章末 接吻
大変お待たせしました。
短めです。
数話閑話入れて次章の予定です。
窓の外には深々と雪が降り続けていた。
壁とカーテンの隙間からゆっくりと流れてくる冷気。薄暗い部屋の中で、クリスティーナ・メルヴィスの寝息が佐伯莞爾の鼓膜を震わせた。時折呟かれる寝言は、まるで幻想のように彼を求め、わずかな隙間さえも寒さにさらされたくはないと、夢現に体を引き寄せる。
「腕、痺れた……」
莞爾は小声で悪態をついた。けれども、昨晩のことを思い出すと悪態もどこかへ去り、知らず慈愛のこもった視線で彼女を見つめ、自然と彼女の背と頭を優しく撫でる。その仕草に寝ているはずの彼女はわずかばかりの微笑みをもらし、恍惚たる吐息を彼の首元に集める。
目元に残った涙の跡をそっと指先で拭う。
きっと、何かのきっかけが必要だったんだ――莞爾は昨晩のことを思い出した。家に戻るなり、寒かっただろうと風呂に入れようとしたが、決して離れてくれなかったのだ。しばらく抱きしめているうちに泣きつかれたのか彼女はうとうととし始めて、布団に寝かせようとしたがそれでも離れず、仕方なく自分の寝室に連れて行った。
無理やり下着姿にさせて布団に放り込んだものの、情欲にまみれるといったこともなく、ただ娘をあやすようにずっと彼女を抱きしめ続けていた。
一人では中々温まらない布団も、二人で入ればずいぶんと温かかった。
「好きだ、好きだ、好きだ」
うなされるように、確かめるように、言い聞かせるように、彼女は彼の胸元で涙交じりに何度も訴えた。それは自分の中で燻っていた感情がついに燃え上がったというよりも、鬱々と抱えていた問題を払拭するように、あるいはそれらの思いから決別するための言葉だったのかもしれない。
少なくとも莞爾はずっと彼女の言葉に沈黙で答えていたし、受け止めるのは彼の静かな思いだけだった。彼女の思いを他の誰が受け止められただろうか、と考えてそんなものに意味はないとかなぐり捨てるように何度も唇を奪った。
感情のせめぎ合う中で、ともすれば情欲に流されそうになりつつも、二人は決して唇を合わせ抱き合う以上の行為に至らなかった。それは偏に莞爾の自制があったからだとも言えるし、二人の感情が情熱ではなかったことも大きな理由だった。
けれど、彼はそれで良かったんだ、と小さくため息をつく。
熱に浮かされてその場の勢いで彼女を抱くことはどうしてもできなかった。ようやく一歩を踏み出したのだ。
「これからは一緒に、少しずつだな」
莞爾は安心しきった寝顔をさらしているクリスにそっと語りかけた。
長い睫毛がぴくりと震えた。「むふふ」と笑みを漏らして、彼女は彼の首元に額をこすりつけた。
初めて会ったときは泥と汗にまみれ女性らしい匂いなんて少しもしなかったのに、今となっては目眩のするような艶めかしい香りがする。莞爾は自制するのが馬鹿らしいような気持ちにすらなった。けれども、寝込みを襲うなど趣味じゃない。そもそもそこまで進んじゃいない。
「きっと、クリスのことだから、結婚するまではおあずけなんだろ?」
口に出してみて、それが正解だと思えた。
日本の法的には二十歳だが、実年齢は十八歳だ。一部の十代からすればきっと十八歳で処女を失うことなど普通だと思えるかもしれない。けれども、彼女は日本で育ったわけでもないし、彼の推測の通りどちらかといえば貞操観念の強い方だ。
今は接吻で我慢しよう、と彼は彼女の額に唇を落とした。ややあって、彼女の瞳が薄く開き、視線を彷徨わせた後で彼の双眸に向けられた。
「カンジ殿……」
呟いて、昨晩のことを思い出したのか、クリスは彼の胸に顔を埋めて恥ずかしさに体を固くした。
「おはよう、クリス」
「お、おはよう……」
上目遣いでぼそぼそと呟かれ、彼はくすりと笑って彼女の頭を優しく撫でた。
「むきゅぅ……」
羞恥に頬を赤くして彼女はまた顔を埋めようかとしたが、彼に頬を撫ぜられて目を細めた。
「そろそろ起きようか。もう六時だ」
「むぅ……もう、起きるのか?」
恥ずかしい気持ちとは裏腹に、もう少しだけこうして彼の胸に顔を埋めていたいとも思う。けれど、時計の針は待ってくれない。いつもなら五時には起床して朝の支度をするのに、今日は一時間も遅れているのだ。
彼は不敵に笑って言う。
「もう少しこのままでもいいんだけど、それだと俺の理性が耐えきれないからな」
「むにゃっ!?」
「クリスがいいなら、俺は我慢しないでいいんだけど」
「しょれはダメだぞっ!」
彼女は彼から逃れて起き上がろうとしたが、自分の姿が下着姿であることに気づいて布団の中に潜り込んだ。
「なっ、なぜ服を着ていないのだ!」
「いや、そりゃあクリスが離れなかったから、そのままだとごわごわするし」
「しょういう問題ではにゃいっ!」
莞爾はため息をひとつ吐いて布団から出た。布団に丸まって隠れているクリスを無視して着替える。
「なんなら、一緒に風呂でも入るか?」
「ばっ、バカを言うな!」
やれやれ、と笑いながら彼は部屋から出て行った。もぞもぞと布団から這いずり出て、クリスは椅子の上に綺麗に畳まれてある服を見つけた。戻ってこないうちにと手早く着替えて、小さく安堵のため息をついた。
けれども、眠っている間にそこかしこをまさぐられたのではないかと考えて頬を染めた。
決して嫌なわけではない。彼ならば委ねても構わない、とは思う。けれども、素肌を許すのは夫だけだと教育されているのだ。中々現代の若者のようにはいかない。下着姿でもあまり大差はない。というよりもすでに出会った初日のうちに全裸を見られているのだが、彼女にとっては不可抗力である。とはいえ、彼はきっと眠っている間にまさぐるようなことはしていないだろう。
昨晩、自分を見つけてくれた莞爾の言葉を思い出す。
――結婚してくれ。
思わず頬が緩んだ。含むように笑って、にやにやと布団に包まりのたうち回った。壁に頭をぶつけて額を押さえた。痛みのせいで冷静になった。
「……結婚、か」
クリスは日本での結婚がどういったものかを知らない。祖国では夫婦となる儀式があったし、夫の伴侶としてその家の人間になるということだったが、日本では違うのだろうかと疑問に思った。もしあまり変わらないのであれば、彼が自分を家の一員として迎え入れようとしてくれた証左でもある。
ふと伊東夫妻の顔が浮かび「あまり変わらぬことなのやもしれぬ」と天井を仰いだ。
自分の両親がそうだったように、慈しみ合い、子供に厳しくも優しく接する夫婦になれたなら、それに勝るものはない。そう考えて、自らの気の早さにくすくすと笑った。
「まだ返事もしておらぬのに。あ、いや。既に返事をしたような気もするが……」
クリスはわからなくなった。気持ちは伝え合ったが、プロポーズに明確な答えを出していない。昨晩は混乱して泣き続けてしまったが、よくよく考えてみると彼との結婚を両親が許してくれるかわからなかった。
「祖国と違うとはいえ、カンジ殿は平民であるしな……」
しかし、考えても仕方ないことだ。いずれにせよ家族と再会する機会などもうないのだから。いつまでもふさぎ込んでいるわけにもいかない。せっかく彼の役に立ちたいと前を向き始めたのだ――と、クリスははたと気づいた。
「そういえば、まだまともに謝ってもおらぬではないか」
昨晩は謝るどころではなかった。それどころか熱い接吻をしきりに交わした覚えしかない。思わず唇に手を寄せた。
改めて謝らねば、と思い至ったはいいが、果たしてどんな声をかければよいのかわからない。
「卑怯者の謗りは受けたくはないものだ」
クリスはふっと笑って立ち上がると莞爾の寝室を出た。洗面所で顔を洗い歯磨きをして、鏡に映った自分の顔を見つつ両頬をぱちんと叩いた。ようやく以前の調子が戻ってきたような気がした。
土間に行けば莞爾が朝食の準備をしていた。急いでスミ江の作ってくれた割烹着を着て手伝おうとしたが、ここしかないと彼の腕をつかんだ。
「どうした?」と不思議そうな顔を向けてくる彼に、彼女は深呼吸をひとつして言った。
「その……すまなかった」
莞爾は一瞬きょとんとして首を傾げそうになり、言わんとすることの意味に気づいて「ああ」と声を漏らした。彼の中ではもう片のついたことだった。謝ってもらおうなどと考えていたわけでもない。それを言い出したら、彼女から受けた金銭的損害はかなりの額になる。今更金についてどうこう言うほどの狭量な男ではなかった。
そもそもからして、損得勘定で人間を見るような男でもない。惚れた女である。器量の見せ所は心得ているつもりだ。
彼はふっと笑って彼女の腰に腕を回して引き寄せた。密着した途端、彼女は驚いて目を丸くして顔を真っ赤にさせていた。
「次からは事前に教えてくれよ。クリスが俺のために何かをしようとしてくれるのは嬉しいけど、裏目に出ることもあるしな。それに俺だってクリスのためにできることがあればしてやりたい。けどまあ――」
彼は彼女の頬に手を添えて言った。
「これからはちゃんと気持ちを伝えていこう。お互いに」
クリスは恥ずかしさに言葉を失っていたが、しきりに頷いていた。それを見て彼も困ったように笑い、彼女のあごをそっと上向かせた。
不意に近づいてきた彼の唇に、彼女はされるがまま受け入れた。
昨晩は熱烈に何度も交わしたはずの接吻も、改めてすれば恥ずかしさばかりが募った。
唇の感触が去り、ぎゅっと閉じた瞳をうっすらと開けるや否や、額をこつんと彼の額がぶつかった。
「好きだ」
「むぅ……」
なんとか言い返そうと思ったものの、胸が締め付けられるようで苦しくてたまらなかった。ようやく「私も」と短く返そうとしたが、顔を上げた途端にまた唇を奪われた。
もどかしさに彼の背中に腕を回し、力強く抱きしめれば抱きしめるほど、なんだか気持ちがそわそわとし始めてしまう。
「まあ、クリスにはこれ以上先はまだ早いか。お子ちゃまだしな」
「なっ! 子供扱いを……」
クリスは顔から湯気でも立ち上がりそうなほどに赤面した。




