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元旦

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

大変長らくお待たせ致しました。拙作の更新を待ち望んでいらっしゃった方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。すみません。


※間も空いてしまいましたし、内容を覚えていない方に読み直しをしてもらうのも申し訳ありませんので以下、前章のざっくばらん過ぎる粗筋です。



―――――――――――――



 莞爾とクリスは再会し、彼女が彼の下で雇用される形で同居することになった。


 時には一緒に農作業をして、時にはご近所の人たちと親交を深め、二人は毎日を楽しく過ごしていた。


 伊東夫妻とのほのぼのとした付き合いもあれば、菜摘と出会ったことで面倒な事態にもなった。

 全部上手くいったわけではないけれど、良い方へと向かっていた。


 伊東夫妻からは「いつ結婚するんだ?」とからかわれるくらいだった。


 12月になり、莞爾の畑に猪による獣害が起こった。

 おかげで育てていた玉ねぎが重大な被害に遭ってしまった。


 それでもなんとか頑張って立て直そうとする莞爾。


 その莞爾の様子を見ていたクリスは、獣害を自分のせいだと思い込み、被害に遭った玉ねぎに魔法をかけてしまう。


 よかれと思って魔法を使ったクリスだったが、それがかえって莞爾を困らせる事態になってしまった。


 そのことにショックを受けたクリスはろくに謝ることもできずに、莞爾の下を抜け出してしまう。


 雪の降る中、山の林の中に寝そべっているクリスを、莞爾はやっとの思いで見つけてしかりつけた。


 彼女は異言語翻訳機能をオフにしており、仕方なく強引に唇を奪った。


 二人はお互いの気持ちを伝えあい、ようやくスタートを切った。


 元旦。


 いつもなら仕事にとりかかる時間帯だったが、莞爾は納屋の屋根の上にいた。

 梯子で上った甲斐もあって、東の尾根が庭木の頭越しに見えた。

 だんだんと東の空が明るくなり、濃いグラデーションが長く伸びていく。


「ここにいたのか」


 クリスが体をぶるっと震わせて下から尋ねた。莞爾は手招きして「おいで」と呼んだ。梯子を登ってきたクリスは彼の隣に腰を下ろした。すると、彼は「寒いだろ」と言って、彼女の後ろに座り直し、自分の上着を広げて彼女を後ろから包み込んだ。


「む、むぅ……」


 すっかり赤面しているクリスは、すっぽり彼の腕の中に収まり前を向いたまま言う。


「か、カンジ殿。一応ここは外なのだが……」

「こんな時間帯だし、誰も外に出ちゃいないさ。元旦だし」


 そういう希望的観測はいつだって外れるものである。


「それともまだ寒いか?」

「いや、温かい」


 少し薄着で出てきてしまったことを後悔したものの、これはこれで正解だったとクリスは小さく笑った。


「日の出を待っているのか?」

「ああ。そろそろなんだけど」


「こういってはなんだが、カンジ殿はあまりそういうのに興味がないのかと思っていた」

「心外だな。まあ、晴れてる日は大抵朝日拝んでるけど、やっぱり初日の出ってのは別格だな。いつもと一緒だけどな」


「そういうものだろうに」

「まあ、そういうものだな」


 昨晩は嗣郎に付き合って、結局カウントダウンまで一緒に酒盛りをする羽目になった。とくにカウントダウンで盛り上がるような若い人間がいなかったし、クリスも「なにが楽しいんだ?」という感覚でテレビを見ていた。

 歌番組も歌詞が聞き取れないのでずっと音だけらしく、莞爾がとなりで歌詞を棒読みしてやることもしばしばだった。嗣郎たちは「何をやってるんだ?」と不思議そうにしていたが、とくに尋ねることはなかった。


 クリスは紅白歌合戦を一通り見たものの、「ニホンの歌はおかしい」という印象を抱いたようだった。その「おかしい」の理由は「なんだかごちゃごちゃしている」というものだった。莞爾は「まあ、わからんでもない」と返したのを覚えている。彼女からすれば演歌もロックもポップスも馴染みがないし、言葉が聞き取れないのであまり楽しくなかったようだ。


 彼女は彼の肩に後頭部をもたれかけて大きく欠伸をした。


「ツギオ殿はあの年でよく酒が進むものだ」

「だからほどほどにしとけって言っただろうに」


 結局深夜二時まで一緒に飲んでいた。ちなみにスミ江はさっさと寝た。


「まあ、おかげでオセチも完成したし、ありがたいことだな」

「そうだな。まあ、二人とも人間ができてるから」

「むふふっ、そうだな」


 少し皮肉のように感じながらも、やっぱりあの二人はお人好しなんだろうと思った。

 ややあって、東の空から眩い光が漏れ始め、東の尾根は山吹色に輝き、やがて大きな太陽がゆっくりと顔を出し始めた。


「美しいな……」


 呟くクリスに対して、莞爾は無言で朝日を拝んでいた。

 その様子にクリスもふっと微笑んで朝日に祈った。

 どうか、いついつまでも、と。





 食卓にお節を並べ終わったところで、莞爾は神棚に手を合わせた。それから仏壇に向かい、今度はクリスも一緒に隣に座らせた。


「クリスはわかんないだろうし、とりあえず手を合わせておけばいいだろ?」

「ゆくゆくは覚えねばなるまいな」

「うーん……」


 とはいえ、個人の信仰心なんて強制するものではないとも思う。どうしたものかと考えていると、クリスは「それこそ気にする必要はない」と言った。


「考えてもみろ。ここは私のいた世界とはまた別なのだろう? であるならば、この世界にはこの世界の神々がいるはずではないか。逆に言えば、この世界に私が信じていた神はいるかどうか……まあ、怪しいところではあるな」


 その手の柔軟な発想は、彼女の祖国が一神教ではなかったからだろうか、と莞爾は心なしか納得せざるを得なかった。先祖崇拝をしているわけではないし、ただ供養のつもりなのだが、クリスは別に違和感を抱いてはいないらしい。


「先祖を敬うことに悪いことなどあるまい。サエキ家代々の先祖がいたからこそ、こうして私はカンジ殿と出会うこともできたのだからな」


 少し恥ずかしがりながらも、彼女ははっきりとそう告げた。莞爾は「それもそうだな」と頷いた。確かに言われてみればその通りだ。偶然という一言で片づけてしまうのも、それはそれで一つの考え方なのだろう。けれど、一方で運命的な何かを感じるのも仕方がない。運命というには大げさで、せいぜい縁があったという程度の認識だ。


 一緒に仏壇に参って、線香の灰がぽとりと落ちるころ、二人はゆっくりと立ち上がった。



 食卓に戻り、対面するように座ると、莞爾は改まった様子で背筋を伸ばした。クリスもそれにつられて背筋を伸ばした。


「新年あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろありましたが、今年もよろしくお願いします」


 莞爾の口から妙によそよそしい言葉が出てきて、クリスは「ああ、そういう儀礼か」と内心で頷いて同じように返した。


「なにやら初めてのことばかりでわからぬが……新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」


 日ごろに比べて幾分か丁寧な言葉になっていた。


 莞爾はにっこりと微笑んで漆塗りの屠蘇器を出した。


「元旦に飲むんだ、これ。屠蘇ってのが中に入ってる。まあ、薬用酒みたいな感じかな」


 屠蘇は若いものから飲むのが習わしだ。


 ちびりと舐めるように飲んで、クリスは「ほう」と息を吐いた。莞爾に器を渡して、促されるまま彼にも注いだ。


 そうして飲み終わったあとで彼は「どうだった?」と聞いた。


「不思議な味だった」と彼女は微笑んだ。

「まあ、そうだよな。俺もあんまり得意じゃないけど、なぜだか飲まないと元旦って感じがしないから不思議だ」


 続いてクリスは得意げにお重の蓋をとった。

 莞爾は思わず感嘆の声をあげた。


「へえ、すごいな! 初めてでよくここまで作ったじゃないか」


 色とりどりの料理は、その見栄えだけでも素晴らしい。三重の重箱に所狭しと敷き詰められたお節料理は食べるのも勿体なく見えてくる。


「むふふふふっ。で、あろう?」


 彼女は誇らしげに胸を張ったものの、苦笑して「ほとんどスミエ殿の作ったものを拝借したのだがな」と弁明した。


「私が一人で作ったのは、そのダテマキと、クリキントンぐらいだ」

「いや、初めてなら十分だろ。他のも手伝ったんだろ?」

「うむ。そうだぞ」

「へえ、楽しみだな」


 お節料理は元々祝い膳であり、同時に保存食の意味合いもあった。三が日は竈の神様に休んでもらおうという意味もある。江戸時代後期に宮中の催しが庶民の間にも広まったことに端を発する。

日本人は語呂合わせや縁起を担ぐのが好きだ。数の子は子沢山、田作りはもともと五穀豊穣のために小魚を田畑に撒いたことに由来する。他にも黒豆は「まめまめしく働く」とか、昆布巻きは「喜ぶ」に掛けている。何かと食材を巻きたがるのは、昔の書物が巻物だったからだ。


 そのように謂れや意味があるのだと教えると、クリスは面白そうに頷いた。


「だが、このダテマキはどういう意味があるのだ?」

「そういえば、ダテマキの意味って知らねえな。正月しか食べないけど……まあ、伊達ってつくぐらいだから、洒落てるとか、そういう意味なんじゃねえの?」


 諸説あるが、本当だ。


 クリスは適当に相槌を打ちながら、まずは黒豆を口にした。


「あー、なんというかスミエ殿の味はほっとする」

「そうだな……」


 これぞ田舎のお袋が作った味である。莞爾は菊花カブの酸っぱさに眉根をよせつつばりばりと音を立てて咀嚼した。


 クリスは黒豆を数粒口の中に入れて、ころころと転がしては噛み砕いた。じんわりとにじみ出るような甘さはしつこさがなく、噛めばほろりと崩れてしまう。ちょうどよい柔らかさだが、豆の薄皮に皺もよっておらず、歯が当たればぷつんと切れるちょうどよい塩梅だ。


 続いて莞爾が食べていた酢の物を口にしたが、思わず口をとがらせて目を閉じた。


「ちょっと酢が強いよな」

「むぅ……」

「いや、嗣郎さんの舌がおかしいんだけどな。あっちは酢の物って言ったら、本当に酢漬けってレベルだからな」

「ら、来年は私が別に作ろう……」

「うん。そうした方がいいな」


 二、三日も経てば少しは酢も和らぐだろう。それまでは食べない方が無難だ。


 莞爾はクリスが作ったという伊達巻を口にして、しばらくその柔らかさとほんのりとした甘さに舌鼓を打った。

 クリスは恐る恐る莞爾の顔を覗いている。初めて作った伊達巻にしては焦げてもいないし、味はスミ江のお墨付きだ。けれども、莞爾が気に入ってくれるかどうかまではわからない。

 莞爾は大きく頷いて一言、「美味い」と言った。


 その瞬間、クリスは花が咲いたように笑顔になった。


「むふっ、むふふっ、そうか、美味いか。むふふっ」

「なんだよ、にやにやして」

「むふふっ」


 どうにかして緩んでしまう頬を元に戻そうとするのだが、どうしても上手くいかない。手を離せばすぐにでもまた頬が上がる。


「スミ江さんに教わってるせいもあるけど、やっぱりスミ江さんの味をよく再現してるな」

「むっ……」


 クリスは少しムッとして、今度は自分でも伊達巻を食べてみた。柔らかい食感で、ほんのりとした甘さ。すり身のうまさもちゃんとする。口の中でほどけるように噛み砕けば、瞬く間に溶けるように味が口いっぱいに広がる。


 美味しい――我ながら良い出来だとは思った。けれども、なぜだか彼の言葉がひっかかった。


「どうかしたか?」


 莞爾が尋ねると、クリスは「ああ、そうか」と答えに気づいた。上手に作るためにスミ江の言う通りに作ったのだから、スミ江の味に近づくのは当然だ。

 けれど、やっぱりそこは「クリスの味」だと言ってほしかったのだ。


「まあ、私にはまだ実力が足りぬな」

「いや、何の話だよ」

「むふふっ、こっちの話だ」


 まあよい――クリスはほくそ笑んだ。いずれ「お袋の味」を自分のものにしてみせる。彼女は「むふふん」と得意げに笑って数の子を啄んだ。口の中で小さな魚卵がぷちぷちと潰れた。



***



 佐伯家の雑煮はすまし仕立てだ。軽く焼き目をつけた切り餅をさらに湯がいて柔らかくする。出汁で煮た里芋をお椀の底に敷いて、その上に柔らかくなった餅を置き、上から出汁をかける。具材は主に根菜で、ついでに蒲鉾が乗る程度だが、柚子皮を少し散らせば風味も良い。


「うん。やっぱり里芋が入ってないと雑煮じゃないよな」

「餅が主役ではないのか?」


 びろーんと伸びた餅を箸で切り、クリスはもぐもぐとして、顔をふにゃふにゃと歪ませている。

 昔はもっぱら切り餅を関西風に煮て濁らせていたのだが、いつの間にかすまし仕立てになった。地域的にはすまし仕立ての方が珍しいのだが、餅はやっぱり関東風の切り餅である。


 ところが、なんだかんだと他方の特色が混ざりつつも、やっぱりそこは山間の土着民と言うべきか、食文化としてはイモに何かしらのエートスを感じてしまうものなのである。米の栽培が難しい寒冷地や、水田面積の小さい山間部などでは里芋文化が根強いことも多い。元を辿れば縄文文化と弥生文化の融合にまで遡ってしまう。


「いやいや、主役はイモだ」


 莞爾は里芋を箸でつまんで断言する。

 クリスは首を傾げて言った。


「だが、スミエ殿もツギオ殿も、ゾウニはモチが入ってないと、と言っていたぞ?」

「裏切り者め……」


 柔らかくなった餅で出汁の味が染みた里芋をくるりと包んで食べれば、カロリーの相乗効果でこれまた美味い。何かと背徳的な味である。


「まあ、美味けりゃなんでもいいんだけどな」


 雑煮は地方色が強い上に、各家庭でも全然違う。そこが面白いし、それぞれで工夫が凝らされていて美味しいのだ。


 お雑煮まで食べ終わり、腹を叩いて後ろに手をつく。どうにもオヤジ臭い動作で「満腹だ」と訴えた。


「ガンタンはのんびりと過ごすものなのか?」

「まあ、世間一般的には、なあ」


 たまにはいいだろう、と封を切った玉露のお茶を飲む。香りがよくて余韻が長い。


 莞爾は食卓の汚れた皿を重ねながら言う。


「もとは百姓だからさ、お節料理だって大して贅沢な代物じゃなかったんだよ。何かにつけて仕事はあるしなあ。せいぜい田作りと煮しめぐらいだったらしい。まあ俺が生まれる前の話だけどさ」

「ふむん?」

「まあ、言い分はわからんでもないんだが、じいちゃんがそういう人だったらしい。それで、お袋が嫁いできてから変わったんだと」

「ほう、何やら込み入った経緯があったのか」

「別に、込み入った話ってわけじゃないさ」


 莞爾が立ち上がったのにつられて、クリスも片付けに立ち上がった。


「単純な話、贅沢が気に食わなかったわけだ」

「贅沢が気に食わない? どういう意味だ?」

「お袋はもともと大谷木町の出身でさ、節目の行事は盛大にする実家だったらしい。そんで、佐伯家はもともと土地も少ないし、財産もなかったから行事でも最小限に抑えるところがあったわけだ。まあ、ケチというよりも身の丈に合った生活をしていたんだろうな」

「それで、贅沢はダメだ、と」

「いや、そうはいっても今だって大した贅沢でもないけどな。じいちゃんも百姓は正月から働くものって考えがあったんだろ。俺もよく知らん。まあ、もしかしたら単純な嫁いびりの可能性もあるけどな。他所から嫁いできた若い女が、今まで食べてきたお節よりもはるかに良いもの作ってみろ。そりゃあ馬鹿にされてると思うこともあったんじゃねえか? けど、やっぱり美味いものに罪はないっていうか、親父が言うには文句言いながらもぱくぱく食ってそそくさ外に出て仕事してたらしいぞ」


 今を生きている人間が、過去の人間の思いを推測するなんて、土台無理な話である。ああだこうだと決めつけるのも、当時の人間にとっては失礼千万な話だろう。


「まあ、元旦ぐらいのんびり過ごしたって罰は当たらねえよ。世間様だってだいたいは休んでんだし」


 そうじゃない人ももちろんいる。人が休む時に働く人も当然いる。


 一通りの片づけを済ませて時計を見れば、ちょうど正午を過ぎたあたりだった。

 あれこれと長話が過ぎて、昼食も兼ねてしまったようだ。

 二人ともコタツに潜り込んで何をするでもなく目があった。


「さて、どうするかな」

「のんびり過ごすと言っていたではないか」

「いや、それはそうなんだけどさ……」


 日頃から「休む」ということをしない莞爾は、いざ何もしない時間を与えられると困ってしまう。

 検査入院をした時も困り果てた挙句に筋トレに励んでいたくらいだ。外に出れば何かと仕事が見つかってしまうので、家の中にいるとなんだかうずうずしてきてしまう。


 そうして振り返ってみると、父親もろくに休むことを知らない人種だった。どうやらそういう家系の血筋らしい。


「まったく、根っからの仕事人間だな」

「そうでもないと思うんだけどなあ……」


 仕事人間である。これが農家だから定年もないが、もしも会社勤めを続けていたら、定年退職の末に趣味もなく、日がな一日ぼけーっとテレビを見て過ごし、挙句の果てに熟年離婚を突きつけられてしまうに違いない。


「家の掃除でも――」

「昨日までにすべて終わらせているし、それは私の仕事だ」

「洗濯物でも――」

「それも私の仕事だ」

「後片付けは――」

「ついさっき終わらせたではないか。少しぐらい落ち着いていられないのか」


 コタツから抜け出そうとする莞爾を押さえつけて、クリスは隣に座った。

 盛大にため息をついて、莞爾はクリスの肩を抱いた。


「あー、そういうこと?」

「そういうこと、とはなんだ! そういうこと、とは!」


 顔を真っ赤にしてクリスは、莞爾に抱き着いて額をぐりぐりと彼の首筋に押し込んだ。

 彼は「痛い痛い」と適当に言いながら、彼女の頭を撫でた。


「最近一緒に寝てるじゃないか」

「それは……そう、だが」

「足りないのか?」

「足りる足りないの話ではない!」

「なんだ、いちゃいちゃしたかったのか?」

「ちがっ、睦み合いたいわけではないぞっ!」


 そうは言われても、こうしてがっしりと抱き着かれていれば、説得力がない。


「はあーあっ」


 莞爾は彼女を抱いたままぱたりと後ろに倒れた。驚くクリスを優しく受け止めたまま、近くの座布団を手繰り寄せて枕にした。

 一度気持ちを確かめ合ってからというものの、クリスは徐々にだが触れ合うことに積極的になり始めている。その一方で、莞爾は理性を保つのが難しくなっていく。仕方がない。今更やっぱり婚前交渉を、などとは言えないのである。男に二言はないのであった。


 莞爾が触れるのはせいぜい背中と肩、それから首から上ぐらいだ。それよりも危険領域に手を伸ばしては彼女が許す以前に理性が保てないのである。面倒くさい男である。


「まあ、今日ぐらいは寝正月でもいいかな」

「そっ、そうだぞっ! ゆっくりするのだ!」

「いや、耳元で大きな声出さないでくれよ」

「む、むぅ……すまない」


 拗ねて口を尖らせるクリスだったが、優しく頭を撫でられているうちにすっかり大人しくなってしまった。


 しばらくぼおっと天井を眺めていると、恐る恐るクリスが口を開いた。


「なあ、カンジ殿」

「んー?」


 コタツで足元が温かいので、ついうとうととし始めていたが、彼女の声で我に返った。


「その、ホナミ殿には私との、その……」

「ああ、言ってるよ」

「そ、そうか」


 結婚を承諾したものの、結婚式はどうなるのだろうという不安があった。浮かれているばかりではない。仕来りも風習も文化も違うのだから、できるだけ準備期間は長い方がいい。

 そう思って尋ねてみたのだが、莞爾は小さくため息をついた。


「まあ、あいつも今は帰省中だし、込み入った話は来週ぐらいに返答するって言ってたけど……仕事が残ってるらしいぞ、クリスの」

「私の? はて……」


 検査入院を終えてから一か月、穂奈美に言われるがまま協力したはずだが、と思い出してみるのだが、確かに何か言われていたような気がした。


「むぅ、そういえば『年が明けたら』と言われていたような気がするな」

「まあ、だろうな。一か月そこらですべて片付くわけもねえし。こっちに来るまで何してたんだ?」


 ぽんぽんと頭を優しく叩かれて、クリスは彼と再会する以前のことを思い出していた。思い出されるのは魔法の実験ばかりだった。


「うーむ。なにやら魔法を見せることが多かったな。それに実験に付き合わされることもあったぞ」

「それ以外は?」

「ふむん。確か、取り急ぎ魔法の研究をしようという話だったな。一通りの結果が出たら再度実験をするとかしないとか。あと……ああ、そうそう。確か祖国のことについて調べたいことがあるとも言っていたな」

「なるほどねえ。まあ、予想通りと言えば予想通りだな」


 莞爾の想像では、彼女の生きていた世界の文明レベルからして、地球の過去に照らし合わせることも可能なのではないか、というものがあった。もちろん地球に魔法はなかったけれど、社会制度については参考になることが大いにあるのではないかと思っていた。

 そう考えると、文化的側面から人類学へのアプローチができるのではないかとも予想がついた。


 けれど、そういったものは後回しになっていたのだろう。早急に取り組むべき問題ではない。それよりも魔法の方が確かに優先度は高い。


「そういえば、考古学者というものもいたぞ。たしか名刺とやらも貰った」

「へえ。名前は?」


 うろ覚えでクリスが答えた名前はテレビにも頻繁に出演する考古学者だった。エジプトあたりによくいる人だった。


「あー、すげえな。なんで俺んところ来たんだ?」

「言わせるな、このっ」


 胸を小突かれて、莞爾は「へいへい」と悪びれて謝った。


「しっかし、これだけ暇だと、テレビも見れるようにした方がよさそうだな……」

「てれび、か。まあ貴殿は楽しめるだろうな」

「そういえば、クリスは言葉が聞き取れないんだったな」


 聞き取りの練習にはなるかもしれないが、バラエティー番組の崩れた日本語を覚えてしまわないか、少し不安でもある。


「日本語の勉強、進んでるのか?」

「まあ、それなりに。だが、辞書がないからな」

「だよなあ。英和辞書とかならそこらへんでも売ってるけどさ」

「はあ? 辞書がそんなに手軽に手に入るものか」


 クリスの常識では、辞書とはその道の専門家が手書きで一生をかけて書き上げるものであった。本の類が容易に手に入る世界だとは知っているが、辞書までもその範疇だとは思いもしなかったようだ。


「いや、クリス。この世界にはネット辞書なんてものもあってだな。大抵のことはわざわざ本を買わなくても調べることができるんだぞ」

「……そ、それでは著作者が儲からぬではないか!」

「うーん、まあそうだよな。けど、ネットはネットで信用性が低かったり、出典が不明だったりする問題もあってだな」

「さっきからねっと、ねっと、と。そのねっととやらは何だ?」

「うーん、ネットはネットなんだが……世界中に網の目のように広がった情報伝達手段というか、情報集積場というか」

「むぅ?」


 莞爾の説明をしばらく自分の中に落とし込んでいたクリスは唐突に言った。


「なるほど。わかったぞ。ヴィラドーマの書物庫のようなものだな」

「ヴィラ……なんだって?」

「ヴィラドーマの書物庫、だ。ヴィラドーマは英知の女神だな。全ての人は死ぬ瞬間に記憶がヴィラドーマによって記録され、書物庫に保管される――まあ、そういう神話だ。幾星霜の時を超えて、人類が消失してしまった記録さえも残っている場所だ。まあ、神学的な意味が大きいし、所詮は神話だな」


 所詮は、と言うからにはクリスもあまり信じていないのだろう。莞爾は少し意外だった。


「なんだ、信じてないのか」

「信じてないというか、そもそも何百年も前に存在自体を否定されたのだ」

「はあ?」

「難しいことは私にもさっぱりなのだが、友人が言うには魔法学的に人間の魂の痕跡が神的領域に存在することは不可能であるらしい。確か、魂の存在は消失するのではなく普遍になる、とかなんとか、そのようなことを言っていた」

「えっと、よくわかんねえけど、神様を肯定するならそれって意味するところは一緒なんじゃねえのか?」

「いや、それが違うのだ。魂が普遍化する、とは魔法学的用語であって、我々が理解するところで言うと、詰まるところ『土に還る』と同義だな。そこから転じて、ヴィラドーマの書物庫は神的領域に存在するのではなく、まさに我らが生きているこの世界の要素のひと――」


――なるほど、わからん。


 莞爾は適当に「へえ」とか「すごいな」とか相槌を打って話を聞き流した。聞いているうちに眠たくなった。


 すっかり熱が入ってしまったクリスは莞爾の様子にも気づかず、祖国の神話について熱弁を振るっていた。


「だからな、このヴィラドーマが武神ゲルドラードの求婚を断ったのはヒゲが濃いのに頭が薄い、という武神の謂れからは理不尽な理由であって、このことから例えどのような身分であろうとも権力で全ては解決できないという……おい、聞いているのか?」


 存外に神様らしからぬ求婚の拒否の仕方を楽しそうに語ったクリスだったが、莞爾は寝ていた。

 むっとして彼を揺すり起こそうとしたのだが、よくよく考えてみると、こんなに呑気な顔をして寝ているのも珍しいと気づいた。

 居眠りは別に珍しいことではないのだが、彼が居眠りをするときは決まって疲れているようにしか見えないのだ。


 眠っているときでも眉間に皺が寄っていることが多いぐらいなのに、どうしてか今は目元に力が入っていない。ずいぶんと安心しているように見えた。


 彼の頬を指先でつんつんとつついてみると、彼は寝ているはずなのにふっと笑った。何度か繰り返してみると、さすがに嫌になったのか鬱陶しそうに顔を背けた。


「むぅ……」


 せっかく話を聞いてくれているかと思ったら眠っていたなんて、ひどい男だ――クリスはため息をついて彼の腕を枕に目を閉じた。


 柱時計が午後一時を知らせた。コタツで足元が温かいし、莞爾にくっついているので余計に温かくて眠たくなった。彼の胸にそっと耳を当てれば鼓動が聞こえてくる。どこか安心する音色だった。


 元旦ぐらい、のんびりしても罰は当たらない。


新章開始です。


年末年始は多忙でしたが、ようやくひと段落しましたので、以前のペースに戻して更新できたらと思います。頑張ります。

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