1月(2) 下・少年の狼狽と大人の思惑
お待たせしました。
前話からサブタイトル変更して、上下セットにしています。
――とんだ里帰りになってしまった。
嗣郎の長男・次男夫婦は嗣郎の突然の入院に対して、動揺を隠せなかった。
先に次男夫婦が帰り、長男家族が二日帰宅を延期した。この際だと言うことで、スミ江の言うことを聞いて一彦と平太が親子揃って使い走りにされていた。
様子を伺いに莞爾が訪ねると、スミ江は病院にいて長男家族が家に残っていた。
「今回は軽かったから良かったそうだ。次はどうなるかわからないと……」
実家の座敷に莞爾を迎えて、一彦は長いため息をついた。あれから酒は一滴も飲んでいない。もしものことがあったときに迅速に動くためだ。
一彦は白髪の増えた頭をがしがしとかいた。
「まあ、ほら。うちの親父も年だからな」
直接的な原因は色々と説明を受けたが、とどのつまり「老人ゆえの定め」とでもいうべきもので、一彦は医者から相当なお叱りを受けた。
「やっぱりおれのせいだな。酒を飲んで余計な一言を口走った。ありゃあ親父も怒って当然だ」
黙って聞いていた莞爾も、一彦の猛省している様子を見て慰めの言葉はかえって余計だと口をつぐむ。
「カン坊にも迷惑かけたな」
「……迷惑ではないけど、驚きはしたよ」
この状況を迷惑だと思うような薄情さはさすがにない。莞爾とて嗣郎が心配でたまらないのだ。
「明日、見舞いに行くんだろ? 気遣わせたな。悪かった」
「いやいや、俺も色々用意するものがあったしな」
莞爾にとって嗣郎は義理とはいえ伯父である。日頃から近しい関係を築いている。けれども、それとこれとは別である。まずは一番血縁の近い従兄弟の邪魔にならないように配慮し、そののちに適当な見舞金を持参するのが筋だった。
本当はすぐにでも会いに行きたかったが、場合によっては伊東家にとって身の恥となる話も出たかもしれない。そういうことは先に察して様子を見るのが鉄則だと莞爾は亡き両親から学んだ。
「退院は?」
「一応半月は様子見で。毎日味の濃いもんばっかり食っていて血圧も高いからな。さぞや病院食は不味くてたまらないだろうな」
「嗣郎さんは大の病院嫌いだから」
「だから、今度のことが起きたんじゃないか」
やや憤慨して答える一彦だったが、すぐに目を伏せてため息をついた。
「いや、違うな。やっぱりおれのせいだ。おれがもっと顔を出して、日頃から親父やお袋の体調を気遣っていれば、こんなことにはならなかった」
「自分を責めるのは良くないって。こういう言い方はどうかと思うけど、嗣郎さんはもう何が起きてもおかしくない年齢なんだから」
「そりゃあお前、覚悟はしてるけどな……いつまで仕事してるんだって心配になるだろ? 畑仕事は力仕事もあるし、一人で畑行くから見てる人間もいない。やっぱり老人ホームが一番いいと思うんだよ。でも、それはそれでどんなもんかなあと思うわけだ」
今まで仕事を生きがいにしてきた嗣郎から、畑仕事を奪ってしまってはどのような影響が出るかわからない。果たして老い先短い余生を施設の屋内でぬくぬくと過ごさせることが、本当に嗣郎にとってより良い最期かどうかわからなかった。
「長生きはして欲しい。けど、もう八十五だし、本人がいつ死んでも構わないっていうぐらいなら、家で畑仕事させてる方が幸せなのかもなってなあ」
座敷の襖が開き、一彦の妻とその後ろには平太がいた。二人分のお茶が卓上に置かれ、莞爾は礼を言って口をつけた。一彦の妻は襖の奥に消えたが、平太は残った。
「物は相談なんだが」と一彦は話を区切り「会社を立ち上げるんだよな?」
莞爾は小さく頷いたものの、ため息をひとつついて言った。
「一応そういう話があがってるってだけさ。まだ確定はしていない。クリアしなきゃいけない問題がいくつもあるんだ」
一彦は「そうか」と言って平太の方に顔を向けた。そうして彼を手招きして隣に座らせると「非常に申し訳ない話なんだが」と前置きをして話した。
「うちのバカ息子、面倒見てくれないか?」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声を出した莞爾だったが、訳を聞くよりも先に平太が頭を下げた。両手をつき、額を畳にすりつけんばかりの勢いだった。
「カン兄ちゃん――いや、莞爾さん! お願いします! 俺を雇ってください!」
緊張のせいか声が震えている。莞爾は「どうしてこうなった」と首を傾げて、しばらく考えを巡らせた。
ややあって、業を煮やしたのか平太は切り出す。
「父さんも、叔父さんも仕事があってこっちに戻ってくる機会が少ないし、いくら近いとは言っても、やっぱり傍で見守る人がいると思うんだ」
「それで、こっちにお前だけ引っ越して俺んところで働こうって?」
顔を上げて大きく頷く平太の顔を見て、莞爾は盛大なため息をついた。
「平太、お前わかってて言ってるのか? 農業だぞ? 今の状態だとほぼ年中無休だ。それに力仕事だし、そうかと思えば細かい作業もある。毎日汗と泥にまみれるような仕事なんだが……それでもいいのか?」
「仕事に貴賤はねえよ! じいちゃんがやってた仕事を嫌がる理由がないだろ?」
得意げな顔で言う平太に莞爾はふんっと鼻を鳴らした。
「殊勝なこった」
そこで一彦が口を挟んだ。
「こいつもまだ卒業してないから、四月からってことになるが――」
平太は一彦の言葉に被せるようにして言う。
「卒業式が終わったら、三日以内に」
どうやらそれほどまでに嗣郎が心配であるらしい。莞爾も半ば呆れ気味に尋ねた。
「お前、本当にそんな簡単に将来決めていいのか? 言っておくが、別に会社やるって決まったわけじゃないんだぞ?」
「そんときはじいちゃんの手足になって働くよ」
「いや、俺が言ってるのはそういう話じゃなくて」
なんと言えばいいのか、莞爾は頭を唸らせた。こういうときに弁舌が立たないのが悔やまれる。上手い言い回しが出てこない。
しかし、父親である一彦の手前、親族とはいえ口には出しにくいこともあった。
「その、なんていうか、上手い言い方が見つからないんだが……お前はまだ十八だろ? このあたりは言うまでもなくど田舎だ。待遇の良い仕事なんて滅多にない。嗣郎さんの手足になるって言っても、家庭菜園とは違うんだぞ? 教えながら、なんて嗣郎さんも大変だ。仕事する暇がなくなっちまう」
暗に「かえって迷惑になる可能性もある」と伝えた。
すると、平太は全く意に介さず言った。
「俺、根性あるよ」
莞爾は若干の苛立ちをため息と一緒に吐き出した。
「……とりあえず気持ちはわかった。それで、兄さんはどう思ってるんだ?」
どういうつもりで未来ある若者を田舎にやろうとしているんだ、と視線で訴えた。一彦はお茶で唇を濡らして落ち着いた声音で言った。
「一体何がいつどこで役に立って、自分の道が拓けるものか、そんなことは誰にもわからんだろう」
妙に達観した言葉で、一彦は頬をぽりぽりとかいた。
「親としては、大きい会社で歯車になってもらうのが安心ではあるんだが、今どきそれもどうかとも思うし、やりたいようにやらせてみて、それで失敗したらそれもまた教訓にはなるだろう」
莞爾は頷いたものの反論した。
「そうは言っても、教訓にされる側はたまったもんじゃないな」
「そりゃあごもっとも。だから――」
一彦は平太の首根っこを掴んで押さえつけた。自然、平太は額を畳にぶつけることになった。
「親戚だからって甘やかさなくて結構だ。引っ叩いても殴っても蹴り回そうと文句は言わせん。小間使いでもいい。カン坊の仕事ぶりを叩きこんじゃくれまいか」
莞爾はため息を禁じ得なかった。
もちろん仮に平太を雇ったとしても暴力を働くつもりは毛頭ない。じゃれ合う程度のことはあるかもしれないが、よその子を本気で叩くような性根は持っていない。
けれど、一彦が平太を莞爾に預ける以上「文句は言わせん」という覚悟は相応しいものだった。親族だからこそ、厳しく教育してもらわなければ示しがつかないのだ。家業であれば、一旦外に出して荒波に揉まれてこいと言うところかもしれない。
「この通りだ」
一彦は平太を押さえたまま、自らも頭を下げた。従兄にお願いされては莞爾も断りにくい。
しばらく考え込んでいたが、莞爾はため息とともに「わかった」と告げた。
「けど、条件がある」
手を離されて顔を上げた平太が赤い額をこすりながら聞き返した。
「条件?」
「ああ、条件だ」
莞爾は平太に尋ねた。
「成績、学年で何位だ?」
「げっ、言わなきゃダメかよ」
「参考にならんから教えろ」
「……正確にはわからねえけど、下から数えた方が早いかな」
「学年全体で何人いるんだ?」
「ざっと三百人ちょっと」
首を傾げる平太だったが、一彦はすでに察しがついたようだった。
莞爾は言う。
「よし、じゃあもうそろそろ期末試験だな」
「一応来月の終わりにあるけど……」
平太もようやく察しがついたのかうんざりしたような顔をしていた。
「百五十番以内に入れ。条件はそれだけだ」
一彦は「まあ当然か」と気にした素振りはない。
莞爾としては高校卒業と同時に働くのだから、と勉学を疎かにしてもらっては困る。勉強はいつでもできるものだが、働き始めるとそう簡単ではないことを知る。
無学を思いもしなかった場面でさらして赤っ恥をかくことだってある。高卒だからと侮られることだけは許容できないし、また平太に「自分は馬鹿だから」と思ってほしくなかった。
平太は目を細めて抗議した。
「ちょっと待ってくれよ。一応進学校なんだぜ? それで、俺は落ちこぼれなんだ。周りの奴らは有名大学受験するような奴らだし、今の時期なら俺が百五十番以内に入るなんて土台無理じゃねえか」
「無理かどうかはやってみてから言え。それと、お前は入社試験って言葉を知らんのか?」
「は?」
「自社でやってるところもあるし、委託してるところもあるが、ある程度の教養と学力でふるいにかけるんだ。そんなの常識だろ?」
つまりは平太の期末試験が入社試験だった。
平太は「それはおかしい」とさらに反論した。
「だって、畑仕事だろ? そりゃあ生物とか化学とか地理とか、そういうのは役に立ちそうな感じはするけど、数学とか国語とか英語なんて必要ないじゃんか」
「そりゃあお前が農業を無学でもできるって馬鹿にしてるから出てくる言葉だな。そんなやつはいらん。いくら親戚でも面倒見る気にはならん。だいたい勉強以外でどうやってお前を判断すればいいんだ。何か人にはできない強みがあるのか?」
莞爾の言も当然である。平太は拗ねたように口先を尖らせた。莞爾は呆れ混じりに言う。
「別に俺んところで働かなくたって、就活しながら嗣郎さんの手伝いするって手もあるじゃねえか。さっきも言ったけど、会社の件はまだ決まりじゃないんだぞ?」
「それは……」
平太は出かかった言葉を飲み込んで沈黙した。怪訝に眉根を寄せる莞爾に、一彦はため息を漏らして口を挟んだ。
「それなんだが、うちの親父がカン坊に聞けって言ったんだよ」
「はあ? いつ?」
「つい昨日のことだ。それで親父がいない間畑の様子見てくれないかって頼んでたんだが――」
「それはきっとそうなるだろうって思ってたから別にいい。そんなことはどうでもいいんだ。それよりも、どうして嗣郎さんが俺に聞けって言ったんだ?」
「自分じゃ甘やかすから、だそうだ」
莞爾はずっこけそうになった。
さすがは孫思いの爺やである。
きっと自分が一緒にいて教えてやりたいと思っているはずなのに、平太のためを思って突き放したのだろう。
この先農業で食っていけるかどうかも未知数で、会社も上手くいくかどうかわからない状況にある。そんな中で進学も就職もしないという孫をどうしたものかと考えた末の結論だったのかもしれない。
「どうせやるなら身内じゃなくて他人の飯を食ってこいってことだそうだ」
かわいい子には旅をさせよ、とも言うが、なんとも近すぎる旅である。一応莞爾も身内ではあるのだが、平太に厳しく教育するという点においては確かに他人の飯なのだろう。
ともあれ、莞爾は平太に厳しい条件を突きつけたのだから、嗣郎の読みは当たっていた。
「せめて二百番以内にならねえ?」
平太は悪あがきとばかりに言い募る。しかし、莞爾は首を横に振るだけだ。
「適当な気持ちでやられたら、こっちが困る。お前はただのアルバイト感覚かもしれないが、こっちは生活かかってるんだ」
「アルバイト感覚ってわけじゃねえよ」
「じゃあ、無給でもいいからノウハウ学ぶために働かせてくれって言うだけの覚悟があるか?」
「それは……ねえけど」
莞爾とてただ働きさせるつもりは毛頭ない。意気込みの問題だ。すでに会社として成熟しているならばまだしも、これから立ち上げようという草創期において生半可な覚悟の人間なんて邪魔でしかない。
「じいちゃんが心配だって気持ちもわかる。けど、それで人生決めてたんじゃじいちゃんも悔やむだろ? だから俺のところに頼れって、そういう話になったんじゃないのか?」
「それはそうかもしれないけど……」
「けど、なんだ?」
平太は沈黙した。煮え切らないでいる。莞爾は現在人手を欲している状況だと嗣郎から聞かされていたし、嗣郎本人も「歳で畑作業がきつい」と言っていたばかりだ。自分ほど若い男ならば体力を買われて楽に働き口を見つけられるだろうと思っていた。
甘えたいわけではなかったが、親族だからこそどこか簡単に構えていた節があるのは事実だ。
莞爾はお茶を飲み干して小さく息を吐くと平太をまっすぐ見据えて言った。
「兄さんの手前申し訳ないが、もう一度考え直せ。まだ十八だから時間に余裕があるとか、失敗してもやり直せるとか、そんな風に甘く考えているなら言語道断だ」
最初の勤め先というものは、のちのち転職を考えた際に大きな影響を及ぼすはずだ。嗣郎をして個人の手伝い程度では時間の無駄だと思わせるには十分だ。それもあって正社員として春から莞爾のもとを頼るように言ったのだろう。
莞爾も嗣郎の考えを察して平太にはそう言うしかなかった。
平太が自分のもとで働くことに嫌な気分はしない。むしろ若いうちから興味を持って働くのはいいことだと思っている。しかし、彼の将来を考えたとき、嗣郎や一彦の思いも考慮に入れると、平太自身にそれだけの「意志」があるかどうかが問題だ。
言葉を失った平太から視線を移し、莞爾は一彦に頭を下げた。
「そういうことだから」
暗に面子を潰してしまったかと視線で尋ねたが、一彦は澄ました顔でいかにも「いい薬だ」と言いそうな顔をしていた。
平太としても予想外だったのだろう。今は何も考えられないと言った顔つきで、うつろに視線を彷徨わせていた。
小中一貫校で育ち、そこでは成績もよかった。自惚れて高校は進学校に入学したものの、周りは秀才ばかりで平太はすぐに落ちこぼれになった。勉強では上にいけなかったが、それでもどこか甘えていたのだ。
これといった努力も苦労もしてこなかったし、恵まれた環境で育ったせいか身を削るような体験など一度もしたことはない。「なんとかなる」が口癖のような十八歳である。青年とでも呼ぶべき年齢にあって、まだまだ少年でしかない。
莞爾は伊東家を後にしたが、一彦とその妻は見送りに出たものの、平太は出てこなかった。
***
翌日。
莞爾はクリスを助手席に乗せてラングレーを走らせていた。
目的地は大谷木町の総合病院である。
道中、クリスは窓の外を興味深そうに眺めていた。
何度か見る機会は増えたはずだが、それでも興味は絶えないらしい。
「田舎だろ」と莞爾は言う。「東京に比べれば大谷木町も田舎だろ?」
するとクリスはくすりと笑って答えた。
「ミツヤマ村に比べれば都会かもしれぬ」
「そりゃそうだな」
大谷木町は大部分が田畑だが、南側は住宅地も多くあり、それなりの活気があった。
「カンジ殿、あの車、前にシメナワがついているぞ」
ちょうど赤信号で止まったところで窓の外を指さしてクリスは言う。
ときどき車に注連縄をつける運転手もいる。莞爾は適当に「そうだなあ」と相槌を打った。
しばらく走り、葬祭場を右手に見て、その奥に総合病院が見えた。
病院と葬祭場と癒着しているような配置である。ガードレールの傍にはなんだかよくわからない団体のよくわからない横断幕が貼られていた。
総合病院の駐車場にラングレーを止め、クリスを連れ立って自動扉を抜ける。クリスは未だに病院が苦手だ。莞爾の腕をつかんで離さない。自然と待合に座った老人らの視線が集まる。クリスが莞爾にくっついているのは人目が集まっているからでもあるようだ。莞爾はもはや慣れたもので気にせず受付に向かった。
受付で嗣郎の病室を尋ね、それから奥の階段を使って病室に向かった。
「えっと、三○六号室……あった。ここだ」
長い廊下は床材が蛍光灯を反射して、心なしか無機質な印象を与えている。アルコール消毒液の匂いが鼻についた。
嗣郎の病室は個室ではなく相部屋だった。
イヤホンをつけて大音量でテレビを見ている老人や、口を開けたまま寝ている老人、それから世話をしに来た女房に文句を垂れている老人、いろんな老人がいた。田舎の総合病院の病室なんて基本的に老人ばかりである。
適当に会釈をしながら部屋に入ると、窓際のベッドにあるカーテンの隙間からスミ江の姿を見つけてそちらに進んだ。
「嗣郎さん?」
声をかけてカーテンの隙間からひょっこり顔を出すと、嗣郎は口をもぐもぐさせながら片手をあげた。スミ江は「いらっしゃい」と立ち上がる。
「あー、そのままそのまま」
勝手知ったる間柄とはいえ、莞爾はきちんと見舞いの挨拶を済ませて、道中で買った菓子折りと見舞金の包みをスミ江に渡した。
嗣郎は一彦が置いていったというみかんを飲み込んで言う。
「迷惑かけたのう。すまんかった」
「それは別にいいですよ。それより具合は?」
「わしゃあ医者じゃないからよくわからんかった」
嗣郎はそういう男なのである。どうにも医者というものが胡散臭いもののようにしか思えない人種である。かたやスミ江はと言えば、田舎の老人らしく医者と聞くだけで「ははあ、すごいお方ですねえ」と頭を下げてしまう。
どちらかと言えばスミ江のようなタイプが多いので、田舎の医者というものは年をかさむほどどこか偉そうな雰囲気を出しているのも事実である。そういうこともあって嗣郎は病院が嫌いなのである。
嗣郎に聞いても仕方がない、とスミ江に話を振ると、スミ江もよくわかっていなかった。なんでも若い医者が説明してくれたらしいのだが、専門用語が多く半分も理解できなかったらしい。
クリスのときもそうだったが、相手が説明しても理解してもらえない状況では医者側も大変だ。下手をすれば訴訟になる可能性もあるのだから、医者もずいぶんリスキーな仕事だ。
「――じゃあ、血圧高いのが原因ですか」
「まあ、そんな感じだったかしらねえ」
スミ江は呑気に頬に手を当てて苦笑いをしていた。嗣郎が無事だったこともあってほっとしている部分が大きかった。
「手足のしびれとかは?」
「あってもおかしくないとは言われたんだけどねえ、幸いそれはなくって」
「そう、ですか」
最悪寝たきりの生活になる可能性もあった。莞爾はほっと胸をなで下ろした。八十五歳にもなって歩けなくなると、もうあとがない。あっという間に生気が薄れていくものだ。
「まあまあ、立ったままもあれだから、どうぞお座りなさいな」
スミ江は壁際のパイプ椅子を指さして促した。莞爾とクリスはそれを引き寄せて広げたが、クリスはその構造に驚きつつ腰を下ろした。
莞爾は尋ねた。
「畑見ろってやつ、一彦兄さんから聞きましたよ」
嗣郎は大きく頷いて言った。
「すまんが、頼めるかの?」
「ええ、まあ。だいたい予想はついていましたし、月末前までは少し余裕もありますから。何か出荷予定とかあります?」
「ニンジンじゃな。来週からの予定じゃった」
嗣郎も年々育てる野菜の数が少なくなっている。単純に体力が持たないのだ。
「出荷先は農協ですか」
「うむ。瓜生とかいう若いのに連絡してある」
「瓜生?」
「四、五年前に農協のセミナーに来とった。出荷だけ頼んだんじゃ」
嗣郎はときどき現役農家として登壇をせがまれることがあった。
「はあ。じゃあ、ものだけ用意しておけばいいんですか」
「そうじゃそうじゃ」
嗣郎も莞爾が忙しいのを知っているから、余計に手間を取らせたくなかったのだろう。収穫して包装までして、それから先は瓜生何某に任せる手筈だ。
莞爾はそれを了解して話を変えた。
「それで、平太のことですけど」
「突っ放したんじゃろ?」
嗣郎はどこ吹く風で尋ねた。莞爾は曖昧に頷いて謝った。
「すみません」
「カンちゃんが謝ることじゃなかろうて。ぜーんぶ、平太が甘えておったせいじゃろ」
わしにとってはかわいい孫じゃが、と嗣郎はため息をついた。
「一彦から聞いた。本人は頓珍漢なことを言っておった」
今朝方帰宅前に長男家族が来たらしい。
「頓珍漢?」
「カンちゃんにクリスちゃんがおるから、年の近い平太がおると嫉妬するからじゃなかろうかとか」
「馬鹿らしい……」
莞爾は人伝に聞いた平太の言葉を一笑に付した。そんなことはこれっぽっちも考えてはいなかった。純粋に平太の今後を考えていただけだ。
ともあれ、そのようなことを言っているようでは莞爾のもとで働く意欲などなくなってしまったのだろう。
けれど、どうやら莞爾の予測は外れたらしい。
「見返してやると言っておったのう」
「平太が、ですか」
なんでも早く勉強したいからさっさと帰ろう、と半ば嗣郎を放置する勢いで両親を急かしていたらしい。
それを聞いて莞爾は思わず笑った。嗣郎が心配で決意したくせに、これでは本末転倒もいいところである。
先ほどから話についてこれなかったこともあって、クリスは莞爾の腕を引く。
「むぅ、どういうことなのだ?」
「ああ、悪い悪い。実は――」
莞爾はクリスに平太が春から莞爾のもとで働きたいと言っていたことを話した。
クリスはふむふむと聞いていたが、聞き終わると腕を組んでしばらく考え込んだ。
ようやく口を開いたが彼女は「よくわからぬ」と言った。
「人手が増えるのだろう? それにヘイタは若いからいくらでも働けるはずだ。多少賃金を渡すにしても、ツギオ殿のもとで住み込むのだから、そこまで多くの金を渡す必要もなかろうに」
嗣郎は苦笑し、莞爾は「そういう問題じゃないんだ」と言う。
「仕事が見つかるまでアルバイトさせてくれって言うならまだ話はわかる。けど、あいつは『雇ってくれ』って頭下げたんだ。普通に考えたら正社員として、だろ」
そうでしょう? と莞爾は嗣郎に視線を向ける。嗣郎は大きく頷いて言った。
「会社するなら、うちの畑もその会社を通じることになるからのう。わしの手伝いだけと単純な話でもない。それなら正社員で雇うのがいいんじゃ。会社としては不利じゃが、平太にとってはそっちの方がよかろうて」
正社員が優遇されるのは当然である。
しかし、平太が使い物になるまで教育するとなれば、はっきり言って莞爾や嗣郎にとって平太は金食い虫にしかならない。
身内であるからこそ、正社員として働いて欲しいのだが、その一方で正社員として働くならばそれなりの熱意を見せろ、というのも仕方がない。
矛盾しているように見えて、極めて正常だった。
「いつか辞めるって決めてる人間を雇うほど、うちには余裕がないんだよ」
莞爾は肩を竦めて言う。クリスは「そんなものか」と不思議そうに視線を天井に向けた。
それにしても学年で半分より上の順位にまで成績をあげろ、というのはさすがに厳しい条件だと嗣郎は言う。莞爾の言うことももっともだとは思っていたが、孫思いであることに変わりはなかった。
「働き始めてもどうせ苦労するんじゃぞ?」
「苦労の質が違いますから」
勉強に苦しむことと、仕事で成果が上がらずに苦しむこととでは、明らかに性質が違う。
努力や工夫では回避できない失敗は絶対に存在する。けれども、勉強であれば必ず成果として現れる。努力した分だけ自分の成績に影響するのだ。
自分は落ちこぼれだと思い込んでいる人間に、「お前はやればできる」と言ったところで意味がない。莞爾も荒療治だとは自覚している。けれども、追い込んで結果を出してみろ、としか言いようがなかった。
その上で――
「案外いい成績出して、一年浪人して進学するって言い出してもいいですし、失敗して過去の怠慢を嘆くのも、まあいい教訓になるでしょう?」
どちらに転んでも損はしないし無駄にもならないのだ。きちんと結果を出した上で改めて「雇ってくれ」と言うのならば、それなりの自信にもつながるだろう。
「どのみち、うちで働くなら夜間なり通信なりで勉強させるつもりでしたし」
「ふむ」
年寄りは「苦労は買ってでもしろ」という。役に立たない苦労をしても意味がない。暗に勉強しろと言っているのだ。中には自分と同じ苦労をしろと時代の変遷を妬むものもいるが、そんなのは一握りだ。
とにもかくにも、平太が「見返してやる」と勉学に励むのは望むところだ。
話は変わり、しばらく談笑しているとスミ江が尋ねた。
「クリスちゃんったらカンちゃんにべったりねえ」
「むっ!」
すぐに莞爾の腕を離したクリスだったが、やはり落ち着かないのかすぐに莞爾の腕を取った。
やれやれ、と莞爾はため息混じりに誤魔化した。
「実は、クリスは病院にいい思い出がないんですよ」
「それは……」
スミ江は言いかけて、クリスが無理に笑顔を作っていることに気づいたのか尋ねるのをやめた。
「なんだか悪いことを聞いちゃったねえ」
「我ながら不甲斐ないとは思うのだが……」
どうにか今まで自制していたが、一度思い出してしまうとクリスも緊張を隠せなくなった。そわそわして、莞爾の腕をとる手にも力が入った。
「……大丈夫か?」
以前自衛隊病院に定期検査に行ったときは平気だったのに、と莞爾は不思議に思った。しかし、実際にクリスをずっと見ていたわけではなかった。自衛隊病院では穂奈美がずっとクリスの傍にいたので、莞爾は自分の目でクリスの様子を見ていたわけじゃない。
するとクリスは言う。
「いや、その、ツギオ殿の注射のあとが……」
「これかの?」
嗣郎は浴衣の袖をめくって肘の内側を見せた。するとクリスは息をのんで莞爾の腕にしがみついた。
「嗣郎さん、ちょっと隠して」
「お、すまんの」
どうやらクリスはちらちらと視界に入っていた注射痕が気になってしまっていたらしい。よほど痛い思いをしたのだろう。
「注射、やっぱり怖いのか」
「むぅ。あれはさすがに慣れないぞ。ジョウミャク注射とやらはまだ我慢できたのだが……」
先端恐怖症というわけではないが、注射を連想するとどうしても体が強張ってしまうのだという。
「あらあら、まるで平太みたいねえ」
スミ江がくすくす笑って言った。
「ヘイタ?」クリスが聞き返すとスミ江は頷く。
「ええ、そうよ。平太は小さいころから注射が苦手でねえ。看護婦さんの前でびゃあびゃあ泣き叫んでいたのよねえ。今でもきっと内心では泣きべそかぶっているわねえ」
「なるほど。あのヘイタが」
調子のいい平太が注射を前にして必死に我慢しているところを想像すると、どうしてか恐怖よりも少し面白味が勝った。
「スミ江さん、看護婦じゃなくて看護師ですよ」
「あらあら、そうだったねえ」
指摘されて適当に流すあたり、スミ江は訂正する気が全くなかった。明日には覚えていないだろう。
スミ江は言う。
「男の平太でもあれだけ怖がってるんだから、クリスちゃんが注射怖くても全然大丈夫」
「むぅ……克服せねばならぬと思うが、やはり怖いものは怖いのだ」
「だから、あんまり気にしちゃだめよ。人生長いんだもの、死ぬ頃には平気になってるわよ」
ずいぶんと気が長い話である。
「わたしも昔は怖かったけど、年取ったらむしろ注射してもらった方が元気なくらいだもの」
スミ江は腰痛がひどくなると注射のために病院に行く。
クリスは驚いて「そ、そうなのか」と半ば我を失った様子だった。
「に、ニホン人は痛みに強い、のだな」
「いや、クリス。変な勘違いするな」
かく言う莞爾も奥歯が抜けそうになっているのに気合で我慢した男である。
クリスが怖いと思っているのは「太い」注射である。救急搬送されて採血されるときのアレだ。場所によっては意識が飛びそうなくらい痛い。
「みんな痛いのを我慢してるだけだから。あと看護師によっても上手い下手があるからな」
「そ、そうなのか?」
「ああ。下手なやつに当たったら何回もやり直しになるからな……」
「むへぁー……」
心底嫌な顔をして、クリスは自分の体を抱くようにして両腕をごしごしと擦った。嫌な思い出を掘り返してしまったらしい。やはり気配りのできない男である。
すっかり話し込んでしまい、病院を出たのは夕刻だった。
車に乗り込んでもまだ寒い。走り出した車の中でさえ息が白くなった。
「ツギオ殿、元気そうだったな」とクリスは言う。
莞爾は「ああ」と頷いてしばし考えて言った。
「ひょっとすると、そういう覚悟があって孝一兄さんの話に賛成したのかもな」
「というと?」
嗣郎がもし亡くなれば、嗣郎が管理している土地はスミ江と兄妹が相続する。宅地については全く問題にしていない。問題は農地である。相続自体は問題ないのだが、そのあとに管理の問題が出てくるのだ。
誰も耕作せずにいると、耕作放棄地になり固定資産税は高くなるし、場合によっては手放す羽目になる。そこで嗣郎は孝一の農業生産法人を作ろうという案に乗った。
土地の所有権を維持したまま、耕作放棄地にしないこと。この二つを叶えるための選択だった。
クリスは首を傾げ尋ねた。
「それならば小作人を集めて頼ればよいではないか。ニホンには小作制度はないのか?」
「あー、小作人な。昔はあった。今もまあ形を変えて存続しているといえばその通りなんだが……」
時代は変わったのである。ひと昔前は畑を「貸してくれ」だったのが、今となっては「使ってくれ」である。
そういう放棄地を集めて農業を大々的にしている農家もいる。むしろ今までの日本農業が全国的(北海道を除く)に小規模だっただけの話だ。
「まあ、そういう事情は少しずつ教えていかないとわからないよなあ」
「そうだぞ、面倒だと適当にされては私が困るではないか。文字も未だによくわからぬというのに」
「悪かったよ。今度からはきちんと説明するからさ」
「だいたいニホン語は難しすぎるのだ。なんなのだ、なぜ文字が三種類もあるのだ。平仮名と漢字はまだわかるぞ。だが、なんなのだカタカナは! 異言語ではないか! 昼食なのにどうしてランチになるのだ。そこは昼食でよいではないか。コメなのにライスとはどういうことだ。意味がわからぬぞ!」
英語も知らない外国人が日本語を学ぶとこういうことになるらしい。
莞爾は苦笑して「確かにその通りだ」とハンドルを回した。
寒空の中、ラングレーは駆けて行く。窓から差し込む西日も、いつの間にか車窓には紫色のグラデーションが飾られた。
ふと莞爾は言う。
「実感湧かねえよ」
「むぅ?」
不思議そうに尋ねるクリスに、莞爾は小さく息を吐いて言った。
「俺も、平太と一緒だよ。嗣郎さんがいつまでもいるもんだと思ってた。そりゃあいつかは死ぬって覚悟はしていたさ。けど、少なくとも今じゃないと思ってたから」
ややあってクリスがしみじみと呟くように言った。
「平和、だな」
その一言で、彼女の言わんとすることを察した莞爾は「そうだな」と頷いた。
実際には十八歳であるクリスの方が、きっとたくさんの「死」を見てきたのだろう。それも老衰というある種幸福なものではなく、凄惨で惨憺たるそれを。
思えば、クリスの死生観を莞爾は理解していなかったし、聞いたこともろくにない。興味はあるが、一方で聞くのが怖かった。
クリスも日本に転移して当初のころは祖国のことについてよく語ることが多かった。けれど、最近はそれも減った。祖国と日本とでは政治体制も環境も文化も何もかも違う。そして何より平和だ。
人々は平穏を当然のように享受し、日々の経済活動に勤しみ、家庭をもち、子を育み、社会の一員として末端の幸福を受け入れている。それが悪いこととは決して思わない。むしろ羨ましく感じることが多かった。
自分もその一員になろうとしている。それがなぜだか実感が湧かない。未だに幸せになってもいいのだろうか、と心の片隅にしこりが残っていた。奇妙な熱に浮かされているような、そんな疑念を追い払うことができなかった。
頭を悩ませているクリスに莞爾は尋ねた。
「話は変わるけど、まだ病院慣れないか?」
クリスはハッとして苦笑交じりに頷いた。
「そう、だな。慣れぬ、というかやはり苦手だ」
どうしても検査と称して隔離されていたことを思い出す。防疫服を着た医者や看護師はこの世のものとは思えなかったし、自分が何をされているのかもわからなかった。腕に針を刺され、意味の分からない轟音のする機械に通されたこともあった。
「トラウマになってなければいいんだけどな」
「トラウマ?」
「たしか、心的外傷後ストレス障害ってやつ」
「なんだ、その長ったらしい病名は」
「ようするに辛い出来事があとになっても尾を引いている状態って言ったらいいのかな。忘れていたのに突然思い出して不安に駆られるとか錯乱するとか」
そういわれるとようやくクリスにも納得できた。前線から帰ってきた兵士によくある症状だったからだ。
「確かにそうなのかもしれぬ」
莞爾はふとハンドルから片手を離してクリスの手を握った。
「どうした?」
不思議そうに尋ねるクリスに莞爾は決まりが悪そうに苦笑する。
「別に意味はないけど……不安そうな顔をしていたからさ」
この男は、とクリスは彼と同じように苦笑した。以前はもっとぶっきらぼうだったくせに、気持ちを確かめ合ってから先は惜しげもなく気遣ってくる。それが妙にいじらしくて、愛しくて、ときどき転げまわりたくなる。
莞爾の手は力仕事で節くれだった手をしている。剣を握る自分の手とどこか似ているような気がした。
彼に触れていると、自分に対する疑念や不安が少しずつ色褪せていくようだった。
「その、カンジ殿」
「なんだ?」
クリスは昏い車内で視線を莞爾の横顔に向けた。
「私がもし突然いなくなったら……どう、する?」
嗣郎が前触れもなく倒れたこともあって、クリスは不安に駆られた。それは自分自身が突然日本に転移したことも影響している。死別のみならず、もしかしたら今度は莞爾の前から突然いなくなってしまうのではないかと根拠のない疑念が生まれていた。
けれど、莞爾は笑って答えた。
「なんだよ、それ」
莞爾は笑みから一転真剣な顔つきで言う。
「消えてしまいそうなら、ずっとそばで手を握っておいてくれよ。俺は絶対に離さないから」
クリスは赤面した。
口説き文句に恥じらいを覚えたわけじゃなかった。
自分自身が彼の気持ちを疑っていたことを恥じた。
まるで自分ばかりが事あるごとに揺れ動いているような気がしてならない。彼の思いにも一度は応えたはずなのに、どうしてか不安を拭いきれないでいる。
クリスは莞爾の手をぎゅっと握った。