12月(6)下・農家と女騎士
大変お待たせしました。
朝食の後、莞爾は作業着に着替えて畑に出ようとした。
けれども、クリスに見つかってしまった。長靴を履こうとしているところを見つかり、莞爾は内心でため息を漏らした。
「こらっ、まだ病み上がりではないか」と彼女は彼の肩をぐっと掴んで叱った。すると莞爾も決まりが悪そうに頭をかいて、
「そう言われてもなあ……」と考えながら返答しつつゆっくりと立ち上がり、つま先をとんとんと鳴らして振り向いた。
「南側の畑がまだ堆肥入れてないし、年越し前にやっておきたいんだ」
キクイモの収穫を終えた畑では、まだ土作りを行なっていなかった。養分が不足していることもあり、早めに堆肥を入れてできるだけ早く回復させたかった。有機質の肥料は分解されるまでに時間がかかるし、冬は分解速度も遅くなる。休耕地として遊ばせておく余裕はない。作物の品目を上手く組み合わせて輪作するのだ。
莞爾の言葉にクリスは首を傾げて尋ねた。
「なんだ、玉ねぎの畑ではなかったのか?」
「あっちは囲みも作ったし、電気柵もきちんとやってるから、また後で。そんなにすぐに植え替えの影響が出てくるとは思えないし、年末ギリギリまで待つかな。チェックはするけど」
「ん? どういうことだ?」
莞爾は軽く説明した。成長があまりにも遅れている株があった場合、大根などと同じように周りの株を間引きしてしまった方が養分を確保できるし成育状況も多少は改善できる。
また、一度弱ってしまうと病気がつきやすいので、病気がついた野菜は早めに処分するか対処しないと他の野菜にまで広がってしまうのだ。
クリスは一通りの説明を聞いて「なるほど」と手を打った。
「どっちかと言えば病気の方が怖いな」
「どのようにして判別するのだ?」
「病気によって違うけど、まあわかりやすい例で言うと葉の色が変わる。あとは目に見えて枯れ始めるのもある。後者は根っこの方に病気があるパターンだな」
また、病気とは別に線虫被害というものもある。目に見えない小さな害虫による被害で、気づかないうちに被害が広がっていたり、線虫被害だと気づかずに処置を遅らせてしまったりすることがある。いずれも日頃から作物の成長を観察していれば特定はしやすい。
土作りを丹念に行えば線虫被害は激減するわけだが、様々な要因から一様に対処策を打ち出せるわけでもない。そこはやはり農家によって千差万別である。農家泣かせの害虫なのである。目に見えず、おまけに土の中であるから被害が出てから初めて気付くことが大半だ。
「とにもかくにも、だ。とりあえずは様子見だ。半数は無事だし、損耗率は二割に抑えたいところだな。たぶん無理だけど」
莞爾の見立てでは全体の三割は間に合わないか、あるいは途中でダメになるだろう。遅すぎず早すぎず、天候以外の要素でなんとか栽培管理をしてきた莞爾としては、もう天運に任せるしかない。
クリスは半分呆れ混じりにため息を漏らして言った。
「まったく、カンジ殿は根っからの仕事人間なのだな」
「仕事が趣味で悪いか?」
いっそ太々しいぐらいの態度で答えるとクリスは困ったように笑った。今どき仕事が趣味というのも珍しい人間だ。しかし、やり甲斐の見つけられる仕事であれば、働くことが楽しくなるのも自然だ。
美味しい野菜を育てて、それが市場の相場に左右されずに適正な価格で売れるのであれば、これほど楽しい仕事はない。ましてやその野菜を美味しいからと取引してくれる人がいて、その向こうに料理をする人と食べる人までいるのだから、日々の仕事にも熱が入るというものだ。
クリスは首を横に振って「悪いとは言わぬよ」と言った。
「打ち込める仕事があるというのは良いことではないか。働き者な家主がいれば家族は安泰であろう?」
「つまり、俺の家族になってくれるってことか」
ふと、莞爾は言葉尻だけを捉えてよく考えずに返答した。けれど、言い終わって「あっ」と我に返った。クリスを見ればぽかーんと口を開けて彼を見ている。
「クリス?」
呼んでも返事はなく、彼女は呆けてしまったように動かなかった。首を傾げつつそっと彼女の肩を叩くと、ようやく正気に戻ったのか不思議そうな顔で彼を見つめた。
「えっ……」
「いや、クリス。どうしたんだ?」
「あ、いや……すまない。さっき何と言ったんだ?」
本当に聞こえていなかったのか、と莞爾は口を開きかけたが結局口には出せなかった。もう一度言うのが恥ずかしかったし、先ほどの彼女の反応が予想と違っていて驚いたからだ。
何か自分の想像とは違う感情が彼女の中で渦巻いているのかもしれない、と莞爾は優しく微笑んだ。
「いいや、なんでもないよ。それよりも、俺は仕事があるから出て行くけど、構わないのか?」
クリスは首を傾げつつも思い出したかのように口を尖らせた。
「むぅ……やはり行くのか?」
「なんだよ、寂しいのか?」
「ちがっ、違うぞっ!」
クリスは顔を赤らめつつも必死に首を横に振って答えた。
「病み上がりだから心配しているのだ。いくら元気になったと思っていても、やはり安静にしておくべきなのだ。それにそのような言い草はひどいではないか」
「……ちょっとからかい過ぎたか。悪かったよ」
「そうではない……」
すぐには理解できずに莞爾は首を傾げた。クリスはむっとしてわずかに眉間に皺を寄せた。
「わっ、私がカンジ殿を心配してはいけないのか!?」
その一言で莞爾は「ああ、そういうことか」と納得した。確かに少し軽薄に過ぎたかもしれないと反省した。けれど、そう言われても今更どうすることもできないし、仕事の予定を崩すと今後の予定が全てずれていくのだから甘えるわけにもいかなかった。
莞爾は彼女の手をそっと掴んで引き寄せた。
「心配させて悪かった」
口に出してみて、それが何だか違うと彼は口をもごもごと動かして言い換えた。
「その、なんだ。改めて言うのも恥ずかしいんだが、心配してくれてありがとう。看病してくれたことも嬉しかったし、クリスの作ったお粥は美味かったよ。仕事も詰まってるから休んでもいられないけど、できるだけ早めに切り上げて帰るさ」
似合わないとは思いつつも莞爾は口説くつもりで言った。
「クリスに一人で寂しい思いをさせたくないからな」
「む、むぅ……や、やはりだなっ」
「やはり?」
聞き返したが、クリスは「なんでもない!」と彼の手を払いそっぽを向いてしまった。彼女は内心で「ずるいっ!」と吐き捨てて、その一方で彼の言葉に心底喜びを感じていたのだから世話がない。
困ったものである。
苦笑しつつも畑に向かう莞爾を見送って、クリスは土間の片隅に腰掛けて胸を押さえた。未だに心臓がどくどくと跳ねて収まる気配がない。似合わない口説き文句だった。
彼が好意を抱いてくれていることは知っている。その好意に自分が甘えていることも。だからこそ、彼を叱ってしまったことが彼女を不安にさせた。
けれども、莞爾は「嬉しかった」と言ってくれた。それだけでクリスは自分の好意が認められたと思った。
ひとり、両膝の隙間に頭を埋めて「むわあああ」と唸った後、沈黙した。
そっと顔を上げて独り言を呟いた。
「こんな気持ちは……」
両頬を手で押さえ、ひんやりとした手の冷たさにかえって頬の熱さが顕著に感じられた。
ぼそっと自分にも聞こえないくらいの声だった。
「——初めてだ」
ありがとう、と礼を言われるのとは違う。
嬉しかった、と彼女の思いを受け止めてくれたことが嬉しくてたまらなかった。一方通行ではなく、気持ちが通い合う関係に安心と喜びが感じられた。
莞爾はクリスの魔法によって風邪がすぐに治ったことに気づいていなかった。けれども、彼女は別に恩着せがましく伝えることでもないと思っていた。彼が健やかでいてくれるのならばそれでいいのだ。
玉ねぎのこともそうだ。彼は「二割はダメだろう」と言っているが、彼の仕事で役に立てることと言えば単純な作業ぐらいしかない。彼の喜ぶ顔を見るためなのだから、禁止されている魔法を使ったところでそれは仕方のないことではないか——クリスは知らず「むふふっ」と声を漏らしていた。
彼の傍で彼の役に立ちたい、とまるで忠誠を誓うかのように胸をときめかせた。どんなことをすれば、彼はもっと喜んでくれるだろう。
クリスは勢いよく立ち上がり「よし」と自分の頬を叩いた。まずは自分の任された仕事をしなければ、と。
***
ほんの半月ほど前までキクイモが残っていた畑も、耕運機によってすっかり一面土色になった。
土中に残っている根を丁寧に取り除き、ph値を計測すると酸性に偏っている。養分の減少した土壌は固くどっしりとしている。野菜の栽培にもっとも適した状態は土の粒が団粒構造になっていることだ。
この団粒構造によって保水性と排水性が確保され、植物の根が張りやすい柔らかさがある。ただし、必ずしもこの状態でなければならないというわけではない。あくまでも理想の状態というだけだ。
「あー、やっと終わりか……」
莞爾はその場にどっと腰を下ろして大きなため息をついた。
ようやく耕耘が終わったという頃合だ。これからまた堆肥をすき込んでいく作業が残っている。
また仕事を再開しようかと腰を上げたが、ふとクリスの顔が脳裏に浮かび、思わず苦笑した。
「また怒られちまうか」
独り言のように呟いて、莞爾はお尻の土をぱんぱんと叩き落とした。作業は詰まっているが、元気になったと思っていても少し動いただけで息切れがして、まだまだ病み上がりだということを実感した。
不甲斐なさにため息をつきそうになるのを噛み殺し、軽トラに耕運機を積み上げ、運転席に乗った。
家に戻る前に、一度山の畑に寄ることに決めてキーを回そうとしたが、ちょうど遠くから声がかかって顔を窓の外に向けた。
莞爾はすぐに車から降りて声をかけた人物に向けて手を挙げて応えた。
「嗣郎さんじゃないですか、どうしたんですか?」
ゆっくりと歩み寄ってきた嗣郎に、莞爾は会釈をした。
嗣郎は「精が出るなあ」と笑顔で語りかけた。
「いやあ、ちょうど見かけたもんでなあ」
そういえば、と最近は嗣郎と顔を合わせる機会がなかったことに気づいた。莞爾は適当に相槌を打ちながら嗣郎の話に付き合った。
「そういえば、クリスちゃんとはその後——」
「普通ですよ、普通」
「普通と言ってものう……」
嗣郎はにやりと笑って話題を変え、莞爾の肩を叩いた。
「うちのばあさんも教え甲斐があると喜んでおるわい」
「はあ、それはよかったです」
「どうじゃ、料理は上手くなったじゃろ?」
「ええ、まあ」
そんな調子で話を合わせていると、嗣郎は昼食に彼を誘った。
「明日はクリスマスじゃろ?」
「ええ、まあ……」
「それでうちの次男が冷凍の鳥モモ肉を送ってきてなあ。二人じゃ食べきれんし、クリスちゃんも誘って……どうじゃろか」
嗣郎の口から「クリスマス」という単語が出てくるとは思わず、莞爾は苦笑して答えた。
「そりゃあ、きっと喜ぶでしょうけど、あいつたくさん食いますよ?」
嗣郎は笑って「若いもんは食わなきゃいかんぞ」と言った。
「でも、クリスマスは明日でしょう? どうしてまた今日?」
「わし仏教徒じゃもん」
そうなのだ。田舎の年寄りにとってクリスマスなんて正直どうでもいいのである。実際のところ、莞爾もクリスマスには興味がない人物である。育った家庭環境の影響というのは本当に大きいものだ。
「それ言ったら、大抵の日本人はクリスマスにかこつけて楽しんでるだけですって」
「まあ、のう」と嗣郎は苦い顔をして、それからその場にしゃがみ込んで土をぎゅっと握った。
「こりゃあキクイモ植えた後じゃろ?」
「ええ」と莞爾は頷きつつ尋ねた。
「嗣郎さんはキクイモ育てたことありますか?」
「いいや、ないなあ。でも、こりゃあちょっと不味い」
嗣郎はぎゅっと握った土を今度は両手で擦り合わせてみた。ぼろぼろと崩れていくが、独特のざらざらとした感触が際立った。
「これから堆肥入れて、来年秋までには回復させたいんですけどね」
嗣郎は苦い顔をしたままだった。嗄れた声で伺うように言った。
「カンちゃんもわかってるだろうけど、ここらはもともと傾斜もあるし、水はけはいいが土が流れやすいんじゃ」
莞爾は大きく頷いて答えた。
「ええ……そろそろ客土入れようかと——」
「入れんでいい。堆肥は牛糞で、あとはモミガラをたくさん。うすーく米ヌカ」
莞爾は驚きつつ嗣郎を見た。彼は「ふんっ」と鼻を鳴らして言った。
「ここはどうにもならん。定期的にモミガラと米ヌカで調整する方がいいじゃろ。あとは牛糞でじっくり……植え付けひと月前の具合を見て、苦土石灰じゃ」
「それは……ええ」
莞爾は父親の残したノートを思い出して嗣郎の助言に苦い顔をした。他所から土を入れるなという一文を思い出したからだ。
「耕すのもここなら表面だけじゃ。あんまり良くしよう良くしようじゃかえって失敗するわい。今を維持するぐらいの心持ちでいいんじゃないかい」
「そう、ですか」
莞爾は言葉を失った。今まで父親以上の野菜を育てようと思ってきた。未だに自分でも超えたとは思えない。大事なことを忘れていた。そんな気分だった。
「冬の間はマルチかけて、じっくり腐らせてやれい」
「あ……はい」
嗣郎はそれだけ言って背を向けてさっさと歩き出してしまった。
莞爾は慌てて彼の背中に声をかけた。
「あ、あの、嗣郎さん!」
せめて礼を言おう。そう思って呼び止めるつもりだったのに返ってきたのは、
「早う、昼飯にしようかい!」
という言葉だった。歩き去る嗣郎を見送って、莞爾は「敵わないな」と頭をかいた。時刻はまだ十時である。格好のつかない翁であった。
***
一度家に戻り、十一時を過ぎた頃合で二人は伊東家にお邪魔した。
嗣郎は待っていたとばかりに迎え入れ、クリスも割烹着をつけて台所のスミ江のもとに急いだ。
「あらあら、ゆっくり座ってていいのに」とスミ江は言うが、クリスは「そういうわけにもいかぬ」と腕まくりをした。
田舎の婦人習俗の意味合いももちろんあったが、クリスはそれ以上にスミ江の手際を近くで見たかったのだ。
「まあ、今日は鶏肉を揚げるだけなんだけどねえ」
と言いつつも、久しぶりに二人が来るとあってスミ江は色々と作っていた。
「む、この鍋はどうするのだ?」
「それは今染み込ませるために冷やしてるの。煮物はねえ、一旦置いた方が美味しいわよお」
クリスはふむふむと頷きながらスミ江の料理を手伝った。油の満たされた鍋の中でジュワジュワと音を立てながら揺れている鳥モモ肉が美味しそうだ。じっくりと火を通したそれはきつね色に輝いている。
「今回は衣も最初からついていたんだけどねえ」
息子から送られてきたものである。調合されたスパイスと衣がすでに鳥モモ肉にまとわりついている冷凍ものだった。けれども、自宅でスパイスから考えるのは難しい。そういう点では冷凍ものも馬鹿にはできない。
もちろん手作りの料理の方が愛情がこもっていると言えるが、企業努力の賜物もまた馬鹿にはできないのである。
料理の合間、莞爾と嗣郎が談笑する声が聞こえてくる。その最中、スミ江はふとクリスに尋ねた。
「カンちゃんのこと、よろしくねえ」
「む……」
思わず口ごもるクリスに、スミ江は一瞥だけしてすぐに視線を戻した。菜箸にこびりついた油粕をそっとキッチンペーパーで拭った。
「あの子は昔っから一人でなんでもしようって子でねえ」
スミ江は懐かしむように微笑んだ。
「負けん気も強かったわねえ。父親譲りでねえ」
「それは初耳だ」
「父親の背中を追ってるんでしょうねえ」
「……カンジ殿はお父上のことを深く尊敬している印象だが」
「そう……そうなのよねえ」
クリスはスミ江の言いたいことがわからずに首を傾げた。スミ江は揚げ上がった鳥モモ肉を皿に乗せ、次を油に入れた。ジュワジュワと油が泡を立てた。
「喧嘩別れしたのよ。普通は父親が農家になれって押し付けて、子供が嫌だって出て行くものでしょう?」
クリスは家業とは継いで当然だと思っていたので曖昧に頷いた。
「でも、カンちゃんは逆だったの。高校卒業したら農家を継ぐって言ったのを、大学ぐらいは出ておけって言われて、東京の大学に行ったのよねえ。でも、四年生になったときに農家は継ぐなって言われたのよ。うふふ、秘密よう」
「……よくわからないが、なぜカンジ殿のお父上は農家を継ぐなと?」
「そりゃあ……」
スミ江はふっと微笑んで「どうしてかねえ」と頬をかいた。
「時代、かねえ」
「時代……」
スミ江は大きく頷いた。
「そういう時代だったんだろうねえ。少ない土地で農家を続けられる時代じゃなくなった……まあ、親としては安定した職について欲しいと思うのが当然よねえ」
そして、大学を卒業して大手一流企業に莞爾が入社すると、彼の父親は程なくして鬼籍に入った。母親もしばらくは年金生活を続けていたが、病にかかり五年前に他界した。
スミ江には莞爾が何を思って実家に戻り、農家を始めたのかわからない。けれども、彼の仕事ぶりを見ているとどうしても父親の姿を追っているようにしか見えなかった。
だからこそ、せめてクリスが彼のことを支えてくれたら、と思わずにはいられなかった。
「カンちゃんとクリスちゃんなら、きっといい夫婦になれるわねえ」
「ふっ、夫婦!?」
「あらあら、嫌なのう?」
クリスは狼狽して視線を泳がせた。
「い、嫌というわけでは……」
「うふふ。まあ、色々あるわよねえ」
スミ江はてっきり国際結婚になるから様々な文化的問題があるのだろうと思った。実際は二人の気持ちの問題でしかなかったのだが、そう思うのも仕方がない。
「特別なことなんかしなくていいのよう。男はねえ、職分を侵されるのが嫌いなのよねえ。プライドってやつかしらねえ。だからねえ、カンちゃんが疲れてるときに、いつもお疲れ様って言ってあげてちょうだいねえ」
クリスは結局沈黙して小さく頷くだけだった。スミ江は頬を赤くしている彼女の様子をちらりと見て、くすくす笑った。
さて、一方の莞爾と嗣郎はといえば、座って談笑をしていた。
ほとんどが畑の話だが、嗣郎はビールを飲んで少し上機嫌だった。莞爾はと言えば病み上がりなこともあって飲酒は控えている。
「つまらんのう」とぼやきつつも、嗣郎は午前中の仕事で疲れた体にアルコールという燃料を補給して楽しそうだ。
「そんで、実際のところ結婚式はいつ挙げるんじゃい」
「だから、まだそういうのは何も決まってないですって。というか、そういう前提で話さないでくださいよ」
「そうは言っても、好きじゃろ」
「うっ……」
「顔に描いとるわい」
「……ですか」
「うんむ」
嗣郎は両腕を組んでしっかりと頷いた。つまみの茹でた枝豆を口に含み少し考えたかと思うと、小さく息を吐いた。
「まあ、生粋の日本人が外国人と結婚するのは難しかろうて。しっかし、カンちゃんは若いし、墓穴に片足突っ込んだ我々とは違って頭が柔らかいじゃろ」
老人のブラックジョークは若人には返せない生々しさがある。莞爾は沈黙した。
「口調は少し変じゃけど、礼儀正しいお嬢さんでねえかあ」
「まあ、それは確かにそうですけど」
「何やら事情があるのはわかるわい。でも、男なら度胸見せてなんぼじゃろ」
そんなことは十分に自覚している。けれども、莞爾としては踏み込んでいい境界線を未だに見極め切れずにいた。今の関係が心地よいとも思えるし、その一方でクリスに触れたいという欲求も日に日に増すばかりだ。
積極的にはなっている。けれども、肝心なところでもう一歩を踏み込むべきかどうかで悩んでしまう。
「早う結婚して、早う子供産んで、それで何が悪い。色々とあれこれ悩むくらいなら当たって砕けてしまった方がいいわい。なんじゃ、最近の若者は。金がないから結婚できんとか、草食系男子とか、ようわからんわい! 『俺についてこい!』でいいじゃろうが」
途中から老人の愚痴のようになってしまったが、嗣郎は気を取り直して落ち着いた声音で言った。
「どんな事情があるかはさておき、男なら家庭を持つ気概を見せてやれい」
男らしく、女らしく、そんなジェンダー論の話ではない。嗣郎は莞爾の尻を叩いているのだ。けしかけている。昨今の時流からすればひどく差別的な言葉ではあるが、莞爾は叱られているような気分になって仕方なかった。
何もなかった時代を知っている人間の言葉は重い。莞爾には想像しかできないが、閉鎖的な村の中で子供を一人前にするために大黒柱であり続けた男の顔は、老人とは思えないほどに意気に満ちていた。
女二人が皿を持ってやってくると、莞爾は決まりが悪い顔で二人を見上げた。嗣郎はわざとらしく「腹が減ったわい」と笑った。
食卓に並べられた料理の数々を前にして、莞爾はちらりとクリスを見た。クリスもまた莞爾の様子を窺っていたようで、目が合った。
どんな話が台所であったのかはわからない。けれども、確かにクリスは恥ずかしそうに目を逸らした。
ニコニコと楽しそうに食事をする伊東夫妻とは打って変わって、莞爾もクリスもなぜだか口数も少なく、時々「美味しい」と言うもののこれといって話をしなかった。
結局、味のよくわからないまま食事を終え、二人で夫妻に礼を言ってお暇した。
二人で隣り合って帰り道を歩きながら、莞爾は「なあ」と声をかけた。
クリスは一瞬間を空けて「なんだ」と聞き返した。
奇妙な間があった。年末はもう寒く、風も冷たい。立ち止まってしまった二人はどちらともなく歩き出した。
「ここでの暮らしはどうだ」と莞爾はぼかしつつ尋ねた。
「それは、楽しいぞ。日々が新鮮だからな」
「そうか……」
後が続かない。彼はわざとらしく咳払いをした。
「その、なんだ。最近は体調は悪くないのか?」
「病み上がりの貴殿には言われたくないぞ」
「それもそうか……いや、悪い夢は見なくなったかってことだよ」
「それは……」
クリスは口ごもり、ややあって小さくため息をついた。もはや隠していても意味がないと思った。
「たまに、な。以前よりは減った。だが、早々なくなるものではないし、私の罪が軽くなるわけではなかろう」
「そうか……」
「だがまあ、そろそろ前を向こうとは思っているぞ」
隣を見れば、クリスは顔を真っ赤にしていた。見られていることに気づいたのか、彼女はすぐに顔を背けた。しかし、そのせいで畦を踏み外しそうになり、莞爾は思わず彼女の手を掴んで引いた。
「あっ、す、すまぬ」
「いや、いいけどさ。クリスの運動神経なら必要なかったか」
掴んだ彼女の手を離そうとして、莞爾は思い直してぎゅっと握り直した。野暮なことを言ったと思った。
「どう……したのだ?」
「いや、別に……はは」
莞爾は空いた方の手で頭をがしがしとかいて歩き出した。自然とクリスも引っ張られるように歩き出した。
「か、カンジ殿!?」
「手が冷えてるぞ」
「むきゃっ!?」
莞爾はクリスの冷たい手を掴んだまま、自分の上着のポケットに入れた。作業着から暖かい服に着替えていたこともあって、フリースの裏地が温かかった。
クリスは素っ頓狂な声をあげたものの、思うところがあったのか大人しく彼と手を繋いだまま歩いた。
やがて家にたどり着きそっと手を離されると、少しだけ残念そうに口を尖らせた。
そんな時に莞爾は振り向いて尋ねた。
「嫌じゃなかったか?」
「嫌なわけ——」
言いかけて、クリスは玄関に引き込まれた。後ろでぴしゃりと玄関扉が閉まった。
嗣郎にけしかけられたせいだとは思いたくない。けれども、ある意味で吹っ切れた莞爾はクリスを抱き寄せて彼女の頬に手を寄せた。
「あっ……」とクリスは彼を見上げながら声を漏らした。
高鳴る心臓の鼓動が厚着でも彼に知られているような気がして恥ずかしくてたまらない。彼の双眸に間近で見つめられ、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「クリス」
莞爾は声が震えるのを抑えて言う。
「はい……」
クリスもなぜだかいつもの調子が出ず神妙に答えた。
莞爾はそのままクリスを壁に優しく寄りかからせた。自然と彼女の顔の横に手をついた。
「俺は……俺はお前が待てって言うなら待つ。でも、せめてクリスの気持ちが知りたい」
真剣に見つめられ、クリスは視線を逸らそうとしたが、頬を押されて目を離せなかった。
「私は……」
口ごもりつつ、クリスは深呼吸を一度して顔を俯かせながらも上目遣いに彼を見た。
「す……むぅ」
やはり、肝心な気持ちを伝えるのは怖かった。こんな気持ちになったことさえも初めてなのだ。莞爾が自分に好意を寄せてくれて、自分の好意も受け止めてくれているということはわかっている。けれども、わかっているから伝えられるとは限らない。
「俺は好きだ、クリス。お前が好きだよ」
「なっ——」
思わず声を出して顔を上げた。頬が熱くてたまらない。真っ赤になっているに違いない。クリスはそう思いつつも鼻先が触れるような顔の近さに口を噤んだ。
思わず目を細めて俯きかけると、こつんと莞爾から額をぶつけられた。クリスは恥ずかしさが絶頂に達して目をぎゅっと閉じた。
「かっ、カンジ殿! はっ、はじゅかしっ、しゅぎるじょ!」
「ちょっと落ち着けよ。俺も恥ずかしいんだから」
莞爾はそのままクリスの頬をそっと撫で、首筋に顔を埋めた。
「正直、辛い」
「にゃっ、にゃにがだっ!」
正常に会話ができなくなった彼女に、彼はくすりと笑った。鼻息が産毛を揺らし、彼女はぞわぞわと震えた。胸が疼くようだった。
「クリスはいい匂いがするな……抱きしめたら柔らかくて、いい匂いがして、でも手は剣の稽古で少しだけ節くれ立ってる。最近はずいぶん綺麗な手になってきた」
どきどきと心臓の鼓動が止まない。クリスは息をすることも忘れそうだった。
「髪にも艶が出て来たし、血色もよくなった。肌も焼けてないし、青い瞳も吸い込まれそうでドキッとする」
「しょ、正気かっ!?」
目の前にいる女性を抱けない情欲の蠢きを、何と言えばいいのだろうか。いっそ煮え滾るような怒りにさえなりそうな錯覚もある。
その手の男のヒステリーは躾のできない獣のような危うさがあった。
彼女の耳元で、彼は囁くように言った。
「正気だ。俺はクリスが好きだよ。惚れてる。欲しい。今すぐ自分のものにしたい」
「わっ、私はもにょではにゃいじょっ!」
またも莞爾はくすくすと笑った。息が耳にかかってクリスはくすぐったさに必死に彼の肩をぎゅっと掴み目を閉じていた。体が強張っているが、彼の吐息が無理やりにその緊張を蕩けさせ、まるで自我を失うような錯覚に囚われる。
初めての感覚、感情にクリスは恐怖さえ抱きそうだった。
「言葉の綾だろ、綾」
「む、むぅ……ちっ、近いのだ!」
「嫌か?」
「そういうわけでは……」
莞爾は片腕をクリスの腰に回し引き寄せ、くるんと入れ替わるように壁に寄りかかった。自分の胸に彼女の頭を抱き寄せて、まるで自分の鼓動を聞かせるような体勢だった。
「俺だって、緊張してる」
彼の心臓から聞こえてくるもどかしいほどの心拍音が、奇妙な親近感を覚えさせて、クリスは滑稽さよりも羞恥を煽られたような気がした。
莞爾からしてみれば、女性経験はあってもこのように緊張した覚えはなかった。常に受け入れる側だった。初めてのデートも、初めてのキスも、初めてのセックスも、別に緊張した覚えなんてなかった。
それなのに、クリスを抱きしめているだけで——違う。
彼は小さく息を吐いた。優しく彼女の頭を撫でて内心で「馬鹿だな」と自嘲した。浅はかで安っぽい運命論なんて似合わない。クリスが特別なわけじゃない。クリスが特別だから好きになったわけじゃない。
異世界人だから、好きになったわけじゃない。一緒にいたから絆されたわけでもない。
けれど、もしそうだというのなら、果たしてそれが運命でないなんて、それこそただの強がりのようではないか。
莞爾は一層強く彼女を抱きしめた。運命か、惰性か。そんなものはどうでもいい。彼女を好きでいることに変わりはないのだから。いつだって気づいた瞬間には始まっているものなのだから。
「きっかけなんてどうでもいいんだ。とにかく好きだ。答えを急げなんて言わないけど——」
「まっ、待つと言っていたではないかっ」
クリスは彼の胸に当てた手でぎゅっと服を握った。皺が寄ったのを気にして、握った手を戻した。
「だから、待ってるじゃないか」
「ひっ、卑怯ではないかっ!? こんなことをしておいて待っているなどと、よ、よくも言えたものだなっ!」
どうにか体を離そうとするが、莞爾にしっかりと抱き締められて力が入らなかった。強引だ。けれど、その強引さにどこか浮かれている自分がいることが信じられなかった。
「嫌なら突き放してくれてもいいぞ」
「む、むぅーっ」
クリスは莞爾の胸に額を擦り付けて握り拳でぽんぽんと叩いた。
「じゅるいっ!!」
「はは……そりゃ、悪かったな。案外せっかちなんだよ」
クリスは莞爾の胸に顔を埋めたまま視線だけ上に向けた。優しく見下ろされ、そっと頭を撫でられ、彼女は緊張がやがて穏やかに平静に流れていくのを感じた。
まるで罪の意識を感じていた自分が意地を張っていただけのように思えた。けれども、その思いは決して意地っ張りの一言で済むようなことでもなかった。むしろ、それこそ意地という言葉では片付かないほどの重みを帯びていたはずだ。
混乱と平静の境界線上で彼女の心はただひたすらに揺れ動いた。
——なぜお前だけ生きている。
——カンちゃんのこと、よろしくねえ。
——俺は好きだ、クリス。お前が好きだよ。
「わ……私はっ!」
思いを伝えるだけなのに、どうしてこんなに難しいのだろう。自然と彼の頬に手が伸びた。彼の双眸がすっと細められ、クリスもまた困ったように唇を震わせた。
言葉が出てこない。複雑に絡み合った思いは声帯を震わせることもなく、ただ情動に突き動かされるように、腰に回された手が彼女を支え、彼女もまた踵を上げて背を伸ばした。鼻先がかすかに触れて、二人は見つめ合ったまま目を糸ほどにも細めて、顔を左右に傾けた。
しかし、見つめ合ったまま、二人は硬直する。
莞爾のズボンのポケットに入っていた携帯が軽快な音とともに震えていた。
はっと我に返り、クリスは羞恥に顔を真っ赤にした。
決まりが悪そうに苦笑して、莞爾は携帯を無視しようと視線だけで訴えたが、気勢を削がれてクリスは恥ずかしそうに顔を背けた。
「早く出ればいい。確かデンワというのだろう?」
クリスは少し拗ねたように彼から離れ、慌てるように靴を脱いで家に上り込んだ。
ため息をつきつつ携帯を見れば、電話の相手は八尾だった。莞爾は小さくため息をついて電話に出た。




