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おみくじ

お待たせしました。

 翌日。


 莞爾はラングレーの運転をしていた。隣にはもちろんクリスがいた。


――振り袖姿で。


「……案の定渋滞だな」

「まあ、よいではないか。そう急いでいるわけでなし」


 いっそタクシーの方がよかったんじゃないか、とため息をついた。


 前をのろのろと走っているファミリーワゴンの中で、女の子がこちらに向かって手を振っているのが見えた。


「ほら、菜摘ちゃんが手ぇ振ってるぞー」

「おお、なにやら楽しそうだな」

「いや、ジジババしかいねえから話に飽きてるだけだろ」


 前を走るのは由井家一行プラス伊東夫妻である。


「しっかしなあ、初詣って言っても、わざわざ市内まで行く必要あったか? お宮なら近所にあるってのに」

「近所の神殿のことか?」

「神殿っつうか、神社な」


 どうしてこうなっているかと言えば、今朝方スミ江が突然訪ねてきて、初詣に行こうと言い出したからだ。

 おまけに市内の有名な神社に参拝しようという。てっきり伊東夫妻と合わせて四人かと思ったら、そこになぜか由井夫妻と菜摘までついてきたというわけだ。


「ヨシイ家はコウイチ殿のご両親もおられたのではないか?」


 ふと尋ねるクリスに莞爾は言う。


「まあ、俺もいるし、親父さんは気まずくて出てこないだろ。それに足腰弱ってるからなあ」

「むぅ? 訳ありということか」

「別に訳ありってほどのことじゃないよ。俺は別になんとも思ってない。あっちが勝手に申し訳なく思ってるだけさ」

「聞いても?」

「六十年以上も前の話。ちょうどごたごたしてる時期に土地問題でトラブルがあったんだよ」


 土地問題、といえばクリスの方が危機感を強く持っていた。

 なるほど、と頷いて腕を組んだ。


「まあ、終わった話だよ。親父さんは張本人じゃないしな。済んだことでいつまでも悔やんでいるんじゃ建設的じゃない」


 それで話を打ち切って、しばらくのろのろと進んでいると、クリスが口を開いた。


「ところで、カンジ殿はそのすうつとやらがよく似合うな」

「藪から棒だな」

「藪から棒? また慣用句か」

「突然って意味だ」


 実際、背丈もあるし肩幅も広い。農家として力仕事もしているので全体的に筋肉質だ。


「俺としてはクリスの振り袖姿が意外だったな」

「むぅ?」


 クリスが首を傾げると、結い上げた頭に刺した簪がしゃらしゃらと揺れた。


「そういえば、撫で肩だったな」

「気にしたことはないのだが、そう言われれば甲冑を作る際にも言われたことがあったな」


 着物は撫で肩の方が似合う。

 色合いもクリスの白い肌と金髪に負けず、逆に落ち着いた色合いだったので全体的に華やかに見える。


 ちょうど車が止まったので、莞爾は隣のクリスをじろじろと見た。


「懐かしいもん引っ張り出してきたよなあ、スミ江さんも」

「懐かしい?」

「なんだよ、聞いてなかったのか?」

「むぅ、浮かれてろくに話を聞いていなかったのだ」


 反省するクリスに苦笑して彼は前を向いた。一向に車列は進まない。


「その振り袖、実はお袋が昔着てたんだよ。結婚する前な」

「……なんと」

「お袋が着てるところなんて見たことなかったな。衣紋掛けには毎年かけて干してたから知ってはいるけどさ。スミ江さんに形見分けで受け取ってもらったままだったし、もう見ることもないだろうと思ってたけど……」


 淡い薄桃色に紅梅が控えめに描かれている。金糸の刺繍がところどころにちりばめられていて上品さもあった。

 留袖にしなかったのは、きっと娘に着せたかったからだろう。


「何十年も前のなんだけど、呉服屋に出したのかな。新品みたいだ」


 もしかしたらクリスに着てもらうために手直しをしてもらったのかもしれない。きちんと管理していても、さすがにどこかシミがつくなどのボロが出るはずだ。


「……そのように大事なものを、いいのだろうか」

「いいんじゃねえか? スミ江さんにはもういらないものだし、あげるって言われたんだろ?」

「むぅ。話をちゃんと聞いていたのか? あげる、ではなくて返す、と言われたのだ。その時は意味がわからなかったが、そういうことか」


 クリスとて見るからに高価としか思えない着物をおいそれと頂戴するわけにはいかないと固辞したのだが、「これはわたしが持っているべきものじゃないからねえ」とにっこりと諭されれば、頷くよりほかになかった。

 スミ江はただ妹の思いに応えたかっただけだ。娘に着せることができなかったとしても、義娘の留袖にはなるかもしれない。それが今ちょうど結婚していないクリスがいるのだ。おまけに莞爾と結婚することも決定済みだ。手元に保管しておく理由もなかったのだろう。


「ってことは、他のものも全部揃えておいてくれたってことか」

「むぅ、頭が上がらぬ」

「帯もお袋のだし、そこまで金はかかってないと思うけどな。修繕費が一番高かったんじゃねえか?」

「安い高いの問題ではないのだ」

「そりゃあ、まあそうだな」


 そうこうしているうちに車列はゆっくりと進みだした。


 スミ江の心遣いはありがたいのだが、相応の出費があったとわかればその心遣いも申し訳なく感じてしまうものだ。莞爾も気の知れた間柄とはいえ、相手は叔母であるから相応の礼儀を尽くさねばならない。


 ただ叔母夫婦は年金に頼って生活しているわけでもないし、クリスが莞爾のもとに嫁ぐことを心底喜んでいる風でもあるから、少しばかり気が楽だった。


「まあなあ、嗣郎さんは贅沢しないし、スミ江さんは家の中より付き合いに金をかける人だからな」

「むぅ、やはり申し訳ないな」

「せっかくのご厚意なんだから、重ねてお礼を言っとけよ。お返しはちゃんとしておくから」

「……そういえば、そうか」


 何がそういえばなんだ、と莞爾は首を傾げた。

 クリスは莞爾の横顔を見つめて言う。


「いや、私個人のために用意してくれたものではなく、カンジ殿と結婚する相手に対して用意したものであるから、家主であるカンジ殿が礼を尽くすのが自然だな、と」

「……クリスが嫁さんで本当に良かったと痛感するな」

「なっ! いきなり何を言い出すのだ! まっ、まったく!」


 顔を背けたクリスだったが、ちらちらと莞爾の様子を窺っていた。

 彼は苦笑して言う。


「田舎に限った話じゃねえけど、個人主義がまかり通るとさ、自分の家族が世話になった相手に対して『自分が受けたことじゃないから』礼を言わないって人も出てくるわけだ」

「……そういうものではないだろう?」

「まあ、俺やクリスはそういう価値観だし、スミ江さんや嗣郎さんもそうだと思う。けど、そうじゃない人もいるし、一概に否定はしないさ。少なくとも近所付き合いがある種面倒だってのはわかるからさ」


 と言いつつも、果たして近所付き合いが煩雑かどうかは莞爾も首をひねるところだ。


 遠い場所にいる親族よりも、いざという時にはご近所さんの方が助けてくれることもある。けれど、隣に住んでる人間の顔さえわからないような都会に住んでいれば、そういう考え方もまた仕方ないものだと思えた。


 実際、莞爾が東京で働いていたころは似たようなところがあった。


 むしろ入社して早々に両親が上司に挨拶のために東京に来ようとしたときには必死に止めたくらいだ。田舎と都会では考え方が違うし、世代が異なれば一層大きな違いになる。


 一方のクリスは元々貴族であるし、見栄を大事にするところがあった。家族の誰かが受けた恩は一族の恩として捉える風潮があった。そういう意味では莞爾にとってちょうどいい性格だったけれど、それでも現代の日本では行き過ぎた感覚だ。


 その辺りの塩梅は少しずつ理解してもらうしかない。

 育った環境の違う二人が一緒になるということは、大なり小なり価値観のすり合わせが起こるということだ。お互いに譲れぬ部分もあるだろうし、妥協して相手に合わせる部分も必要になる。別に結婚に限った話ではない。言わなくてもわかる――なんて馬鹿げた話はない。


「結局、住む場所や住んでる人間によっても変わるからなあ。まあ、自分から不義理な人間になるつもりもねえけどさ」

「私としては、カンジ殿が良い意味で礼儀に細かいところは良かったと思うぞ?」


 クリスはそっと莞爾のひざ元に手を置いた。


「あんまりそういうしおらしい態度は似合わねえぞ」


 茶化したつもりが、クリスからの反応は恋する乙女といった風で、莞爾は狼狽した。


「その、カンジ殿は本当に――」

「馬鹿言うな。何の覚悟もなくプロポーズなんかするか」


 莞爾は珍しく頬を赤らめて視線を前に固定していた。クリスの方を見れなかった。


「できることなら、クリスの親御さんにも挨拶したいんだけどな。できないもんは仕方ない」

「きっと反対するだろうな」

「どうかな。もし機会があるなら説得してみせるさ」


 莞爾としては「どうせ帰る手段は見つからない」なんて思っても見なかった。むしろ、どうにか手段を見つけてクリスの両親に会ってみたかったし、きちんと結婚の承諾を得たかった。


 いざその手段が見つかったときに、彼女がどうするかはまた別の問題だ。彼女の両親からすれば「どこの馬の骨かわからない男」だということは十分に自覚している。けれども、命は賭けられないにしても、クリスを嫁にもらうと決めた以上は相応の覚悟を持っているつもりだ。


 義両親がいないから気楽で済む、なんて考えは莞爾には毛頭なかった。むしろその点で彼女の心情を慮ることが多くて気苦労が絶えないぐらいだ。


「もし、祖国に帰ることができたら……そうだな」


 家族に会いたいという気持ちは今でも変わらない。

 けれど、莞爾の下を離れるのも嫌だった。もう心に決めたのだ。彼と添い遂げるのだと。


 怖いのは、両親から反対されないかということだけだ。

 両親はともかく、兄はもっと反対するだろうことは容易に想像がついた。


 莞爾も無事で済むかどうかわからない。


 既成事実でもあれば、また話は別かもしれない。



***



 駐車場の警備員の誘導に従って、ようやく神社そばの駐車場に車を止めることができた。


 歩きにくそうなクリスの手をとって参道の方へ歩みを進めると、周りからは注目の的だった。


 言わずもがなクリスが美人であることもあるし、外国人が着物姿で参拝するというのも物珍しい。

 これが浅草や明治神宮あたりなら比較的見る光景でもあるのだが、地方では珍しい。


 おまけに彼女の手を取って隣を歩いている男が、顔の濃いおっさんなのだ。一体全体どういうきっかけで出会ったんだ、と思わずにはいられないだろう。


 参道は人でごった返している。

 駐車場の出口付近で、先に待っていた孝一たち一行が手を挙げて二人を呼んだ。


「おーい、こっちだ」


 孝一が呼ぶが早いか、菜摘がクリスのもとに走り寄ってきた。そのまま、彼女の足元に抱き着き、笑顔を振りまいていた。


「クリスお姉ちゃん、早く行こうよ!」

「むふふっ、そうだな。だが、そう焦るものじゃないぞ。急いでいてはこの人込みでははぐれてしまいかねないからな」


 クリスが優しく諭すように頭を撫でて言うと、菜摘は大きく頷いてクリスの手を取った。一緒に歩きたいのだろう。菜摘も母である智恵に着つけてもらった振り袖を着ているのだが、どこからどう見ても七五三のようにしか見えない。


「菜摘ちゃん、あんまり急ぐといつもと違うからこけちゃうぞ」


 莞爾が優しく注意すると、菜摘は「うん」と笑顔で頷いて、ゆっくりとクリスに連れだって歩き始めた。


 ゆっくりと孝一たちの方に向かうと、伊東夫妻も含めて全員が菜摘を微笑ましく眺めていた。


「しっかし、すごい人込みだな」

「まあ、今日はまだ世間はお休みだ」


 孝一は「そりゃそうだ」と肩を竦めた。隣にいる智恵はといえば、久しぶりに家族でお出かけができていることに嬉しそうにしていた。本音を言えば、きっと菜摘と手をつないで歩きたかったのだろう。けれど、菜摘がクリスと手をつないで楽しそうにしているところを見ると、中々自分から手をつなごうとはできないようだった。


 その様子を見るに見かねたのか、スミ江が智恵の背中をとんっと押した。


「ほらっ、お母さんでしょう?」


 思わず振り向いてスミ江の苦笑するところを見て、智恵もまた苦笑した。まだ他人行儀にするつもりか、と言われているような気がしたのだ。


 事の経緯は詳しくは聞いていないものの、スミ江も嗣郎も孝一とは親しい仲であるし、由井の家とは古くから懇意にしている関係でもあった。そのあたりのことはいくらか伝え聞いているようだ。


「その……」


 何かを言おうとしても、またスミ江に肩を叩かれて、智恵は前を向いた。菜摘を見て、震える手を伸ばしかけた。


 不安そうな視線を向ければ、クリスは何かを察したようだったが、菜摘は首を傾げていた。


 クリスはくすりと微笑んで、菜摘の背中を優しく押してあげた。


「せっかく、久しぶりに会ったのだろう? 今日ぐらいはトモエ殿と手を繋いだらどうだ?」


 私とならばいつでも会えるではないか、とクリスが言うと菜摘はわずかに逡巡したものの、クリスの手を離して差し出された智恵の手を取った。


 佐伯家の庭先で手を繋げるぐらいには仲直りもできたはずなのに、離れている間にまた少し距離が開いてしまったらしい。

 どこかよそよそしい雰囲気に莞爾は孝一のわき腹を肘で小突いた。


「ほら、反対側が空いてるぞ、兄さんやい」


 そっと耳打ちすれば、孝一は「お前に言われなくても」と苦笑して、もう片方の菜摘の手を取った。


 三人は顔をちらちらと見合わせて照れたように笑った。


 その後ろで伊東夫妻と莞爾とクリスはにやにやと笑っていた。


「じゃあ、行きましょうか」


 孝一が恥ずかしさを隠すようにゆっくりと人込みの中を歩いていくのに従って、一行は参道を進んでいく。クリスは注目を浴びているが、堂々としたものだ。いっそ見せつけるように莞爾の傍を離れない。


「……おい、ちょっと歩きにくいぞ」

「むぅ、この人込みでははぐれてしまうではないか」

「いや、まあ、そうだけど……」


 いつもならクリスの方が恥ずかしがるのだが、人目があると莞爾の方が恥ずかしいようだ。クリスはここぞとばかりに彼の腕を掴んでいた。彼女もようやく耐性がついてきたらしい。


「若いのう」

「若いねえ」


 その後ろで伊東夫妻が五人の様子を微笑ましく眺めていた。



 しばらく進み、手水舎で手と口を清める。クリスは莞爾に教えられてしきりに感心したように頷いて、なんとか上手い具合にできたようだ。しかし、まだまだ冬の真っ只中ということもあって、莞爾から受け取ったハンカチで手を拭いたもののかじかんで痛いくらいだ。


 莞爾はそっと手を取って「手袋ぐらい買ってやればよかったな」と言う。日頃は軍手か作業手袋をしているので、防寒用の手袋を買うという考えがそもそもなかった。首回りは和柄のストールをスミ江にしつらえてもらったからこそよかったが、手元は冷えて仕方ない。


 けれど、ぎゅっと手を握られれば少しばかり温かくもなるし、なんだかへっちゃらになった。

 くすくすと笑い合う二人を菜摘がじっと見つめていた。

 視線に気づいたクリスが「どうした?」と尋ねると、菜摘は平然と言った。


「なんだかクリスお姉ちゃん雰囲気変わったね」

「へっ……」

「だって、いつもすごくかっこいい雰囲気だったのに、今は女の子みたい!」


 その瞬間、顔を周りに向ければ莞爾はからかうように笑っているし、伊東夫妻も由井夫妻もにやにやと笑みを浮かべてクリスを見ていた。


「なっ、ななっ、ちがっ、これは何かの勘違いなのだっ! なっ! ナツミ!」

「ううん、やっぱり変わったよ」

「むきゃっ!」


 思わず莞爾の手を払いのけてずんずん先を急ぎ始めたクリスだったが、人込みのせいで進むこともできず、結局莞爾に手を取られて大人しくなった。


「むぅ、は、恥ずかしいのだ」

「なんだよ、さっきまでこっちが恥ずかしくなるくらいくっついてたくせに」

「それは……」


 事ここに至って、菜摘に指摘されるとなんだか恥ずかしさが募る。先ほどまでの態度があからさまに女の子だったというのが恥ずかしくてたまらない。白い肌もすっかり赤くなってしまった。ついさっきまでは寒くてかじかんでいた手も、無性に熱く感じるくらいには。


 後ろでは首を傾げている菜摘に智恵が優しく諭してあげていた。


「好きな人と一緒にいると、ああなるものなのよ」

「お兄ちゃんのこと? クリスお姉ちゃんが?」


 菜摘は莞爾とクリスの関係がどういうものか全く知らなかった。今まで尋ねずにいたが、クリスからは莞爾が家主ということしか聞いていない。


「家族じゃなかったの?」

「これから家族になるの」

「よくわかんない」

「お父さんとお母さんみたいになるのよ」

「……そうなんだ」


 まだ初恋も知らぬ菜摘には想像もつかないことだったが、以前の孝一と智恵の関係を思い浮かべて、二人が喧嘩するのだろうかと少し心配になった。


 けれど、ふと顔を上げれば優しい眼差しを向けてくれる両親が視界に入る。握った手のひらから二人の温かさがじんわりと伝わってくる。


「じゃあ、お母さんもお父さんの前なら女の子になるの?」

「えっ……」


 突然核心を突く菜摘に智恵は狼狽えた。

 菜摘はそういえば、と思い出した。

 昨晩、川の字になって三人で寝ていたが、ふと孝一と智恵が話をしているのに気づいて目が覚めた。寝ぼけ眼でよく覚えていないが、智恵は「今ならまだ二人目も間に合うかも」と言っていた。なんのことだか菜摘にはわからなかったが、その時の母親の顔はいつもの智恵の顔ではなかったように思う。


――ははーん。あれが女の子の顔。


 菜摘は理解した。


「なんか、やだ」


 なぜだかクリスが莞爾に取られたような気がした。自分の大切な友達が自分に構ってくれなくなるのではないかと思った。


 そんな菜摘の思考を知らない智恵はなおも狼狽えていた。


「な、なにが嫌なの?」

「だって、遊んでくれなくなるもん」


 脈絡がないにもほどがある。けれど、智恵はしばらく考えて、「確かに二人目ができたら菜摘にかける時間も当然少なくなる」と内心で気づき、どう言ったものかと頭を悩ませた。


 親子もまたすれ違うものであるらしい。災難は内容がずれているのに会話が成立してしまうことだった。


 それからしばらく人の流れに押されるように進み、境内の奥深くにまでたどり着いた。


 お賽銭箱の前に立って、菜摘が率先して鈴を鳴らした。


 からんからんと乾いた大きな鈴の音がして、各自お賽銭をそっとお賽銭箱に入れる。クリスは財布を持っていないので、莞爾が五円玉二枚を入れた。


「二礼二拍手一礼だぞ」

「う、うむ」


 莞爾の見よう見まねで参拝し、ろくに祈ることもできずに人の流れに押し出されるように、瞬く間に参拝を終えてしまった。


「あ、あっという間だったな」

「初詣はそんなもんだな。別に神様に祈り事なんてねえし」


 困ったときにだけ神頼みをしても、普段信じてもいないような人間を助ける気にはならないだろう。人間だって疎遠な知人がいきなり助けてくれと言ってきても「何言ってんだ、こいつ」となるのだ。姿勢が見えなければ誰だって手を差し伸べようとはしない。


 とはいえ、莞爾だって人並に「無病息災」ぐらいは祈っている。


「では、何のために参拝するのだ?」


 ふと疑問に思ってクリスは尋ねた。どちらかといえばクリスの祖国エウリーデ王国も多神教であったし、神道の考えに近い部分もあったが、神に祈るということは少なからず力を頼りたいという部分が大きかった。


「どうだかなあ、俺にもよくわかんねえな」


 別段大きな病気を抱えているわけでもないし、何かに困窮しているわけでもない。けれど、大多数の日本人がそうであるように、どうにもできない――抗いようのない現実は突然現れて理不尽さを突きつけてくるものだと理解している。


 人間なんて所詮はちっぽけな存在だ。自分は何のために生れて来たのか、そんなことを考え始めるとやがて宇宙の存在にまで話は飛んで「宇宙のでかさに比べたらこんな悩みなんて些細なことだな」と思ってしまうものだ。


「嗣郎さんならもうちょっとマシな答えが出てくるんじゃねえか?」

「ふむ……まあ、人に教えてもらうものでもないか」


 クリスは結局嗣郎に尋ねなかった。


 孝一たちの後ろをついていくと、社務所傍でおみくじを見つけた。


 莞爾は「交通安全」のお守りを買った。智恵はこっそりと「安産祈願」のお守りを購入したが、スミ江にばっちり見られていた。


 ちなみに、お守りなどを購入しても巫女さんを始めとして売り手は礼を言わない。頭を下げるくらいはするが、そういうものである。場所によっては言うかもしれない。


「お父さん、おみくじ引きたい!」


 菜摘が孝一におみくじをせがみ、クリスは莞爾に尋ねた。


「おみくじとはなんだ?」

「まあ、あてにならない未来予想みたいなもんだな。引いてみるか?」


 莞爾は自分の分と彼女の分の代金を払って、それぞれでおみくじを引いた。

 がさがさと箱の中からおみくじを引き、まずは自分のおみくじを見た。


「……末吉。まあ、そんなもんか。どれどれ」


――仕事、我意はあるべからず。目上の人にしたがふべし。

――縁談、障害多し。急いては事を仕損じる。


 わがままを言わずに目上の人に相談しろ、結婚はトラブルが多いから焦るな、ということらしい。莞爾は思わず無言になった。


「カンジ殿? 私のも読んでくれ」


 まだ文字がよくわからないクリスが自分の分も教えてくれとせがんだ。


「あ、ああ。わかったわかった。えっと……おおっ、大吉だな」

「だいきち?」

「一番いい運勢ってことだよ。俺は末吉。まあ、悪いようにはならないぞって感じ」

「ふむふむ。それでなんと書かれているのだ?」

「えっと……」


――縁談、急ぐべし。

――望みごと、かなふ。すこし遅し。


「……急げって」

「……逆に不吉な気がするのだが」

「俺は焦るなって書いてあったんだが、クリスは急げか……」


 おみくじとはそんなものである。早々当たりはしない。


――大抵、当たりはしない。


「ま、まあ、望み事は叶うというのだから、良しとしようではないか」

「なんの望みだかはわかんねえけどな」

「むぅ?」

「いや、そんなもんだろ」


 そんなものである。


「他には何が書いてあるのだ?」

「うーん、要約すると……大抵のことは上手くいくけど、もしものことがあるから注意しろ、ちゃんと神仏に手を合わせろってところかな」

「ふむ。まあ、それならばよいか」


 一方で莞爾はと言えば、あまり良いことは書かれていなかった。末吉なのに凶かと疑うほどの内容だった。


「争い事、叶い難し、か」


 一体誰と争うことになるかはわからない。けれど、所詮はおみくじだ。

 当たるかどうかもわからない。


「クリスお姉ちゃん、菜摘、大吉引いたよ!」

「そうか。私も大吉だったぞ」

「えへへ、お揃いだねえ」


 能天気に笑っている二人を見ると、不安も吹き飛んだ。

 ふと隣で「健康長寿」のお守りを購入した嗣郎が言った。


「まあ、一生懸命やったら損はなかろう」

「……ですか」


 一体いくつまで生きる気でいるんだろうか。

 まだまだ現世に留まり続けるつもりらしい。


「嗣郎さんはおみくじは?」

「病人諦めが肝心、なんて出たらたまらんわい」


 老爺はけらけら笑う。莞爾は呆れて苦笑した。


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