閑話 大晦日
大晦日。
今日ばかりは莞爾も外には出なかった。
家の中に残している仕事がたくさんあったのだ。
昨日は最後の墓掃除に一人で行ったし、畑の様子を確認していた。
家の中のことはクリスが毎日掃除しているので大した問題はないけれど、それでも神仏を祀る仏壇や神棚に関しては、彼女も畏れがあるのか決して触れようとはしなかった。
一度どうして触れないのかと尋ねたこともあるが、彼女から明確な答えが返ってきた覚えはない。せいぜい「今の私には、まだ」という曖昧な言葉だけだった。
よくよく考えてみると、彼女は祖国で信じていた信仰もあるだろうし、無理強いすることはないとしても、佐伯家に嫁いでもらう以上は莞爾も家としての信仰を彼女に課さねばならなかった。
課す、というと大仰だが、そんなに難しいものでもない。できるかぎりのことは自分がするつもりでいるが、例えば墓掃除だとかお盆参りだとか、その手の宗教的な行事に参加してもらうだけだ。他意はない。それこそ相手がキリスト教徒であっても個人的な信仰はどうぞ好きにしてください、というのが彼の信条だった。
「まあ、生まれた家の宗教になっちゃうよなあ」
莞爾は神棚の榊の水を変えながらぼやいた。
今にして思うと、十代のころは神仏なんて少しも信じてはいなかった。けれど、信じていないくせに幽霊の類は怖いと思っていたのだから矛盾していた。まあ、大半の人間がそんなものである。
思い出す限りでは、彼の父親は常々「神仏は大事にしろ」と言っていた。
人間の力では説明できないものというのが、確かに存在する。困ったときに助けてくれる神仏なんていない、と彼は思う。ただ、一生懸命頑張っているときに、ほんの少しだけ背中を押してくれるんじゃないかと。
結局は人生哲学のようなもので、彼自身としては自分の力だけではない、と傲慢にならないための考え方なのだろうと思っていた。
それもまた一つの在り方なのかもしれない。
「今年も一年、おかげさまでなんとかやってこれました」
神棚の掃除を続けながら、彼はそんなことを言った。
――おかげさまで。
きっと大切なのは謙虚な気持ちだ。助けてもらおうなんて一度も考えたことはない。ただ、頑張るから見守っておいてください、と彼は毎朝手を合わせていたのは事実だ。
ある意味で原始的で、ある意味で普遍的なものなのかもしれない。
掃除を済ませた後で、手を打って小さく息を吐いた。祝詞なんて知らない。知らないけれども、一年のお礼に思いを募らせることはできた。
「来年もまた、よろしくお願いします。何かと騒がしくなりそうですが……」
そんなことを言って、彼はふっと笑った。
続いて仏壇の掃除も行った。
お供え物を変え、新年の装いに変えた。位牌やお釈迦様の像を濡れ布巾で丁寧に拭うと線香の煤で汚れていたのか布巾が真っ黄色になった。父親が無理して買った高い仏壇もきれいにした。
掃除が終わってお経を一貫あげてみれば、汚れのとれた仏壇は清々しい。
「なんか、助けてもらったみたいで」と彼は呟いた。
返事があるわけじゃない。きっと信仰心のない人間からすれば馬鹿らしい姿なのかもしれない。けれども、彼は言った。
「ありがとうございます。来年もまたよろしくお願いします」
多くを語るのは少しばかり恥ずかしかった。先祖の霊、というとなんだか胡散臭くもあり、畏れ多くもあり、複雑な心境になった。けれど、少なくとも自分の両親がそこに加わっていることは疑いようもなかったし、自分を見守ってくれているんじゃないかと思えてならなかった。
「そういえば、再来年にはお袋の七回忌か」
その数年後には父親の十三回忌もある。実のところ来年には顔も知らない先祖の百回忌がある。何かと金のかかることだが、やらない理由がない。
彼自身正直に言えば、葬式ならまだしも、定期的な供養に何か意味があるのだろうかと考えないこともない。けれど、その都度自分がどうしてここにいるのか、と考え直す機会にはなった。自らのルーツがはっきりとわかる、というのは存外に自分自身の精神的健全性を保つのに役立った。それに亡き両親の姿を思い出し、二人を偲ぶことに何ら無駄を感じなかった。むしろ、その度に親戚一同が集まるので、独り身で何かと礼を失することも多い彼にとってはありがたい機会でもあった。
一人でこの家に暮らし始めてから、先祖の供養を蔑ろにしたことは一度もなかった。はじめこそ忘れていた節もある。けれど、伊東夫妻が忘れないようにその時々で「準備は終わっているか?」と尋ねてくれたのだ。
嗣郎は「若いうちから信心が篤いのも考え物だのう」とよく言った。スミ江も似たようなものだった。「偉い」とは一度も言われなかった。彼らは彼らなりに厳しい時代を生き抜いてきたからこその信仰心があった。老年になって宗教に頼り始めたというわけでもなく、人生の艱難辛苦を知っているからこそ、努力ではどうにもならない限界というものを悟っているのかもしれない。
「むっ、終わったか?」
ふと後ろから声をかけられて莞爾は振り向いた。三角巾をつけたクリスがいた。思いの外似合っていた。
彼はくすりと微笑んで「ああ」と頷いた。
「大掃除、終わったのか?」
「うむ。玄関回りも終わったぞ」
「ありがとうな」
「むふふっ、礼を言う必要はないぞ。屋敷の入り口は当主の顔だ。これもまあ、その……」
少し赤面するクリスに、莞爾は微笑みながら言った。
「妻の務めってか?」
「う、うむっ! そ、それだ!」
まったくこの異世界人は、と莞爾は笑った。よっぽど昔気質にさえ見えた。
「少し休憩にしてお茶でも飲もう」
「おお、いいな」
クリスに誘われるまま、居間で彼女の淹れたお茶を飲んだ。今年の年末はひどく寒い。コタツでは間に合わないかもしれない。かといって石油ストーブを出すほどではない。微妙なところだった。
クリスは柱時計をちらりと見て言った。
「四時になったら私はスミエ殿のもとに行かねば」
「あ、お節作るんだったっけ?」
「うむ。オセチだ! 楽しみだ」
「ふーん」と莞爾は視線を彷徨わせた。
クリスは意外そうに首を傾げた。
「カンジ殿はオセチが嫌いなのか?」
「いや、そうじゃなくて」
なんといえばいいものか。日本人でない彼女が自分の妻になるために日本の伝統を学ぼうとしてくれているのがそこはかとなく気恥ずかしかった。
「スミ江さんにはよろしく言っておいてくれよ」
「むぅ? 今日はもう会わないのか」
「大晦日に用もなく挨拶程度でお邪魔するのは気が引けるだろ。スミ江さんのことだから何かともてなそうとしてくるだろうし」
「ふうむ。ならば私も遠慮しておくべきだったか」
お節料理を教えると言ったのはスミ江が発端だ。彼女がクリスを誘ったのだ。莞爾の妻になるのならば、日本の伝統料理ぐらいは覚えておきなさいということらしい。
「まあ、スミ江さんに誘われたんだし、大丈夫だろう」
「それならばよいのだが」
「そうそう。ちょうどお歳暮にもらった酒がまだ何本かあるから、ついでに嗣郎さんに持って行ってくれ。授業代だって」
「お安い御用だ」
お茶をすすり、コタツの中で二人の足が絡んだ。視線を向けるとクリスはくすりと笑って視線を逸らした。
「二人とも、喜んでくれた」
「……そうだな」
クリスが言っているのは昨日のことだろう、と推測はついた。ちょうど昨日は新年用の餅つきがあった。餅つきとは言ってももち米を機械で蒸してそのまま餅にまでしてくれる。人間がするのは切り分けて大きさや形を整えるくらいだ。
伊東家と佐伯家で床の間用の鏡餅や神棚用、仏壇用、お墓用など、たくさんの餅を用意した。橙や干し柿も用意した。
その餅つきの際に、二人で正座して伊東夫妻に結婚することを報告したのだ。まだ日程等々は未定だが、そのつもりでいてくれと。
「まさか、反対されると思ってたのか?」と莞爾が尋ねると、彼女は苦笑して軽く頷いた。
「仕方なかろう。私は異世界人だ。異邦人のレベルではないぞ」
「まあ、それもそうだけど……でも、二人はクリスのこと気に入ってたからなあ」
「それは隣人としてであって、親族になるものとしての評価とは違うではないか」
「そんなものか」
「当然だろう。私とてどのような優れた才女でも、兄上が農民の娘を妻に娶るなどと言い出したら反対する。祖国では身分制度のおかげで利権が守られていたのだ。おいそれと軽はずみなこともできぬ」
とはいえ、ここは日本だから、自分には関係がない――クリスは少しだけ自嘲気味な笑みを浮かべた。
莞爾はコタツから一度抜け出して彼女の隣に座りなおして肩を抱いた。
「せ、狭いではないか」
「嫌か?」
「むぅ……嫌ではないが」
無理やり彼女の頭を肩に寄せた。
「そんな顔をしないでくれよ」
「……不安にさせてしまっただろうか」
「そうじゃなくて、クリスが辛い気持ちを抱いてるのはわかってるさ。けれど、強がるなとも言いたくないし、強がれとも言えない。だからまあ、俺はそばにいるってことを忘れてほしくないというか、まあ、その、なんだ……」
「珍しく照れているではないか」
「ほっとけ」
二人で顔を見合わせて苦笑した。あれから数日が経って、もう唇を交わすこともある程度慣れた。少しだけ恥ずかしい気持ちはある。けれど、クリスも彼と触れ合っているのがどこか安心できた。
啄むようなキスをして、彼女は彼の肩に頭を乗せた。
「私がカンジ殿の妻か」
「なんだよ、その言い草は」
「いやなに。ニホンでは身分制度がないとはいえ、私はそもそも貴族の出身だ。それゆえに奇妙なものだと」
「農家は嫌なのか?」
「それこそ奇妙な質問ではないか。一時期トーキョーにもいたが、あそこは人の住まう場所ではなかったぞ」
「そりゃあ都民が怒るぞ。それにクリスがいたのは都心のとくにビルの密集した場所だろ」
「そうだったのか。まあ、いずれにせよ、私にはここでの暮らしの方が安心できる」
「そうか」
「そうだ」
彼女はくすりと笑った。
「山々は雄々しく、空気は清々しい。裾野から下る夜の吹き下ろしは精霊の息吹を感じるようだ。それに、森の奥で湧き出すかすかなせせらぎも、冷たく厳かな大地の鼓動を感じる。カンジ殿にはわからないかもしれないが、私にはこの地が精霊の住まう地だとわかる。精霊の愛する土地は、人間にとっても恵みをもたらす土地だ」
莞爾は「へえ」と感心したように言って彼女の頭をそっと撫でた。
「さっぱりだ」
「ははっ、そうだろうそうだろう」
ふと、彼女は笑みを消して言った。
「トーキョーも悪い場所ではなかった。けれども、あそこは人の欲が多すぎた。なにやら人為的な魔力の拘束もあったし……」
「そりゃあ初耳だ」
「ずいぶんと古いようだったがな。おそらくは呪術か、それに類する存在だろう。今となってはあまり効果もなさそうだったが」
なるほど、月刊ムーの記者が喜びそうだ、と莞爾は漠然と思った。
「まあ、この家も魔力的な効果はあるしな」
「そうなのか?」
「うむ。とはいえ、大地の神を鎮めるためのまじないのようだが」
「へえ。そういうのもわかるのか」
「わかる、というよりも感じると言った方が正しいな」
莞爾は地鎮祭のようなものだろうか、と思った。
「前から気になってたんだけど、クリスはどうして神棚とか仏壇とか、あんまり触らないようにしてるんだ?」
「気づいていたのか?」
彼女は意外そうに顔を向けた。彼が頷くと小さく息を吐いてまたこてんと肩に頭を乗せた。
「嫌で触らないわけではない。私とてサエキ家の嫁になるのだから、その家の先祖を敬うのは当然だ。けれど、作法も違う。私は祖国での信仰しか知らぬ。下手にあれこれと触って、それが障るということもあろう」
「気を遣ってたのか」
「神や精霊を畏怖するのは普通の感情ではないか?」
「まあ、大抵の人は。けど、最近の日本じゃ珍しいかもしれないなあ」
中には無神論者もいる。莞爾としては誰が何を信仰していようがどうでもいい。たとえクリスでもそうだ。自身は改宗するつもりも毛頭ない。家としての信仰と、個人としての信仰はまた別物のように思えた。
いずれにせよ、クリスは案外田舎の風習に馴染む下地があるようだった。現代人として喜べばいいのか、悲嘆すればいいのかわからないところだ。
「俺としては無理に拝んでもらおうなんて思っちゃいないんだけど」
「別に嫌ではないと言っているではないか。よほど相容れぬ教えならばまだしも、私の感じるところではとくに変わったところはないと思うが?」
「まあ、それは幸いだな。てっきり俺はクリスの祖国は一神教なのかと思ってたからさ」
西洋のイメージでついつい考えてしまうのも仕方がない。けれど、西洋だってキリスト教が広まる以前には多神教だったり精霊信仰が盛んだったりした。
「一神教か。ないこともなかったが、祖国ではあまり盛んではなかったな。そもそも建国神話が多くの神々に由来するし、王国臣民は基本的に温和な性格だからな」
「へえ。温和、ねえ」
温和な民族が果たして領地を増やしていくことがあるのだろうかと首を傾げたところで、クリスが彼の推測を見破ったかのように言った。
「エウリーデ王国は建国当初から領土はあまり増えておらぬよ。海がなくとも塩湖があったし、大陸の交易では重要な位置にあったのでな。まあ、何度か大きな戦乱があったと聞くし、鉱山を巡って戦争をしたこともあるが」
やってることは地球とあまり変わらないんだな、と莞爾は思った。彼には国家間の戦争なんてスケールが大きすぎてよくわからない。彼が受けた教育の中でさえ、戦争は銃弾と爆薬、工業力に由来したものだった。剣と魔法で戦う戦場など想像もつかない。せいぜい大河ドラマの合戦シーンぐらいだ。
「難しいことはわかんねえなあ」
「難しいか?」
「色気のない会話だって言ってんだよ」
「むっ、むぅ」
確かに、とクリスは頷いたものの、自分が得意に話せるのはせいぜい戦いについてのことばかりだった。他にも話題がないかと考えてはみたものの、日本に来る以前はずっと戦いに身を置いてきたのだ。そうそう他に適当な話題も出てこなかった。
必死に考えていると、ふと肩にある彼の手の力が強くなったことに気づいて顔をあげた。
「クリス……」
驚きつつも、なぜだろう――鼻先が触れ合いそうな距離だ。今までならば恥ずかしさに赤面して硬直してしまうのが普通だった。今でも赤面するのは変わらない。
けれども、お互いの気持ちを知った今となってはそれも少し違う。
彼が目を細めるのと同調するように、自分も自然と目を閉じてしまう。
そっと唇が触れて、ややあって離れるとうっすらと目を開けた。
莞爾が自分の頬を撫でてふっと微笑むのを見ると、なぜだか心と体が疼いた。
あれからというものの、夜は彼の隣で眠るようになった。
クリスだって莞爾が男であることは十分承知しているし、理性を失った男がどのような行動をとるかも知っている。莞爾が相手ならば、戦闘になれた自分が襲われる心配はないと思う。
けれど、相手は莞爾だ。今は誘われてもいないし、無理強いされたこともないが、いざ真剣に求められたら断れるかどうかわからない。むしろ夫婦の営みは結婚してからだと言ったものの、自分の若い肉体の方が彼を欲しているようにさえ感じられた。
ずいぶんと生々しい情動が蠢いて自分が自分じゃないみたいだ。
「その、カンジ殿は……」
続きを話すよりも先に、クリスは莞爾に押し倒された。
「なっ、なにを――」
唇を唇でふさがれて、彼女は一瞬抵抗しようとしたものの、すぐに体から力が抜けてしまった。
嗚呼、このまま彼にすべて委ねてしまうのも悪くない。
そう思ったけれど、そのキスはすぐに終わった。押し倒されたものの、彼はキスのあと彼女を抱きしめただけで、彼女の体をまさぐったり、より熱烈な接吻をしたりはしなかった。
腰のあたりに感じる男の熱に、クリスは頭が混乱してくらくらした。恥ずかしくてたまらなかった。
「正直……しんどい」
弱音、というよりも素直に彼女を抱きたい気持ちはあった。けれど、彼女の信条を歪めるのは嫌だった。何より愛した女性が結婚してからだと言うのだ。それを受け入れてこそ男だろうと思った。
「き、貴殿がそ、そこまで言うのなら――」
「馬鹿言うな。俺はクリスのこと大事に思ってるよ。気持ちはすごく嬉しいけどさ……その、なんだ。今抱いたらたぶん見境なくなる」
クリスは日夜求められることを想像して硬直した。顔は真っ赤に茹った。
「ははっ、心配しなくても俺は盛りのついた猿じゃねえし、もうそんなことできるほど若くはないって。例えだよ、例え」
苦笑しながら言って、彼は彼女のうなじに顔を埋めて小さく息をついた。彼の息で産毛が揺れてくすぐったかった。
「その、そろそろ行かねば……」
「もう少しだけ」
「む、むぅ……もう、少し」
「ああ、もう少し」
二人はぎゅっと抱き合ったまま、お互いの体温を分かち合った。クリスは恥ずかしさのせいでずっと天井に視線を彷徨わせていたが、やがて柱時計の鐘が鳴った。
「か、カンジ殿? もう行かねば――」
莞爾は疲れていたのかそのまま眠ってしまっていた。思わずクリスは小さく笑った。
「まったく……どぎまぎしていた私がバカみたいではないか」
彼を起こさないようにゆっくりと這いずり出て、コタツ布団が届かない彼の背中に上着をかけた。
***
午後八時頃。
伊東家から重箱を持って帰宅したクリスは勝手口から家に入って居間の扉を開けた。莞爾はいない。どこに行ったのだろうか、と重箱を置いて外に出て見回すと、暗闇の中から焚き木の匂いがして窯の方に向かった。
「おう、おかえり」
莞爾は風呂を沸かしているところだった。
「俺、いつの間に寝てたんだ?」
「さあ。いつの間にかだな」
「そっか」
幸い、大晦日までに済ませる仕事はすべて終わらせている。
「年越しそばでも食って、ちょこっと酒でも飲んで寝るか」
あまり年越しカウントダウンに興味のない莞爾である。彼はふと思い出して言った。
「そういえば地デジチューナー買ったんだった」
「ちゅうなあ?」
「ああ、テレビを見れるようにするやつだ」
「てれび……ああ、あれか」
すると彼は意外そうに尋ねた。
「テレビ知ってるのか?」
「トーキョーで教わったぞ。最初はびっくりした」
クリスが驚いている様子が容易に想像できて、莞爾はくすりと笑ってタバコを手に取った。焚き木をひとつ取り出して火をつける。
「紅白でも見るか」
「紅白?」
「歌手が出てきて歌うんだよ。年の瀬の風物詩ってやつだな。まあ、俺も最近の曲なんて全然知らないし、テレビも普段見てないからわかんないけど」
莞爾は数回タバコを吸ったものの、寒さのせいでしゃっくりが出てすぐに窯に放り入れた。
「今年の年末は冷えるな」
「この程度は別に」
「慣れっこか」
「うむ」
よし、と莞爾は立ち上がった。
「年越しそばの準備をするか」
「スミエ殿がカンジ殿を呼んで来いと言っていたぞ」
「はあ? なんで」
思わず振り返って尋ねると、彼女はくすくすと笑った。
「私が貴殿が居眠りをしていると言ったら、そのそばとやらの準備もろくにしていないのだろうと仰って」
「あー、そういうこと。それならまあ、ご相伴に預かりますか」
「ツギオ殿が手ぐすね引いて待っているぞ」
「あの爺さんそろそろ酒を控えた方がいいんじゃねえか?」
「元気なのだからいいではないか」
「まあ、病院で寝たきりよりはいいけどさ」
莞爾はまだどこか眠たいようだった。ふと自分よりもクリスの方がご近所付き合いが上手いのではないかと思った。
「余ったスルメでも持っていくか」
「おお、あれか」
莞爾はくすりと笑った。
「なあ、クリス」
「ん?」
「来年はいい年になるといいな」
するとクリスは彼の肩を小突いた。
「私のせいで色々と迷惑がかかったと言いたいのか?」
拗ねたように口先を尖らせている彼女に、彼は苦笑して答えた。
「そうじゃないよ。今年はクリスと出会えたし、嫁に来てもらうことも承諾してもらった。こんなに幸せじゃ罰が当たりそうだ」
「幸せ……そうか。貴殿は幸せか」
「お前がいるからな」
「むきゃっ!?」
奇声をあげたクリスに驚くこともなく、莞爾は彼女の手をとって歩き出した。
夜の闇の中をずんずん進んでいく。
「今夜は月が綺麗だな」
「……確かに快晴だが、月はとっくに沈んでいるぞ」
せっかく調べて知り得た知識も、使いどころを間違えては仕方がない。
莞爾は頭をがしがしとかいて言った。
「あんまり細かいことは気にすんな」
クリスは不思議そうに首を傾げた。
もうじき年が終わる。
それでは皆様、よいお年をお迎えください。