1月(2) 上・少年の狼狽と大人の思惑
お待たせしました。
伊東平太はいきなり頭を叩かれて我に返った。
「痛っ! ってか、カン兄ちゃん!?」
数年ぶりだがきちんと覚えていたらしい。どうやらクリスに心を奪われてしまっていただけのようだ。
「会って最初に殴るとか、暴力反対!」
「馬鹿たれ。叩いたうちに入るか。まずは挨拶だろうが」
「つーか、いたんだ。今知ったわ」
その辺りの礼儀には莞爾もうるさかった。頭を叩きはしたが、ぺちりとかわいい音がするようなレベルだ。さすがに親族といえどよそ様の子供を本気で叩いたりはしない。
「えーっと、あけましておめでとうございます。今年もお年玉よろしくお願いします」
「今年もって、去年も一昨年もお礼の手紙一通だって送ってこなかったくせに、何言ってんだ?」
「仕方ないじゃん! 父さんも母さんも教えてくれなかったんだよ! 昨日知ったんだぞ!?」
「はあ? じゃあ、もらってないのか?」
「うん。一銭もね!」
「そうか。そりゃあ災難だったな」
「ええっ! 怒らないの!?」
莞爾はため息をついて言う。
「なんで怒るんだよ。大人として付き合いでお年玉渡してるんだ。別にお前に金をやりたくてお年玉送ってたわけじゃねえぞ。親が知ってるなら別にいいじゃねえか」
「えー、けどその子どもからお礼の言葉もないってのはどうなのさ」
「それはダメだな。でもまあ、お年玉ってのは親の懐に入るものだと昔から相場が決まってるもんだ」
「マジかよ、大人って汚ねえ!」
大人は汚いのである。そんなものである。
莞爾は気を取り直して言う。
「そうだ。紹介しとく」
クリスを呼び寄せて平太の前に立たせた。
「彼女はクリスティーナ・メルヴィスさんだ。二十歳だ。変なことは言わないように」
平太は姿勢を正して頭を下げる。
「ど、どうも! 伊東平太です! よろしくお願いします!」
そう言って、なぜか右手を差し出した。クリスは意味が分からず「ああ、握手か」と思って彼の手を取ろうとしたが、大人げない婚約者が平太の手を叩き落とした。
「痛いっ!」
「変なことを言うなと言ったが、変なこともするな!」
「えーっ! 別に握手ぐらいいいじゃん!」
「いや、お前今絶対交際的な意味で手を差し出しただろ」
「ばっ、そ、そんなわけないし!」
「なんで目を逸らす。言っとくけど、クリスは俺の嫁だからな」
「は?」
ふと莞爾の後ろに視線を移せば、紹介されたばかりのクリスがほのかに頬を赤らめているではないか。まさか、そんな――平太は真顔で聞き返した。
「嫁? いや、何ボケちゃってんの? 全然面白くないんだけど」
「ボケてないし、面白いことを言おうとしたわけじゃないぞ。大まじめだ」
「マジ?」
「マジだ」
平太はもう一度クリスを見た。
金髪碧眼の美少女(20)がこんな三十二歳の冴えない男の嫁だとはすぐには信じられない。また自分が一目ぼれしてしまい余計な一言を口走ってしまったためになおさら信じられなかった。
しかし、どうだ。このクリスという女性は恥ずかしそうに視線を彷徨わせては照れているのか頬を緩めてしまっているではないか。
硬直する平太をよそに、クリスは苦笑して言う。
「ふふっ、ヘイタとやらは面白いな。これからよろしく頼むぞ。なにせ我々は親族になるのだからな」
そうして、今度はクリスが右手を差し出した。意味合いは明らかに含意のない「懇親」であった。
今度は莞爾も平太の手を叩き落とすことなどしなかったが、どこか不満そうだ。案外嫉妬深いのだろうか。いや、莞爾はもともとそんな性格ではない。平太がいきなり告白などするものだから、「人の嫁に何してくれてんだ?」という感情が渦巻いているのである。
「あっ、あの、よろしくお願いします」
二十歳であるならば平太からすれば年上である。
平太は三月に高校を卒業する十八歳だった。
クリスと握手を交わし、名残惜しくも手を離して、早すぎる失恋に実感が全く湧かなかった。
「で、なんで凧揚げなんかしてたんだ?」
莞爾が尋ねると、平太ははっと気づいて自らを誤魔化すように早口で答えた。
「いや、別に好きでやってたわけじゃないって。スマホも圏外だし、ゲームも持ってきてなかったからさ。じいちゃんが凧の材料ならあるぞって」
「それにしたって今風の凧じゃねえか」
「じいちゃんはゲームなんか知らないからさ。子供の遊びって言ったらベイゴマかメンコ、あとは凧揚げって連想したんじゃねえの? なんかわざわざ年末に買っておいたらしいよ」
「孫思いなじいちゃんだな」
嗣郎も孫はかわいいのである。
しかし、今どきの現代っ子にベイゴマやメンコ、凧揚げはハードルが高い気もするのは気のせいだろうか。
「ここらへんキャリアによっては電波つながらないからな。次来るときはゲームかなんか持ってきとけよ」
莞爾が言うと、平太はため息をついて首を横に振った。
「いや、それが無理なんだよねえ。うちの親って厳しいじゃん?」
「知らん。けど、なるほど。買ってもらえないわけだ」
「ザッツライ! マジでけちんぼなんだってば。カン兄ちゃんのお年玉が頼りだぜ!」
「んじゃ、大学生になったらアルバイトでもしろよ。別にやりたくないわけじゃないが、お年玉ぐらいじゃゲーム機買うだけのあてにはならんだろ」
「いや、大学行かねえし」
思わぬカミングアウトに莞爾は目を点にして尋ねた。
「なんだよ。高卒で働くのか? お前普通科高校だっただろ? なんか資格でも取ったのか?」
「いんやあ、なあんも」
「はあ? じゃあ、何かやりたいことがあったのか?」
「それがさあ、やりたいことって見つからないんだよねえ」
なるほど。現代っ子である。確かに十八歳のころにしっかりと人生設計を立てていた覚えはないが、それでも平太ほどに何も意識してなかったとは思えない。莞爾の場合は家の事情もあったし、彼自身勉強が身を助けるという意識がどこかにあったのだ。莞爾はため息をついて言う。
「やりたいこと見つからないなら大学行くのもひとつの手だろ? 別に学費出せないほど困窮してるってわけじゃないだろうに」
「いやあ、お父さんとお母さんはさ、普通に大学行って、いいところに就職して、それで家庭持って子供育ててって、それが普通の人生だから、普通に生きろって言うんだよ」
「まあ、一般論だけど、親はそういうもんだろ」
「そうそう。まあ、やりたいことがあるなら応援するからっても言ってくれてるんだ。だから別に大学行かないことに猛反対ってわけじゃないんだ。けど、そのやりたいことってのがさ」
「見つからないって?」
「そうなんだよねえ、悩ましいことにさあ。おまけに東京の大学で一人暮らしならやってもいいかなって思ったら、やりたいこともないのに県外の大学に通わせる余力はないってはっきり言われちゃってさあ」
莞爾はまたため息をついた。てっきり平太は春には大学生になって友人らと「うぇーい」とわけのわからないことを言う人間だと思っていたからだ。
しかし、十八歳の若造に「やりたいことはなんだ」と尋ねるのも酷な話である。十八年やそこらで人生の大半を費やす仕事を選べなんて言えるものではない。せめて勉強ができて有名大学卒業の肩書ぐらいが手に入るのならば少しは一人暮らしも考えてもらえたかもしれないが、動機が不純では親も了承しにくいことだろう。
たいていの場合、自分の思い描いていた人生とは全く違う人生を歩むものである。順風満帆な人生なんてない。予想外の連続である。
「じゃあ、受験勉強もしてないのか」
「まあねえ。俺ってばもともと頭悪いからさ」
「小中エスカレーターだったやつが何言ってんだ?」
「エスカレーターってか、一貫校だよ。高校で無理して進学校入ったのはいいけど、全然ついていけねえし、それまで自分は頭いい方だと思ってたけど、所詮うぬぼれてただけだったってわけ」
「あー、なるほど。上には上がいるとわかったわけだ」
「そうそう。なんつうの。こういうのを挫折っていうんだろ?」
「いや、それは挫折じゃなくてただの怠慢だな。就職は?」
莞爾は冷静に突っ込んだ。しかし、十八歳の社会を知らない少年にとっては十分に挫折でもある。
「就職……っていうかさ、俺のこととかどうでもいいんだよ。カン兄ちゃん、クリスさんと結婚するってどういうことなのさ」
「もう略称かよ……」
「いいじゃんか、細かいことはさ。ねえ、クリスさん?」
平太が馴れ馴れしく同意を求めると、クリスはくすっと笑って「ああ、構わない」と言った。
「ほおら、別にいいってさ」
「はあ、お前性格変わったなあ。昔は純粋で礼儀正しくて明るくて無邪気で、良い子供だったのに」
「そりゃあ大人の求める良い子供だろ? そんなもん押し付けんなって。それに俺ももう十八だぜ? あんまり子供扱いしないでくれよな」
「まあ、そうかもしれないけど……」
本当によその子はいつの間にか大きくなっているものだ。この前までエロ本を見せれば恥ずかしそうに目を隠していた少年がすでに選挙権を持っているのである。驚きを隠せない。平太はにまにまと顔を歪ませて言う。
「そんでそんで、どこで知り合ったの? 馴れ初めってやつ! うわっ、なんか結婚式の祝辞みたいじゃねえ?」
「何一人で盛り上がってるんだよ。話さねえぞ、そんな恥ずかしいこと」
「えーっ、別にいいじゃんかあ、減るもんじゃねえんだしさあ」
「話すわけねえだろうが」
莞爾が呆れて首を横に振ると、平太は舌打ちをひとつして標的をクリスに絞った。
「ねえねえ、クリスさん。カン兄ちゃんのどういうところが好きなわけ? っていうか、年も離れてるんだからさ、実際のところロリコンだとか思わなかったの?」
「ロリコン!?」
莞爾は愕然とした。まさか自分がロリコン扱いされていようとは露とも思わなかったのである。詰めが甘い。世間様はそう簡単に年の差カップルを認めちゃくれないのである。
しかし、クリスは苦笑しつつも頬を赤らめて言う。
「その、カンジ殿は私の恩人なのだ」
「どの?」
平太はクリスの口調に違和感を抱きながらも続きを促した。
「私が本当に困っているときに、カンジ殿はその……ふふっ、これ以上は秘密だぞ」
もじもじしているかと思ったら、照れ隠しに微笑まれ、平太は胸を貫かれた。ダメだった。どうにか失恋のショックを乗り越えるために明るく振舞ったのがダメだった。逆効果だった。最悪だ。余計に恋してしまった。死に至る病である。絶望だ。
思わず膝をつきそうになったところで、莞爾に馬鹿を見る目で見られて立ち直る。
莞爾は言う。
「お前、数年会わない間に無駄に馬鹿になったな」
「ひでえっ! 馬鹿なのは自覚してるけど、ひでえっ!」
若さゆえの勢いというべきか、平太は莞爾にしがみついて「お年玉くれよーっ」と呻き始めた。莞爾は問答無用で「気色悪い」と拳骨を落として追い払った。
平太は頭を押さえてしゃがみ込み、目じりに涙を溜めて言った。
「クリスさん、こんな暴力男よりも、ここにいる若くて優しくてイケメンな伊東平太を夫に選びませんか?」
「おいこら、平太。まずは自分の顔を鏡で見てから出直せ。お前は若くてすぐに調子に乗ってブサイクでもなけりゃあイケメンでもない、街中で石を投げれば当たるような男だ。あと、クリスは俺の嫁だ。お前じゃ逆立ちしたって無理だ」
「冷静に言われると余計に傷つくよな」
「せめて経済基盤をどうにかしてから言え」
「高校生にそれ言っちゃう?」
平太は明るく冗談を交えて振舞っていたものの、心底ショックを受けていた。本当に一目惚れだったのである。その女性の相手がまさか幼い頃に遊んでくれた莞爾だとは思いもしなかった。けれど、相手が莞爾であるならば平太も納得できるところがあった。諦めがつく。
「だいたいお前、それだけ明るい性格してるんだから、普通に彼女ぐらいできるだろ?」
莞爾がため息混じりに尋ねると、平太は片手を顔の前でぷらぷらと振って否定した。
「ないない。あり得ないって。よく考えてみてよ。こんな軽薄な男だよ? そりゃあ話しかけやすい男子ってくらいには思われてるかもしれないけどさ、実際付き合うってなると話は別っしょ。女の子ってそこらへん現実的じゃん? それにうち進学校だからさ。勉強できない男なんてモテないんだよね」
「自分で言ってて悲しくならないか?」
「もうね、めっちゃ悲しい」
真面目にしろ、勉強しろ、といっても無駄である。平太が何を考えているのか莞爾には想像もつかなかったが、心なしかひっかかるものはあった。おそらくは勉強でついていけない環境で、どうにか自分の居場所を作ろうとした結果なのだろう。
昔から明るく無邪気な性格ではあったが、ここまで軽薄さに拍車がかかっているとは、莞爾も想像以上で驚いた。
莞爾は気を取り直して尋ねた。
「ところで、今嗣郎さん家ってみんな集まってんのか?」
「うちの両親と叔父さん夫婦かな」
「ユキ江姉さんは?」
「叔母さんはねえ、今海外だし、忙しいんだって聞いたけど?」
「そうか。ちょうどいいから挨拶でもしとくか、クリス」
莞爾は振り向いてクリスに尋ねた。するとクリスは「しかし」と答えた。
「家族の団らんにお邪魔するのは迷惑ではなかろうか」
「あー、そんなに気にするようなことじゃないって。根掘り葉掘り聞かれるかもしれねえけど、そこらへんはなんとかなるし。こういう機会を逃したら次がいつになるかわからないからな」
うーむ、と首を傾げるクリスに平太は言う。
「クリスさんもさ、カン兄ちゃんと結婚するんだろ? だったらいいじゃんか。毎年集まったって、どうせ毎年同じことしか話してないんだし、少しは新鮮味も出ていいんじゃね?」
なんとも馴れ馴れしい言葉だったが、クリスは気にしていないようだった。若さゆえの過ちと感じているわけでもない。正確にはクリスと平太は同年だった。確かに莞爾がロリコンと呼ばれるのも仕方がない。
クリスは平太の気さくなところを半ば気に入り、どこか莞爾に似ているように思った。考え方や話し方は全くもって違うのだが、どことなく雰囲気が似ている。時折視線が動いているのは考えを巡らせているのだろう。そうして出てくる言葉が気遣いめいたものなので、心なしか莞爾の若いころを見ているようで面白かった。
「そう、だな。少しお邪魔しようか、カンジ殿」
「おう。じゃあ、着替えに戻るから、そのあとだな。平太、みんなに言っといてくれよ」
「任せとけって! あっ、お年玉も忘れんなよ!」
「いくら欲しい?」
「は?」
面と向かって訊かれると、さすがに平太は狼狽した。
「いや、そういうのって普通黙って渡すもんじゃねえの?」
「今どきの高校生が欲しい金額ってのがよくわからん。俺は高校生のときからアルバイトしてたからな」
「うちの高校アルバイト禁止なんだけど」
「俺も禁止だった。けど、黙ってやってたな。小遣いなんてなかったし」
「うへえ、小遣いなしとか辛すぎ!」
それでいくら欲しい、と莞爾が再度促した。すると平太は指を一本立てる。
「なんだ、千円でいいのか。安上がりだな」
「普通一万円だろ! どう考えたって!」
冗談だよ、と莞爾はけらけら笑った。
***
自宅に戻り、着替えを済ませて家を出る。
寒気にあおられて身を震わせるクリスだったが、莞爾に手を取られて恥ずかしそうにした。けれど嫌じゃなかったのか、彼に身を寄せてそのまま歩く。
「気を悪くしなかったか?」
クリスは平太のことだろうと察して首を横に振った。
「むしろ明るい少年で安心したぞ? 将来に期待だな」
「いや、将来に期待って、あいつもう十八歳だから実質的にはクリスと同い年だぞ」
「そういえば……ふむ。やはりニホン人とやらは若作りだな」
クリスからすれば莞爾が三十二歳ということも未だに信じられない。一方の莞爾はと言えば、クリスが若いというのは一目見たときからわかってはいたが、そこは日本人と全く違う顔つきなのでいまいち判別がつかなかった。皺の無さからある程度の予想はついていたが、当時はまさか十八歳とは思わなかった。
またクリスの雰囲気も未成年のそれではなかったことも影響している。
「ところで、たぶん色々と根掘り葉掘り聞かれるだろうから、先に打ち合わせしとくぞ」
「打ち合わせ?」
「一応ボロが出たら面倒だからな。細かいところは俺が説明するから、クリスは言葉に困ったら俺に丸投げしとけ」
「むぅ……少しは私もおしゃべりがしたいのだが」
さすがに話し相手が莞爾と伊東夫妻、それから菜摘ぐらいしかいないので、クリスもおしゃべりの相手がもっと欲しかったのだろう。けれど、莞爾も話すなと言っているわけじゃない。
「いや、魔法のこととか、転移してきたこととか、そういうのは話しちゃダメだってこと」
「ホナミ殿から教わったとおり、でよいのか?」
「ひとまずはマニュアル対応しかねえかな」
打ち合わせをしながら伊東家にたどり着き、莞爾の予想通りの展開になった。
あれよあれよという間に座敷に座らされ、近況報告という名の取調べが始まったのである。
冷や汗をかきながらもなんとかどぎつい質問をくぐり抜け、小一時間かけてようやく他の話題に切り替わった。
平太はご機嫌取りのつもりなのか、料理の差配を手伝おうとしているクリスを捕まえて何やら無駄な足掻きをしているが、もはや莞爾もそれどころではなかった。というか、正直平太なんてどうでもよかった。
男たちの間で込み入った話が始まったからである。
平太はしばらくクリスと楽しい会話をしているつもりだったが、そのうち母親がやってきて「クリスさんの邪魔をするんじゃない!」と外に放り出される始末だった。台所こそ、女たちの領域であった。老獪な熟女たちが手ぐすねを引いてクリスを待ち構えていた。
さて、座敷の方では嗣郎とその息子二人、それから莞爾の四名で真面目な話が始まっていた。
由井孝一が提案した農業生産法人についてである。
伊東の長男はすでに五十を過ぎている。次男も四十後半で、二人とも莞爾とは年が離れており、従兄弟とはいっても世代間のギャップが著しい。
「じゃあ、土地の所有権を移譲するってわけじゃないんだな?」
長男の問いに嗣郎は「そう聞いたがのう」と答えた。嗣郎も法律には詳しくないので莞爾が補足的に「所有権じゃなくて使用する権利だよ」と説明した。
「別に土地をくれって話じゃないんだ。そこらへんの案配はちゃんとわかってるよ」
土地の所有権の問題はきちんと決めておかないとあとあと厄介なことになりかねない。莞爾も慎重である。
「本当は孝一兄さんに来てもらうのが一番手っ取り早いんだけど、仕事でもう東京だもんなあ」
詳しいことはまたいずれ、とは言いつつも土地の問題で自分たちが不利にはならないということがわかったのか、長男も次男もある程度は納得したようだった。
莞爾は尋ねる。
「兄さんたちはこっちに戻ってこないのか?」
決まりが悪そうに腕を組む長男に代わり次男が答えた。
「カンちゃん。そりゃあな、兄貴も難しいところだよ。ここは田舎すぎるし、俺たちは二人とももう仕事あるし、それに家も持ってるから」
どうして生活拠点としてマイホームなんてものを買ったんだ、と思わなくもなかったが、それを言い始めたらきりがない。
長男は小さくため息をついて言う。
「いや、カン坊が言いたいことはわかる。というか、だな。我々も親父とお袋の面倒をカン坊に任せてるのは申し訳ない限りなんだ」
「カン坊って、俺もう三十二っつうか、今年で三十三なんだけど……」
きっと死ぬまでカン坊扱いなのだろう。そういうものである。
嗣郎が口を挟んだ。
「わしとスミ江が死んだら、土地は一彦のもんじゃ」
「それでおれが健二とユキ江に土地の分だけ金を渡せって話だろう? そりゃあ道理だけどな、親父。今どきこんな田舎の土地持ってても困るんだぞ?」
長男である一彦の言い分を嗣郎はうんうんと頷いて聞き、それから「だーから」と語調を強めて言う。
「先祖代々の土地を売っ払えるかっ! こんの罰当たりがっ!」
「誰も売り払うなんて言ってないだろうが!」
なぜか突如として勃発した親子喧嘩に莞爾は辟易とため息をついた。まったく血気盛んな老人である。次男である健二も呆れたように首を横に振り、二人を宥めた。
「まあまあ、親父も兄貴もそれぐらいにして。みっともないったらない。とにもかくにも、土地を移譲するわけじゃないってことなんだ。あとはカンちゃんに使ってもらえたら、こっちとしても放置せずに済むってことだろう?」
嗣郎はフンッと鼻を鳴らして頷いた。
「そうじゃ。農地は耕作放棄地にはできん。固定資産税が馬鹿らしいからのう。宅地はこの際農地に変えてしまえばよかろう」
「それじゃあいざってときに帰る家がないじゃないか!」
一彦が反応して声を荒げると嗣郎も拳でテーブルを叩いて言う。
「ほんならもっときちんと帰ってくりゃあええんじゃ! 車で一時間の距離におるんじゃ! もっと顔見せにくらいくりゃあええんじゃ! なんじゃ二人して老人ホームに入れだのなんだの、わしゃあまだボケとらんぞ! いいかげんに――」
いきなり声を荒げたせいだろうか。顔を真っ赤にしていた嗣郎はぷつんと糸が切れたように倒れ込んだ。
「親父!?」
「嗣郎さん!?」
慌てて一彦が抱き起すが、嗣郎は完全に意識を朦朧とさせており、呼びかけにもろくに反応しなかった。
「きゅっ、救急車!」
伊東家は騒然となった。外まで響いていたのか平太も慌てて戻ってきた。座布団を枕にして寝かせつけられている嗣郎を見て、平太は動揺を隠せなかった。
思わず駆け寄り、父親の静止を振り切って取り縋る。
「じいちゃん!? じいちゃん!!」
体をこれでもかと揺らす平太に、一彦は「馬鹿たれ!」と首根っこを捕まえて引きはがした。
嗣郎は脈もあり呼吸もあったが、体が熱かった。このようなときにどういう対処をすればいいのか、医療関係者もいないので皆一様に慌てふためくことしかできないのが悔しかった。
三山村は田舎ということもあり、救急車のサイレンが聞こえてから到着するまで異様に長く感じられた。実際、119に電話をかけてから十五分が経過している。平均的には十分以内で到着すると言われている救急車だが、このような田舎の細い道ではスピードも出せないのだろう。
救急車から降りてきた救急隊員の手によって嗣郎は担架に乗せられ、一彦が一緒に救急車に乗り込んだ。
大谷木町の総合病院に搬送する、と救急隊員は言う。嗣郎の意識はまだ明瞭ではないものの意思疎通ができるぐらいには回復しつつあった。
残念なことに、男衆は酒を飲んでおり使い物にならないので、一彦の妻が車を出すことになった。
慌てふためく伊東家の親族たちを前に、平太は呆然とその様子を眺めていた。
「平太……おい、平太!」
肩を叩かれてようやく我に返る。
莞爾は小さく息を吐いて言う。
「平太。お前はしばらくここにいるんだ」
「でもっ――」
「落ち着け。どっちにしたってみんな酒飲んでるから行けないし、どうなるかもわからないのに急いで行ってもどうしようもないだろうが」
まずはスミ江と長男の妻と次男が車で救急車の後に続くので、状況が判明すれば場合によってタクシーを呼ぶことになった。
次男の妻と平太、そして莞爾とクリスが家に残ることになった。
平太は普段こそ明るいものの、こういう場面に遭遇したことは今まで一度もなかった。どうすればよいかもわからないし、ひたすら不安が募るばかりだ。けれど、周りを見れば莞爾もクリスも次男の妻もてきぱきと片づけを始めている。
「なっ、なんなんだよ! みんな薄情すぎだろ!」
「誰が薄情だ、馬鹿たれ」
莞爾はテーブルに並べられた皿をお盆に載せながら言った。
「あとでどうなるかもわかんねえから、今のうちに片付けてるんだ。わかったらお前も手伝え」
「でもじいちゃんが――」
「じゃあ、お前が病院に今すぐ行ってできることはなんだ? 俺たちが薄情ものだって言うなら、言ってみろ。ほら、お前に何ができる?」
莞爾も言い過ぎだとは自覚していた。けれど、薄情ものと言われては黙っていられなかった。案の定黙り込む平太に莞爾は声を抑えて言う。
「いいか、平太。気をしっかり持て。誰もいつも通りにしろなんて言っちゃいない。ここを片付けて、連絡次第ではタクシーで急いでいく可能性もあるし、そうじゃない可能性もある」
とにかく今は落ち着いて自分にできることをしろ、と莞爾は平太の頭を乱暴に撫でた。もう十八歳の平太の頭はずいぶんと高い位置にあった。
長男の一彦から連絡があったのはそれから二時間もしないうちだった。
一彦の妻とスミ江が一度家に戻ってくるのだという。理由は入院用の着替えを取りに来るというもので、残されたものたちはひとまずの安堵を得た。
嗣郎はすでに意識も取り戻し、多少の不具合はあるものの差し迫った命の危険はないようだ。血圧がどうのと言っていたが、詳しい病状についてはまた後で、とそれだけの連絡だった。
平太はそのことを伝え聞いて大声で泣き始めた。莞爾もクリスも引くぐらいに泣いた。
一年に数回しか会わない祖父でも、何かと気にかけてくれた祖父である。ぶっきらぼうなところもあったが、それでも孫思いな祖父を好きになりこそすれ嫌いになるわけがなかった。
泣き咽ぶ平太を、莞爾はやれやれと軽く抱擁した。
背中をぽんぽんと叩いて「よかったな」と言うと、平太は莞爾の胸を押しのけて言う。
「子ども扱いすんなあーっ! どうせならクリスさんがいいんじゃあっ!」
「この野郎……」
つい優しさを見せたばかりに不当な扱いを受けて眉間に皺を寄せる莞爾だったが、クリスがまあまあと間をとりなした。
「何事もなくて、ひとまずよかったではないか」
「……まあ、な」
「ヘイタも男のくせにいつまで泣いているのだ。みっともない」
「ふぐうっ!」
自らの失態を現在進行形で見せつけている平太はトイレに駆け込んでしばらく出てこなかった。
シリアスの出番が一瞬でした。