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紫煙の向こう

長らくお待たせしてごめんなさい。

お待たせしたくせに短めですみません。

「ただいま!」


 クリスはいつも以上に笑顔だった。

 まるで何かいいことがあったかのような上機嫌で、出迎えた莞爾に笑顔を振りまいている。


 少しばかり拍子抜けしつつ、莞爾は駆け寄ってくるクリスの肩を抱く。


「機嫌がいいな、おかえり」

「そうか?」


 何も変わったことはないと首を傾げるクリスだった。

 莞爾は駅の通用口の方に視線を向ける。


「役人ってのも大変だな……」

「ええ、まったく」


 穂奈美は苦笑しながらも片手をあげて適当に挨拶の代わりにした。

 莞爾はクリスの手荷物を車に乗せて、それから穂奈美に尋ねた。


「今ならクリスも一人で電車ぐらい乗れるだろうに」

「まあ、そうだけど一応今回までね」

「ふーん」


 心底疲れた表情だ。大方夜遅くまで報告書でも書いていたのだろうと当たりをつけて、莞爾は「お疲れ様」と気軽に労った。


「それで、とんぼ返りか?」

「ううん。今日はもうこっちに泊まって、明日帰ろうかなって。ちょうど明日明後日で二連休もらったし、まあ休みとは言っても報告書まとめなきゃいけないんだけど」

「そりゃあ大変だな。うち泊まっていくか?」


 珍しく莞爾から誘ってみたが、クリスも少し期待を寄せる視線を見せているにも関わらず、穂奈美は首を横に振った。


「大丈夫。こっちでビジネスホテル探すから。それに通信環境があった方が都合がいいもの」

「それもそうか」


 そうして別れ際、クリスの視線が外れた瞬間に穂奈美は手を耳の傍に寄せて電話のような仕草を見せた。

 その仕草だけで察するぐらいには長い付き合いだ。莞爾は小さく息を吐いて軽く頷いた。


 帰りの車内では、クリスがおしゃべりだった。いつもは尋ねるまでしゃべらないか、質問がないと口を開かないようなことが多いのに、今日に限ってはやれ何が美味しかっただとか実験が疲れただとか、そんな話をしている。


 莞爾はハンドルを握ったまま尋ねる。


「珍しいな、何か楽しいことがあったのか?」

「私だって久しぶりに会えば話すことぐらいたくさんあるぞ」


 少し拗ねて答えるクリスに莞爾は苦笑する。そういえばそうかもしれない、と思うぐらいには今まで同じ時間を共有しすぎている。一般的なカップルのように会えない時間の方が長いわけじゃなく、むしろ常に一緒にいたのだ。


 同じ時間を共有することでわざわざお互いの話をすることもなかったが、今の状況を考えるとこれが普通なのかも知れないと思えた。


 けれど、何かがひっかかる。莞爾はその違和感をおくびにも出さず、ひたすらクリスの言葉に耳を傾けていた。



 ***



 夜。


 いつもより寝付きの悪いクリスはいつも以上に莞爾に甘えた。

 莞爾としては嬉しい限りではあったが、一週間も離れていたからかそれとも「何か」のせいなのか、判然としない。


 今だってクリスは莞爾にしがみつくように眠っている。

 安心しきった寝顔を見ていると、どこかホッとする。


 彼女の女性らしい柔らかさと意外な線の細さに保護欲と情欲とがせめぎ合う。そっと頭を撫でてやるとクリスはむにゃむにゃと口を動かして彼の胸元に自らの頬を押しつける。


「困った……」


 かすかに呟いたものの、どうにかこうにかクリスの拘束から抜け出した。

 時刻は午前零時を回り、穂奈美が起きているかどうか定かではない。

 試しにメールを一通送るとすぐに返信があった。


 莞爾は寝室の扉を閉めて居間に向かい、灰皿を用意してから穂奈美に電話をかけた。

 彼女はすぐに出た。


『遅かったわね』


 どこか疲れた声だった。


「悪い。中々クリスが寝付かなくて」

『子どもあやしてるんじゃないんだから、もっと早くかけなさいよ』

「そりゃあごもっとも」


 とはいえ、中々タイミングが見つからなかったのだ。その場を離れようにもどこにだってくっついてくるのだから電話もできなかった。


「それで、どうしてまた電話なんだ?」

『気づいてないのかしら?』


 莞爾はタバコに火をつけて一度深呼吸をしてから答えた。


「気づいてる。あんまりいい予感はしないけど。というか俺はてっきり暗い表情で帰ってくると思っていたんだ。だから余計に勘ぐって当然だろ」

『そう……まあ、良いとも悪いとも言えないわね』


 穂奈美はため息を漏らしてしばらく黙り込んだかと思うと、経緯をすべて置き去りにして言った。


『結論から言うわね』

「……おう」

『こちらからのアプローチ――言い換えると科学的なアプローチでは転移魔法を再現できないことがわかったわ』


 その意味をしばらく考えて、莞爾は「そうか」と頷く。やはりクリスは何かを隠すために明るく振る舞っているのだと確信が持てた。


『まあいろいろあって、詳しく話せないのが面倒なんだけれど……とにかくわたしたちにとっても衝撃的な文献が見つかったの。それで、その文献は魔法書の類だったらしいんだけど――』

「魔法書? この前電話で言ってたやつか」

『ええ。魔法の解説書みたいな感じかしらね。正確には手記というか覚え書きというか、そんな体裁らしいわ』

「いや、ちょっとわからないんだが、その文献って日本にあったってことか?」

『日本じゃないけど、地球にあったのよ』

「……へえ」


 莞爾は驚愕を押し込めて相づちを打った。


『わたしも学術的な難しいことはよくわからなかったんだけど、クリスちゃんが言うには……そうね。未完成だって』

「未完成?」

『言葉の通りよ。わたしは知らなかったんだけど、クリスちゃんも共通の見解を示した部分があって――神々の加護は届かず、だったかしら。端的に言うと、地球の神様とクリスちゃんの世界の神様とは全くの別物だから効力がないってことらしいわ』

「でもクリスなら普通に――」

『なんか魔法にも系統があるらしくて、神秘主義なところもあるみたいよ』


 実際に魔法を使えているという反論は反論にさえならなかった。莞爾はしばらく考えてみるが、どうにも想像がつかない。科学で説明できないことがあるのは理解できるが、それでも体系的な学問であるならばある程度の推測ができるはずだと思っていた。


 莞爾は紫煙を吐いて尋ねる。


「やっぱり故郷に帰ることができないってわかったからショックを受けたってことか」

『……そうかもしれないし、それ以上かもしれない』

「どういう意味だ? 家族に会いたいって気持ちは当然あるだろ」

『そうじゃなくて……ほんと、莞爾くんって鈍いわね! クリスちゃんにとってあなたがどんな存在か、ちょっと自己評価が過小なんじゃない?』


 そう言われては莞爾も黙るしかなかった。

 故郷への思いが再燃しただけならばまだよかったかもしれないが、もうすでにただの同居人ではないのだ。結婚を誓い合った以上、何かしら莞爾に対してクリスが負い目を感じることもあったかもしれない。


『ねえ……』

「なんだよ」

『もしね、仮にだけど――』

「はっきり言えって」


 莞爾は若干の苛立ちを隠さずに言う。穂奈美は少し逡巡して言った。


『もし転移魔法が再現できて、クリスちゃんが故郷に帰るって言い出したら……莞爾くんはどうする?』


 穂奈美にとって今まで聞くに聞けない質問だった。けれども、莞爾の返答は単純明快だ。


「実際にそうなってから考える」

『だから、もしもの話よ!』


 しかし、莞爾としても答えようがない。

 クリスにプロポーズしたのは本心からだ。そこに含むところはない。莞爾にとってはむしろ彼女の家族にきちんと挨拶をしたいとさえ願っているのだから。


 けれど現実問題としてそれが難しいのは理解している。もし仮に――一種の仮定として、クリス一人だけが転移魔法で帰還できるのならば、自分は引き留めるだろうか、それとも――やはり考えるだけ意味がない。


「現実に無理なんだろ?」

『そうだけど……』

「お前らしくないな。仮定の話をいくらしたって建設的じゃないぜ」


 莞爾は吸い口を噛みつぶして灰皿にタバコをもみ消した。

 ちょうど柱時計が一つ鳴った。


『でもね、わたしたちが転移魔法を再現できなくても、違う可能性もあるってことに気づいたのよ』

「というと?」

『あくまでも可能性の話なんだけど、異世界側からクリスちゃんを迎えに来ることもできるんじゃないかって』

「はあ?」


 思わず莞爾は耳を疑って間抜けな声を漏らした。


『クリスちゃんにも確認したのよ。そうしたら魔法で位置を特定することって理論的にはできるらしいのよね。もっともクリスちゃんも聞きかじった程度らしくてそれ以上のことはわからないみたいだけど、とにかく可能性としては十分――』

「すると、なんだ。つまりは竹取物語みたいに使節団みたいな奴らが来るかもしれないってことか」

『言い得て妙ね。つまりそういうことよ』


 莞爾はしばらく考え込んで「でもそれってあくまでも可能性だろ?」と尋ねた。穂奈美は「可能性だけど、ゼロじゃないわね」とやや呆れたように言った。


「ひとつ、気になることがある」

『なに?』

「日本からじゃ転移魔法が使えないんだよな? その、神の加護とやらが届かないとかなんとか』

『そういう前提にはなってるわね』

「だったら、クリスを迎えに来ても結局戻れないんじゃないのか?」

『それは確かにそうなんだけど……』

「けど?」

『クリスちゃんのお友達が凄腕の魔法使いなんですって。それでその子ならもしかしたら帰還方法もわかるかもしれないって』

「ずいぶんとまあ、希望的観測の大きいことだな」


 莞爾は呆れてタバコをもう一本咥えた。

 先ほどから仮定の話がずっと続いているのも苛立ちが募るばかりだ。

 けれども、おかげでクリスがどうしてわざと明るく振る舞っているのかがわかり始めた。


『それでね――』

「悪い。切るぞ」


 莞爾はそう言って電話を一方的に切った。

 電話と思考に集中していたせいか、背中に温もりを感じるまで気づかなかったのは痛恨だった。

 彼は努めて平静と優しさを込めて後ろから抱きついた人物へと声をかけた。


「起きてたのか? クリス」


 クリスは答えなかった。莞爾の背中に額を預けたまま、両腕を前に回して彼を抱きしめている。


「眠れなかったのか?」


 再度尋ねると、今度は首を横に振って震える声で彼女は答えた。


「いなかったから……」

「そっか。聞いてたのか?」


 今度は背中でクリスが頷くのがわかった。もしや知られたくなかったのだろうかと思って、莞爾は気まずさにため息が漏れそうになるのを堪える。


「その、悪い。こそこそ聞くつもりはなかったんだ」


 なんとか弁明を図る莞爾だったが、クリスはまったく気にした素振りも見せず自嘲気味に苦笑した。


「別に。いずれわかるのだから、気にする必要はない」


 そうして莞爾が口を開きかけるとクリスが先に言った。


「誤解しないでほしい」


 莞爾はその意味がすぐにはわからずに尋ねる。


「何を俺が誤解してるんだ?」

「私が……私はカンジ殿が好きだ」

「知ってる」

「添い遂げるつもりでいる」

「望むところだ」

「貴殿に結婚を申し込まれて本当に嬉しかった」

「そう言ってもらえると俺も嬉しいな」

「本当に一生を伴侶として過ごすと決めたのだ」

「もちろん俺もそのつもりだ」


 けれど、けれど、けれど。

 本当に言いたいのはそういうことじゃないのは莞爾も理解している。ようやく、本当にようやくクリスの言いたいことがわかり始めた。その意味がまるで真っ白な生地に黒いシミが広がっていくように脳裏を占めていく。


 まるで、まるでそれは決意を固める――否、何かと決別するための呪文のようだ。


 正面から彼女を抱きしめたい。けれど、今彼女と目を合わせてはいけない気がした。

 クリスのすべてを受け入れるつもりでなければ、どうして彼女に結婚を申し込んだだろう。


 そんな自負があるからこそ、クリスが吐き出した言葉に莞爾は言葉を失わざるを得なかった。


「カンジ殿、私を貴殿の……貴方の本当の妻にしてください」


 それが形式的書面上の話でないことは莞爾にもすぐわかった。

 わかったからこそ余計に頷けなかった。ある意味、クリスが愛を告白するたびにその予感が深まったほどに納得のできる一言でもあった。


 確かに今までクリスと一緒に眠るようになって情欲を押さえ込むのに苦労したのは事実だ。事実だが、それとこれとは話が違う。


 これではまるで自分がクリスの弱みにつけ込んでいるようだと思えた。

 それに何よりここでクリスを抱いてしまうのは彼女に諦観を押しつけることにもなる。それだけは許せなかった。


「クリス、聞きたいことがあるんだ」


 莞爾はようやく口を開いた。火をつけずにおいたタバコをテーブルにおいて、胸の前に回されたクリスの腕に手を添える。


「どうして……いや、俺にはクリスの気持ちは全部はわからない。わからないけど、わからないからもっと話が聞きたいんだ」


 クリスは答えない。彼は続けた。


「もし俺がクリスの立場だったら、きっと家族と会いたいって気持ちは同じだろうし、諦めたわけじゃなくても覚悟を決めたのに掘り返されて……その、なんていうか」


 いったいこの感情をどう説明すればいいのだろう。莞爾は逡巡とも迷走ともとれない思考がさまようのを自覚して小さく息を吐いて目を閉じた。


――浮かれていた自分が恥ずかしい。


 どれだけ真摯に、心底、熱くクリスを思っているのか。言葉にせず見つめ合うだけで伝えることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。どんなに幸せを共有できるだろう。


 素直になっても、素直になるだけでは解決のできない問題がいったいどれほど溢れていることか。子どものように感情に任せて自らの信ずるところを選択し続けることができたなら、幾許かの理性をも愛情という聞こえの良い言葉に取り払われてしまうに違いない。けれど、それは単なるおままごと、子どもの遊びでもある。自らの行いに責任の伴わない子どもが火遊びをするような、そういう類のスリルを求めているわけじゃない。いい大人がするべきことじゃない。


 だから、余計に今まで以上にクリスが若いのだと、精神的に大人なわけではなくて強がっているだけの十八歳なのだと痛感せざるを得なかった。


「そのタバコは嫌いだ」

「は……」

「父上の匂いがするから」


――だから、嫌いだ。


 クリスの手が震えている。莞爾はじっとテーブルに視線を落として嗚咽を堪えるクリスのわずかな息づかいに耳を澄ませた。柱時計の秒針がうるさくて仕方がない。


 いつまでそうしていただろう。

 柱時計が二回鳴ると、クリスはおもむろに体を離して立ち上がる。莞爾は振り向こうとしたが、どうしてかそれは憚られて口を開いた。


「おやすみ、クリス」

「……ああ、おやすみ」


 寝室の扉がかちゃりと静かに閉まる音がした。

 莞爾はテーブルの上に置いたタバコの箱を握りつぶした。

次回から2月編。

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