされるとは不憫そのものだ。おまけにキャンセル料まで払わされる羽目になるとは他人事とはいえ同情してしまう。


 しかし、莞爾の同情とは打って変わって穂奈美はあっけらかんと言い放つ。


『だって、あいつったら三十過ぎてるくせに女は遊園地にでも連れて行けば喜ぶって本気で思ってるのよ?』

「知らねえよ……」


 勝手にしてくれ、と莞爾は内心で悪態をついた。何はともあれ上手くやっているようで何よりだ。


『ところで――』


 穂奈美が恐る恐る切り出した。


『クリスちゃんの様子は?』

「なんていうか……」


 莞爾は言いよどむ。一緒に風呂に入って一晩中クリスの吐露した思いを聞き続けていたと説明するのもなんだか気恥ずかしい。


「仲直りってのも違うけど、お互いにちゃんと話せたと思うし、クリスも少しは気が楽になったんじゃないかって思う。いや、思いたい」

『何よ。自信がないの?』

「わからん」

『だからさっさとヤっちゃえばいいのに』


 あんまりな言い草だ、と莞爾はため息をついた。


『クリスちゃんだってお年頃だし、いくら結婚してからーって言っていても莞爾くんがリードしてあげればたぶん流されると思うわよ?』

「お前も大概ひどいこと言うよな」

『避妊もできるのに婚前交渉が許されないなんて、そんなの理屈が通らないじゃない』

「いや、婚前交渉を批判する奴の論拠はそこじゃないと思うけどな」


 呆れ混じりにまたため息をついて頭をかく。穂奈美はストレスが溜まっているのかわからないが、熱弁を振るうほどの何かがあったのかもしれない。


『まあ? 莞爾くんは優しいし? 初めてのクリスちゃんに怖い思いをさせたくないって気持ちもわかるけど?』

「なんだ、その言い草は。そんなんじゃねえよ。っていうか、なんでそんなに気が立ってるんだ?」

『大原くんのせいに決まってるでしょう!』

「はあ?」

『あいつったら何度隙を見せても全然手出してこないのよ!? 信じられる!? それでも本当に男か!』

「……お前も相当こじらせてるな」

『君との初めては幸せな思い出にしたいんだ……じゃないわよ! いつまで待たせるのよ、あのアンポンタンは! 童貞じゃあるまいし! 今年でもう三十三なのよ!?』


 果たして喫煙所で周りに聞かれていないかどうかだけが心配である。

 莞爾としても旧友の言い分はわからないこともなかったが、穂奈美が相手ではかえって甲斐性なしの烙印を押されかねないのは明白だ。


 もっとも、それゆえに旅行などという手段を件の大原が提案したのかもしれない。穂奈美もその点は期待していたのだろう。


「本当にいいのか? わざわざ有給削ってもらうのも申し訳ないんだが」

『あてつけよ!』

「あっ、そう……」


 そうまで憤ることもないだろうに、と呆れるしかなかった。



 ***



 未記入の婚姻届を手に帰宅すると、なぜか孝一の妻である智恵と菜摘がいた。


「ご無沙汰してます。あ、お邪魔させてもらってます」


 決まりが悪そうに智恵は頭を下げるが、菜摘は天真爛漫な笑顔で「こんにちは!」と元気よく挨拶をした。


「こんにちは、菜摘ちゃん」


 中腰になって莞爾は菜摘の頭をぽんぽんと撫でる。それから智恵の方に向き直り尋ねた。


「えっと、たしか孝一兄さんは今朝帰ったはずじゃ?」

「わたしだけ有給で……たまにはこの子とゆっくりしたいですから」


 以前のどこか上から目線の雰囲気もすっかり抜け落ちて、今の智恵は非常に接しやすい女性だった。


「お仕事はいいんですか?」

「あはは、もう退職願は出していますし、三月末には退職です。今はちょうど引き継ぎで……時期柄忙しいのは忙しいですけど、主人よりは全然」


 智恵のすっきりした表情を見ると、莞爾もどこか微笑ましい。何より彼女の菜摘を見つめる視線に母親としての愛情が感じられてこっちまで面映ゆい。


 それはそうと、智恵も菜摘もエプロンをつけていた。菜摘のエプロンは見たこともないキャラクターが描かれている。最近流行っているのかもしれない。


「えっと、クリスは?」

「ああ、お手洗いに」


 たまたま居合わせなかっただけのようだった。

 二人して土間にいるし、エプロンまでつけているということは何か一緒に作っているのだろう。ちらりと台所に並べられた食材に目を向けるが、菜摘が立ちはだかって「ダメだよ!」と両手を交差させている。


「ははっ、わかったわかった。えっと、智恵さん。俺はちょっと畑に行ってくるので……おもてなしもできなくてすみません」

「いえ、こちらこそ急にお伺いして、ごめんなさい」


 本当に、以前の彼女が嘘のようだった。初詣の時はもう少し距離感というか壁が感じられたものだが、変われば変わるものなのだろう。

 ちょうどクリスが戻ってきて莞爾に「おかえり」と声をかける。


「おう。ちょっと畑見てくるから」

「うむ。心得た」

「粗相のないようにな」

「抜かりないぞ!」


 むふふ、と得意げに笑っている様子を見ると、少しばかり安堵する。


 莞爾が作業着に着替えて出て行ったところで智恵は台所に置いていた買い物袋から中身を取り出した。隣の菜摘もにんまりと何かを企んでいるような笑顔だ。


「うふふ、懐かしいわね。わたしも十代の頃は……」


 懐かしい青春時代のビター&シュガー。世代は違えど、女三人寄れば姦しい。


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