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12月(末)雪解けのぬくもり

 電話から程なくして八尾が訪れた。


 会社の配送車だったが、八尾は決まりが悪そうに遅れたお歳暮を持ってきていた。


「いやあ、休んでいるところに悪かったね」と八尾は薄い頭をかいて言った。


 タイミングが悪すぎるとも言えず、莞爾は「いえいえとんでもない」と愛想笑いで答えた。今回ばかりは擁護のしようがない。


 なんだかんだと邪魔をされっぱなしでそういう運命なのかとさえ思いたくなる。


 贈答品の入った箱をもらい中でお茶でもと誘ったが、八尾はそれを断って言った。


「いやいや、あまりお邪魔するのも悪いしね。ところで、カルソッツはどうだい? 猪が来たってメールで見たけど」


 莞爾は玄関にひとまずお歳暮を置き、軽トラの方に八尾を誘った。


「俺もまだ今日は見に行ってないんで、一緒に行きますか?」

「ああ、じゃあ頼むよ」


 八尾は快く頷いて軽トラの助手席に乗った。

 曇り空は今にも雨か雪か降ってきそうな雰囲気を醸し出していた。


 軽トラを走らせながら、莞爾は猪による被害の様子について詳細に語った。八尾は時折相槌を打った。


「なるほどね。それで、クリスちゃんが追い払ったのかい」


 さすがは元騎士だ、と八尾はため息を漏らした。


「猪相手に立ち向かうなんて、正直命知らずもいいところだねえ……」


 呆れ気味に言うが、莞爾も同意見だった。猪の成体はかなり大きいし、オスの場合はとくに怖い。あの牙は本当にナイフのように尖っていて、突進されたらひとたまりもない。骨の一本や二本で済むかどうかではなく、現実に猪に襲われて牙に刺されるという事例があるのだ。


 おまけに全速力で百八十度のターンも難なくやってのけるほどに機敏なのだ。生身で挑もうという方がおかしい。


 確かに野生動物で命あるものだが、だからといって害獣であることには変わりないし、実際に増えすぎて被害が出ているのだから、駆除するしかないのだ。


 昔は猟師の数も今よりは多かったし、定期的に駆除されて被害は最小限に留まっていた。しかし、今となっては猟友会も全国的に高齢化の一途を辿り、後継者不足から活動の幅が著しく低下しているのも事実だ。三山村もその例に漏れない。大谷木町の猟友会も平均年齢が今では七十を超えているのが現実だ。

 最近は猟師に憧れて免許を取得する若者も増え始めているが、後期高齢者の中に一人だけ若者がいたところで、できることは限られてしまう。


「まあ、熊じゃないだけマシですけどね」


 莞爾の言い分ももっともだと八尾は頷いた。


 人の味を覚えた熊ほど恐ろしいものはない。おまけに銃弾一発では死なないこともあるのだから恐ろしくってたまらない。猪が機敏な装甲車なら、熊は俊足の戦車のようなものだ。おまけに奴らは餌が生きているか死んでいるかなど気にせずに食い始めるのだから救いもない。


 莞爾としてはヒグマがいないとしても、ヒグマもツキノワグマも大して変わらないと言いたい限りだ。怖いものは怖いのだ。もっとも、莞爾の暮らす地域一帯はツキノワグマの発見報告例はない。しかし、だからといって安心できるわけでもない。


 山の畑に到着し、二人は軽トラから降りて寒冷紗の掛かったうねに歩み寄った。


「これは雪よけかい?」

「まあ、主に雪と霜ですね」


 言いながら、しゃがんで寒冷紗をそっと捲し上げる。


「こっちは被害に遭わなかった方ですよ。ほとんど予定通りの成育ですね」

「被害に遭ったのは?」

「尾根側の半分近くですよ」


 寒冷紗を元に戻し、立ち上がるや莞爾はうねの隙間を歩いて奥に向かう。


「いくつかはもう折れてたりどうしようもないやつで、それらは処分したんです」

「獣害はねえ、どうしようもないからねえ」

「……まあ、点検ミスもありましたから。損失分は値段に入れないんで」

「ああ、電気柵の?」

「ええ」


 万全な状態で獣害に遭ったのならば仕方ない。けれども、電気柵が断線しておりそこから侵入されたとあっては、八尾としてもため息をつかざるを得ない。

 実際、電気柵は毎日のようにチェックする農家もいれば週に一度という農家もいる。中には忘れていて思い出したようにチェックする人もいるのだ。その辺りに関しては八尾もシビアだった。


「うちとしては当初の単価から上げるつもりはないよ」


 厳しいようだが、八尾は野菜が持つ価値以上の値段をつけるつもりは毛頭ないのだ。そして莞爾もそれを十分に理解しているし、ここでお情けで値上げしようなどと言われたら断固として固辞しただろう。


「それはまあ、俺の責任なんで。値段は据え置きでいいですよ。ただ数が減ってしまったら申し訳ないです」

「まあ、こんな商売していたら、あるはずだったものがなかったなんてよくある話だよ。店側はまだ納得してくれる。けれど、口にする消費者は……まあ言い方はひどいけれど、生産現場をろくに知らないからね。文句を言われる店側が気の毒だよ」


 莞爾は「すみません」と頭をかいた。


「まあ、まだ望みはあるんだからいいじゃないか」


 八尾はそう言って彼を励ました。


 実際のところ、バイヤーから「どうしてないんだ」と言われるのはかなり辛いものがあった。生鮮食材を扱うバイヤーはまだいい。けれども、中には自然が相手だということをすっかり忘れているバイヤーもいる。


 生産者からすれば、むしろ申し訳なくてたまらない。


 高値で売らなければ採算が取れなくなるようなことも実際にある。農家だって金がなければ来年も農家でいられるとは限らないのだ。借金を抱えている農家だって大勢いる。それこそトラクターやコンバインを借金で購入したものの天候不順で大赤字だった、なんて例は山ほどある。


 挙句、安価な冷凍野菜の売れ行きが上がれば、生鮮野菜は高値をつけたせいで余計に売れなくなるという悪循環だ。


 もどかしい限りだが、その手のアンビバレントな事業体制は今に始まったことではない。商売として売り手と買い手がいる以上はそうなる運命なのだ。ある種の諦めがあった。


 莞爾は「ここからですよ」と立ち止まり、腰を下ろして寒冷紗を捲し上げた。


「見た感じは変わらないね。いや……さっきの場所より成長が早くないかい?」


 八尾が冷静に指摘する一方で、莞爾は目を瞬いていた。


「……ちょっと失礼」


 そう言って、そこから先の寒冷紗をざっと払いのけると、植え替えをした玉ねぎが軒並み著しく肥大化していた。もちろんまだ収穫にはしばらくかかりそうだが、この調子なら年明け早々には収穫しなければとう立ちしそうなほどだった。


「あー、こりゃあダメだね。ちょっと早すぎる」

「……いや、そうじゃなくて」


 何が起きたのかわからない八尾に、莞爾は狼狽を隠さずに首を横に振った。


「おかしいでしょ……こっちは植え替えた方ですよ?」


 すっかり目の前の事実に八尾は獣害によって植え替えを迫られた玉ねぎだということを忘れてしまっていた。


「ああ、そうだったそうだった。いや、失礼。でも、これはおかしいね」

「おかしいなんてもんじゃ……」


 莞爾は目の前のうねを手で軽く掘り、一株抜き取った。


「結球……なんで!?」


 抜き取った玉ねぎは葉玉ねぎの結球よりも劣るが、確かに下が膨れていた。しかし、分裂していることは変わらないので形は歪だった。


「……さっきの被害に遭わなかった方より、心なしかこっちの方が元気そうじゃないかい? 葉の色も濃いし、ぱっと見ただけで瑞々しいのがわかるじゃないか」

「え、ええ……いや、それじゃあ困るんですって。葉玉ねぎじゃあるまいし」

「今度の企画では出せないけど、年明けから葉玉ねぎが出ることもまあ、ないことはないからねえ。他の買い手を探せば——」

「八尾さん! オニオンヌーボーじゃねえよ! こいつはカルソッツだ!」


 思わず声を荒げて言えば、八尾もはたと気づいて手をあごに当てた。


「そういえばそうだったね……いや、私としたことが」

「こんなブサイクじゃ売りもんにならないし、売れても二束三文……ってそうじゃなくて、全部これならもう半分ダメになってます」

「あ……」


 莞爾と八尾は顔を見合わせた。

 恐る恐る八尾が尋ねた。


「……心当たりは?」


 言われてみれば引っかかる点はあった。けれども、莞爾は自覚しながらも首を横に振った。


「あるわけないでしょう。こんな奇妙奇天烈なこと、俺も体験したことないですし、親父のノートにも書かれていた試しがない。他だって聞いたことないですよ」

「だよね……何が原因かな」

「……どちらにせよ、数は半分」


 莞爾はその場に蹲って大きなため息を漏らした。


「……あっちも調べてみるかい?」

「ええ……」


 力なく立ち上がり被害のなかった方を調べると、そちらは大丈夫だということがわかった。


「ざっと二千本あるかないかってところですか」

「イベントとしては小規模だけど、一週間連続のイベントで十店舗だから、一店舗一日あたり……三十本ないね」


 計算してみて、八尾もその数の少なさに落胆を隠せなかった。自分から持ちかけた企画なのだ。今後の事業展開にも響くだろう。

 不幸中の幸いはまだイベントまでに時間があるということだけだ。


 成長してしまったものはもう戻らない。せめてイベント期間を短くするしかない。


 しかし、「どうしようかねえ……」と頭を抱えた。


 やるべきことはわかっている。けれども、八尾も何かと面倒見のいい男だった。損益で考えれば、莞爾の心配をする必要はないかもしれない。けれども、八尾にだって義理があった。


「ひとつ貰うよ」


 八尾は莞爾の返事を待たずに植え替えた玉ねぎを手に取った。分球してさらに結球しようとしているせいで形はひどく歪だった。外側の皮を荒く向いて、そのまま齧りついた。


 シャキッとした歯応えに大味な甘み、玉ねぎのわずかな辛味がアクセントになっている。美味い——けれど、


「形が、ねえ」


 このような不揃いな形では売り物にはならない。そんなことは十分承知している。そもそも形が揃っていなくても野菜は美味しい、というのは厳密に言うと間違いだ。

 形が綺麗な方が栄養素が均等に行き渡るので、歪なものよりも味はよくなる。



 莞爾も八尾に続いて玉ねぎを手に取って齧りついた。


「……大味だ」

「品種の味は消えてるね。もっと優しい味わいなはずだけど。栽培方法が変わったから?」

「確かに栽培方法で味は変わりますけど、ここまで変わらないですよ」


 去年の実験栽培でも品種の特徴はきちんと残っていたのだ。繊細な甘さに後を引く玉ねぎの香りとすっきりとした後味。それらがなくなっている。甘くて確かに美味いが、辛味が舌に残る。少なくともすっきりとした後味とは思えない。


「完全に新玉サラダの味ですね……」

「そうだね。こりゃあ売れないよ」


 辛辣だが、八尾は言うべきことはしっかりと言う男だった。どちらともなく立ち上がる。寒冷紗をしっかり戻したあとで、口数も少なくとも軽トラに乗り込んだ。走り出したところで八尾が尋ねた。


「さっきの玉ねぎ、一応年明けに収穫してくれないかい?」


 莞爾は冷静に答える。


「ありゃどこでも使い物にならないでしょ。輸送コスト考えたら収穫しない方がいいと思いますけど」

「あれなら年明け一週間以内で収穫ってところかな」

「まあ、そうでしょうね。もしかしたらもう少し早いかもですけど」

「じゃあ、年始早々にサンプル貰うよ」


 莞爾は車を止めて左の八尾に顔を向けた。


「どういうつもりですか? 同情で買い手を探してもらうほど、落ちぶれちゃいませんよ」

「僕だって同情でこんなこと言わないさ」

「じゃあ——」

「どこでどんなニーズがあるか。そんなもの探してみなきゃわからないだろう? 需要がないから供給しないってのもおかしな話じゃないか。供給されているから需要がある商品だっていくらだってあるじゃないか。それに、収穫まで待っていればもう少し味がよくなる可能性もある」


 僕はね、と八尾は不敵に笑った。


「こういう時のための伝手はきちんとあるよ。今まで僕がどうして専門料理店ばかりを相手にしてきたと思ってるんだい? 僕だってね、恩はいくらでも売ってきたのさ。形に惑わされず、味を信じて買ってくれる店なら、両手じゃ足りないぐらいに知っているとも」


 莞爾はしばらく考え込んでいたが、結局答えを出せなかった。自分が納得できない野菜を売るということが頭では理解していても、プライドが許してくれない。


「少し、考えさせてください」

「まあ、今すぐにってわけじゃない。売り込みにはサンプルがいるってだけだから」

「ええ」


 莞爾は軽トラを走らせながら、降り始めた雪を払うためにワイパーを動かした。不意にクリスの顔が脳裏に浮かんだ。



***



 八尾が帰ったあとで、莞爾は居間でノートを広げていた。

 クリスの淹れたお茶をずずっと飲み、思考に耽る。後ろでは真剣な表情で夕飯の仕度をしているクリスがいた。


 はじめは同じようにコタツに座っていたのだが、例のことがあって顔を合わせているのが恥ずかしくてたまらなかったのだ。


 クリスは包丁を器用に扱って煮物用の野菜を切っている。手を止めずに背中を向けたまま、少し咎めるように莞爾に尋ねた。


「ずいぶんと時間がかかっていたようだが?」


 莞爾は苦笑しつつ「ああ」と頷いて答えた。


「いや、玉ねぎの様子を一緒に見に行ったんだよ」

「むぅ?」


 首を傾げた直後、クリスは「ああ、あれか」と思い至る。


「どうだったのだ?」


 少しわくわくしながら尋ねると、莞爾は口を開きかけしばらく逡巡したものの、どう言っても変わらないと思って事実を淡々と述べた。


「まあ……最悪だった」

「は?」

「植え替えたところが売りもんにはできない状態でさ。なんでか植え替え前よりも成長してるし、形も無駄に成長したせいで歪になってた。味は……もとの味が消えてて、不味くはないけどあれなら代用品はいくらでもある」


 莞爾はペンを走らせながら、玉ねぎの状況がいかに悪いかを落ち着いた声音で説明した。少し時間を置いたことで幾分か冷静になれたこともある。それにクリスの前で弱音を吐くのはなんだか嫌だった。


「まさかあんなことになるなんて想像つかなかった。というか、現実に有り得ないことなんだけどな」


 返事はないが、莞爾はそれも気に留めずに続けた。


「獣害だけでも大変なのに、これでトタン板で囲ったのも無駄だな。慌てて買ったけど、売り上げ半減だから……まあ、大損だな」


 後ろから、からんからんと何かが落ちる音がして莞爾は振り向いた。そこには包丁を落としたクリスがいた。慌てたように拾い上げて誤魔化すような笑みを浮かべている。


「大丈夫か? 危ないぞ」

「あ、ああ、すまない……」

「俺も手伝おうか」

「い、いやいや、大丈夫……大丈夫だ」


 クリスは包丁を洗い、また調理を再開した。莞爾ははたと思い至り首を戻した。お茶を飲み干し、そのままトイレに立った。


 彼女の動揺を見て、何かが繋がったような気がした。けれども、責める気持ちにはなぜだかなれなかった。責めても誰も文句は言わないだろう。けれど、彼の心の中で何かがそれを咎めていた。


 莞爾が見えなくなると、クリスは調理の手を止めてじっと考え事に耽った。


 良かれと思ってしたことだ。莞爾の発言から、すぐに自分の魔法が影響したのだと気づいた。しかし、あれは彼が喜んでくれると思ったから、禁止されていることを承知で魔法を使ったのだ。


「頼まれたわけでもないのに……」


 余計なことをした、と彼女は口元を手で覆った。

 莞爾が戻ってくると、逃げるように「畑の野菜を取ってくる」と言ってそのまま勝手口から外に出た。こんな顔を見せたくはない。外に出て、納屋の陰に隠れるように庭石に座った。


 上着を着る暇もなかったので寒くてたまらない。両腕で体を抱くようにしながらも止まりかける思考を回す。


「どうすればカンジ殿に気づかれずに……」


 ふと口に出して、自分の愚かさに横っ面を殴られたような気がした。


「私は……私は、ばかだ。大ばか者だ」


 知らず、頬を涙が伝った。


 彼の傍で彼の役に立ちたいと思っていたのは嘘ではない。けれども、それが裏目に出た途端、自分の過ちを打ち明けもせず、どうにか彼に気づかれない方法はないか、と一瞬でも考えてしまったことが信じられなかった。あまりにも厚顔無恥で、自分の愚かさに情けなくて仕方なかった。


「こんな女、カンジ殿はすぐにでも暇を出すだろうよ……卑怯ではないか」


 膝を抱えて自分自身への怒りに体を震わせる。


 いつまでそうしていただろう。頭が雪で真っ白になった頃、クリスはふと顔を上げた。


「私はカンジ殿のお役に立つどころではないな。帰らねば……」


 祖国ならばまだ元の生き方ができるだろう、とクリスは自嘲して笑った。嗚呼、こうしてまた目の前のことから逃げるのか、と不甲斐なさに拍車がかかる。

 しかし、帰るにしてもどうやって——クリスは「まあよい」と頭についた雪を払い落とした。


「帰れるか帰れぬか、些細なことだ。とにもかくにも、邪魔者は去らねば。ああ、ホナミ殿を頼るのもいいかもしれぬ。確か魔法の研究も頼んでいたし……」


 口の中で呟いて、彼女は家に戻った。すると莞爾は背中を向けたまま「遅かったな」と言った。


「ああ、少しな」と答えたものの、どうすればいいのかもわからずにクリスは料理を再開した。家を出て行くのは彼が眠った後にしよう、と決めた。


 しばらく沈黙が続き、クリスは夕飯の支度を全て終えて居間の方に振り返った。

「すまない」と一言呟いて、彼の背中に手を向けた。異言語翻訳の機能を切り、呪文を小声で聞こえないように唱えた。


「ん? 何か言ったか?」


 莞爾は振り返ったが、クリスが作り笑顔で首を横に振ると不思議そうにまた前を向いた。やがて、十秒もしないうちに彼は睡魔に襲われた。


 ゆっくりと歩み寄り、ずり落ちた彼の上着を拾い上げて肩にかけ、クリスは静かに座敷に行く。

 上着を適当に着て荷物をまとめ、ふと仏壇の方に目を向けた。


「サエキ家先祖代々の御霊にお詫び申し上げる。せっかくカンジ殿の不幸を助ける機会を与えてくださったのに、この不始末だ。申し訳ない。カンジ殿ならば、いずれ良縁に恵まれることもあろう。私では……私では不釣り合いだ」


 クリスは荷物を背中に担ぎ、座敷から居間に戻った。眠りこけている莞爾の指先からそっとペンを抜き取り、ノートの隅に未だ書き慣れない日本語で書き置きを残した。


「……さらばだ、カンジ殿。私は貴殿と出会えて本当に幸せだった。貴殿にこれ以上の迷惑をかけてしまっては、私としても本意ではないのだ。どうか、容赦してくれ」


 また逃げ出すのか、ともう一人の自分が言う。けれども、それ以外の方法をクリスは知らない。彼の職分を侵したことはどうやっても取り返しようがない。莞爾本人に追い出されては、彼にとっても恥になるだろうと思った。彼女の価値観では家人を追い出すのは家主の決定権でもあったが、同時に家主の教育不足を露呈する行為でもあったからだ。


 夫婦であっても同じだ。妻が不始末を起こした際には夫から離縁状を突きつけられる前にひっそりと出戻るのが当然だった。そうすることで互いの家柄に傷をつけずに済むという祖国の慣習である。ここが日本だということは十分に理解している。けれども、クリスの根底にあるのは祖国で養われた価値観だ。


 クリスはそっと彼の頬に口づけをした。ぽつりと一滴の涙がノートに落ちた。


「ふふ、せめてもの思い出だ……」


 口に出してみて、余計に物悲しさが募った。クリスは逃げるように家を抜け出した。



 しばらくして、莞爾はようやく目を覚ました。


「……親父?」


 亡き父に叱られたような気がして、うとうとしながら顔を上げた。

 電気をつけ忘れていたのか、部屋の中は真っ暗だった。柱時計が窓から差し込む雪の反射光で浮かび上がるように見えた。


「……七時か。いつの間に寝たんだ?」


 呟いて、二時間以上も眠っていたのだと大きなあくびをした。


 振り向いてみれば、クリスもいない。

 病み上がりの自分の代わりに風呂でも沸かしに外に出ているのだろうかと思った。


 上着に袖を通し土間に下りれば、今日の夕飯が鍋に入ったまま用意されていた。クリスがいないことをいいことに一口つまみ食いをして「へえ」と感心した。


 スミ江ゆずりの味だった。まだもう一歩遠い味だが、十分に田舎の味だ。


 電気ポットのお湯で急須にお茶を淹れながら、クリスのことをしばらく考えた。


「やっぱり、クリスが魔法使ったのかね……」


 答えは出ない。けれども、玉ねぎがたった一日とそこらであんなに成長するはずがなかった。そう考えると不可思議なことが他にもあった。


「一晩で熱が下がったのも……まあ、変な話だよな」


 ただの風邪で熱が下がるだけならば一晩でも十分かもしれない。けれども、わずかながらでも倦怠感は残って当然だ。あるいは喉や鼻に症状が残るかもしれない。


 しかし、今朝の目覚めは爽快そのものだった。どう考えてもおかしい。


「……っていうか、俺鈍感過ぎじゃねえか」


 普通はすぐに気づくはずだ、と莞爾は小さくため息をついた。クリスと出会ってからというものの、おかしなことの連続で鈍感になっているのかと推測したが、そうじゃないだろうなと自嘲した。


 お茶を湯飲みに注ぎ、「あちち」と啜った。

 ふうと息を吐いて居間に上がって電球の紐を引っ張る。途端、散らかった卓上が露わになった。


「片付けねえとな。クリスもどこ行ってんだか」


 ノートを閉じ、見慣れない何かがあったような気がしてまた開いた。


 莞爾は下手くそな文字で書かれたそれを沈黙してしばらく眺めていた。



——ごめんなさい。いままでありがとう。くりす。


 ボールペンのインクが一箇所だけ滲んでいた。


 静かにノートを閉じて、莞爾は声も出さずに座敷に向かった。彼女の荷物は消えている。家の扉という扉を全て開けて回り、どこにもいないとわかって家の周りも探した。


 納屋に入り、ようやくクリスの自転車がないことに気づいた。


「……あんのバカ!」


 莞爾はとっさに軽トラに乗り込んだ。エンジンを回しても寒さのせいで中々かからなかった。どうしてこんな時に、と苛立ちが増した。


 二分、三分と続けて「このクソがっ!」と降車してドアを乱暴に閉めた。バッテリーが寿命に近かったのに交換しなかったのは他でもない自分自身だ。


 代わりにラングレーのカバーを乱暴に取り払い、家からキーを持ってきてエンジンをかけた。先ほどの軽トラが嘘のように容易にエンジンがかかり、彼はほっと息を吐いた。軽く暖気しながら目の前のシャッターを押し上げて運転席に戻るやすぐに発進した。


 道に出ても自転車の細い轍は残っていない。

 夕刻から激しさを増した積雪のせいだった。


 舌打ちを一つして「あいつならどこに行く」と考えを巡らせた。こんな時にクリスが携帯電話でも持っていればまだどうにかなっただろうか、と今更考えても仕方のないことばかりが頭に浮かんだ。


「あーっ! 答えがわかってりゃ誰も苦労しねえよっ!」


 莞爾は手当たり次第に探すしかないとアクセルを踏んだ。雪上仕様のタイヤではないので、スピードを出すこともできずまた舌打ちした。



***



 木々の隙間からこぼれ落ちてくる牡丹雪を、クリスは呆然と見上げていた。


 あの日、あの時も、気づけばこの場所で仰向けになっていた。


 記憶にあるスクロールの魔法陣を木の枝を使って地面に描き、その中心に寝そべって魔力を流し込んでみたが、やはりどうにもならなかった。そもそもこんな適当な魔法陣で、なおかつ完全な平面上に描けなかった時点で予想はできたことだった。

 時間の感覚もおかしくなっている。上着には冷たい雪が積もり始めていた。


「寒いな……」とぽつり呟いた。


 思い出すのは莞爾のことばかりだった。故郷のことなどほとんど頭に浮かばなかった。


「いっそこのまま凍死でもできれば、仲間のもとにたどり着けるだろうか」


 寒さによる震えを意識的に断ち切って、落ちてくる雪をぼんやりと眺める。


「私は逃げてばかりだな」


 戦場から逃げ、死んだ仲間たちへの思いから逃げ、自分の本心からも逃げている。そして挙げ句の果てには好意を寄せてくれる男からも逃げた。


「生き恥だな……これがメルヴィス家の長女、とは。父上も母上もお許しにはならないだろうな」


 兄上は、と考えて、あの兄ならばせめて許してくれるかもしれないと馬鹿なことを考えた。ふっと自嘲するように鼻で笑った。


「この卑怯者」


 自分で自分を罵った。こんな山奥でひっそりと死ぬのがお似合いだとばかりに。


 呵責から逃げるために莞爾の優しさに甘えた。彼と一緒に過ごす毎日は新鮮で、刺激的で楽しかった。けれども、今度は面と向かって彼に謝りもせず、最初に逃げ出した仲間たちの元へいけるだろうか、などと虫のいいことを言っている。


「思えば、戦い方も逃げの戦法であったな。ははっ、私には逃げるのがお似合いなのやもしれぬ」


 騎士時代の戦法を思い出して、またも自嘲した。


「この際はホナミ殿を頼るしかあるまいな……だが、それもまた誰かに甘え続けているだけではないか」


 よほど、あの晩に対峙した猪の方が孤高な存在ではなかったか。クリスはくすくすと仰向けになったまま笑った。ひとしきり笑ってむくりと起き上がった。


 冷え切った体は動きが鈍かった。


「逃げ続けて、死ぬのが惜しいとはなんともはや騎士ではあるまいよ」


 しんしんと雪が降り積もる中、クリスの独り言は山中に響いた。


 いっそ潔く自害でもしようかと一瞬考えて、馬鹿らしいと吐き捨てた。最初から死を選べなかったくせに、今更どうして死を選ぶ権利があるのだと。


「まあ、これ以上カンジ殿に迷惑をかけるよりもはるかにマシではあるか」


 立ち上がろうとして、茂みが音を立てて揺れた。

 獣でも来たかと身構えそうになって、すぐに力を抜いた。もはやどうでもいいかと思った。


 茂みの中から現れたのは全身を雪まみれにした何かだった。


 クリスは驚きに目を瞬かせた。


「ど、どうして……」


 鼻の頭を真っ赤にした男は盛大なため息をついて顔の前を真っ白にした。そうして上着のフードをゆっくりと取り、体の雪をざっと払い落とした。


『お前は馬鹿かっ!!』


 暴言を吐かれたということはわかった。けれども、異言語翻訳を切っているために彼が何を言っているかわからなかった。


「……謝りもせずに逃げ出したことを怒っているのか?」


 クリスは困ったように微笑んで顔を背けた。彼の鋭い視線から逃れたかった。


『俺がどんな気持ちで……こんの馬鹿っ!』

「怒るのももっともだ。私はそれだけの迷惑をかけたのだからな。貴殿のお役に立ちたいなどと聞いて呆れる……私はただ迷惑をかけただけだ」

『何言ってんだか、わかんねえだろうがっ! さっさと翻訳入れろ!』

「私では貴殿に不釣り合いなのだと、ようやく理解したのだ。正直、ただ浮かれているだけだったのだろうよ。情けない話だが……」

『いいから、翻訳しろってんだっ! こんなところで、一体何時間いたんだよ! 死ぬぞ!? 凍死するぞ!? そんぐらいわかれよ!』


 ちらりと視線をあげると彼は手に鉈を持っていた。枝打ち用の鉈であることも忘れ、クリスはふっと笑った。


「いっそ貴殿に殺されてしまうのも良いかもしれぬな」

『だから、翻訳のスイッチ入れろよ! なんでわかんねえんだ、このポンコツ!』


 胸元を指さされ、クリスはようやく異言語翻訳を切っていたことを思い出した。けれども、困ったように笑った。


「よしてくれ……貴殿から罵倒されるだけでも辛いのに、その言葉の意味まで知りたくないのだ。弱い女だと笑ってくれ」


 クリスはその場にすとんと腰を落として足元の泥混じりの雪をぎゅっと掴んだ。どうして追いかけて来たのか、と理解できない感情が渦巻いた。


「ははっ……貴殿から逃げ出したくせにっ、こうしてっ……探し出されっ……喜んでいる、などっ……恥知らずだっ!」


 この感情はなんだろう。一体、この佐伯莞爾という男は自分にどんな魔法をかけたのだろう——そう思わずにはいられない。一度は彼の下を去ろうとしたのに、こうして見つけてくれたことが嬉しくてたまらない。その一方で恥ずかしくてたまらない。


 自分の不甲斐なさを全てさらけ出して、クリスは涙を禁じ得なかった。嗚咽が漏れた。肺が締め上げられたように横隔膜が震え、止めどなく感情の波が頬を濡らした。鼻水を啜り、何やら液体まみれになりながら叫んだ。


 莞爾は手に持った鉈をその場に放り投げて、大きなため息をついた。


『わけがわからん。あれか。玉ねぎに魔法かけたのも、俺の体調が一晩で回復したのも……あれはクリスがやったんだろ?』


 莞爾はクリスの前に跪いて、彼女の濡れた頬に両手をあてた。


『こんなに冷たくなっちまって……』


 クリスは答えなかった。ただ莞爾の真意がわからず、また自分の醜態を見られたくない思いで必死に逃れようとじたばたと暴れた。


『落ち着け、落ち着けって』


 彼は無理やり彼女を引き寄せて力強く抱きしめた。


『クリスがいなくなったら、俺のこの気持ちはどこに行くんだよ。ったく』


 そう言って、暴れるクリスの背中をとんとんとあやすように優しく叩いた。しばらく暴れていた彼女も、やがて彼の胸にしがみつくように泣き咽び、彼は「よしよし」とあやし続けた。


「カンジ殿は大ばか者だっ! 病み上がりでこんなところに来るなど——」

『何言ってるかわかんねえけど、今絶対に馬鹿にしただろ』

「私など放っておけばよいではないか……貴殿に迷惑しかかけておらぬ」

『翻訳仕事しろよ、ったく……いいか、クリス』


 クリス、と呼ばれたことだけはわかって、彼女は思わず身を竦めた。頬に当てられた彼のごつごつとした冷たい手が顔を上向かせた。


『なんちゅうひどい顔だよ……』


 莞爾はふっと笑ったかと思うと、何かを言おうとしたクリスの口元を指先で押さえた。


『俺がなんでも独りでしようとしたから、クリスも相談できなかったんだろ? 俺がきちんと注意してなかったから、後先考えずに突っ走ったんだろ?』


 何を言っているのかはわからない。けれども、彼の声音と表情から怒りを感じることはなかった。クリスははっとして魔力を胸元のアクセサリーに灯した。莞爾は気づかなかった。


「そりゃあ、全部許せるかって言ったら、俺も正直怒ってるさ。でも……」


 彼はくすりと笑った。


「恥ずかしい話だけど、嫁の不始末は亭主の不始末ってな。俺ももっとクリスのことを知ろうとしていたら、もっと独りでどうにかしようなんて傲慢じゃなかったら……今回みたいなことはなかったんじゃないかって」


 沈黙するクリスに莞爾は額をくっつけて謝った。


「ありがとう。そんで、ごめん」


 それから、と彼は額を離して彼女の瞳をじっと見つめた。


「言っても意味はわかってないんだろうけどさ……」


 小さく息を整え、彼は言った。



「結婚してくれ」


 クリスの瞳が揺れた。はじめ、意味がわからなかった。

 彼は続けた。


「クリスが色んなこと抱えてるってのもわかってる。だけど、全部引っくるめて俺が面倒見るから。何が起きても絶対に俺はお前を守るから。まあ、何言ってるかわかってねえだろうから、意味ないかもしれないけど」


 彼女はなおも思考が停止して彼を見つめていた。


「これなら、言葉はいらないだろ?」


 莞爾はぐっと彼女を引き寄せて、彼女の唇を強引に奪った。


 瞬きをすれば睫毛がくすぐるような距離。ぶつかった鼻の先がかすかに痛む。冷えて少しカサついた唇の感触。


 クリスはずっと目を開けたまま、彼の行動に驚き硬直していた。やがて、ゆっくりと唇が離れ、うっすらと開いた彼の瞳と視線が交錯した。


「俺はお前が欲しい。過去を忘れろなんて言わない。けど、一緒に俺との未来を考えてくれ」


 ようやく回り始めた頭は、過去のしがらみの一切合切を涙とともに流していった。かすかに残った残滓はあれど、クリスは込み上げる恍惚に頬を染めた。


「また……貴殿に迷惑をかけるかも知れぬ」


 莞爾は苦笑した。翻訳できてるじゃねえか、と彼女の額に自分の額をこつんとぶつけた。


「そんときゃそんときだろ」

「怒るか?」

「当たり前だ。でも——」


 思えば、出会ったときから間違いや失敗ばかりだった。けれども、それらが原因で嫌いになったわけじゃない。むしろ、逆だ。小さな失敗を積み重ねて、より互いを近くに感じるようになった。


「夫婦喧嘩もちょっとくらいは刺激的、だろ?」


 そして、彼は彼女の目元を拭った。


「俺ももっとクリスを頼るよ。だから、クリスも俺を頼ればいい。一緒に支え合って、同じ方向見て……一緒に幸せになれたら言うことないだろ?」

「カンジ殿は……やはり、大ばか者だ」

「悪かったな、馬鹿で。でもいいじゃねえか。馬鹿二人で夫婦ってのも。案外釣り合いが取れるんじゃねえか?」

「そんな夫婦は――」

「御託はいいから、返事を聞かせろよ」


 莞爾はじっとクリスの瞳を見つめたまま優しく微笑んだ。クリスはしばらくじっと彼の瞳を見つめ返していたが、やがてとんっと彼の胸元に頭を預けた。


 この気持ちをどう表現すればいいのだろう。彼女には全てが初めての感情で理解が追いつかなかった。けれど、自身の全てを彼に委ねてしまっても構わないと思った。


 彼に抱きすくめられ、彼の温もりを肌で感じ、彼の声に包まれ、混乱していた気持ちが少しずつ穏やかに、けれども激しく脈打っているのを感じた。


「私は……私はもう、貴方のものだ」


 全てを委ねるように体から力を抜けば、彼はクリスを抱きしめたまま体を傾かせた。自然と体勢が崩れるが首元を彼の腕が支えた。彼女もまた、かじかむ手を彼の首に回した。


 冷たい唇のカサつきも、情熱に溶かされて柔らかなぬくもりに変わり、二人はいつまでも目を閉じてその感触から離れられなかった。



 口数も少なく“夫婦”の住まいへ帰宅した二人は、ぬくもりを分かち合う。


 その晩の出来事は二人と——窓辺に積もった白雪だけが知っている。




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