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1月(末)上・懐古と思慕

大変長らくお待たせしてすみません。

更新したつもりになってました。

 駅正面のロータリーから少し離れた路地。

 莞爾は車を路側帯に寄せてゆっくりと停める。一応停車は禁止されていなかった。


 駅構内へと通じる通路から示し合わせたように穂奈美が顔を出し、莞爾は目視で後ろを確認して車から降りた。


「あけましておめでとう」


 もう一月も下旬なのだが、一応は言っておくべきだろう。莞爾が挨拶をすると、穂奈美は「ああ、そういえば」と苦笑して挨拶を返した。

 クリスも久しぶりに見る穂奈美の姿に笑みを隠していない。


 後部座席から荷物を下ろし、ようやくまともな会話ができた。

 とはいえ、ほとんどは電話で事前に話し合っているので問題はない。つい昨日、自衛隊病院に定期検査に赴いた話などをした。


「じゃあ、一週間頼むぞ」


 目を細め、言外にくれぐれも無理はさせるなと伝えると、穂奈美も「任せて」と片目を閉じた。


「電話で話せたら、少しは寂しさもないんだろうけど、機械を通したら翻訳してくれないみたいだし、仕方がないわね。その分毎晩わたしが状況報告してあげるから」

「話せる範囲でいいさ」


 キャリーケースの取っ手を伸ばしてクリスに預けると、彼女は「おお、なるほど。これがこうなっていたのか」と感心していた。実はつい先日買ったばかりである。今この瞬間まで持ち運びが大変そうなバッグだと思っていた。


「ところで、会社起ち上げるって話だったけど、仕事はどうなの?」

「正直、ここ数日はそれどころじゃなかったな。隣人が倒れちゃって、仕事任されてたから忙しくてな」


 クリスとスミ江もいるので基本的には単純な流れ作業だったが、莞爾はその手の労働が苦手な人間だった。気が滅入って仕方がない。

 おまけに三日連続で顔を合わせる羽目になった瓜生からは「いい女性いませんか?」としきりに尋ねられてしまった。


「ああ、三つ年下の好青年がいるんだけど、お前紹介してもいいか?」


 莞爾は何も気にせずに適当に尋ねてみた。どうせ「今は仕事が大事」というと思ったからだ。しかし、予想に反して穂奈美は困ったような表情を見せた。


「あー、ごめんなさい」


 それだけ聞くとただの断りにしか聞こえないが、雰囲気からして「興味がない」ではないようにしか思えなかった。


「実は今交際している男性がいるのよね」

「……へえ。そりゃあおめでとう」


 特に思うところはない。互いに大人である。今更過去のことを持ち出すこともないし、莞爾からしてみればクリスを嫁にもらう身分で、穂奈美のことにまで口を出す理由もない。

 純粋に友人として祝福したつもりだったが、穂奈美はくすりと笑って言った。


「莞爾くんもよく知ってる人よ」

「はあ? 大学んときの?」

「まあ、そんな感じ」


 記憶をたどってみると、共通の友人で結婚していないのは五名ほどいる。そのうちの三名は穂奈美が好きになる要素がないので論外だ。そして一人は三十路を越えてもまだ処女厨なのでこれまた論外。そうなると一人しか残っていない。


 莞爾は恐る恐る尋ねる。


「まさか、あいつか?」

「まあね。交際してるっていっても、まだ数回デートしたくらいだけど」

「ふうん……」


 穂奈美がその気になっているということは「あいつ」も大人になったということなのだろう。穂奈美も莞爾が「あいつ」との間にトラブルがあったのを知っているからこそ黙っていたようだった。

 莞爾はすぐに興味を失ったように言う。


「うまくいくといいな」

「全然、そこまで考えてないわよ、今は」

「今は、か」


 正直なところ穂奈美の恋愛事情は莞爾にとってどうでもいいことであった。友人として幸せになって欲しいとは思うが、わざわざ自分から状況を尋ねるほどの興味もない。


「あいつ、元気にしてたか?」

「仕事が忙しいみたい。まあ、わたしも忙しいしちょうどいいかな」


 仕事が忙しいのはいいことだ、と莞爾は適当に頷いた。


「それじゃあ、クリス。あんまり穂奈美に迷惑かけないようにな」


 気を取り直してクリスに言うと、彼女は大きく頷いた。


「心配無用だぞ」

「一週間も離れるんだ、寂しくないか?」

「あ、あまりバカにするな! 一週間くらい平気だ!」

「そっか」

「うむ!」


 そうして送り出して、二人が構内へ入っていくのを見送った。クリスは最後に顔だけチラリと戻してすぐに柱の陰に消えていった。


「……ふう。俺も帰るか」


 運転席に向かうために、車の後方を注視する。いざ車の向こう側へ回ろうとしたところで、後ろから何かが抱きついてきた。


「うわっ、お、おい!」


 莞爾は自分の胴をぐるりと抱きしめるクリスの両腕を見て、振り返らずにその腕に手を添えた。


「ほんのちょっとだろ?」

「ちょっ、ちょっとだけだっ!」


 クリスの顔は見えないが、きっと真っ赤に染まっているだろうと思った。

 莞爾は苦笑して彼女の腕を取り、後ろに向き直る。やはり、案の定彼女の顔は真っ赤だった。往来で衆目があるのも気にせず優しく抱きしめて、額に軽く口づけをした。どこぞのイタリア男かと思えるぐらいには、莞爾も節操がなくなってきた。


 クリスはクリスで変なうめき声をあげているが、それでも莞爾の胸板に顔を埋めてしばらく彼の体温を堪能する。そうして、ようやく体を離し、名残惜しさを隠して笑みを浮かべた。


「私は浮気には寛容だからな」

「いや、何の話だよ。つーか、浮気なんてしねえから」

「む、むう。ほんの冗談ではないか」


 莞爾は苦笑する。


「俺はお前にぞっこんだよ」


 クリスはしばらく惚け、そうしてようやく我に返って茹で蛸になった。構内入り口通路の壁から穂奈美が顔だけ出してにやついている。

 あとでネタにして笑われそうだと嫌な予感がしたが、今更だと腹をくくっていっそ見せつけてやろうかとも思えた。


 しかし、引き寄せようとした彼の手から逃げるように、クリスは身を翻して走る。


「まっ、またなっ! カンジ殿!」

「……おう!」


 瞬く間に姿を消した妻(予定)の恥じらいに苦笑して、莞爾は車に乗り込んだ。



 ***



 土を払い落としたカルソッツを十本ごとの束にまとめ、コンテナに入れていく。

 一人でずっと作業を続けていたが、量は当初の予定よりもずっと少ない。昼下がりにはすべてのカルソッツをコンテナに入れ終わった。

 だが、まだ収穫を終えていないものもある。それはクリスに魔法をかけられたものだ。

 案の定というべきか、普通のものよりも大きく成長している。一応引っこ抜いてみたものの、売り物にはできないし、どうやって食べるかも困っていた。このまままとめて処分するのが手っ取り早い。


 午後になって八尾のもとに軽トラを走らせた。

 倉庫の指定場所にコンテナを積み上げていると、顔なじみのパートが声をかけてきて、莞爾も丁寧に挨拶を返した。

 そうして事務所の方に行くと八尾の妻が帳面をつけていた。八尾は事務所の奥にいたが電話の途中で、莞爾に気づいて片手をあげたものの「もう少し待っていてくれ」と手の動きだけで示した。

 外でタバコを吸いながら待っていると、五分ほどして八尾が出てきた。


「いやあ、待たせちゃって悪いね」

「とんでもない」


 二人は倉庫に入り、コンテナの中身を検分する。


「一応この前言った数は揃ってます」

「うん。いいね。見た感じは問題ないかな」


 多少の泥は付着しているが、きれいに洗い落とすことはしない。畑からそのまま、というコンセプトなのだ。このまま焼き台に乗せられて真っ黒に焼かれる。食べるのは黒焦げになった皮の中身だ。


 一通り目を通し、それから八尾は尋ねた。


「中でお茶の一杯でも飲んでいったらどうだい?」

「お気持ちは嬉しいんですが、ちょっと仕事残してまして」


 莞爾は苦笑して断った。八尾も「それは残念」とあっさり引き下がる。

 軽トラに乗り込んだところで、莞爾は窓を開けた。


「今度また連絡します」

 八尾が片手を上げて応じると、莞爾はひとつ頷いて軽トラを発進させた。


 大谷木町内を軽トラは駆け抜けていく。三山村に比べて住宅が多いものの、未だに発展途上だ。このあたりでもバスは一時間に一本あるかないか。基本は通勤通学の時間帯に集中している。おおよそ車を持たずに生活できる場所ではない。


 田舎というものは得てしてそういうものだ。病院へ行くのも、ちょっと買い物に行くのも、車がないとどこにも行けない。そのくせ都会の人間に比べて土地の間隔が広いので、「もう少し先」が平気で一キロ以上あったり、「ご近所さん」の家が何百メートルも離れていたりする。


 それでも大谷木町はまだマシな田舎である。少なくともバスが廃線になっていないのだから。


 しばらく軽トラを走らせて、莞爾はスーパーに立ち寄った。二十分ほど店内を見て回り、日用品や食料品を購入して戻った。


 まっすぐ帰宅して購入した品物を収め、莞爾はまた山手の畑に向かった。

 今度は耕耘機を軽トラに載せている。


 畑につくと、まずは売り物にできなかったカルソッツをひとところにまとめた。それから耕耘機を荷台から降ろし、カルソッツのなくなったうねを耕していく。

 やはり、というべきか、クリスが魔法をかけたカルソッツの周囲は一部砂状に変化しており、まるで川砂を耕しているような感覚にすらなった。


 ざっと耕して、一度耕耘機を停める。軽トラに乗って納屋まで戻り、一輪車と網を載せて畑に戻る。


 莞爾は一輪車と網、それからショベルを持って畑の外――落ち葉の溜まった場所に向かった。

 表面の乾いた落ち葉を払いのけ、湿った落ち葉も退ける。そうして、大部分が分解されて細かくなっている腐葉土が露わになった。

 莞爾は一輪車の上に網を載せ、ショベルですくった腐葉土をその上からかける。すると、細かく分解されているものだけが網をすり抜けて、大きなものは残る。網の上に残ったものは横に捨て、何度か繰り返して一輪車いっぱいになるまで繰り返した。


 天然の腐葉土である。もちろんこれだけでは栄養素として足りない。

 そもそも腐葉土の成分はほとんどがチッ素である。

 よく言われるのはチッ素・リン酸・カリウムの三つだが、もちろん土壌はそれだけで構成されているわけではない。多種多様なミネラル分があり、またそこで活動する微生物が大量にいる。


 腐葉土や堆肥などの有機物は微生物によって分解されて養分となるが、その分解過程において土壌は団粒構造へと変化する。団粒構造が栽培に適しているといわれる由縁は、保水性と排水性という背反する二つの要素を兼ね備え、植物の根張りを助けるからだ。


 莞爾は一輪車に載せた腐葉土を畑に持ち込む。そして、砂状の度合いがひどかった場所から順に腐葉土をかぶせ、何度か繰り返してまた耕耘機で耕した。

 一緒に牛糞などの堆肥もすき込みたいところだが、ひとまずのところ一ヶ月ほどはこのまま放置する。


 冬は野菜の成長が遅れがちだが、微生物の活動量も低下する。そのため分解には時間がかかる。この微生物にも多種多様な役割があり、大まかに分けると分解・合成である。ちなみにこの分解がさらに発酵と腐敗に分かれる。誤解を恐れずに言えば有害性があるかどうかで異なる。合成とは例えば空気中のチッ素などを土壌に固定化する細菌の役割を指す。有名なもので言えば、マメ科の根に共生する根粒菌である。

 これらの微生物による活動が複合的に働き合うことで理想的な土壌へと近づいていく。


「……疲れたな」


 さすがに一気呵成に仕事を進めたせいか莞爾は息をついた。作業用の手袋を軽トラのワイパーにひっかけてタバコを一本吸った。


「牛糞か豚糞か……液肥ばらまくってのもありか」


 はたしてどうすれば元の状態に戻るものやら、と莞爾は肩の凝りをほぐすように首を回した。


「今度もみ殻と米ぬかも足して……来月ぐらいに牛糞入れて、四月か五月には植え付けできればいいんだが」


 堆肥を混ぜても畑はすぐには使えない。堆肥と土が混ざり馴染むのを待たねばならないからだ。

 また、化成肥料を与える際にも注意が必要だ。

 野菜にとって化成肥料は速効性の高い養分となるが、大量に与えすぎたり、根と密着させたりすると根腐れの原因となる。


 そして、人間が食べ物を好き嫌いするように、野菜も土壌を好き嫌いする。日本原産の野菜はある程度酸性土壌に耐性を持っているが、例えば欧州原産の野菜などはアルカリ性を好む場合がある。

 いずれにせよ、作物を植えていれば土壌は自然と酸性に傾いていくので、植え付けの前に苦土石灰などのアルカリ成分を加え、土壌のバランスを整えておかなければならない。


 家庭菜園ならば失敗しても「また来年」と気楽でいられるが、商売であるからして失敗の大きさがそのまま生活に関わってくる。


「いっそひまわり畑にでもしてみるかね」


 莞爾は小さく息を吐いて片付けを始めた。よくよくクリスには言って聞かせておかねばならないが、そう思う一方で、自分のためにしてくれたことを改めて掘り返すのがなんだか嫌だった。



 ***



 東京駅にほど近いホテルの一室。

 クリスは上着を椅子の背もたれにかけてそのままベッドにうつ伏せにダイブした。ばふんっと音を立ててその柔らかさに体が余計に重く感じられた。


「疲れたぞ……」


 小さくため息をついて、穂奈美は椅子にかけられた上着を手に取り、クローゼットから出したハンガーにかけてしまった。


 一週間の宿として借りた一室である。本来はシングルルームを二つの予定だったが、クリスを一人にさせると寂しいだろうという穂奈美の「粋」な計らいでツインに変更された。


「お腹減った?」

「空腹は空腹だが、何より疲れたのだ……疲労感が畑仕事の五倍増しだ」


 昨日に到着した後、クリスはまず某研究施設を訪ねた。同道するのは穂奈美を始め政府関係者やそれに近しい存在ばかりだ。

 そうして初日で旅の疲れもあるだろう、ということで簡単な確認作業だけで済んだのだが、二日目からが本番だった。


 朝一番に再訪し、それから昼食を挟んで午後五時まで延々と実験の繰り返しである。もちろん途中で休憩を挟むことはあったが、クリスにとってもこんなに魔法を多用したのは戦場以来だ。

 戦場では気を緩めることがなかったために疲労を感じにくかったが、安全を自覚してしまうとどうしても疲れが目立つ。


 穂奈美は苦笑して尋ねた。


「その調子だと、残りのスケジュールはもう少し余裕を持たせた方がいいかしらね」


 しかし、クリスはとっさに体を起こして首を横に振った。


「それはつまりこれが長引く、ということではないか」

「はあ、始まる前はちょっと楽しそうにしていたのに、ねえ」

「やはり何事にも適量というものがある」


 最初のうちは、クリスも日頃魔法を使えないので良いストレス発散になっていた。莞爾との生活でストレスを感じることは少ないが、やはり定期的に魔法を使ったり体を動かしたりしていたので、頻度が減って相応のストレスが溜まっていた。


 そういうわけで、午前中は楽しく過ごせたのだが、昼食後にはそれが面倒以外の何ものでもなくなった。単純に、同じことの繰り返しなのだ。


「それになんだか奇妙な機械が多かった。頭にあの『ぺったん』をつけられたときは驚いたぞ」

「ああ、脳波測定するやつかしら」


 かなり多角的に魔法を調べようとしているようだ。

 穂奈美は気持ちを切り替えるように尋ねた。


「ご飯、どうする?」

「うーん……もうこのまま寝てしまってもいいだろうか」

「ダメよ。クリスちゃんが自分で言ったのよ? 魔法を使うとお腹が減るって」


 戦場であれば少量の食事でも維持できたことが、今となっては難しい。

 クリスは「誤解だ」と言った。


「正確には、疲労を解消せずに魔法を断続的に使用すると擬似的な飢餓状態に陥る、だ」


 つまりは睡眠をとって体を休めればある程度の空腹を抑えることができるということらしい。

 穂奈美も最初に一月近く付き添っていた期間があるので、クリスの扱いには慣れたところがある。きちんと答えを返してくれるときはクリスも平気なのだが、大した内容でもないのに少し間を置いて考えるようになるとダメだ。


「まあ、でもおかげでいい結果が得られたんだし、明日からは実験も種類が変わると思うわよ?」

「そうなのか?」


 そう言ったものの、クリスはまた倒れ、枕に顔を埋めた。

 もごもごと何事かをしゃべり、穂奈美が聞き取れずに聞き返したのでわずかに顔を上げて言い直す。


「とはいえ、今日のように繰り返しなのだろう?」

「それはまあ……仕方がないわね」

「むぅ……むぅ!」


 一丁前に拗ねてみせるクリスだったが、根っこは生真面目な軍人であるから諦めも早い。自分で協力すると決めた以上はしっかりと全うするつもりだ。その動機は誰かに向けた愛情故なのだが。


「とにかく」穂奈美は腕を組む。「夕飯食べないと、明日の朝がきついわよ?」


 クリスは盛大なため息をひとつついて体を起こした。


「それもそうだな……」

「またルームサービス頼む?」

「昨日は久しぶりだったから美味しく食べられたが、もう飽きたぞ」


 実際、莞爾と再会するまではほとんどルームサービスの類で済ませていたのだ。さすがに飽きる。 穂奈美は一瞬困ったような顔をして尋ねた。


「じゃあ、どうする? 高級なレストランにでも行ってみる? それとも赤坂の料亭? 東京は世界中の料理が食べられるし、探せばエウリーデ王国の料理に近いものがあるかもしれないわよ?」

「祖国の味か……」


 瞬間、穂奈美は失言だったと自分の頬を叩きたくなった。しかし、平静を装って話を逸らした。


「せっかくなんだし、日本以外の国の料理を食べるのも楽しいかもしれないわね」


 するとクリスは興味をもったのか首を傾げた。


「ニホン以外?」

「そう。和食っていえばついこの前に文化遺産にも登録されたけど、世界三大料理といえばフランス料理、中華料理、トルコ料理なのよ。まあ、フランス料理と中華料理は誰が聞いてもすぐに想像つくんだけれど、トルコ料理って聞かれてもパッと思い浮かばないのが難点ね」


 クリスは首を傾げて尋ねた。


「ふむ……美味いのか?」

「店によるわよ。当然」

「それもそうか」


 クリスは少しだけ笑った。ふと思い出したように尋ねた。


「ところで、カンジ殿が好きな料理は知っているか?」

「莞爾くんが? そうね……」


 穂奈美は記憶を探ってみたが、大学時代の莞爾は大学生らしく安い定食屋と居酒屋しか行ってなかった。半同棲のようなことをしていたときも、二人とも金がなかったので安上がりな料理しか作っていなかった。


「ちょっと参考にならないかも」


 穂奈美は肩を竦めた。クリスはベッドの縁に腰掛けて「ふむ」と頷く。


「たしかキナコモチが好きだった」

「意外。でも、なんかわかるかも」

「オフクロの味というやつらしいぞ」


 クリスが言うと、穂奈美はくすくす笑った。


「なんていうか、莞爾くんもおっさんになったのね」

「もう三十三になるのだから、いい年齢ではないか。亡き母の面影を偲ぶのも当然だと思うが」

「違う違う。そうじゃなくて……どう言えばいいのかしらね」


 首を傾げるクリスを前にして、穂奈美は自分のベッドに腰を下ろした。

 昔の莞爾を知っているのは事実だが、それをクリスに披露するのは自慢しているような気がして嫌だった。まるで「あなたの知らない彼を私は知っている」とでも言いたいように感じられた。


 もちろん穂奈美は今更莞爾との仲をどうこう言うつもりはないが、複雑な感情はないにしても少しばかり躊躇してしまう。わだかまりとも違う。あえて言えば、クリスに嫌な思いをさせたくないと心配しているからなのだろう。


「今ね、莞爾くんも知っているんだけど、大学時代の旧友と何度かデートしていて、まあその、交際してるって感じなのよ」

「ふむ?」

「はっきりと関係が構築されたってわけじゃないんだけど、まあこの年だし、わざわざ口には出さないってのもあって……」

「関係が構築とは?」

「付き合う付き合わないってきちんと伝え合って恋人になるってことかな」

「意味がわからぬな」


 穂奈美が「どうして?」と首を傾げると、クリスはしばらく考えて言った。


「いや、おそらくはニホンの風習なのだろうが……祖国では恋人という言葉は思い人を表すもので、相思相愛の関係を指すものではなかったのだ。基本的に結婚は家長の決定に従わねばならぬし、そういう意味もあって、恋人とは叶わぬ恋を抱いた相手という意味合いが大きかった。まあ、貴族でも思い合って互いにそれが叶うということも稀にあったが、ごく少数だ」


 穂奈美はクリスの価値観を否定するつもりはないが、やはり自由ではないのだと実感した。恋愛結婚なんて言葉はないのだろう。けれど、実際にクリスはその恋愛結婚の道を進もうとしている。家長である父親に会えないからこそ自分で決断したのだろうが、自由恋愛という概念を知らなかったクリスが決断に至るまで、どのような悩みがあったのか、穂奈美は想像がつかなかった。


「でも、日本だって結局両親に許しをもらって結婚する人が大半だろうし、結果的にはあまり変わらないかもしれないわね」

「ふむ……」

「それで、話を戻すけど、その友人って莞爾くんも知っているのよ。なんていうか、昔の彼を知っているからかしらね。今は彼もおっさん臭くなってて、まあ成長したってことなんだけれど、男子三日なんたらってことかしらね。本当に、変わった」


 思い出してみると、彼と莞爾はよく口喧嘩をしていた。あまりそりが合わなかったのだろう。仲違いはしなかったが、意見がよく分かれることがあった。


 再度口を開きかけた穂奈美だったが、クリスの腹が鳴って苦笑した。


「ご飯、食べに行きましょうか」

「むぅ……すまぬな」

「どこにする?」


 改めて尋ねると、クリスは言う。


「せっかくだ。庶民の味が知りたい」

「いいわよ。昔馴染みの定食屋にでも行きましょうか」

「定食屋?」


 首を傾げるクリスだったが、穂奈美は大きく頷いて言う。


「ちょっと懐かしくなったのよ」




農業のお話は、かなり大雑把な話であり、厳密には違ったり言葉足らずであったりする部分があります。

誤解を招く可能性がありますので、ご注意ください。添削等々吟味し、全体のバランスを考慮した上での内容ですので、お察しいただけると幸いです。


また、言うまでもないことですが、農家によってやり方は多種多様です。主人公のやり方を正解として書いているわけではありません。


明らかにこれは間違いだ、という部分がありましたらご教授いただけると幸いです。

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