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  閑話 責任と本心

二月編の前に一話挿みます。

すみません。

 それは最終日の出来事だった。



 スケジュールを組み立て直し、穂奈美はクリスを連れて再度柏木教授のもとを訪ねていた。

 前回と同様に会議室である。


 午後から急遽予定を入れたものの、柏木はむしろ嬉しかったようで予定の時間には会議室に陣取っていた。おまけに様々な書類を並べ、手元にはノートパソコンとは別にいくつかのタブレットまで用意してある。


 もうすでに六十を過ぎているはずだが、かなり先進的な老人だ。もっとも、今どき還暦を迎えたぐらいでは老人と言えないかもしれない。


 挨拶を済ませたあとで、柏木は画像ファイルを印刷した書類を机に広げた。


「これがヴォイニッチ手稿全ページだよ。読めるかね?」


 柏木が尋ねるとクリスは大きく頷いてからひとつ深呼吸をした。

 思わず穂奈美が「大丈夫?」と尋ねたが、クリスは微笑みを見せて軽く頷いた。


「シュゼール語よりも難しいが、これだけヒントがあれば簡単だ」


 柏木が食いついて尋ねた。


「ヒント、とは?」

「いくつか絵が描いてあるだろう。植物の絵だ。それからこの湯浴みの絵」

「ふむ。やはりこれは意味があったということか」


 クリスは頷いて答えた。


「植物に関しては私もすべて知っているものだな。魔法書にはこの手の絵がよく描かれる」

「というと、何か調合するということかね?」

「違う。たしかこちらの世界にも『花言葉』があったと思うが……」


 柏木が頷くのを見てクリスは続けた。


「例えばこの三つ並んだ植物だが、左からルクサージュ、ペルドレットフレア、カルキュアリーだ。確かに薬草としても使える植物だが、魔法書上での意味は『絆・空間・時』だ」

「なるほど。魔法言語はある種の暗号で、この絵は暗号を解読するためのヒント、ということかね」

「ヒントではあるが、もちろん魔法をかじった程度ではわかるまい。ある程度魔法に精通しておかねば……」


 クリスは自分がかつて友人から預かった転移魔法のスクロールを思い出した。さすがに魔方陣と魔法書とでは用途が違うので、スクロール上にこの三つの植物を見ることはなかったが、魔方陣の意味としては確かに三つの文言を示唆する記号があった。


「では、この入浴に見えるシーンは?」

「それは神話上の一場面だ。天上界にある『生命の源泉』だろう。取水口に見えるのは『ヴィラドーマの書物庫』に繋がった『魂の路』だな。泉がひとつだけ離れた場所にあるが、これは『御使いの畔』だろう。『善悪』を司る天使と、『生・老・死』を司る天使がいると仮定すると、このもう一人が『運命の女神』だ」


 柏木はメモをとりながらしきりに頷いて聞いていた。


「この『運命の女神』が出てくる魔法書は限られる。基本的には儀式的な魔法やそれに付随する典礼などの書物にも出てくるが、基本的には『誕生の儀』、次に『成人の儀』、それから『婚姻の儀』、最後に『死別の儀』だ。要するに人が生まれてから死ぬまでの節目の儀式だ」

「ふむ。それで……」

「それで、唯一そこから外れるのが『転移魔法』というわけだ。一応禁術に指定されてはいるが、それぐらいは周知の事実だな」


 柏木は疑問を投げかける。


「これがその『転移魔法』の魔法書であるという根拠は?」

「その前に言っておくが、これは魔法書であって魔法書ではない」

「というと?」

「どちらかというと、筆者が書き残したもので正当な魔法書ではない。最初の一文からして――我、ここに記す。時の忘却、抗い難し――とある。おそらくは私と同じような境遇でこの世界に訪れ、忘れないうちに転移魔法について記したのだろう」

「ふむ……よければ、一文ずつ読み上げていくことはできるかね?」


 クリスはわずかに逡巡して頷いた。


「難読な部分がある。ざっと目を通したかぎりでもわからない部分が多い。それでもよいか?」

「結構」

「……では」



 二時間ほどかけて、度々休憩を挟みながら読み終える。結局クリスでも解読できたのは半分ほどだったが、それでも大きく寄与したことは確かだ。

 穂奈美もノートパソコンを開いてクリスの読み上げをすべて記録していた。


「――神々の威光、この地に届かず。酷なる運命ぞ知る。我恨まずや……以上だ」


 ペンを走らせていた柏木とタイピングをしていた穂奈美の作業音がクリスの耳に響く。クリスは小さく息を吐いて胸をなで下ろした。そうして一瞬眉根を寄せて表情に陰りが差した。


 ようやくペンを置いた柏木は言った。


「学術的な記述を除いた部分を要約すると、つまり――」

「帰還できなかった……」


 クリスの言葉に柏木は頷いた。


「しかし、この最後の一文はひどくむごい結果だ」

「実証済みだ。この世界に私の知る祖国の神々の威光はない」

「実証済み?」


 穂奈美が尋ねた。クリスは決まりが悪そうに頷いて言った。


「以前、深夜に月の女神の力を借りようとしたことがある。だが、魔力の共鳴は起きなかった。あのようなことは初めてだった」


 穂奈美はクリスが言いつけを破ったことには何も言わなかった。


「要するに――」


 柏木は指先で机をとんっと叩いた。


「この魔法書は未完成なのかね?」


 その疑問にクリスは首を横に振った。


「確かに魔法書としては未完成かもしれないが、個人が書いた記録としてならば、むしろ完成度は高い。私も転移魔法については詳しく知らないが、解読できた部分については形而上矛盾はない。問題は未解読の部分だが、これはより具体的な内容だろう。大凡魔法の概念についてはご理解いただけたのではないか?」


 柏木は軽く頷いて言った。


「私はてっきりファンタジー世界を想像していたのだが……思想分野においてはかなり発展していると見るべきだろうね。少なくとも一八〇〇年代以降の神秘主義的な要素や実証主義な一面も含まれているし、おおよそ中世よりもかなり先んじた世界のようだ」

「ですが、予想通りというかキリスト的な西洋哲学とは一線を画しますね」


 穂奈美が言う。そもそもクリスの祖国であるエウリーデ王国は多神教の国だ。聖書が絶対唯一の教書ではないので、思想的な議論もより多角的だったのかもしれない。かつて古代ギリシャがそうであったように。


 二人がここまで意外性を感じているのには理由があった。そうというのも、想定していた魔法という存在の在り方が、ずいぶん異なっていたからだ。


 事実、今まで「魔力」という存在が何かしら新しい物理的要素であると仮定して研究を進めてきたが、その仮定が根底から覆された。クリスからの聞き取りだけでは体系的にまとめあげるほどの情報はなかったが、このヴォイニッチ手稿の存在によってよりわかりやすい形で魔法の全体像が把握できたのだ。


「記録媒体としての肉体と、生命たらしめる魂との関係だなんて、一見すると二元論的だが、その実、質と量の関係が非常にわかりやすく解明されている。まさしくデカルトも真っ青な内容だろうね」

「専門的なお話はわかりませんが――」穂奈美はそう前置きをして言った。

「納得できることの方が多いですね。脳波測定での結果にも矛盾しません」

「その脳波測定という実験手法こそ現代科学の思考に捕らわれているようなものだがね」


 柏木は皮肉を込めてニヒルに笑った。


「とにもかくにも」穂奈美は言う。「仮にすべて解読できたとしても、活用はできないと」


 クリスは苦笑して頷いた。初めてヴォイニッチ手稿を見たときは心を乱されたが、今は心なしか安堵している自分がいる。

 その一方で、その安堵が自分への裏切りのようにも思えてしまった。



 ***



 穂奈美はひどく疲れた顔をしていた。莞爾にクリスを返してすぐにビジネスホテルの一室を借り、そこで報告書を仕上げている。

 少なくとも彼女が記述する報告書はクリスの状態と動向に関してのみだったため、専門的な知識について語ることはなかったが、久しぶりに答えの見つからない学問に手を出したような酩酊感があった。


 ひとりビジネスホテルの一室でノートパソコンに向かっている。時計を見ればもう深夜二時を過ぎている。


 莞爾には一方的に電話を切られてしまったが、何があったのかはわからない。

 ヴォイニッチ手稿が転移魔法の魔法書だとは言わなかったが、その類の魔法書が見つかったと知らせたとき、莞爾はさして驚いているように思えなかった。


 穂奈美はついかねてからの疑問を尋ねたが、莞爾は仮定の議論をする意味はないとばかりに一蹴した。まるで去る者は追わず、とでも言いたいのかと穂奈美は耳を疑った。自分と交際していたときの莞爾のようだとさえ思った。


 けれども、そうじゃないことは穂奈美にもわかる。莞爾が心からクリスを求めていることは理解していたし、一方で彼女の苦悩を少しでも溶かそうと考えていることもわかった。


「大人って嫌な生き物だわ」


 独りごちる。莞爾の考えがすぐに理解できてしまっただけに、余計にクリスの悩みが深まるだろうことも予想がついた。

 けれども、不幸中の幸いとでも言うべきか、実際にはクリスが異世界に帰還することは不可能と早々に判明したことで、莞爾もクリスも余計な思考をせずに済んだのかもしれない。


 無理なものは無理だとわかっただけでも儲けものだ。


「だけど……」


 無理なものは無理だとわかるよりも、わずかばかりの可能性が残された方がどんなに幸せだったことか。


 穂奈美はいつの間にか二人の関係を自分のことのように応援していることに気づいた。だからこそ、二人の関係に妙なしこりが残るのは気の毒だ。


「結局、わたしも莞爾くんも何もしてあげられないんだもの」


 自分の無力さを痛感する。たかが一役人にしか過ぎない自分ができることなど程度が知れている。莞爾だってそうだ。クリスの中で大きな存在になろうとも、彼にできることは限られている。

 果たしてクリスにとって日本で暮らすことがどのような結末をもたらすだろうかと考えて、それこそ無為な堂々巡りにしかならないと思えた。


 ようやく彼女が前を向き、莞爾との結婚を決めた矢先にその覚悟を揺らがせるようなことが起きたのは事実だが、それが思い過ごしだとわかった時点でむしろクリスの覚悟そのものが非常に弱々しいものにしか思えなくなった。


 ヴォイニッチ手稿を解読したときのクリスの表情は、安堵とも落胆ともとれない複雑な表情で、一体何を考えているのかも穂奈美にはよくわからなかった。


「できるだけクリスちゃんの願いを叶えてあげたいけど……」


 忌々しいことに穂奈美は国益を一番に考えなければならないのだ。仮にヴォイニッチ手稿が完成された魔法書で、すぐにでもクリスが帰還できて彼女もそれを望んだとして、果たして穂奈美はそれを許容できたかと言えば、決して許容できなかった。


 表沙汰にはできないが、かなりの予算を割いてクリスに協力を依頼している。多くの人員を割いていることだけは確かで、それ故に今更クリスを何事もなく送り返すだなんてできるはずもない。


 国税を投資した以上は、最低限何かしらの成果をあげなければならないのは当然だ。


 そこまで考えて、クリスの感情よりも実験を優先している自分が嫌いになった。

 思わずタバコを手に取った。

次こそ二月編

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