雷魔法とトマトと茄子
歩き出したものの、クリスは黙り込んでしまった。表情も暗い。
莞爾はしばらく考えていたが、やはり異世界に飛んでしまったことが不安なのだろうと思った。
「……不安、だよな。見たことも聞いたこともない異世界だもんな」
「いや、それは……ああ、確かに不安だ。だが、違うことを考えていた」
「違うこと?」
振り向くと、クリスは泣きそうな顔で歯を食いしばり俯いていた。声も震えているようだった。
「モザンゲート砦が蛮族の手に落ちてしまったことだ。私は団長から報告のために王都に走るように命令されていたのだ。無論、伝令は私一人ではなかったが、もし王都にモザンゲート砦陥落の報せが届いていなかったら……それが心配なのだ」
莞爾は彼女の心配する対象が自分の推測と違うことに驚き、その姿勢に敬意を抱いた。まさか自分のことよりも国に残したことを考えているとは、現代に生きる莞爾には想像もつかないことだった。
「考えたところで仕方がないことではあるがな。モザンゲート砦が陥されたとはいえ、蛮族どもも相当数兵を失っているだろうし、これ以上の進撃は難しかろう。王都の本隊が出てくれば、おそらくは砦の奪還もそう難しい話ではない」
「その砦から王都? ってところまではどれくらいかかるんだ?」
「うむ。馬を乗り潰して三日。徒歩ならば十日以上はかかる。モザンゲート砦は蛮族との境界を守る砦ゆえ、街道は整備されていないのだ」
道が整備されていない、というのは存外に移動速度が遅くなるものだ。登山道のない山道を歩き続けているのと同義だ。下手をすれば見当違いの方に進んでいることもあるし、慎重に進むしかない。
それでもクリスは一里塚があるし平坦だから馬でも走れるのだと言う。
「伝令は五名以上出ているし、誰か一人は王都に辿り着いているだろう。せめて家族に無事を知らせることができれば、とも思うが……今頃戦死報告でもされているかもしれんな。ははっ、まあ実際に死ぬよりもずっとマシだ」
乾いた笑いを莞爾はどう受け止めればいいのかわからなかった。
こんなときにどうやって慰めればいいのかもわからない。
思うに、転移魔法陣のスクロールがないということは、戻ることも難しくなったということなのだろう。
これから一生彼女が家族とも再会できない可能性を考えると、不憫に思わずにはいられなかった。
きっとそれが顔に出ていたのだろう。クリスは無理に微笑んで言った。
「カンジ殿。そのような顔をしてくれるな。私は武人だ。いつ果てても良いように遺書だけは残してきている。戦死扱いであれば、多少は弔慰金も家族に渡されるだろう」
「……そうか」
まだ二十歳にもなっていない若いクリスが、それほどまでの覚悟を持っているとは莞爾にも信じられなかった。無理をした作り笑顔がどこかよそよそしい。
平和ボケと言われればそれまでだが、莞爾はクリスに感心した。きっと自分だったならば喚き散らすようなみっともない真似はしないまでも、泣いて悲しんだだろうと思ったからだ。
けれども、クリスは浮かない表情ではあるものの、決して涙を流してはいない。潤んでもいない。それどころか視線を鋭くして何かと戦っているようにさえ見えた。
「心が……強いんだな。昼飯は美味いものでも食おう」
クリスは答えなかった。
けれど、軽トラに乗ってエンジンをかけたとき、エンジン音に紛れるように小声で言った。
「あまり優しい言葉をかけないでくれ」
失言だったーー莞爾は頭をかいて反省した。
帰りは行きとは違ってクリスは静かだった。
莞爾は調子が狂って仕方がないが、言葉が見つからなかった。
どの道クリスが元の世界に帰る手段は彼にはわからないし、友人が来るまで家で待っていてもらうしかない。
家に戻り、軽トラを納屋に駐車して、クリスと一緒に居間でお茶を飲んだ。
「何から何まですまない」
「いいよ、気にすんな」
しばらくの沈黙のあと、頬を指先でかいて莞爾は口を開いた。
「申し訳ないんだが、ちょっと畑に行かなきゃいけないんだ。友人が来るのは昼過ぎだから、それまで」
「ああ、わかった」
「トイレとか使い方わからないよな?」
「さすがにそれはデリカシーがないと思うぞ」
「あ、いや、それはそうなんだが……クリスさんからしたら異世界だし、トイレの使い方も違うだろうと思ったんだよ」
「そういうことか。失礼」
莞爾はクリスをトイレまで連れて行く。扉を開けばお馴染みの白い陶器製の便器があった。
「……なんだ、これは」
「便器だ」
「いや、こんなものが便器というのか?」
「ちなみにクリスさんが普段使っていた便器ってどんなの?」
「……蓋がついた木桶だ」
莞爾は聞かなかったことにした。トイレの使い方を説明して、実際に水を流してみると、クリスは目を剥いて驚いた。
「す、すごいな、これは……どうやっているのだ? まさかここに水の魔法陣が書き込まれているのか? ん? これか? このマークが水の魔法陣なのか? いや、それにしても初めて見る魔法陣だ」
「いや、魔法陣じゃねえよ。純粋に物理的な機械仕掛けだから」
「そう、なのか?」
そもそも地球上で魔法陣を使った代物なんて一切ない。莞爾はため息を漏らした。
「むぅ、馬鹿にしているな?」
「いいや、そうじゃない。国際結婚は文化の違いが大変だって話を聞いたことがあるけど、俺とクリスさんじゃそれどころじゃないなって思ったんだよ」
「け、けけけ、結婚だと!?」
「いや、そんなに焦るなよ。言葉の綾だって」
「あ、綾なのか!?」
「いや、当たり前だろ」
「だ、だが、カンジ殿は……その……私の……」
「いや、モジモジすんなよ。なんだ、トイレ使いたいのか?」
「ちちち、違う! そうじゃない! まったく、貴殿はデリカシーというものがない! 無さすぎるぞ!」
「あー、これは失敬。よく言われる」
けれども、さきほどまでの暗い表情が薄れているのを見て、莞爾はほっと息を漏らした。
居間に戻ろうとした莞爾だったが、クリスはやっぱりトイレを使いたかったらしい。モジモジしている様子は変わらないので、何も言わずに一人で戻った。
しばらくしてすっきりした顔で戻ってきたクリスは苦笑して言った。
「気を遣わせてしまったかな」
「別に。俺にはクリスさんの気持ちなんてわからないし、デリカシーのない男なんでね」
「ふむ。存外に不器用なのだな、カンジ殿は」
「不器用、ね。言葉一つで片付けば世話ない……っと、そろそろ行かないと。時間が惜しい」
作業服に着替えて外に出ようとするとクリスが呼び止めた。
「その、私もついて行って構わないだろうか」
「……見ててもつまらないと思うぞ?」
視線を逸らすクリスを見て、莞爾は「仕方ないな」とため息を漏らした。
「ついてきたいなら好きにしろよ。また軽トラに乗るけど」
「ほ、本当か? ついていっていいのか?」
「ああ、別に構わない」
「そ、そうか。それはよかった」
しかし、ついてくるのならば今の服装は余りにもラフ過ぎる。莞爾はクリスが気を紛らわせたいのだろうと感づいていたが、あまり言葉を重ねるのも悪い気がしたので黙って古いジャージを持ってきて渡した。
「それ、上から着るといい。今の格好じゃ薄過ぎるだろ」
せめて山に入る前に着替えさせてやればよかったと思ったが、今更だ。自分の気遣いのなさがどうにも情けなかった。
莞爾は出荷用のコンテナを荷台に乗せて、助手席にクリスを乗せて走り出した。クリスは甲冑の兜を膝の上に乗せて大人しく座っていた。
少し坂を下っていくと電気柵に囲まれた畑が見えてくる。畦道の途中まで軽トラをバックで乗り入れて停めた。
「おっと、その柵には触るな——」
「ふぎゃああっ!」
「……遅かったか」
興味本位で電気柵に触れたクリスが腰を抜かしていた。さすがに感電死をするほどではないが、電気柵は触れると結構痛い。ちなみに家庭用電源に直付けをしてはならない。電気柵は法律上原則禁止なのだが、変圧器や漏電遮断機などの対策を講じることで使える代物だ。
莞爾もそれを考慮してきちんと対応しているし、稀に意図せず触れてしまうことがあるので電圧も電流も最小限に抑えていた。
気絶するほどではないし、しばらく痺れる程度だが痛いものは痛い。
「雷魔法なんて聞いてないぞ!」
「いや、魔法じゃないって。しばらくそこで座ってろ」
「くっ、まさかこのような失態をおかすとは……」
クリスはどうやら手伝うつもりだったらしい。莞爾からすれば正直に言って邪魔である。だが、さすがに口には出さなかった。軽トラの荷台に乗って足をプラプラして、どこか拗ねた様子のクリスを見ると、少しだけ安心した。
莞爾は出荷用のコンテナを運んで次々と収穫してコンテナに入れていく。
「それはオーバジーか?」
「ん? いや、これは茄子だ」
「こちらではナスと言うのか。紫色をしているものは見たことがない」
「ああ、なるほど。いや、白ナスってのもある。日本の主流はこの色なんだけど、他の国だと白ナスや緑ナスが主流だったりする。まあ、この茄子も紫色ってだけで日本の品種じゃないけど」
「ほうほう」
「白ナスは皮が厚いんだ。けど、この紫色した茄子は皮が薄い。紫外線を通さないからな。おかげで皮ごと調理しても美味しく食べられるというわけだな」
「なるほど。よくわからぬが理屈があるのだな」
「……なんだ。興味があるのか?」
今のご時世、農業に興味があるのはごくごく一部の人たちだ。農業は天候に左右されるし、土地がないと始められないこともあって、新規参入の農家はとても少ない。
そもそも経験のない農家が始めてすぐに儲けられるほどに甘い仕事ではないのだ。莞爾の場合は家が農家で幼い頃から父親に教え込まれたのと、仕事を辞めてしばらく勉強したからやっていけるのだ。
「いや、興味があるというか面白いと思ったのだ。私も市場で野菜が売られているのは見たことがある。けれども育てているところや収穫するところを見たことはないのでな」
「ふむ。その点は都会の人間なんだな」
「都会?」
「発展した街のことさ」
「ああ、確かに私は街の生まれだな」
莞爾の育てている茄子はヴィオレッタ・ルンガという品種で、イタリア原産のものだ。イタリアでは一般的な茄子で、油をよく吸う。吸い過ぎるので注意が必要だ。
「スーパーとかじゃあんまり売れないんだけどな。専門料理店に卸してる仲買がいるんだ。イタリア料理店に卸してるらしいぞ」
「ほう。そのイタリア料理店というのはわからないが、美味しそうだな」
「帰ったら食わせてやるよ」
それから茄子の収穫を終えて、少し離れた畑でトマトの収穫を始めた。クリスは痺れが収まったのか近くに来て彼の様子を見ていた。
「小さなマルテだな」
「へえ。マルテっていうのか。こっちじゃトマトって言うんだ。これはシシリアンルージュって品種だ」
シシリアンルージュというトマトは紡錘形のトマトで、主に加熱して食べる品種だ。
イタリアのシチリア島南部で作られていた品種である。
「生でも食えるけど、生食用のに比べるとちょっと青臭さがするかな」
ひとつクリスに渡して食べさせる。
「ん……これでも十分美味しいと思うのだが?」
「だろ? でも生より熱を通した方が美味いんだよ」
主にトマトジュースやソースなどに加工される。身が崩れない程度に軽く炒めてオリーブオイルと塩の味付けでも驚くぐらいに美味い。
ヘタからすぐに取れるので、ヘタなしで売ってあるものと、房で売ってあるものとがあるが、莞爾の場合は消費者の手間を考えてヘタを取った状態で収穫している。主にイタリア料理店に納品され店側がそれぞれに処理するからだ。
「ほんで、こっちがサンマルツァーノだ。シシリアンルージュと一緒で加熱して食うやつだ」
サンマルツァーノはシシリアンルージュよりも縦長のトマトだ。加熱しても果肉が煮崩れしにくいし、粘り気が出て旨味が増す品種だ。
これもクリスに渡してみるが、シシリアンルージュの方が美味しかったらしい。
サンマルツァーノも生で十分美味しいが、そこは人それぞれだろう。
どちらの品種も地中海でよく作られているものだ。トマト全般に言えることだが、雨が多いと病気にかかりやすくなったり身が割れたりするので注意が必要だ。
「日本は雨が多いからな。ハウスで作ってるところも多いんだけど、そこは農家の腕の見せ所ってやつだな」
設備が整っていなくても手間を惜しまなければなんとかなるものである。もっとも、その手間が面倒なのだが。
莞爾の場合、水はけのよい緩やかな傾斜のついた南向きの畑で、うねの方にはビニールシートーー白いマルチを張っている。
雑草などを放置しておくと根の部分に水分が溜まるので小まめに抜いておく。
「ふふっ、カンジ殿は野菜作りが好きなのだな」
「まあ、好きだな。手間暇かけて作った野菜を買ってくれる人がいるんだ。そりゃあ嬉しいだろ」
元はサラリーマンをしていた莞爾だ。
世間的には一流企業と言われる会社だったが、何かと気苦労が絶えなかったのも事実である。
それなりの成績を残してはいたが、それでも莞爾には農家の方が性に合っていたのだろう。
会社勤めしていたころよりも年中無休で労働時間は増えているはずなのだが、それでも今の方が楽しく過ごせている気がした。
「よし。今日の分は終わりだな。帰って昼飯にするか」
「美味いものを食わせてくれるんだろう?」
「おっ、そういえばそうだったな。家で食う分はとってなかった」
急いで茄子とトマトを食べる分だけ収穫しておく。
「今日の昼飯はトマトパスタだな」
農家でもパスタぐらい食うのである。
莞爾は軽トラに乗り込んでふと隣を見た。
「どうした、何か忘れ物か?」
「ん……いや、なんでもない」
どうやら農作業を見ていただけでも気を紛らわすことぐらいはできたらしい。クリスは口数こそ少ないが、ずっと穏やかな顔をしていた。
農家だってパスタぐらい食べるのです。
16.11/19、修正。