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2月(2)素肌

お待たせしました。

 ちゃぷんと湯船に体を沈めて、クリスは長い息を吐き出した。


 昼間の疲労がお湯に溶け出していくような感覚に自然と頬が緩む。


 けれども、すぐにその感覚が思考で上塗りされるのは仕方がないことだった。すでに二週間近く意味のない堂々巡りが頭を占めている。

 今更故郷に帰れないことはわかっていたし、それが再確認できたというだけで別に何かが変わったわけではないのは重々承知している。


 とはいえ、改めて目の前に見える形で提示されれば、否応なく故郷への思いは強まってしまった。それが悪いことだとは自分でも思わないし、それを誰かに否定されるのであれば憤るに違いない。


 ただ、莞爾のプロポーズを承諾し、佐伯家の人間になると決めたはずなのに、肝心の莞爾のことをすっかり忘れて意識の外に追いやってしまったことが悔やまれる。


 今になって思い出しても赤面してしまうが、まさか自分でも莞爾を閨に誘うとは思いもしなかったのだ。自分自身の身勝手な感情をはぐらかせようとしたのか、あるいはそれに乗じて悲劇じみたヒロインに陶酔していたのか、それは自分でもわからないことだ。


 少なくとも自分では自分のことを可哀想だなんて思っていないし思いたくない。およそ心に刻みつけた矜持とは真逆の感情だ。自分自身を憐れむなんて、みっともない真似をするわけにはいかない。

 いくら感情を昂ぶらせようとも、クリスは絶対に自分を憐れむわけにはいかないのだ。そうでなければこの身を立たせる芯が折れてしまうに違いない。


 こんこん、と浴室の扉がノックされてクリスは浸かっていた鼻から下をあげる。


「な、なんだ?」


 少し焦って尋ねると、扉の向こうから「起きてるか?」と声が返ってきた。


「風呂で居眠りなどせぬよ」

「そうか? クリスは前科あるじゃないか」


 そう言われて思い出す。

 確かに初めて莞爾と出会ったとき、自分は風呂に入ってそのまま眠ってしまったのだ。思い出すと羞恥が胸を埋める。両手ですくったお湯を顔にかけて雑念を振り払った。


「あ、あのときはとても疲れていただけだ!」

「そっか」


 素っ気ない返事に少しばかり苛立ちつつ、クリスは無言で頷いた。相手が見ているわけでもないので伝わるわけもないが、自分に言い聞かせるように頷いた。


「なあ」少し震えた莞爾の声が聞こえた。

「なんだ、突然。後でいくらでも話は聞くぞ」

「いや、その後ってのが今かなって」

「扉越しでか。それはそれで失礼だ」

「だよな」


 言うが早いか、浴室の扉が開いた。

 いきなりの事態に唖然呆然のクリスの前で、莞爾は腰にタオルを巻いただけで裸だった。


「たまには一緒に風呂もいいかと思って」


 悪びれもせずむしろ悪戯が成功したような顔で言い放つ莞爾に、クリスは我に返って盛大にお湯をかけた。


「ばっ、ばっ、バカ者! 一体何を考えているのだ! 正気か!?」


 叫ぶように言ってそのまま莞爾に背を向けた。突然すぎて心臓に悪いにも程がある。莞爾は顔にかかったお湯を手で拭って苦笑する。


「早く出ろ! いくら婚約したとはいえ、まだ私と貴殿は夫婦ではないのだ!」

「あははははっ、面白い冗談だな」

「何が冗談だ! 真面目に言っているのだ! 私たちは――」

「知らん。ここでは俺が家主だ」


 いつもならば絶対に言わない一言を、莞爾は待ってましたとばかりに言った。

 そうして案の定返答に困ってあたふたしているクリスを無視して、彼は桶でかけ湯をすくって汗をさっと流す。

 そして、有無を言わせず飛び込むようにクリスの後ろに体を滑り込ませた。


 勢いよく入ったせいでお湯が溢れて波打った。


「おっ、やっぱり二人だとちと狭いな」

「――本当にカンジ殿は何がしたいのだ!?」

「何って……」


 先ほどまでのふざけた調子から一転して、莞爾は急に真剣な声色で言う。後ろから身を強ばらせたクリスを優しく抱きしめて首元に顔を埋めた。


「お互いの距離を縮めようとしてるだけさ」

「他にも方法があるだろう!」


 この状態ではクリスもどぎまぎして頭が回らない。


「どんなに言葉を尽くしても、たぶん俺は上手く説明できないし、クリスも俺と同類だと思うけどなあ」

「そういうことではない!」

「いいや、そういうことさ。俺は言葉足らずでいざってときにちゃんと言葉にできないから他人を傷つける。それはもう自覚してるよ」


 胸の高鳴りを莞爾に悟られてはいないだろうか、と危惧するまでもなく、クリスは耳まで真っ赤にしていたのでその緊張は莞爾にすっかり把握されていた。


「そ、それが、どうして一緒に風呂に入るなどという愚行になるのだ……」


 呆れた調子でクリスが尋ねると、莞爾はとぼけた調子を取り戻して言った。


「さあ。俺にもさっぱりだ」

「はあ?」

「クリスってさ、風呂に入るとき髪をタオルで巻くんだな。知らなかった」


 突然何を言い出すのかと疑問を抱きつつクリスはなぜだか真面目に答えた。


「それは髪が長ければ普通だろう」

「そうか? でも、俺は知らなかったよ。濡れた髪をあげてるクリスって色っぽいんだな」


 知らないことばかりだ、と莞爾はため息をつくように呟いた。

 クリスは声もなく唇を噛みしめる。うなじに彼の鼻先がこすれて背筋がぞくぞくと波を打ったような錯覚さえした。


「俺はさ――」


 莞爾はクリスの柔肌に優しく触れたままぽつりぽつりと溢すように呟いた。


「欲張りなんだよ」


 昔はそうじゃなかったかと言えばそうとも言い切れないが、少なくとも今よりずっとわがままだった。もっと自分本位でいられた。誰が去って行こうと自分とは縁がなかったのだと漠然と諦めてきた。ある意味執着することがなかった。


 それがどうだ。


 今は目の前の小さな女の子のちょっとした変化でさえもこんなに胸を苦しめて仕方がない。


「どこかで、たぶんちょっとだけ、クリスに同情してたんだ」


 クリスを知れば知るほど、莞爾は確かに彼女の境遇を理解できずとも理解しようと努めてきた。それは同情ゆえの類推でもあったし、そう思わずにはいられない悲劇であると今でも思う。


「保護者気取りで、子ども扱いして、まだクリスが十八歳でまだまだ精神的に成長してないんだって言い聞かせて……まあ、その、なんだ。何か理由を求めてた。本当はそんなものあるはずもないんだけど」


 卑怯だ、と思う。

 大人ぶって結婚は恋愛とは違うと思い込んで、クリスならこの田舎でも溶け込めるんじゃないかと色んな場面で無理やり理由を見つけて――年相応と言えば確かにそうなのかもしれない。けれど、その原点に彼女に対する同情があるのは間違いなかった。


 だからかもしれない。

 まるでクリスを抱くことが現状でとるべき選択ではないと思えたのは。

 今でもそれは違わない。けれど、意味はずっと違う。


 聖職者よろしく純愛教育に洗脳されているわけでもない。


 考えすぎなのだ。考えたところで上手く表現できるわけでもないのに、余計に考えてばかりいるのは自覚している。不器用だなんて言葉に逃げるつもりはないが、そもそも自分本位な性格なのだ。否定しようもない。


「……私は、別に大人じゃない。こちらに来てからほとほと自分が子どもだと呆れているくらいだ」


 クリスは自分の膝を抱えるように、莞爾に背中を預けて体を丸めた。素肌で触れあうのはこれが初めてだったが、胸の高鳴りと同じだけ今までになかった安心感があった。

 きっと同じ湯船で同じ揺れの中に身を委ねているからだろう、とくだらないことを考えてクリスは目を閉じる。


 莞爾の息づかいがすぐ耳元で聞こえてくる。熱い風呂に浸かっているせいか、彼が自分に触れた指先から脈拍さえも伝わってくる。


 そうしてクリスが沈黙すると、莞爾はまるでムキになった子どものようにクリスを抱く腕に力を込めた。


「大人になりきれないでいるのは俺もだって」


 そうでなければこんな手段をとることもなかった。


「だいたい、大人ってなんだろうな」


 莞爾は苦笑する。まったくもって馬鹿らしい。

 誰かを思うということに大人も子どもも関係ない。むしろ子どもの方がずっと純粋で清らかな思いを抱くことだろう。


「嗣郎さんからしたら俺なんてまだよちよち歩きの赤ん坊だろ?」

「ならば私はまだ生まれていないのではないか?」

「かもな」

「違いない」


 お互いに苦笑して、ようやくクリスは少しだけ緊張がほぐれたのを自覚する。それでもまだ莞爾と素肌を合わせているという高揚が解けたわけではなかった。


 いきなり、本当にいきなり。

 莞爾はクリスの膝の裏に腕を伸ばしてすくい上げるように持ち上げるとくるりと彼女を回して自分の膝の上に乗せた。自然向き合う形になってクリスは驚きつつもとっさに自分の胸元を隠そうとしたが、それよりも早く莞爾は彼女を抱きしめた。


「なっ! 何を――」

「いいから、ちょっと黙ってろよ」


 莞爾の両手がしっかりとクリスの背中を支えている。

 クリスは右往左往する両手を遊ばせて、観念したのか彼の背中に回す。少なくともこうしていれば前を見られることはないだろうと思ったが、むしろ余計に密着してお互いの鼓動さえも鮮明に伝わってくる。


 莞爾はクリスの柔らかさにほっと息を吐く。性的衝動は理性で抑え込み、背もたれ用の板に背中を預けた。まるでクリスを横抱きにしているような状態で、顔の向きさえ変えれば彼女の裸体が拝めそうだったが、意識的に顔は上に向けたままだ。


 いつまでそうしていただろう。

 大きな深呼吸をひとつして莞爾は口を開いた。


「なあ、クリス」

「……なんだ?」


 どこかぶっきらぼうな返答に苦笑しつつ彼は尋ねた。


「故郷に帰りたい気持ちは俺にもわかるよ」


 クリスは答えない。


「家族に会いたいって気持ちもすごくわかる」


 わからないのはクリスの騎士という職分に対する矜持だ。


「だから、もし故郷に帰る手段がわかって、クリスが一人で帰るって言い出しても止めるつもりなんてなかったんだ」


 まだクリスと出会ってから一年も経っていないのだ。ある意味濃密な時間ではあったが、家族以上かといえばそうではない。


「実際、その手段ってのもわからなかったし、現状では可能性も乏しいから棚上げしてたんだよな。今話すことでもないだろうって」


 けれど、きっとそれがいけなかったのだ。何度も話題には上がったものの明確な答えを求めてこなかったし、何かと話を逸らしてきた。

 そのせいで実際に可能性が提示されてそれもダメだったと突きつけられたとき、クリスは曖昧で複雑でやり場のない感情の行き場を失うことになった。


「いつだったか話したと思うんだけど、もし故郷に帰ることができるようになったらその時は自分の気持ちにしたがえって言ったよな」


 クリスは無言で頷いた。忘れられるわけがないのだ。あの日、クリスは初めて莞爾に暴力を振るってしまった。忌々しい記憶でもある。


「今でも俺の気持ちは変わってないよ。クリスの気持ちは尊重するし、そもそも俺が口を挟めることじゃない」


 クリスがもしも普通の日本人で、普通に出会って普通に結婚した相手ならば「何か気に障ったか?」とでも言っただろうが、状況は全く違う。死別したならばまだしも、彼女は不幸な事故によって日本に訪れただけなのだ。そこで自分という縁を得たとしても、莞爾はクリスが望郷の念を抱くことを止めさせるなんてできるわけがなかった。


 家族がまだ生きていて、自分をどれほど愛してくれていたかをよく知っているからこそ、一度でもいいから顔を見たいと思うのは当然だ。その強い感情を否定などできるはずもない。たとえそのための手段が見つからないとしても。


「言っただろ。もっと俺を頼っていいんだ。強がって作り笑顔なんかしなくてもいいんだ。俺はクリスの強さを信じてるけど、別に弱いところを見たくないなんて思っちゃいないよ。むしろ俺にだけ弱さを見せてくれたらそれはそれで嬉しいし……矛盾してるかもしれないけど」


 十八歳の女の子に諦観と理解を強制することは困難だ。保護者面して慈母の如く優しさだけを与えることができたならば、ずっと目を逸らしていられたかもしれない。


 もしもクリスが恋心に浮かれて故郷よりも莞爾を優先すると言えば、それはそれで嬉しかったかもしれないが莞爾は自身がそれを咎めただろうことも容易に推測がついた。極端に言えば、家族を恋の柵としか解さないような性格ならば、莞爾としても願い下げなのだ。


「頼れ、と言うが――」


 クリスは口に出すことを憚ったがわずかに言いよどみつつ言った。


「一体カンジ殿に何を頼ればいいのだ。魔法だって貴殿はわからぬであろうし……その、言い方は悪いかもしれぬが、たかが農家ではないか。婚約者であることを差し引いても、故郷へ帰るための方法を見つける助けにもならぬし、相談したところで結局はホナミ殿や国の助けがあってこそではないか」


 事実、莞爾は無力だ。たかが一農家にできることなどそう多くはない。今までそれを感じつつも言及しなかったのは、クリス自身が一番の無力だと自覚していたからだ。


「クリスの言う通り、だな。俺は本当に無力だよ。だいたいクリスが異世界人ってところからすでに農家の範疇超えてるって」


 まったく、今考えても信じられないことばかりだ。奇妙な縁もあったものだ、と莞爾は苦笑する。


「三人寄れば文殊の知恵って諺があってな。クリス一人で悩むよりも二人で悩んだ方がもっとマシな答えが出るんじゃないか?」

「詭弁だ」

「本当にそう思うか?」


 クリスは押し黙る。何せこの世界では自分の学んできたことがほとんど意味をなさない。莞爾は農家といえどもこちらの世界で学問を学び育ったのだから比べるまでもない。


「まあ、正直なところ――」


 理屈を詰めて考えているクリスに、莞爾は情けなさを振り払うように口走る。


「俺って相当女々しかったんだなって、ちょっとショック受けてるぐらいだ」

「……女々しい?」


 クリスは意外そうに尋ねた。莞爾は頷いて「そうだろ?」と言った。


「親父は口数少なかったしかっこ悪いことはするなって人間だったからなあ。ある意味俺も大きく構えてようって思ってたのかもな」


 子どもの頃に見た父親の背中はずっと大きかったように覚えているが、実際は苦労の連続でわからないことばかりだったのだろうと思うと、どこか自分が見栄を張ってかえって不甲斐ない人間にさえ思えてくる。いや、きっと不甲斐ないという意味ではその通りなのだろう。素直な気持ちを伝えることすらできていなかったのだから。


「最近は特に痛感する。自分がどれだけちっぽけで浅はかな人間かって。悩んでる女の子一人助けることもできなけりゃ、その悩みもろくに聞いてやれない」


 その女の子が自分自身であることはクリスにもわかる。けれど、莞爾の言っていることがいまいちわからなかった。彼はもっと男らしくて器量の広い男だと思っていた。

 同情から、というのもむしろ納得できた。だからこそ自分を受け入れてくれた度量の大きさに感謝こそすれ、憤る理由などあるはずもなかった。


 それゆえに、莞爾の吐露した本心は意外だった。


「俺はクリスと離ればなれになんかなりたくない。もし帰る手段が見つかったとしても、本当はクリスの気持ちなんか無視してつなぎ止めていたい。手放したくなんかないに決まってる」


 それは莞爾にとっては女々しいと言えることだったのだろう。だが、クリスからすればある意味で甘美な誘惑でもあった。脊髄反射のように胸が跳ねて言葉を失うくらいには驚いた。


 けれど、その言葉に甘えることが将来どんな結果を生み出すのかも、彼女にはすぐに予想がついてしまった。だからこそ、どうして莞爾が今の今まで口に出さなかったのかも理解できた。自分が聖人君子でないことなど最初からわかっている。後悔ばかりしていることも自覚している。だから、余計にその結末を疑うことなどできなかった。


「……どうして今になって」

「今だから、だ」

「きっと、私はきっとカンジ殿を恨む」

「そうかな」

「そうだとも。故郷へ帰れないことをすべてカンジ殿のせいにして、貴殿が引き留めたからだと言うに決まっている」

「別に構わないさ」

「私が構うのだ。夫を咎める妻がどこにいる」

「今どきたくさんいると思うけどな」

「ニホンの女はどうか知らぬ。だが、私はそういう風に育てられていない」

「いいよ、別に」


 莞爾はクリスの頭をぽんぽんと優しく撫でて言った。


「恨み言ひとつも言えないくらい幸せにするから」



 ***



 つくづく自分はずるいのだろう。


 莞爾はクリスを抱きしめながら自身のわがままにほとほと呆れる思いだった。

 いくら彼女にぞっこんで惚れ込んでいると言っても、自分自身は彼女について異世界へ行くことができないと思っているし、ついて行く気もない。


 それが単純なわがままであればいくらか考えも変わったかもしれないが、莞爾は自分の立場を考えると三山村を離れるわけにはいかないのだ。


 古くさい価値観だと言われれば確かにそうかもしれないが、公共事業で手放さざるを得ないような場合を除いて、莞爾は先祖代々の土地を守っていくと決めているし、墓守の役目を負うことに忌避感はない。むしろ誰かがしなくてはならないのだから、残された自分がしなければ他の誰がするわけもないと考えている。


 最悪土地を手放すことになったとしても、そのときはそのときで墓を移し、住処を移し、それでも姓は絶対に守るつもりでいる。大した家柄でもないが、それでも自分の血脈を有象無象に喪失することは莞爾にはできない。



 約二週間ぶりに一緒に眠ると、これほど人肌のぬくもりは心を穏やかにさせるのかと驚きを隠せなかった。


 莞爾はクリスを後ろから抱いて腕枕をしている。どちらも暗がりの中で目を閉じてはいるがまだ眠ってはいない。

 クリスは自分の頭の下にある腕の先、彼の手をそっと握っていた。


 いくらか緊張も解けて、今は平静の中にかすかな情熱が燃えている。

 風呂から出るとき、莞爾は壁の方を向かされてクリスが先に出た。


 そうしてしばらく経ってから莞爾も出て、寝室に入ったがすでにクリスはベッドの中にいた。

 何も言わずに布団の中に入り後ろから抱きしめたはいいものの、以前のようにクリスが甘えてくるわけでもなく、ただ触れ合った肌から伝わる互いの体温に意識が集中する。


 ふと莞爾はクリスを呼んだ。耳元で囁くと、クリスはわずかに身震いしてぎゅっと彼の手を握って答えた。


 顔をあげてそっと彼女の頬に口づけをする。

 それを皮切りに、クリスの体が少し強ばった。


「緊張、してるのか?」

「あ、当たり前だ……」


 さっきまでの安堵した様子はどこかへ消えて、彼女の心臓は鼓動を早くしていた。


「前は自分から甘えてきたじゃないか」

「あまり、意地悪をしないでくれ……」


 莞爾はふっと笑ってクリスをきつく抱きしめた。そうして耳元でまた囁くように言った。


「俺のこと、ずるいと思うか」

「ずるくないと思うのか?」

「いいや、ずるいと思う」

「だったら聞くな」


 クリスは口を尖らせる。


「も、もう、言質はとったのだからな」

「二言はないよ」

「言ったな?」

「なんなら、もう一回言おうか?」


 耳にかかる莞爾の吐息がなぜだか胸の奥を熱くさせてしまう。クリスは戸惑いながらもそれが情熱なのだと自覚して、焦燥を募らせるように唇を噛んだ。


「そんな、恥ずかしいことを、よく……よく言えるな」

「何度だって言うさ。実現する努力を惜しむつもりもないし、努力ですらないしな」

「……聞くこちらが恥ずかしくなる」


 断ったものの、本心では何度だって聞きたい。

 そんなクリスの強がりを察したのか、莞爾は彼女の耳元にそっと囁く。

 聞こえるか聞こえないかのかすれるような声だった。


「んっ……」


 クリスは暗闇の中でも自分の顔が真っ赤になっていることを自覚して、両手で顔を覆った。

 このままでは身が持たないと思っていたが、クリスの予想に反して莞爾はそれ以上何かをすることはなかった。

 少しばかり拍子抜けというか心なしか残念に思いつつ、彼女は緊張をため息とともに吐き出した。


 けれど、安堵するよりも早く莞爾の熱情は確かに昂ぶっているのだと実感できた。自分から口に出すのはとてもじゃないが恥ずかしく、かといってそのままでは落ち着けない。


 知識では知っている。貴族としていずれは両親の決めた相手と結婚する予定だったのだ。その手の性的知識については教育を受けている。けれども、知っているのと体験するのとでは全く違う。


 今更莞爾が自分に気を遣っているのだと思うと、嬉しい反面もどかしさが募る。かといって自分から切り出すなんてはしたない真似はもう二度とできないだろう。あのときはどうかしていたのだとしか思えない。


 とはいえ、いくら冷静になろうとしても、その“熱”は否応なくクリスを戸惑わせる。


 そんなクリスの狼狽を読み取って、莞爾は小さく息を吐いて苦笑する。


「その、すまん」

「ど、どうして謝るのだ」

「いや、なんとなく……」


 きっと莞爾には「そういう」つもりはなかったのだろう。クリスは形容しがたい思いを抱いて頭を後ろの莞爾にぐりぐりと押しつけた。

 だが、最初に「結婚してから」だと言ったのは自分なのだ。今更咎めることもできないし、言うだけの勇気もない。

 唯一、自分がきちんと女として見られているということが理解できただけだ。少なくとも本当に子ども扱いされていないだけよかった。


 クリスはしばらくふて腐れたように頭を押しつけていたが“熱”が収まるとホッと息をついて苦笑する。もっと最初から彼の腕の中にいれば気持ちが落ち込むこともなかったのではないかと思えて、自分もまた彼を頼るまいとしていたことがおかしく感じられた。


「カンジ殿」

「なんだ?」


 返ってきたのは優しい声色だった。クリスは少し安心して彼の手を両手で胸元に抱き寄せる。


「……少し、私の家族の話をしてもよいだろうか」


 莞爾が後ろで優しく微笑むのがわかった。


「ああ。俺も聞きたい。教えてくれるか?」

「長くなるぞ?」


 莞爾は空いたもう片方の手で彼女の頭をそっと撫でた。


「参ったな。明日も朝早いんだ」

「ふふんっ、知ったことか」


 そうしてクリスは笑ったかと思うとそっと目を閉じてぽつりぽつりと語り出した。


 夜は長い。

 懐かしさに声が震えても、楽しかった思い出に笑みがこぼれても、家族と会えない寂しさに涙を流しても、莞爾はひたすら彼女の言葉に耳を傾けていた。

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