新春のプロローグ
大変お待たせしました。
今回は農業関連の法律がちらほら出てきます。
※1町=約1ha、1反=約10a、1a=100㎡
1町=3000坪、1反=300坪
「決算過ぎたら、こっちに戻ってこようかと思う」
自宅に帰ったあと、莞爾は孝一に呼び出された。
わざわざ大谷木町のファミリーレストランに場所を指定されたということは、内密な話があるのだろうとは思っていたが、まさか孝一が帰ってくるとは思ってもみなかった。
タバコを深く吸い込んで、長く吐き出してみたもののどういう意図があるのかさっぱりわからない。ドリンクバーで注いだアメリカンコーヒーを一口飲んでから尋ねた。
「仕事辞めるんだ?」
孝一は「そのつもりだ」と頷いて、店内を見回した。
「さすがに今日は人が少ないな」
「そりゃあ、まあ」
田舎のファミレスは基本的にいつでも客足が途絶えない。近場にちょっとお茶をする場所なんてないから、自然と地域住民が集まってしまう。とくに高齢者の多い地域では顕著だ。
今日ばかりは一月二日ということもあって客足は少ない。店員のおばさんは暇そうにしていたが、何かと仕事を見つけてはちゃきちゃきと動き回っていた。
孝一は大きく深呼吸を一つして言う。
「あれから、わたしもいろいろと考えたんだ」
あれ、というのは莞爾の家で起こした不手際のことだろう。
莞爾は無言で続きを促した。
「莞爾くん……いや、莞爾。折り入って相談がある」
「まあ、そんなことだろうと思ってたよ」
孝一が相談とは何事だろうか、と莞爾は身構えた。まさか金の無心ではあるまい。
莞爾の予想はどれも的外れだった。
「会社、起ち上げないか?」
一瞬、何を言っているのか意味がわからなかった。
ようやく我に返って聞き返す。
「それって、起業しようってことか?」
「他に何があるんだ」
「正気か?」
孝一は小さくため息をついて呆れたように「気まぐれでこんなこと言うわけがないだろう」と言った。
「金のことなら心配しなくてもいい。経理は得意だし、投資してくれる伝手ならいくつか知ってる」
「いや、いやいや。ちょっと待ってくれ。話が性急に過ぎる。そもそも何の会社だよ」
莞爾は手を前に出して疑うように眉根を寄せた。孝一は「ああ、すまない」と襟を正した。
「お前が代表で、わたしが経理を見る。事業内容はまあ、農業生産法人ってところか」
「たった二人で? 議決権とか、役員要件とか、いろいろあるだろ。俺もうろ覚えだけど」
「実際の動きは追々だ。ひとまずは嗣郎さんとうちの親父は巻き込んでる。あと智恵とクリスさんもパートってことにして雇用しよう」
「めちゃくちゃだな!」
莞爾も詳しくはないとはいえ、もとはサラリーマンであるし、いずれは法人化ないしそれに準ずる形態も視野に入れていたのである程度の知識はあった。
また、平成二十八年四月一日に施行された「改正農地法」により、「農業生産法人」は呼称が「農地所有適格法人」に変更された上に、その要件が緩和された。
そのような経緯もあって、莞爾の記憶も新しかった。
まだまだ認知としては「農業生産法人」の方が大きい。「農地所有適格法人」なんて長いし、本質的にはふさわしい名称だが、無関係な人がぱっと見てすぐに理解できる名称ではない。
よって、未だに「農業生産法人」と呼ぶ人が断然多い。
もし法人として農地を所有ないし売買するならば「法人形態要件・事業要件・議決権要件・役員要件」を満たす必要がある(農地を使用せずに農業を営んだり、農地を借りたりする場合においてはこの限りでない)。
「まあ、兄さんはともかくとして、四人中三人が農業従事者だから役員要件は問題ないのか」
「一応管理業務も範疇だから、構成要員全員対象内だ。色々と調べもしたし、嗣郎さんにまで根回ししたんだから」
「ほんと、よくオッケーしてもらえたよな」
「いや、オッケーしてもらえたというか、嗣郎さんももう年だし、あっちは跡取りも含めてみんな外に出てるだろう? もうみんな家庭持ってるし、今更農家として後を継いでもらおうとは考えてないらしい」
きちんとした仕事に就いていて、家族がいて安定した生活ができているのに、わざわざ田舎でろくにしたこともない農作業なんてしようとしないだろう。
「嗣郎さんも不安なんだ。行政区分とかはどうでもいいけど、この村が生き残っていくためには、圧倒的に仕事が足りない。今いる若者と言えば……まあ、お前とクリスさんしかいないしな」
「あと、菜摘ちゃんか」
「馬鹿。菜摘はまだ十歳だ。勘定に入るか」
田舎が過疎化するのは端的に言って仕事がないからだ。郊外型ショッピングモールができて地域が活性化した事例も多くあるし、田舎に有名企業の工場ができて人口が増えて税収が増した事例もある。
とにもかくにも仕事がなければ人はやってこないし、人がいなければ金は落としてもらえない。
「でも孝一兄さんが戻ってくるなら、若者の範疇だろ?」
「あー、そういえばそうだな」
会社では四十過ぎれば中堅かそれ以上の役職についていることも多いが、田舎では五十を過ぎるまではまだまだ若手である。こればかりは仕方がない。上はしぶとく生き残るくせに下が新しく生まれないのだから、どうしたって若者の範囲が広がるしかないのだ。
「確か、正博さんが今年で還暦だろ?」
「ああ、新居さんか」
「梶さんな」
梶正博。三山村でも一番大谷木町に近い場所に住んでいる。新居、というのは明治に入ってから移り住んできたので、新しい家という意味だ。全くもって理不尽な呼び名である。百年経ってもよそ者扱いである。
もっとも今は通称であって、まったくその意味では使われていないが、明治生まれが生きているころはまだまだ風当たりも強かった。
「しっかし、還暦迎えてようやく大人扱いか。俺なんてあと三十年近くあるぜ?」
「わたしもあと二十年ぐらいは青二才扱いだな」
言い合って、二人は互いに息を漏らした。
「まあ、それは置いといて。事業内容をどうするか、だろ」
莞爾が切り出すと孝一は首を傾げた。
「乗り気なのか?」
「内容による。けど、嗣郎さんにも親父さんにも根回ししてるんだったら、少なくとも三家で合同家族経営になるわけだ」
「経営形態に関しては比較的自由にできるはずだ。うちの親父と嗣郎さんはまあ、働き手にもなってもらうが、要するにオブザーバーの意味が大きいから」
しかし、三家で所有しているそれぞれの土地を利用して法人として生産しようとするのであれば、やはりやり方は統一していくべきだろう。
もし起業するとなれば、追々従業員を雇っていく可能性もあるから、構造的な欠陥を残しておくわけにはいかない。
それに別々に仕事をするのであれば、また違う経営形態になってしまい、農業生産法人としての意味合いは薄れてしまいそうだという危惧があった。
「無理に今ある土地に限る必要もない。親父に聞いてもらったんだが、こっちに耕作放棄地が5町ぐらいあるらしい」
5町は15,000坪である。一般人が聞くととてつもない広さに感じるが、農業従事者は感覚が狂っているので「5町? ふうん」ぐらいの反応しか返ってこないこともある。
当然である。
例えば米の1反(約10a)当たりの収穫量は(銘柄などを考慮に入れず)約600キログラムである。単純に1町では約6,000キログラムということになる。
玄米60キロに対して、平成二十八年度十二月以降の出回りでは全国平均価格で14,284円である。つまり、1町あたり単純に計算しても、1,428,400円――ざっと140万円余りである。
たかだか1町だけ所有していても食っていけないのだ。2町でも280万円だ。一人ならばまだしも家族を抱えていれば厳しい。
仮に5町所有して約700万円の売り上げを上げたとする。しかし、生産コストは1反につき約14,000円ほどかかる。5町では70万円――単純に630万円ほどの利益だ。
ようやく家族を養って子供を学校に行かせて、と安心できる収入だ。
もちろんこれらの計算は単純化したものであって、厳密ではない。おまけに天候による収穫高の増減については一切考慮していない。
「5町、ねえ。何を育てるかにもよるし、まずは土地を見なきゃ始まらないな。今んところ俺と兄さん含めて六人だろ? 手狭ではあるけど、いきなり全部やり方変えて新しい土地でってのはあんまり気が乗らない」
「そう言うと思ってたさ。まあ、ゆくゆくはって話だ」
いきなり何かを変えようとするとかえって無理なことが多い。おまけに今ある生産物をどうするのか、今後も収益の柱にするのか、それとも全体で品目を選定するのか、様々に考えることが多い。
莞爾はタバコを一吸いして灰皿にもみ消した。
「三家合わせても6町ないか。兄さんのところは確か――」
「あてにならないから2町引いて4町余りだな」
由井家の2町は果樹に充てられている。
「パート一人にバイトが一人。バイトくんは三月に実家に帰るそうだ」
「ああ、それで。パートってのは梶さんところの?」
孝一は頷いた。梶正博の妻が由井家にパートに来ていたのだ。しかし、様々な事情から今年の収穫期からは辞めるのだという。
「じゃあ、兄さんとしては渡りに船だったわけだ」
「いやまあ、そういう経緯もあるにはあったが、別に都合がよかったわけじゃない。むしろ残っていてくれれば従業員として雇うこともできたから残念さ」
三家合わせても6町に届かない上に、うち2町は果樹園である。
「正直に言うと、俺は由井の親父さんが賛成したのは意外だった」
「そうだろう。わたしも驚いた」
人手が不足しているとはいえ、収入的には安定しているのに新たな挑戦を肯定してくれることは意外だったのだ。あるいは恒久的に人手が確保できる手段として納得したのかもしれない。
「親父ももう七十超えてるんだ。元気にしていてもぎっくり腰にはなるし、心臓も悪いって言われてて……まあ、その、なんだ。いつまでも続けられるわけじゃない。わたしが相談したときも、『もう俺の時代は終わったんだなあ』なんて言ってたよ」
莞爾は由井家の父親を堅苦しい真面目な男と思っていたが、案外変なことを言う一面もあったらしい。思わず苦笑した。
「それにな、うちって季節労働みたいなところあるだろう?」
「まあ、そりゃあ」
毎月固定給が入ってくることは本当にありがたいことなのである。人間大金が入ってくると、わかっていてもついつい余計なものを買ってしまうものだ。それにいざというときの不安も拭えない。
年間の家計の計画は立てやすいが、やはりやり繰りの点で色々と弊害もあるのだ。あと何日凌げばお給料、なんてことはないのだ。あと半年待ったら収穫、ということになるのだ。悲愴感が三倍増しである。
「単価が高いってのはありがたいけど、パートもいなくなるし、親父とお袋もそろそろ限界だ。収入が減るのは親父も理解してる。けど、体がついていかないんだろう」
果樹は種類によっては管理の手間数が大きく変わる。放置していてもそれなりにできるものもあれば、年中手間をかけなければならないものもある。
野菜と一緒でそれぞれ違う。
けれど、果樹は年を越せるのだ。年輪を刻ませることができる。苗木一本当たりから一年間に収穫できる量も確保でき、かつ超長期に渡って継続的収穫が望める。この利点は大きい。
ただし、問題点として土地面積の問題や、管理方法の特殊性、獣害が顕著だ。
とげのある柑橘類でも年を越せば山野の餌が少なくなり鳥の餌になるし、植え付けした苗木の新芽を鹿に食べられるということもある。人間が食っても美味いものは獣や虫にとっても美味いのだ。
「つまり、あれか。三家が今している仕事を、全員で素早く終わらせて品目ごとにローテーションを組んでいくってことか?」
「場合によってはそういう手法もとれる。けれど、うちの果樹園は親父が観光農園にしようって言い出しててな」
梨狩りやぶどう狩りのように、客を呼び込み勝手に採ってもらう。こちらは環境を整備するだけでよい。収穫の手間は減るし、僻地に人を呼び込む宣伝商材にもなる。
「いちじくだっけ?」
「いちじくは確か6反だったかな。あれも結構手間がかかるんだよ。4反はみかんだけど、量も少ないし直売所に流してる。あとの1町は三年前にブルーベリーを植え付けてる」
孝一は幼いころの記憶を呼び起こしてくすりと笑った。
よく父親が商品にならないいちじくを集めては孝一に与えていたのだ。最初のうちは美味しく食べていたが、そのうち飽きてしまった。
けれども、東京で無性にいちじくが食べたくなってスーパーに行ったところ、いちじくの値段に大変驚いた。500グラムのワンパックで200円を超えていたのだ。自分の中ではあり触れた果物だったのに、都会の人間にとってはそれなりに価値のあるものであることをその時初めて痛感した。
「なんだよ、にやにやして」
「いや、ははっ、ちょっと昔のことを思い出しただけだ」
実家を出る、東京に行くと決めたときには欺瞞で自分の行動に言い訳をしていた。けれど、東京に出て仕事が成功するにつれ、何かを忘れていた。仕事は順風満帆で結婚し、子供もできた。幸せなはずだったのに、どこかで歯車が嚙み合っていなかった。
収入を得ることが家族を守ることだと思っていた。今でもその考えに変わりはない。収入なくして家族を養うことなんてできっこないのだから。
けれど、のどにひっかかった魚の小骨のように、何かが違うと感じていた。
「菜摘が……」
言いかけて止まった孝一に、莞爾は無言で頷いた。
孝一は苦笑して続けた。
「クリスさんと一緒に二十日大根作っていただろう?」
「ああ」
「あの現場を見たときは、まあ子供のすることだからって風に考えてたんだ」
すっかり都会に染まっていたのだろうか、と孝一は自嘲した。
「お袋からあれの酢漬けが届いたんだ。ご丁寧にわたしたちを心配する手紙まで寄越して、おまけに菜摘が描いた絵も入っていた」
子供が描いた下手くそな絵――中々どうして目頭が熱くなる。
幼児が描くような奔放さもなく、かといって上手に描けているわけでもない。漫画に影響されたのかどこかデフォルメされていたのも印象的だった。年相応の中途半端な技術と子供らしい自由に弄ばれた絵。
「その絵、わたしと智恵はどちらもスーツを着ていたんだ。わかるか? スーツだ。わたしたち二人と祖父母二人が菜摘を囲んでいるのに、親父は作業着でお袋はエプロン姿なのに、わたしと智恵は――」
本当なら菜摘の両隣に孝一と智恵が描かれていて欲しかった。けれど、右側には祖父母が、左側には孝一と智恵がいた。まるで菜摘が祖父母と両親の間を彷徨っているような、そんな印象を受けたのだ。
このままではいけない――孝一と智恵はようやく決断したのだ。お金も大切だ。お金がいらないなんてことは言わない。けれど、愛する我が子を蔑ろにしてまでたくさんの金が欲しいかと言われれば、それは否だった。
黙り込んだ孝一に莞爾は尋ねた。
「いいのかよ。俺が言うのもおかしな話だけど、キャリアを棒に振るんだぞ? 俺だって元サラリーマンだからわかる。結構葛藤したんだ。菜摘ちゃんが将来どんな道に進むかもわからないんだ。貯蓄はしておきたいって思わないのかよ」
孝一は「ああ」と頷いて冷めたコーヒーをぐいっと飲み干した。
「天秤にかけるのは当然だ。実際、人生の悩みなんて九割金だ。金さえあればほとんどの心配はなくなる」
「異論はないけどさ。そういうことを言ってるんじゃないんだ」
「……二十日大根な」
「ん?」
「美味かったんだ――」
初めて父親から手渡されたいちじくをその場でかぶりついたような、そんな感動を覚えた。
まさか、忘れていた何かを娘のおかげで思い出すとは思ってもみなかった。
孝一は恥ずかしさを隠すように苦笑する。
「まあ、こういっちゃなんだが、実際貯金はそれなりにある。退職金は菜摘の教育費にとっておくが、夫婦の貯蓄とは別に、個人的な貯蓄を資本金に回そうかと思ってな」
「はあ、キャリアは違うなあ」
「馬鹿を言うな。わたしだって普段は切り詰めて生活してるんだ」
「だったらあの高級車はなんだよ」
莞爾はそう言って窓から見える駐車場のファミリーワゴンを指さした。ファミリーワゴンとはいえ国産のグレードが高い車だった。
孝一は「まあ色々あって」と言う。
「あれを買ったときは、家族三人で出かけるためだったんだ。いつの間にか見栄の道具に成り下がったんだが……こっちに戻ってきたときには売る予定だ」
「別に売らなくてもいいだろ」
「馬鹿を言うな。収入に見合った生活水準でないと、変な見栄を張ったところで滑稽じゃないか。見栄は収入の範疇でするものだ。それを言うならお前だってごつい車に乗ってるじゃないか」
莞爾は決まりが悪そうに「俺もそろそろ手放そうかな」とため息をついた。
孝一は「お前は昔からごついのが好きだったからな」と笑い、少し名残惜しそうに車を一瞥して立ち上がった。
「コーヒー、もう一杯取って来よう。お前は何がいい?」
「あ、ああ、アメリカンで」
ドリンクバーに向かう孝一の後姿を見ていると、どうしてもエリートには見えなかった。背筋はしっかりと伸びているし、仕草もいちいちスマートだった。
けれど、以前莞爾の家に来た時のような鋭い目つきはどこかに消えていた。
上京を見送ったときに見た申し訳なさそうな目でもなかった。
頼りがいのある兄貴分の目だ。それでいて、どこか童心に帰った――幾分かいたずらめいた挑戦的な目だった。
***
帰宅すると、クリスは土間に立っていた。
スミ江も一緒で、どうやら二人で何かを作っているらしい。
さすがにもう振り袖姿ではないようだ。
「おかえり、カンジ殿」
「おかえり、カンちゃん」
くすくすと笑い合う二人に、莞爾はふっと笑って「ただいま」と答えた。
佐伯家には姑が不在だが、スミ江が姑のようなものだ。莞爾には嫁姑問題のような不安はほとんどなかった。
きちんと仲良くできるだろうか、ストレスに感じることはないだろうか、と色々心配はしているのだが、スミ江は笑顔のわりにはっきりと物を言うタイプであるし、関与しないことには一切口を挟まない人間だ。一方のクリスはと言えば、日本――とくに三山村の田舎らしい風習に慣れようとしている。
考え方としては、都会の人間よりもクリスの方が向いている節もあった。かなり前近代的な点が玉に瑕だが、それはまた仕方のないことだ。付帯する問題は莞爾も織り込み済みであるし、そんなことにいちいち悩むようならばプロポーズなんてしなかった。
「何を作ってるんだ?」
「むふふっ」
どうやら焼餅をお湯でふやかしているようだった。
クリスの隣ではスミ江がフライパンで黄色い粉を乾煎りしている。
「この匂い、きな粉か」
ほのかな香ばしさと、どこか心が休まるほっとする匂いだった。
実のところ莞爾はきな粉餅が大好物だった。幼いころ、ごくまれに母親が作ってくれた。日頃は蒸かした里芋とか梅干し程度がおやつだったから、ひと月に一度か二度食べるきな粉餅が余計に美味しく感じられたのだ。
「クリスちゃんがね、カンちゃんの好きなものをつく――」
「わっ、わああっ! い、いきなり何を言い出すのだ! スミエ殿!」
「うふふふふふっ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃなあい? だってもう夫婦になるのよう?」
「しょっ、しょれはっ」
要するに、クリスは莞爾の好物を作れるようになりたかったらしく、スミ江に相談して作り方を教わっていたようだ。
莞爾はあたふたと慌てているクリスの頭をそっとひと撫でして苦笑した。
「ありがとうな」
「むっ、むっ、むむっ……」
スミ江も見ている前でどのような反応をすればいいのかもわからず、クリスは視線を泳がせて結局目の前の餅を菜箸でつついた。
莞爾も少しばかり気恥ずかしくて「着替えてくるよ」と寝室に向かった。
着替え終わって居間に行くと、ちょうどきな粉餅が出来上がったところだった。
餅にかける方式ではなく、きな粉の中に入れてまぶしたものを皿に盛るところまでスミ江はよく知っていた。それも当然だ。なにせ莞爾の母親とは姉妹だったのだから、莞爾の幼いころのことも、妹である彼の母親からよく聞いていたのだ。
「ああ、美味そうだなあ」
「むふふっ、この匂いは癖になりそうだな」
よいしょ、と割烹着を綺麗にたたんでスミ江は土間側に座ろうとした。そこではっと気づいたように莞爾の斜め向かいに座りなおした。
世話焼き婆の役割もここでおしまいである。
クリスはスミ江の意図するところに気づいたわけではなかったが、自主的にお茶を三杯用意していた。
「私はお茶を淹れるから、お先に召してくれ」
スミ江がいるからか、どこかおかしな言葉遣いになっているクリスだった。スミ江はくすくすと笑った。
莞爾はほっとして「いただきます」と手を合わせた。
お茶を用意しながらもクリスは視線を莞爾に向けていた。スミ江は笑っているばかりで何を考えているのかもよくわからない。
きな粉餅を一口食べて、莞爾は熱い息を漏らしながら嬉しそうにもぐもぐと口を動かした。しばらくぶりに食べた懐かしさに、美味しさ以上の感情が溢れてきた。
どうしてこんなに優しい味なのだろう。口蓋に貼りついた餅で口の中を少し火傷した。それにも構わず、莞爾はきな粉餅の味を噛みしめていた。無言で二口三口と進み、心配そうに見つめていたクリスに気づいてにっこりと微笑んだ。
クリスは胸をなでおろし、お盆からまずはスミ江にお茶を差し出した。スミ江も莞爾の様子を見ていて思うところがあったのか、クリスの手が引っ込む前にそっと触れて小声で「よかったわね」と言った。
大きく頷いたクリスにスミ江はまるで自分の娘にするかのように微笑んだ。
「せっかくなんだから、カンちゃん。味の感想ぐらい言わなきゃねえ」
「美味しいに決まってますよ、こんなの」
「クリスちゃんの愛情がたっぷり詰まっているからねえ」
「あははっ、でしょうね!」
莞爾はのろけたつもりだったけれど、クリスは顔を真っ赤にしていた。
「お、お茶だ!」
「ん、ありがと」
熱いお茶で口の中の甘い味を洗い流すと、またもう一口食べたくなる。
「そ、その、キナコモチだが、キナコの塩梅はスミエ殿が決めたのだ。私は教わっただけなのだぞ?」
若干早口であったが、莞爾だってそんなことは重々承知している。
返答に困ってスミ江の方を一瞥すると、スミ江は困ったように苦笑していた。
「夫の好物が知りたいだなんていいお嫁さん。カンちゃんには勿体ないわねえ」
莞爾はくすっと笑い、クリスも呆れたような眼差しのスミ江を見て、照れ隠しではにかんだ。
まだまだ心配のつきない甥っ子が、伴侶を得て幸せになろうとしている。
妹が存命なら何を言っただろうか――スミ江は二人の睦まじい様子に思わず笑みを浮かべた。
クリスが日本人でないことはもちろん不安だった。言葉の壁がなくてもきっと文化の壁はあると思っていたからだ。
けれど、莞爾を喜ばせたいと純粋に彼を見つめているクリスを見れば、きっと艱難辛苦も二人で乗り越えられると、そう思わずにはいられなかった。
「さてさて、邪魔な婆やはお暇しましょうかね」
スミ江は熱いお茶をずずっと飲んで苦笑したが、莞爾とクリスに止められた。
「だって新婚でしょう?」
「いや、まだ式もあげてないし、籍もまだですから」
莞爾が慌てて言うと、スミ江は呆れてため息を漏らした。
「まったく、この甥っ子は……」
けれど、彼が二の足を踏んでいるわけではないのはスミ江にもよくわかった。慎重というわけでも、無鉄砲というわけでもない。
「そういうところ、お父さんにそっくりだねえ」
首を傾げる莞爾の肩を、スミ江はとんとんと頼もしそうに叩いた。
できるだけ下調べはしたつもりですが、語弊がある箇所や誤謬のある箇所があるかもしれません。
なお、数字については農協や農水省の統計データを参考にしています。
(農水省の統計データは「~を除く」などの備考が多くて、実際の数値とはずれていることがあるのです)
本話の数値はあくまでも平均的な参考値として例示したものであり、収支計算の一例も実例にそぐわない単純化したものです。実例とは大いに異なる点が多々含まれていますので、十分にご注意くださいますようお願い申し上げます。
つきましては、「ここの数字は明らかに誤りだ。まさか参考資料を間違えていないか」などのご指摘がございましたら、お手数ですがお知らせいただけると幸甚です。
各種資料を精査した上で再考し、場合によっては改稿いたします。
※1月25日追記
日付以外の数値を全角アラビア数字に修正。
日付を漢数字に修正。