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1月(末)下・懐古と思慕

大変お待たせいたしました。

作者体調不良につき執筆が遅れていました。ご容赦ください。

※感想返信遅れてすみません。

 特濃ソースのたっぷりかかったメンチカツを頬張って、クリスはきつね色の衣の音色を楽しんだ。

 丁寧な仕事で作られたメンチカツは、肉の旨みとタマネギの甘みとがマッチして、得も言われぬ味わいだ。


 付け合わせのキャベツの千切りもいい。シャキシャキとしたそれにマヨネーズをかけ、メンチカツの上に乗せて一緒に食べれば、これまたさっぱりとした味わいにソースとマヨネーズが絡み合って違う味だ。


「美味しい?」

「うむ」


 美味しいものを食べていると、クリスは無口になってしまう。それでも美味しそうに顔が緩むので、目の前で見ている穂奈美も少しばかり微笑ましい。


 学生街の外れにある定食屋だった。しかしながら完全な学生向けというわけでもなく、客層は学生からサラリーマンまで幅広い。さすがに家族連れはいないが、弁当の持ち帰りも販売しており、中々商売繁盛のようだ。


 最後の一口を食べて、茶碗には米粒ひとつも残っていない。

 その様子を見て、穂奈美は少し面白く感じた。そうというのも、日本での食事マナーをクリスに教えたのは穂奈美だからだ。

 クリスは物覚えがよかったので、箸の使い方はそう難しくなかった。堅苦しい所作は紹介する程度にとどめたものの、さすがに看過できない作法もある。


 クリスの見た目が外国人だからこそ、穂奈美はきちんと作法を教えている。口うるさいお節介がいつあるかもしれないのだ。これが日本人ならば指摘するのも面倒だし「育ちが悪い」と無視されるのが普通かもしれないが、クリスに関しては余計な親切を持ち出される方が面倒だった。


 そして、それは大いにクリスの役に立っている。

 本人の前で悪口は言わず陰で「あの人はダメ」と言われることなど日常茶飯事なのだから、それぐらいしてちょうどよかったのかもしれない。


 勘定を払って店を出る。穂奈美は領収書をもらって鞄にしまい込んだ。

 大通りに抜けてタクシーを拾おうとしたところでクリスが言った。


「ホナミ殿。少し歩こう。腹ごなしだ」

「食べ過ぎよ」


 穂奈美は苦笑してクリスの散歩に付き合うことにした。

 明治通りを南に歩き、靖国通りを左に曲がる。東京はどこを歩いていても人の姿を見ないことがない。そして、ビルが壁のように道沿いに並んでいる。


「何度見ても不思議な光景だな」

「そう?」

「祖国ではこのような光景はなかったのでな。せいぜい二階建ての建物しかなかったぞ。塔ならば同じぐらいに高かったが」


 そもそも土地が広いので建物を上に伸ばす理由がなかったようだ。そうして歩いていると、クリスは突然立ち止まって穂奈美に言った。


「この街は、自分が何者かわからなくなる」


 穂奈美は振り返って首を傾げた。


「どういう意味?」


 けれど、クリスは苦笑して答えずに歩き出した。そうして少し歩いたところで脈絡のないことを言った。


「ニホン製の靴はすごいな。歩くたびに思うが」

「そりゃあ……」


 あの具足に比べれば、とは言わなかった。クリスがこちらの世界に来たときに着用していた鎧だが、靴はブーツのようになっており、それがそのまま具足の役割を果たしていた。

 今のクリスは莞爾に買ってもらったスニーカーを履いている。


 クリスは道路を走る車の列を眺めながら言った。


「ミツヤマ村にいると、世界は違っても自分が知るものが多くあった。精霊の息吹も感じた」

「東京は違う?」

「少なくとも、永住したいとは思えぬよ。別にこの街を否定するつもりはない」


 少し考えて、穂奈美は言った。


「東京ってね、多くの人にとっては働く場所なのよね。実際には近隣の県に住んでて、仕事をしに電車で毎朝通勤する人も多いわ。単純に東京は土地が高いのもあるとは思うけれど、交通の便がよくて少しぐらい離れていても平気なのよね」


 クリスは納得したようにひとつ頷いた。


「人が増えれば欲も渦巻く。自然、万象の理に人為的な間隙が生まれ……なんだったか。騎士学校で習ったのだがうろ覚えだな」

「そういう理論があったの?」

「ああ。まあ理論は理論で、魔力を持つものからすれば、体感でなんとなくわかるようなものだな。例えば戦場では精霊も姿を消す。どれだけ勇ましいことを言う騎士や兵士がいても、心の奥では恐怖を抱いているものだ」

「精霊、かあ」


 穂奈美はよくわからなかった。日本人として神道的なアニミズムには一定の理解がある。けれども、クリスの言う精霊は日本のそれとはまた違う気がした。国内で言うならば、アイヌ的な精霊信仰に近いのかもしれない。


「以前の聞き取りのときにはそこまで詳しい話はなかったわよね?」

「どちらかと言えば、私は感覚肌なのだ。触りぐらいならば覚えているが、あとはうろ覚えだな。実際理論など忘れていてもすでに体が覚えている。まあ、研究畑ではないからな」

「そうなの? ずいぶん理論的なことをしゃべっていたと思うけれど」

「あんなもの、魔法使いならば誰でも覚えている程度のことだ。私は騎士だが一応魔法をかじっているから覚えていた」


 クリスは異世界人ゆえに知識的な乏しさはあったものの、知性については平均以上だった。元々貴族の生まれであるから幼少期から教育を受けていることもあって、理解力は高い。ただ、異世界の常識的な部分が邪魔をしている。

 ふとクリスは穂奈美に尋ねた。


「ホナミ殿はご家族と一緒に住んではいないのか?」

「今は一人暮らしよ。十八歳までは生家にいたわね」

「寂しくはないのか?」


 穂奈美は苦笑して垂れた髪を耳にかけた。


「どうかしら。わからないわ。最初の三年ぐらいは寂しかった気がするけれど、今じゃ仕事が忙しくて寂しいなんて思う暇もないし……もっと切実な侘しさがあるもの」


 クリスはそれ以上尋ねなかった。けれど、穂奈美は寂しさを打ち消すように自虐的に言った。


「あーあ、わたしもいい男と巡り会いたい」

「むぅ?」


 莞爾と何やら恋人ができたというような話をしていたはずだが、とクリスは首を傾げた。

 穂奈美は通りがかったタクシーに向かって手を上げた。


「久しぶりに歩いたら疲れちゃった。帰ってゆっくり休みましょう?」


 ごまかしきれずに苦笑した。



 ***



 都内某大学の研究室。

 書棚がところ狭しと並び、それでも置く場所がないのか書籍の数々が床に平積みにされている。


「柏木教授、いらっしゃいますかー?」


 足の踏み場もない、とはこういう部屋を言うのだろう。穂奈美はため息をついて部屋の中を見回した。書棚がまるで壁のようになっていて、奥まで見えないどころか、天井の蛍光灯の明かりさえも遮っている。


 少し遅れて奥から嗄れた声が返ってきた。


「どちら様かな?」

「外務省の伊沢です。約束のお時間を過ぎてもいらっしゃらないので――」

「なんだって!?」


 がさごそと大きな音を立てて出てきたのは瓶底メガネをかけた老人だった。白髪頭でぼさぼさとしており清潔感は感じられないものの、少なくとも臭くはない。


 本の山をかき分けるようにして出てきた柏木は穂奈美の姿を認めて、それから自分の腕時計を見た。


「失礼、伊沢君。今は何時だね?」

「……午前九時です」


 柏木は「ふむ」とひとつ頷いて腕時計を外してポケットに入れた。


「すっかり壊れてしまっているようだね」


 肩を竦めて申し訳ないと言うが、本人に反省の色は見えない。穂奈美は内心でため息をついた。


「残念ながらこの部屋は定員一名でね。申し訳ないが今から事務室に行って会議室を――」

「こちらで先にお借りしています」

「それは助かった」


 柏木は苦笑すら見せず、扉にかけた上着を取るとようやく部屋から出た。そこで穂奈美の後ろにいたクリスに気づく。


「ああ、こちらの女性が?」

「はい。クリスティーナ・メルヴィスさんです」それから穂奈美はクリスに言った。「こちらは柏木教授。世界中の言語を研究してらっしゃる方よ」


 柏木は「よろしく頼むよ」と右手を差し出し、クリスも軽く微笑んでその手を握り返した。


 研究室から少し離れた会議室に入る。

 柏木はノートパソコンと一冊のファイルを持参した。


 席に着くや否や、柏木は言う。


「まず、今回私が研究に協力を依頼された経緯について、確認しても?」


 穂奈美が頷くと柏木は頷き返した。


「まず第一にメルヴィス女史の祖国であるエウリーデ王国の言語はどのようなものか、第二にその言語を解明することでいわゆる魔法について新たな知見を得られるか、第三に……シュゼール語という非常に興味深い暗号的言語について……大まかに並べるとこの三つだが、内容に鑑みてこれはもちろん他言できる内容でもなく、ひいては私自身の公にできる実績にはならない。まあ、それなりの対価はもらえると聞いているがね。なにより、私にとって知的好奇心を満たしてくれるかどうか、この一点につきる」


 回りくどい男だ、と穂奈美はクリスの方に視線を向けた。クリスはじっと彼の目を見ていた。とくに何かを考えている様子はない。


「とはいえ、この知的好奇心を満たすためには金が必要でね。研究は無一文ではできないのだ。そういうこともあって、伊沢君。来年度の予算は期待してもいいんだろうね?」


 つまるところ、研究予算を増やしてくれるならば協力する、という要請であり、国側もそれを受け入れている。穂奈美はしっかりと頷いておく。


「予算に関しては心配ご無用です。言語学者にとっては潤沢な予算かと思います」

「結構」


 柏木はそれだけ聞いて満足したようだった。


「では、早速とりかかろう。まず前任者である加藤教授から一連の報告は引き継いでいるのでね。それを踏まえての仮説をひとつ話しておこうか」


 曰く、クリスの持つ首飾り――翻訳機能は各単語に反応して翻訳しているわけではない。


「少し哲学的な話をしよう。言語と一言で言っても、名詞、動詞、形容詞など様々な種類の単語がある。さて、もっとも原始的な言語は何かと言えば肉体言語――ボディーランゲージ、身振り手振りで動作を示唆することができる。つまり、人間にとって第一の単語は名詞ではなく動詞であると仮定できる。他にも例えば認知症や失語症。これらについても言葉を失う過程で最後まで残るのは動詞なのだが……人間の脳は自分の体でイメージできることは忘れにくいとも言える」


 長い前置きをして柏木はさらに続けた。


「では、名詞について考えよう。これは例えば人の名前であったり、固有の名称であったり、あるいは代名詞もあたる。リンゴやミカン、車や電車、包丁や鍋、全部名詞だ。さて、この名詞だが非常に忘れやすい。健常者であってもちょっと思い出せないなんてことがよく起こる」


 そこまで聞いて、穂奈美はしびれを切らして尋ねた。


「それで仮説とは?」


 柏木は残念そうに肩を竦めて言った。


「君はせっかちが過ぎる。まあ、話そう。翻訳機能はメルヴィス女史と我々のそれぞれの記憶において、共通項だけを翻訳している……ということだね。具体的に言うと動詞についてズレは確認できないし、形容詞については今のところ確認できていない。だが、名詞だけが違う」

「……それでは納得できない点がいくつかあります」

「もちろんだとも。例えば『小麦』については別名称が聞こえるわけではなく、質的同一の存在として共有しているが、トマトはメルヴィス女史から言わせれば『マルテ』だ。まったく違う。けれどもメルヴィス女史はトマトを見て『マルテ』だと思うぐらいには質的類似性は持っている」


 つまり、共通の認識であっても呼称が違うというわけではなく、共通の認識にズレが生じているからこそ呼称が違うのだと柏木は言う。


「そう考えると色々とつじつまが合うのだよ。まあ、二十一世紀にもなってイデア論を語り合うつもりは毛頭ないのだがね」

「ですが、それでは騎士団だとか、王国だとか、我々の想像する制度との差異も反映されて正しく翻訳されないのでは?」

「いいところに目をつけたね。けれども、その疑問は我々側の認識ないし想像の範疇を考慮していない。こういう言い方は失礼だが、エウリーデ王国が辿っている歴史は、我々の知る歴史において数百年前のものだ。そういう意味において、我々は騎士団が何であるか、王国とはどういう国体を持つか、詳細は知らなくても概略を知っている。つまり単語のもつ大雑把な情報が正しければ翻訳機能はある程度働いてくれるというわけだ。だが、そうなると『マルテ』の例がひっかかる。仮説だが、おそらく我々の知るトマトとメルヴィス女史の知る『マルテ』は似ているだけで本質的には異なるのだろう」


 しばらく考えて穂奈美は尋ねた。


「では、この翻訳機能をもつアクセサリーがそれらを判断して――」

「それはおそらく違う」

「というと?」

「判断しているのは、おそらくメルヴィス女史の脳だ。考えてもみたまえ。それほどの小さな媒体がこれほど高性能な翻訳機能を持っていると? 現代のマイクロチップだってそこまでの性能はないだろう?」


 得意げに言い切って、柏木は「まあ私の専門ではないが」と笑った。


「サンプルデータはもらっているから、すでに簡単な文法ぐらいならば把握したが、まあ意味まで辿るにはサンプルが少ない。いくつかテキストを用意したので、後でそれを読んでもらいたいのだが、大丈夫かね?」

「私は構わないが」

「結構」


 クリスの答えに大きく頷いて柏木は満足げに微笑みを浮かべた。そうして机に置いたノートパソコンを開いてとあるファイルをクリスの方に向けた。


「先日、伊沢君からもらった画像データ――確かメルヴィス女史の日記だったか、それに使用されているシュゼール語。私も見た瞬間に驚いた。この画像にある言語と非常に似通っている」

「ああ、これです。これと似てるなと思いまして……クリスちゃん?」


 クリスは瞠目して硬直していた。その視線はノートパソコンの画面に釘付けになっている。


「ビンゴ、だよ。伊沢君」


 ずいぶんと古くさい言い方をして、柏木は手を口元に運んだ。しばらく考える素振りを見せて尋ねる。


「メルヴィス女史。この文字はシュゼール語かね?」


 その質問にクリスはようやくはっとして顔を柏木に向けた。

 柏木も穂奈美も思わず固唾をのんで彼女の返事を待ったが、予想外にもクリスは首を横に振った。


「これは……シュゼール語ではない」


 落胆した柏木が口を開くよりも先にクリスが続きを言った。


「これは魔法言語だ」


 柏木と穂奈美は一瞬首を傾げかけ、すぐに「魔法」という言葉に意識を奪われた。


「魔法言語、というとつまりこれは魔法の書物か何か、ということかね?」


 柏木が尋ねるとクリスは表情を変えずに頷いた。柏木は手を打って喜ぶ。


「はっはっはっ、伊沢君。よかったじゃないか。これを解読してもらえば魔法については色々とわかることも多いんじゃないかね?」

「驚きました。まさかこんな都市伝説みたいな古文書が……」

「都市伝説は言い過ぎだよ。私はせいぜい私的日記か何か、あるいは何らかの偽書だと思っていたよ。まさか異世界由来の代物だとはね」


 盛り上がる二人をよそに、クリスはずっと画面を見つめ続けていた。


「少なくとも一五八二年より以前に異世界人がこの地球に現れていたというわけだね。なにやら夢が膨らむじゃないか。そうなるとルドルフ二世が購入したのも錬金術の書物としてではなく、魔法書としての意味があったかもしれない。いや、実に結構」

「えーっと、なんでしたっけ。ヴォイ……」

「――ヴォイニッチ手稿さ」

「そう、それです」


 柏木は未だに画面を見続けているクリスをちらりと見て言う。


「実はこの文面だけではなく、いくつかの天体図のようなものもあってね。ほら、これだ」


 画面が切り替わる。そこには三つの円形の図があった。

 クリスは膝を乗り出すように画面にさらに顔を近づけた。そうして何度も瞬きをして画像を確認して――「クリスちゃん!?」


 穂奈美の声にクリスははっと顔を上げた。


「どうして……どうして泣いているの?」


 クリスの頬を涙が走っていた。彼女は言われて初めて気づいたのか指先を目元に触れて取り乱した。


「これっ、これはっ……すまない。少し席を外したい」


 柏木と穂奈美は顔を見合わせた。

 クリスは返事を待たずに会議室を出た。


「教授、失礼します」


 穂奈美の言葉に柏木は肩を竦めて了承した。

 会議室を出て左右を見る。廊下の奥の方にクリスが歩いていくのが見えて、穂奈美は彼女の後を追った。

 来るときに使った階段の踊り場にクリスはうずくまっていた。穂奈美は彼女のそばに駆け寄って狼狽しながら尋ねた。


「クリスちゃん、どうしたの? 具合が悪くなった?」


 クリスは首を横に振る。暗い表情の中に焦燥のようなものを感じ取って、穂奈美はクリスの手を取った。


「少し外の空気を吸いに行きましょう」


 大学は春休みに突入したばかりで、学生の姿は疎らだった。ベンチに腰を下ろし、穂奈美は隣に座らせたクリスの背中を優しく撫でた。

 クリスは両手で顔を覆ったままじっとしていた。


 ややあって、ようやくクリスは顔を上げたが、申し訳なさそうな顔をして苦笑いを浮かべた。


「すまない、ホナミ殿。今日のところは甚だ無礼だが、帰らないか?」


 一体何が彼女の胸を締め付けているのか、穂奈美にはわからなかった。



 ***



「そう、それでとある文献を見てから様子が変なのよ」


 ホテルのロビー。穂奈美は周りに人がいないことを確認して莞爾に電話をかけていた。


「昨日のことなんだけど、今日の実験もどこか気がそぞろっていうか……」

『文献って?』

「それは秘密。今まで解読されていない文献ってことぐらいは言えるけど、具体的にはちょっとね。クリスちゃん曰く魔法言語で書かれたものですって。まあ、要するに大昔にクリスちゃんと同じように地球にやってきた異世界人がいたってことかしらね」

『そりゃあまた突拍子もない話だな』


 電話の向こう側では莞爾が心底驚いている様子が想像できた。


『でもクリスなら解読できるんだろう?』

「それが……」


 言いかけて、穂奈美はノートパソコンを食い入るように見つめていたクリスを思い出した。あの瞬間の涙にはどういう意味があったのか、未だにクリスは教えてくれない。


「わたしも頼んだわよ。でも、気分が乗らないっていうか、今はまだお願いできそうな感じじゃないのよ」

『何か重要な書物ってことか?』

「さあ。それもわからないの。魔法言語で書かれてるってことだけは教えてくれたけど、それ以上のことは何も教えてくれないんだもの」

『よっぽど衝撃的な何かだったってことか』


 莞爾は言葉に詰まり、長いため息をついた。つられるように穂奈美もため息を漏らす。


『それで、クリスは?』

「今は部屋で休んでる。口数も減ってるし、見るからに元気がないわね」

『飯は?』

「食欲はあるから大丈夫だけど、いつもみたいに食事を楽しんでる感じじゃないわ」

『……重傷だな』


 莞爾にも思うところはあった。年末にようやく思いを打ち明け、気持ちを通じることができたのだ。クリスが異世界に残してきた家族に思いを寄せていることは十分承知している。そして、自分のもとにいることで、自身の責務と幸福とがせめぎ合っていることも理解している。


『クリスはなんて?』

「一応今回は早めに切り上げるかどうか聞いてみたんだけど、請け負った以上は最後までやるって言ってるわ。責任感は強いから」

『……それで調査というか実験は進んでいるのか?』

「目覚ましい結果ってわけじゃないけど、少しずつわかりはじめてる」

『そうか』

「そうかって……」


 穂奈美は眉間に皺を寄せて言った。


「もっと心配してあげなさいよ。プロポーズしたんでしょ!?」


 莞爾は大きなため息を漏らして言い返した。


『俺は夫になるためにプロポーズしたのであって、保護者になりたいわけじゃない』


 そう言われては、穂奈美もそれ以上何も言えなかった。


『本当にクリスが嫌だって言い出したら教えてくれ。迎えに行く』

「……了解」


 電話を切って「薄情者」と呟いてみたが、空しくなるだけだ。自分が彼女をただかわいい妹分のように子ども扱いしているだけなのだと気づかされて、少し嫌な気分になった。


 小さくため息をついて立ち上がりかけた時、スマートフォンが震えた。メールが一通。莞爾からだった。

 何か聞き忘れたことがあったのかと思ってメールを開くと、都内のレストランの住所が記されていた。


――夕飯がまだならここに行け。


 添えられた文言はその一言だけだ。

 ネットで調べてみるとスペイン料理のレストランのようだった。


「……こんなオシャレなところ、わたし莞爾くんに連れて行ってもらったことないんだけど」


 恨みがましく言って、穂奈美はクリスの待つ部屋に戻った。


 部屋に戻ると、クリスはベッドにうつ伏せに寝転んだままだった。枕に顔を埋め、微動だにしていない。


「クリスちゃん?」声をかけると眠っていたわけではなかったようでクリスは顔をあげて答えた。


「ああ、おかえり。カンジ殿は元気だったか?」

「ええ……心配していたわよ」


 穂奈美はクリスのベッドの縁に腰掛けて尋ねた。


「お腹減った?」

「むぅ……またルームサービスとやらで構わぬぞ」

「昨日もだったじゃない」

「外出する気にならないのだ」

「だーめ。今日は莞爾くんからおすすめのお店教えてもらったし、そこに行きましょう」

「カンジ殿が?」


 するとクリスは興味をもったのか体を起こした。

 穂奈美は腕時計を見る。時刻はまだ午後七時を回ったばかりだった。

 店舗を調べて電話をかけるとすぐに予約が取れた。活気がいいのか電話口からも賑々しさが伝わった。



 ***



 錦糸町駅から少し離れた路地の一角。もうワンブロック先は大通りという場所にその店はあった。

 店名はフラメンコの楽曲から取ったのか「Alegrias」とあった。

 しかし、店の扉を開けると陽気な「いらっしゃいませ」の言葉とともに「Tango en skai」が耳に入り、穂奈美は少し面白く感じた。


 奇妙な組み合わせに笑みを浮かべつつ、穂奈美はクリスと一緒に予約席に案内してもらった。

 クリスは店内をまじまじと見回して興味深そうにしている。


「ここは本当にニホンか?」

「どうして?」

「雰囲気が違いすぎるぞ。それになんだこの聞こえてくる曲は」

「あー、その曲はちょっと場違いだから、あんまり気にしないで」


 穂奈美はドリンクメニューを広げて尋ねる。


「クリスちゃん、お酒大丈夫よね?」

「大丈夫だが……いいのか?」

「いいのよ。たまには飲みましょう。バチは当たらないわ」


 そう言って穂奈美は店員にサングリアを二杯頼んだ。すぐに出てきたそれを見て、クリスは目を瞬いた。


「な、なんだ、これは?」

「なにって、サングリアよ。スペインのお酒と言えばこれって感じね。飲みやすいし、美味しいわよ」

「いや、それはわかるが、これはその……」


 クリスは穂奈美に顔を寄せて小声で尋ねた。


「こんなに果物を使って高くないのか?」


 言われて初めて値段を確認したが、生ビールとそう変わらなかった。穂奈美は苦笑して言う。


「大丈夫よ。安心して。わりと庶民的な味だし」

「そ、そうか」


 サングリアにはベリー系の果物に柑橘類も入っており、デカンタからそれぞれのグラスに注ぎ分けて乾杯する。

 グラスをかちんと軽く合わせて飲むと、ワインの渋みや酸味が果物の甘みで柔らかく感じた。


「うん。美味しい」

「すっきり飲めるな」


 クリスは気に入ったようだった。

 それから穂奈美はいくつかのタパス(スペインの小皿料理)を頼んだ。スパニッシュバルといえば立ち飲みのイメージがあるが、日本では立ち飲みはあまり歓迎されないところもあり、この店も席を設けている。


 それから穂奈美はガラス張りの厨房の方を覗いてから店員に尋ねた。


「あれは?」

「ああ、カルソッツを焼いてるんです。見た目は長ネギですね。黒焦げになるまで焼いて、じゅくじゅくになった中身にソースをつけて食べるんです」


 この店では日本の居酒屋的な提供方法を採用しているらしく、カルソッツのコースなどはなかった。本来はカルソターダと呼ばれるコース料理の前菜としてカルソッツがある。


「じゃあ、それも二人分」


 料理を頼んだあとで、穂奈美はクリスの方に顔を向けた。するとクリスはなんとも言えない顔をしていて、穂奈美は首を傾げた。


「どうかした?」

「いや……なんでもない」


 あまり気にとめず、穂奈美は思い出したように言った。


「わたしもあまり詳しくないんだけど、タパスってもともと質素なおつまみだったらしいのよ。でも、おつまみがあるとお酒が進むでしょ? だから店側が売り上げを伸ばすためにたくさんタパスを作り出して色々種類が増えたんですって」


 クリスは興味深そうに聞きながらサングリアをごくごくと飲み干した。そうしているうちにタパスが運ばれてきた。


 オリーブをひとつかじってサングリアを飲む。少しばかり懐かしい味がしてクリスは目を閉じた。


「どう?」と穂奈美が尋ねるとクリスは一言「悪くない」と言った。


 カリカリに揚がったイカのフライもまた美味しかった。

 店内の賑わいとは裏腹に、二人は物静かに食事を楽しんでいた。


 思い出したように穂奈美がいくつかしゃべり、クリスはそれに耳を傾ける。

 そうしてしばらく経つと真っ黒に焼けたカルソッツが運ばれてきて、テーブルのど真ん中に置かれた。取り皿とソースの入った小鉢が置かれて、店員が食べ方を説明した。ひとつだけ手に取って抜き取ってくれる。


 あとはご自由に、と店員が手袋とエプロンを置いて去って、穂奈美は「すごい真っ黒」と見たままの感想を告げた。クリスはじっとカルソッツを眺めている。


「これは……カンジ殿が作ったものだな」

「え?」


 穂奈美が尋ねるよりも先に、クリスは店員が抜き取ってくれたカルソッツの純白な中身をソースにつけた。

 ソースはナッツとトマトなどを使って作られたサルサ・ロメスクだ。垂れないぐらいにたっぷりとつけて、店員に言われたとおりカルソッツを高く掲げて下から受け取るように口を開いて迎える。


 じゅわりと広がる甘みにソースの濃厚な風味がよく合う。食感はやはり長ネギとは違う。味わいも別物だが、これはこれで美味しいものだ。噛むたびに繊維の隙間から甘みがにじみ出てくる。


「……美味いな」


 クリスは黙々と咀嚼しながら言った。すると穂奈美は苦笑して彼女にエプロンと手袋を渡す。


「そのままだと汚れちゃうわよ」

「あ、うむ。すまない」


 穂奈美も完全装備でカルソッツを食べてみたが、長ネギに慣れ過ぎたせいか、美味しいとは思うものの少し違和感があったようだった。


「なんか、すごく外国の味って感じがするわね」


 当然のことを呟きつつ、それでも味は気に入ったのか穂奈美もクリスと同じようにパクパク食べた。


 カルソッツは他の客にも人気だったようで、続々と注文が続いている。ガラス張りの厨房を覗けば焼き台の上にカルソッツがびっしりと並べられていた。


 ちょうどカルソッツを食べ終わったところで、今度はグリルされた肉がやってきた。


「頼んでないわよ?」と穂奈美が言うと、店員は「カルソッツのセットになってるんです」と言った。


 飲み終わったサングリアの代わりに、穂奈美は赤ワインのボトルを一本頼んだ。

 店員がワイングラスを持ってきて注ぐ。

 クリスはグラスの薄さに驚きつつも赤ワインの香りを楽しんでいるようだった。

 その様子を見ていた穂奈美は言う。


「やっぱりクリスちゃんだと様になるわね」


 首を傾げるクリスに穂奈美はさらに続けた。


「日本人がワイン好きだって言うと、なぜか文句を言うやつがいるのよ」


 苦笑して穂奈美は頬杖をついた。

 クリスは「ふむ」と頷いてグラスを置く。先ほどから何かを考えているようで笑顔が消えていた。


「ところで」

「なあに?」

「例の文献についてだが――」


 クリスは目を閉じた。穂奈美は次の言葉を待ちながらワインを一口飲んだ。


「あれは、転移魔法の魔法書だ」


 賑々しさがかえって二人の間の静けさを強調した。

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