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1月(3)豚バラ大根と苦行

お待たせしました。

 一月中旬。相変わらず乾いた風が吹いている。太平洋側ではあるが、三山村は標高もあり、大谷木町は山の麓にあたる。


 そのせいもあって平地に比べて積雪は多く、気温も低い。冬は辛い環境だが、夏は日照量に対して気温が低いので避暑地として優れている。


 そんな環境であったためか、避暑地として別荘などを建てて人を呼び込もうという話は何十年も前から上がっていたが、地元住民の反対や、近隣する県の高原の方が避暑地として有名なことも相俟って、今や誰も口にはしない。


 午後三時。冬の太陽が陰りを見せ始めたころ、莞爾は伊東家の納屋から顔を出した。


 珍しく頬に黒ずんだ油汚れがついている。


 最近調子が悪いという包装機を見ていたのである。嗣郎は主に農協経由のため、出荷は基本的に農協の定めた規格に則っている。そのため収穫した作物の選別や、包装の均一化、梱包するための段ボールも大きく「JA」のロゴが記されている。


 農協は全国にあるが、実は地域性の非常に高い組織だ。農協は農協で産地争いをしている。農協と一言でいっても一長一短あるのは当然だ。メリットとしては全量販売や栽培指導、煩雑な管理業務をしなくていいことなどが挙げられる。


 デメリットとしては(これも様々だが)、一例として流通経費が高い。農協も各地によって違いが顕著なので、生産物を市場に丸投げにしているところもあれば独自ルートで売買することもあるので、十把一絡げに語ることは難しい。


 実は、農協を介さなくても市場に作物を出荷することはできるのだが、当然のことながら価格は市場の値動きに左右される。


 二十四時間出荷可能で、競りのあとに行けば売り上げを直接もらえる。また銀行振り込みを選ぶこともできる。引かれるのは手数料だけだ。


 莞爾も不定期だが時折市場に流すことがある。

 だが、未だに農協経由で出荷する農家が大半を占めることからわかるように、個人で市場に出すのはデメリットもある。


 さらに自由貿易が進むと予想されている昨今、これをチャンスだと考える農家もいれば、競争力がないために選択を迫られている農家もいる。いずれにせよ、農家にも単なる生産者に留まらない営業力が必要になってくるのは違いないだろう。


「どうかいねえ」とスミ江は熱いお茶を持ってきて莞爾に渡した。彼は「そうですね」と眉根を寄せて言った。


「正直寿命だとしか」


 日頃のメンテナンスぐらいならば嗣郎もしている。可動部にはオイルを注したり、部品の摩耗がないかどうかなどをチェックしたりしている。しかし、耐用年数をとっくに過ぎている包装機だ。もはや仕方がない。今まで騙し騙し使ってきたのだろう。


「決定的に壊れてるってわけでもないですし、普通に動くんですから壊れてから考えてもいいと思いますけど」

「もし壊れたら、それまでだねえ。うちにはもう新しい機械入れる余裕もないしねえ」


 この包装機、全自動ではない。ある程度人間が操作しなければならない。それでも購入した当初は便利でずいぶん仕事が楽になった。今となっては時代遅れの産物だ。


「それに、ずうーっとこの子と一緒に働いて来たんだから、壊れたから捨てるなんて、ちょっと申し訳なくてねえ」


 スミ江も嗣郎をよく手伝っていた。夫婦で一緒に話を弾ませながら仕事をしたものだった。その思い出が目の前の壊れかけの機械に詰まっていた。


「けど、ずっと置いておくわけにもいかないでしょう?」

「そうねえ……」


 こればかりは仕方ない。思い出深い代物でも、無用の長物となれば邪魔にしかならない。スミ江も理解はしているが、古めかしい老婆の所以とでも言おうか、物を捨てられない性格だった。


 莞爾はスミ江の感傷的な表情から察して苦笑する。


「まあ、壊れてから考えましょう」

「そう、ねえ」


 スミ江も苦笑した。


 莞爾は熱いお茶で喉を潤して裏返したコンテナの上に腰を下ろす。

 スミ江が屋内に戻ってしばらく、彼は目の前の機械を見つめていた。


 ずいぶんと錆が回っている。駆動音もどこかがたついていて、これといって壊れた箇所はないのに、今にも崩れ落ちてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。


 汚れた軍手を外して頬をぽりぽりとかいた。ふっと息を吐いて立ち上がり背筋を伸ばす。むき出しになった心臓部に外装をはめ込んでねじを締め、ドライバーを道具箱にしまった。


 工学の知識は乏しいものの、ごつい機械が好きで車いじりを時々するため、構造を見ればどこが壊れやすいかぐらいはなんとなくわかった。


「まあ、しばらくはまだ使えるか」


 頼むぞ、と優しく包装機を叩いた。乾いたアルミ板の音が納屋に響いた。



***



 帰り際、スミ江からお礼に貰った太い大根を二本持って帰宅する。


 クリスはちょうど洗濯物を取り込んでいるところだった。


「あ、おかえり。カンジ殿。早かったな」

「ただいま。まあ、とくに問題なかったからな」


 莞爾は両手に持った大根をクリスの前で掲げてみせる。


「おお、また大きなダイコンだな!」

「これぐらいならすぐなくなるからなあ」


 焼き魚にすれば大根おろしは必須だし、煮物には欠かせない。千切りにして大根サラダにしてもいいだろう。あるいは出汁を染み込ませてから味噌を塗って田楽にするのも美味い。


 両手に持って大根を抱えていると変な気分になった。


「そうだ。平太が成績悪かったら青山ほとり踊らせよう、そうしよう」

「アオヤマホトリ?」

「いや、なんでもない」


 莞爾は適当にごまかして、外の水場で大根に付着した泥を洗い流す。

 葉は切り落としていない。よく洗って土間に行く。


 先にきれいに洗った大根の葉を切り分け、塩を振って軽く揉み、ねじ巻き式の浅漬け用容器に渦を巻くように入れる。蓋をしてねじを回せば重しの代わりに蓋が圧縮してくれる。明日の朝にはいい塩梅になっているはずだ。


 その仕込みが終わったところで洗濯物を畳み終えたクリスが割烹着の背中の紐を結びながらやってきた。仕草だけを見ているとじっとしていられない世話焼き女房のようである。


 手ごろなリボンで髪を後ろにまとめ、それから手を洗う。


「少し早いが夕飯の支度をするか?」


 俎上の鯉ならぬ大根を見下ろしてわくわくした様子で尋ねるクリス。莞爾は苦笑して頷いた。


「おう。豚バラ大根にでもしようかと思ってさ」

「豚バラダイコン?」

「うん」


 莞爾は頷いて手順を教えながらクリスと一緒に調理を開始した。


 まずは大根を三センチ幅でぶつ切りにして、桂剥きの要領で皮を剥く。面取りをして十字の切れ込みを入れる。それを米の研ぎ汁を使って下茹でする。


 ぐらぐらと炊き上がる真っ白な液体を見ながらクリスは尋ねる。


「そういえば、どうして研ぎ汁を使うのだ?」

「さあ、なんでだろ。あく抜きとかじゃないか?」


 実は莞爾もよく理由を知らなかった。


「ふむ。コメの研ぎ汁は万能だな」


 板材のワックス代わりにもなる。


 しばらく炊き上げて、串を刺して火の通りを確認してざるにあげる。


 鍋の底にだし昆布を敷き、その上から大根を乗せ、豚バラを乗せ、また大根を乗せる。底に昆布を敷くのは焦げつきを防ぐためだ。


 薄切りにしたショウガを数枚入れ、輪切り唐辛子をさっとひとつまみに軽く炙った煮干しを数匹。

 大根がひたひたになるくらいまで水をいれて火にかける。


「よおし、あとはしばらく弱火でことこと煮込んで、それから味噌溶いてまた煮込む」


 クリスはふむふむと頷きながら莞爾の言葉を聞いて、彼の代わりに鍋の蓋を閉めた。


「しかし、ずいぶんとたくさん作るのだな」

「まあ美味いし、すぐになくなるからなあ」

「ほう、それは楽しみだな!」


 クリスがにっこりと微笑みかけると、莞爾は苦笑する。


「味の染みた大根は美味いからな」

「むふふっ、わっくわくだな!」


 鼻息を荒くして、ガラス製の蓋を通してくつくつと炊かれている大根をじっと見つめている。


「味噌はいつごろ溶くのだ?」

「別に先に溶いてもいいんだけど、せっかくだしあとで濃いめに味噌溶くのもありかなって」

「ふむふむ」


 楽しみだな、とクリスは姿勢を戻した。


 その後、適当なところで味噌をといて弱火で一時間ほど煮込み、火を止めて味を染み込ませる。


 夕飯はいつものご飯と味噌汁に加えて、畑で採れた野菜を使ったおかずが並ぶ。ど真ん中には温め直した豚バラ大根だ。


 少し早めの夕飯である。柱時計は午後六時半を指している。


「いい匂いがするな」


 豚バラの脂が美味しそうな匂いをまき散らしている。莞爾も頷いて二人で一緒に手を合わせた。


 焦らず、まずは味噌汁を飲み、いつもの味に安心する。

 そうして大根に箸を通すと、大根は抵抗なく切れた。

 繊維が均一で薹立(とうだ)ちもしていない。


 豚バラと一緒に口に運び、はふはふと熱を逃がしながら噛みしめる。

 一番に濃い味噌と唐辛子のぴりっとした辛さが舌に乗り、大根の甘味がじゅわっと後を追ってにじみ出る。豚バラの脂が全体を包んでややこってりとした味わいだ。けれどもショウガのおかげで豚の臭みは一切ない。


 口の中に残したまま白ご飯をかきこめばそれだけで一口二口とさらに口の中に詰め込みたくなる。


 ふと視線を上げると、クリスもまた美味しそうに顔を綻ばせている。


「ご飯に合うよな」

「うむっ……うむっ!」


 しきりに頷いて、クリスは次々に豚バラ大根を口に運んでいた。こってりした味付けがお気に召したようだ。


 冬の豚バラ大根は格別に美味い。ブリ大根も捨てがたいが、豚バラ大根は安い豚バラでもいい具合に美味くなる。むしろ安い豚バラの方が美味く感じる。濃い味噌の味にがつんと力のある豚の脂はベストマッチだ。


 切り分けた大根を豚バラで包んで熱々のご飯の上で汁を垂らし、口に入れて濃い汁の馴染んだご飯を追いかけるようにかきこむ。大根の優しい味わいに味噌と豚バラのパンチが乗り、最後にご飯の甘さが舌を楽しませてくれる。


 気づけばぱくぱくと食べてしまい、あっという間に皿から豚バラ大根がなくなってしまう。


「むふふっ、貴殿が『すぐになくなる』と言ったのも納得だな」

「だろ?」


 言うが早いか、クリスは両手に自分の皿と莞爾の皿を持ち、最初によそった分よりも多めによそって戻ってきた。これでもかと重なった大根の隙間からちらりと豚バラが顔を覗かせている。


 味噌汁で口の中を流して、さっぱりとした副菜で箸休めをしてまた豚バラ大根を食べる。いっそうこってり感じる味に喉がうなる。


 がつがつとご飯をかきこんで、二人とも会話も忘れて食事に集中した。もともと食事中にはそこまで会話を交わさない二人である。


「ふう、もう食えないな」


 茶碗の上に渡し箸をして、莞爾は両手を後ろについて天井を仰いだ。


「半分も残らなかったな」


 クリスは鍋の中身を思い出してそう言ったが、実際には鍋の底が見えるぐらい減った。


「まあ、残りは明日の朝だなあ」


 残念だが一皿分も残っちゃいない。いっそ全部食べてしまえばいいのだが、お替わりを担当したクリスは満腹による幸福感に支配されており、一切の思考がふやけていた。



 食後のお茶まで飲むと、どうしてか立ち上がるのが億劫になってしまう。

「さて、と」莞爾はおもむろに腰を上げ「風呂わかしてくるわ」と上着を着た。


 クリスはいつものように頷いて、テーブルの上を片付け始めた。


 二人はすでに色々と仕事の役割分担が決まってしまっている。莞爾は農作業が主で、それ以外の家事については風呂を沸かすぐらいになってしまった。一方のクリスは掃除、洗濯をこなし、完爾が人手を欲しているときには畑を手伝う。料理に関してはクリスもずいぶんと慣れたが、未だに莞爾が包丁を握ることもしばしばだ。


 困るのは宅配便や集金などで署名を求められるときぐらいだが、莞爾はクリスに平仮名で「さえき」と書くように教えている。今のところ目立った問題はない。


 莞爾は外に出るや咥えタバコで火を熾す。


 薪に燃え移った火がゆらゆらと揺れながら大きくなっていく。それを眺めながら一層白い煙を口から吐いた。窯の煙突からも次第に煙が漏れ始めた。


 そういえば、と莞爾はふと思い出す。今のところクリスは来客があっても困ったことがない。つい先日もよくわからない二人組が「若者の鬱を救うために」という冊子を持ってやってきたらしい。しかし、クリスは見るからに胡散臭い二人組に警戒心を露わにしていたため、ろくに話もせずに二人組は帰ってしまったようだ。


 冊子の中身や作成元を見るに、どうやら新興宗教団体のそれだった。存外田舎では宗教勧誘の訪問が多い。しかし、田舎の人間は土着の信仰が多いこともあって、ある種勧誘する側にとっては苦行に近いところがあるかもしれない。


 宗教勧誘の訪問は大抵二人組だ。おばちゃん二人でまくし立てるということもあるし、男二人で片方は後ろでじっと眺めているということもある。相手によっては泥棒の下見にでも来たのかと疑ってしまうような話を振ってくることもある。

「今日はお休みですか、お仕事は何を」なんて聞かれれば、家人がいない時間を聞きたいのだろうかと疑ってしまう。何気ない会話のつもりで切り出しているのだろうが、突然やってきた見ず知らずの人間が身元も明かさずにそんなことを言えば、疑われても文句は言えない。


「いや、赤の他人の病気を気にするほど余裕ねえよ……」


 独り言を漏らしながら思い出す。莞爾が若い頃、宗教勧誘に来た青年がいた。母親は適当にあしらっていたが、父親は「若いのに苦労もんだ」と庭の柿を袋に詰めて渡していた。何度かあの青年は佐伯家を訪ねてきていたし、青年が就職してからも「お世話になりました」と毎年お歳暮が届いていたが、父親が亡くなってからは音信不通だ。


 今にして思うと、自分の父親は奇妙な縁を持った人間だったと莞爾は思う。


 父親のエピソードはどれも意味がわからないものばかりだ。


「いやまあ、俺も親父のこと笑ってられねえか」


 全くもってその通りである。一体どこの世界に突然現れた異世界の女騎士を嫁にもらう独身農家がいるというのか。ぶっ飛んだ話である。


 揺らめく火を見ていると、どうしてか昔のことばかり思い出す。感傷的になるのはらしくないと思いつつ、ついつい思考が独り言になって漏れた。


 短くなったタバコを火の中に放り込み、すっかり冷え切ってかじかんだ指先でもう一本取り出した。


「カンジ殿、もう沸いたぞ!」


 土間からクリスが大声を上げる。


「おーう! もう一本吸ったら戻る」


 そう答えてライターを手にしたが、ちょうどガスが切れていた。

 小さく息を吐いて、ガスの切れたライターを近くにある不燃物用のかごに放り投げた。


 土間に戻ると、ちょうどクリスが皿を拭き上げているところだった。


「む? もう一本吸うと言ってなかったか?」

「いや、ライター切れたんだよ」

「では、先に風呂に入ってきたらどうだ? こっちももう終わるのでな。手伝いは不要だ」

「じゃあ、お先に」


 いつもならクリスに先に入浴してもらう。特に理由はないが、汗をかいた自分が先に入るとお湯が汚れそうだと莞爾は勝手に考えている。一方でクリスは何かにつけて先に入浴しろと言う。


 寝室のタンスから下着を出す。大きなタンスを買ったわりに、中身は半分も入っていなかったが、クリスが莞爾の寝室で一緒に寝るようになってからはタンスの下段二つがクリスの衣服で埋まった。


 これといってインドアな趣味は持ち合わせていないので、ある意味庇を貸して母屋を取られたようなところがある。けれど、クリスの存在を感じる何かが視界にあると彼女と結婚するんだと実感がわく。



 ***



 先に入浴を済ませて珍しく冷蔵庫から缶ビールを出した。早めの夕飯だったこともあって、まだ八時を過ぎた頃合いだ。明日も早いが、たまには缶ビールもいいだろうとグラスに注ぐ。


「珍しいではないか」

「まあ、なんとなく」


 こたつに潜って布団から顔だけ出していたクリスがひょっこりと顔を上げる。どうやらうつ伏せになって日本語の書き取りをしていたらしい。最近は小学生一年生の漢字を何度も書いている。文字は比較的覚えやすいらしい。だが、文法がよくわからないようだ。


「そんな風に寝てると尻が火傷するぞ」

「ちゃんとずらしているのだ」

「いや、そういう問題じゃなくて」


 莞爾はこたつに足を入れてグラスを傾ける。乾いた喉に炭酸が爽快だ。


「カンジ殿はそのびいるとやらが好きなのだな」

「まあ、人並みにはな」


 最近になってようやく地デジチューナーを取り付けたので、テレビは見ることができる。しかし、クリスの勉強の邪魔になるだろうと、読み忘れた朝刊をテーブルに広げた。経済欄を読み込んで、政治欄や社説は話半分に読む。文化部の記者が書いた平和な記事にどこかホッとする。


 しばらく黙々と読んでいると、ふと腿の上が重たくなった。視線を自分の股ぐらに落とすと、クリスが頭を乗せている。


「何やってんだ?」

「よ、よいではないか」


 若干顔を赤らめていることから、どうやら少しは恥ずかしさを自覚しているらしい。ひたすら甘えられるとうっとうしいことこの上ないが、こうして恥じらいを見せられると苦笑して許してしまうのだから、男というものはなんとも馬鹿な生き物である。


「まあ、いいけど」口調とは裏腹にどこかにやついている莞爾だった。クリスも上機嫌になった。


 しかし、しばらくするとこたつの魔力にやられてクリスはうとうとし始めた。


「風呂入ってこいよ」と促すと、クリスは素直に体を起こして頷いた。


 クリスが入浴している間、莞爾はいつものようにノートを広げて色々と書き込む。そうして三十分ほどでクリスが上がり、クリスの勉強を見ているうちに時間はあっという間に過ぎていく。


 午後十一時を過ぎたころ、二人は寝室に向かう。冷えた布団の中で、クリスは暖を求めて莞爾にひっついて離れない。


「電気消すぞ」

「おやすみ、カンジ殿」

「おう、おやすみ」


 隣でくっついているのに、電気を消す前に必ず「おやすみ」と言い合って寝る。横になって暗闇に目が慣れてくると、お互いの顔が見えてくる。そうしてどちらともなく顔を寄せて、口づけを交わす。


「むふふっ……」


 寝る前だけ、暗闇で見えないからかクリスは少しだけ甘えてくる。それがなんだか愛しくて、今日は中途半端に酒が入っているせいか彼女の匂いにくらくらしてしまう。


 純情少年ではないが、約束は守らねばならぬ。男のヒステリーはみっともないだけだ。


 しかし、不幸なことにこんな日に限って、クリスはいつも以上に甘えてくる。もう一回と言わんばかりに顔を寄せて自ら口づけをした。

 そこで止まらなければならないのに、どうしてかもう少しだけと欲張って、莞爾も彼女を抱きしめる。


 何度も口づけを交わしているうちに、抑えが効かなくなってくる。そうして思わず熱烈な感情が発露して、クリスを驚かせてしまった。


「むにゃっ!」


 その反応に熱っぽい官能が急速に沈むのがわかった。

 莞爾はくすくすと笑う。軽く噛まれた唇をそっと撫でて言う。


「まだお子ちゃまには早かったな」


 そう冗談めかしてみたものの、いつもなら「お子ちゃま扱いするな!」と反論が返ってくるはずなのに、今日に限っては返ってこない。


 なぜだ。やめろ、言ってくれ。じゃないと止まれない――そんな風に期待するが、クリスもずっと一緒に寝ているせいか、少しずつ開花していたらしい。


「その、今のは初めてで、お、驚いた、だけだぞ?」


 ぎゅっと莞爾の背中に回ったクリスの手に力が入る。


「カンジ殿が望むなら、もう少し、その……」


 莞爾は数秒逡巡して思いを断ち切らんと彼女の額に自分の額をごつんとぶつけた。


「むきゃっ――」

「さっさと寝ろ。明日も早いんだから」


 無理やり仰向けになって布団をかぶる。額をこすりながら、クリスは苦笑し、やっぱり莞爾にくっついて目を閉じる。


 彼の鼓動が珍しく高鳴っているのが、どこかうれしく感じられた。


「しんどいにもほどがあるだろ、これ」そんな弱気なことを内心で呟いて、莞爾は時計の秒針の音に耳を澄ませた。


※追記

おかげさまで期間中受賞を賜りました。

詳しくは活動報告に記載しております。

ありがとうございます。

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