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12月(6)上・農家と女騎士

大変お待たせしました。

 すっかり意気消沈して家に戻ると、窓から光が漏れていた。雪が降り始めており、窓から漏れる光で小さな結晶がいくつも浮かんで見えた。


 勝手口を開けると、ちょうど莞爾が靴を履いているところだった。


「クリス!?」


 莞爾は分厚い防寒着を着ており、片手にはクリス用の上着も持っていた。彼は立ち上がって彼女に詰め寄った。


「あっ、カンジ殿……」


 すまない、と謝るよりも早く、クリスは莞爾に抱きしめられた。


「こんな薄着でどこ行ってたんだよ! お前は馬鹿か! 心配したじゃねえか!」


 冷たい体を抱きしめて、莞爾は上着を強引に羽織らせた。クリスは呆気に取られていた。まさかいきなり抱き締められるとは思っていなかったからだ。


「どうして……」

「たまたまだ、たまたま。こんな夜中に外に行く用事なんてねえだろうが」


 偶然トイレに起きたところ、座敷の襖が開いており、ちらと覗けば布団が翻ってクリスがいなかった。初めはトイレかあるいは水を飲みに起きたのかと思ったがいない。外かと思って窓から顔を出しても見当たらない。


 莞爾は嫌な予感がして準備をして外に出ようとした。その矢先にクリスが帰ってきたのだ。内心ではほっとしていた。


 クリスの体はすっかり冷え切ってしまっている。莞爾は大きなため息をつきながらも、彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でた。


「こんなに冷たくなって……寒かっただろ?」

「あ、あの……」

「とりあえず、風呂沸かしてやるから、すぐに入れよ。っていうかなんでこんなに泥だらけなんだ?」

「それは……」

「何か言いたいことがあるなら、風呂の後だ」

「わかった……」


 すぐにでも言った方がいいのかもしれない。けれども、クリスは莞爾が心配してくれていたことが嬉しかったし、厚意を蹴るつもりもなかったので従った。



***



 莞爾は急いで風呂の窯を焚き上げた。五右衛門風呂は思いの外保温性が低い。ようやく温まった頃合で土間に戻って温かいお茶を飲んでいるクリスに声をかけた。返事も待たずにまた火の番に戻った。


 窯の前で煙草を吸っていると、磨りガラス越しに物音がした。ややあって、ため息のような声が聞こえた。


「……湯加減はどうだ?」

「うむ。まだ少しぬるいが大丈夫だ」

「そうか」


 莞爾は薪をもう二つばかし足して吸気口を広めに開けた。

 腰を下ろした直後、磨りガラスが少しだけ開いた。


「カンジ殿、話があるのだが」

「後でもいいって」

「いや、急いだ方がよかろうと思ってな」

「……なんだよ」


 クリスは湯気を吸い込むように深呼吸をしてから言った。


「山の畑に行ってきた」

「は? なんで?」

「夜中に起こされたのだ」

「誰に?」

「わからぬ。おそらくはサエキ家の先祖であろうか」


 莞爾は突拍子も無い話に首を傾げた。煙草の灰が落ちて火傷しそうになった。


「誘われるままについて行ったのだが、その先が畑だったのだ」

「……それで?」


 とりあえず話を聞くことにした莞爾である。もともと信仰心は篤い方だった。先祖の御仏がクリスを(いざな)ったのだとすれば、心なしか感慨深いものがあった。一方で馬鹿らしいとも思ったが、吐き捨てるほど畏れを知らないわけではなかった。


「畑は……獣に荒らされていた」

「はあっ!?」


 莞爾は思わず立ち上がった。とっさに駆け出しそうになったのを堪えて問いただす。


「獣ってなんだ!? 鹿か? 猪か!?」

「野生の豚のようなものだったな」

「猪かよ……それで、荒らされてたってのは?」


 記憶を探る。かつて猪による獣害に遭ったことはある。しかし、以前はさつまいもが被害にあったのであって、玉ねぎは猪が食べないことを知っていた。だからこそある意味で驚きでもあった。


「タマネギのうねだ。かなり掘り起こされていた。タマネギ自体は食べられている様子はなかったが……」

「……ミミズ目当てか」


 堆肥や腐葉土など、有機物を多く含む土壌ではミミズが多くいる。もちろん山の中にもいるが、畑のうねであれば効率的にミミズが集まっているので、猪も餌場として認識したのかもしれない。


 莞爾は盛大なため息をついた。


「マジか……まさか、ミミズ目当てかよ」


 煙草を踏み消して両手で頭を抱えた。


 植え替えればなんとかなるだろうか。そもそも電気柵は効果がなかったのか。様々な思いが頭に浮かぶ。


 時刻はちょうど午前四時になろうかという頃合だった。


「——クリス。風呂から上がったら、休んでていいぞ」

「……畑に向かうのか?」

「ちょっと早いけど、どうせ今からじゃろくに寝れないしな」


 懐中電灯を持って見て回るだけでもしたい。莞爾はとにかく被害がどうなっているのかを知りたかった。


「それに雪も……牡丹雪だ、こりゃ」


 二、三時間も降り続ければ積雪は確実だ。掘り起こされてむき出しになった玉ねぎに直接雪が積もるなど、考えただけで背筋がひやりとする。


「風呂から上がったら、私も行こうか?」

「いや、休んでていいって。掘り起こされたってことは寒冷紗も剥がされてるんだろ? せめて掛け直して、明るくなってから作業するしかない」


 とはいえ、もう十二月。日が昇るのも遅くなった。作業ができるくらいに明るくなるのは午前五時を過ぎてからだろう。


「そういうことだから、火はとろ火にしとく。熱くなったら差し水してくれ」

「わかった……カンジ殿」

「なんだ?」

「気をつけて」


 莞爾は頭をがしがしとかいて「おう」とため息まじりに答えた。


 土間に戻り、長靴に履き替え、ダウンジャケットを着る。懐中電灯を手に持って軽トラに乗り込んだ。買い替えどきのバッテリーが寒さのせいもあって弱々しいエンジン音で彼の心は余計に不安になった。


 いつもは一枚しかつけない作業用手袋の下に軍手を一枚つける。手もかじかむが、足もひどい。冬場の長靴は動いていないことには指先が冷たくてしかたない。


 ヘッドランプが映し出す雪は激しく風こそ弱いが、積雪になることは間違いなさそうだった。軽トラを走らせ、林道を慎重に進む。いつもの突き当たりからさらに軽トラを進ませて、無理やりヘッドライトで畑を照らした。


 外に出てみれば、荒らされた様子がありありとわかった。

 莞爾は「ふっざけんなっ!」と悪態をついた。


 寒冷紗は剥がれ、支柱は外れ、猪によって掘り起こされている箇所がよく見えた。その上、踏みつけられた玉ねぎがいくつもあった。


 莞爾は手早く寒冷紗を被せ直し、懐中電灯を持って電気柵を見に行った。畑を一周するように見て回り、藪がせり出している箇所を見つけた。先日クリスに頼んだものの、まだ終わっていない箇所だった。


 藪を手で払いながら電気柵を探し、莞爾は額に手を当てて夜空を見上げた。断線だ。これでは電気柵の意味がない。そう簡単に切れるような配線ではない。よくよく見れば接続箇所が外れているようだった。


 莞爾は落胆のため息をついた。彼はまず電気柵の電源を落とし、軽トラに常時積んである(のこぎり)(なた)で覆い被さった藪を廃除し、断線箇所を繋ぎ直した。そうしてようやく電源を入れ直す。


 手元が暗いこともあり、作業は難航し、結局一時間以上もかかった。下手をすれば漏電がもとで山火事になっていたかもしれない。きちんとした設備を用意しているが、心底ほっとした。不幸中の幸いだと思うしかない。


「すっかり、積もっちまったな……」


 一通りの対処をして、ようやく煙草で一休みをする。畑は一面にうっすらと雪が積もっていた。先に寒冷紗を掛け直していて正解だった。少しばかり明るくなったことで被害状況が克明になった。


「ははっ、こりゃ壊滅だな……マジか」


 渇いた笑い声が漏れる。玉ねぎは半数以上が掘り起こされ、踏み荒らされており、完全に無事なものは五割あるかないか。植え替えてもなんとかなりそうなものが二割。もうどうにもならないものが三割あった。


 莞爾は潰れたり折れたりした玉ねぎを無言で拾い集めた。


 猪の被害は掘り起こされるよりも、踏み荒らされることの方がひどい。最近は年末に向けて忙しかったこともあり、二日ほどこの畑に来ることができなかった。もちろん計画通りではあったが、きちんと毎日来ていれば電気柵が断線していることにも気づいただろう。


 後悔先に立たずだ。


「トタン板で囲むか……」


 猪は嗅覚に優れるイメージだが、案外視力を頼りにしている。そのため、被害を抑えるには作物の周囲に衝立になるものを置いてしまうのが一番いい。たとえば金網でもよいのだが、猪は跳躍力もあり、また穴も掘るので、コストが高くなる。従って、コストパフォーマンスからすると視界を遮るのが一番良い。


 今回の被害も、猪が入り込めるせり出した藪の中で、ちょうど電気柵が断線していたことが原因だろう。いくら猪であろうと体を傷つけるリスクと餌を得る利益とを天秤にかけるぐらいはする。今回はリスクがゼロだった。それだけのことだ。


 全ては莞爾の注意不足が招いたことである。


 後悔しても遅い。


「一旦帰るか」


 処分する玉ねぎの小山を見て、莞爾は真っ白なため息をついた。まずは八尾に連絡を取らなければならない。出荷量が最悪半数に落ちるとなれば、企画を通した店舗側にも事前に連絡しておかなければならないだろう。


 軽トラに乗り込んで家に戻る。莞爾は父親の残したノートのことを思い出していた。


 ノートの情報が正しければ、猪が畑にまでやってくるのは一月に入ってからだ。しかし、さつまいもがあると知っていた猪はここを餌場だと認識してやってきて、今度はミミズの餌場と認識したかもしれない。もはや父親の残した情報はあてにならない。よくよく考えるまでもなく、最初の獣害を引き起こした莞爾の失策である。


 家に戻った莞爾をクリスが出迎えた。昨晩の残り物である豚汁を温めなおしているところだった。先に休めと言ったはずなのに、どうやら寝ていなかった様子だ。


「あっ、おかえり、カンジ殿」

「ああ……」


 莞爾は土間と廊下の間の縁にどっかりと腰を下ろした。クリスは不安げに尋ねる。


「どう、だった?」

「まあ……ひどかったな」


 クリスは俯いて「すまぬ」と言った。莞爾はぶっきらぼうながらもそれに答えた。


「どうしてクリスが謝るんだ? 俺の不注意だ。気にすんな。むしろ途中で猪追っ払ってくれたんだろ? ありがとな」


 莞爾は作り笑顔で彼女の肩をぽんぽんと叩いた。


「朝食は……」

「うん。食べる。ちょっと調べ物があるから、用意してくれるか?」

「あ、ああ! 任せておけ!」


 クリスはにっこりと笑って朝食の準備を続けた。莞爾はすぐに自室にもどり、親子二代のノートを全て引っ張り出した。その中から玉ねぎの栽培データが載っているものを数冊出す。


「確か、途中で植え替えしたことがあったはず……」


 ページをぱらぱらと捲りながら探す。二冊ほど見て見つからず、三冊目にようやくそれらしき記述があった。


「……平成七年って、二十年以上も前かよ」


 莞爾がまだ中学生に上がったばかりのころだ。記憶を探るが玉ねぎの栽培を手伝った覚えはなかった。しかし、植え付けの記録を見れば二千本は植えている。そのうちで植え替えを行なったのは五百本もある。


「原因は……土砂流入って、あれか!」


 ようやく莞爾は思い出した。段々畑の石積みが一度壊れたことがある。その直後に大雨だったこともあり、下段の畑が大きな被害を受けた。泥に埋まるようになった玉ねぎを取り出して被害のなかった畑に植え替えたはずだ。


 はるか昔のことですぐには思い出せなかった。


 データはさらに細かい数字が記載されていた。


 五百本中、商品になるものが二百二十三本。約45%だ。成長率は元の畑に比べて遅かったようだ。植え替え分の収穫は一月遅れ。当時はまだ市場に流通させていたので、相場の値段そのままだ。最盛期に被って運送費分が赤字になっていた。


 植え替えた日付は十一月の中旬。品種は新タマネギのそれ。出荷の一月以上前だ。天候を見ると十一月十三日から平均気温が下がっている。翌十四日からは昼夜晴れ。霜が降りるほどの気温ではなかったが、観測時間が昼に近いので断言もできない。


 ただでさえ山間の村なのだから、霜がなくても相応に気温が低下していたと考えるべきだ。例年のデータではそこまでの気温低下はなかったが、今年のデータでは十一月下旬から大幅に気温が下がっている。三山村では幸い雪は降らなかったが、関東から東北にかけては早い初雪だった。そう考えると、成長具合も多少低くなっていると考えるべきだ。あるいは土寄せによる保温性がどこまで保たれていたかと考えを巡らせる。


 どちらにしても昨晩の状況が今後どう響くのか。実際にやってみなければわからないことだ。来週には寒波が来ると天気予報で見たのを思い出した。早めに植え替えてトンネル栽培を再開し、害獣対策を万全に設置しなければ、収穫前に二の舞ということも十分あり得るだろう。


 ちょうどクリスに呼ばれて居間に戻る。食卓には温かい食事が並べられていた。


 下手くそで少し焦げた卵焼きが愛嬌でもある。

 席につくや、莞爾は「ありがとな」と言って、すぐに「いただきます」と食べ始めた。


「……急いでいるのだな」


 クリスも慌てて手を合わせたが、莞爾は返事をせずにただ頷くだけだ。よほど事態が性急なのだろうと思った。


 莞爾は口の中が火傷をしそうになるのも無視して食事を腹の中に押し込むとすぐに立ち上がった。時刻はまだ七時にもなっていない。


 まだ食事の途中だったクリスは驚きつつも土間に降りていく莞爾を目で追った。


「も、もう行くのか?」

「仕事残してきた。すぐに植え替えしねえと」

「わ、わかった! 私も食べたらすぐに行こう!」

「ははっ、ゆっくりでいいぞ、ゆっくりで。来なくていいって言いたいところだけど、ちょっと手伝って欲しいから、後片付けが終わった後で来てくれ」


 莞爾は返事も待たずにさっさと出て行ってしまった。取り残されたクリスは急いで食事をかきこんだ。温かいお茶を水筒に入れ、後片付けを急いで終わらせる。そうしていざ行こうとしたが、いつもは朝食をがっつり食べる莞爾がお替りひとつもしなかったことを思い出した。


「おにぎりでも持って行くか」


 クリスは最近ようやく使い慣れてきたラップを使って握り飯を作った。具を用意する時間が惜しくて塩をきつめに振った。五個ほど作って巾着袋にそのまま入れる。


 外に出て、自転車のかごに水筒と巾着袋を放り入れるとすぐに畑に向かった。



***



 畑では莞爾がちょうど玉ねぎの選別をしているところだった。


 もう潰れてしまったり折れてしまったりしたものは小山になっている。クリスは自転車を止めて彼に駆け寄った。彼は「早かったな」と無表情で言った。


「うむ……少し急いだ」

「ありがとな。で、手伝って欲しいんだけど……」


 今日の莞爾には余裕がなかった。クリスもそれを悟って無駄口を叩かなかった。


 莞爾はまず支柱を集めるように指示を出した。とりあえず上から被せただけの寒冷紗では効果が見込めない。クリスが全て拾い終えて戻ると、莞爾は備中鍬を手に持っていた。ざくっと玉ねぎの無くなった箇所に差し込み、土を崩しつつ器用に植え込む溝を作って行く。


「そっちのがまだ大丈夫な玉ねぎだ。溝に入れて、左右の土を玉ねぎに被せてやってくれ。白いところが埋まるぐらいいっぱいかけていい」


 実際に一度手本を見せると、クリスはすぐに理解した。


「まだ雪も止んでないし、さっさと終わらせよう」

「うむ」


 耕運機を使えればよいのだが、中途半端な被害で、しかも迅速に元の状態に戻すのであれば、人力が一番効率が良かった。今あるニュースーパーベジマスターでは少々大きすぎる。莞爾はせめて使い勝手の良い一輪管理機を買っておけばよかったと後悔したが今更だ。


 莞爾は息切れを起こしつつも急いで被害箇所を整え、クリスはそれに続いて玉ねぎを植え直していく。


 そうしてようやく植え替えが終わったのが午前九時のことだった。


 支柱を立て直し寒冷紗を被せたところで、莞爾はようやく「休憩しよう」と言った。

 ずっと休憩もせずに働き続けていたせいもあって、疲労感がひどかった。


 莞爾は額に浮かぶ汗を袖で拭った。


「そうだ、お茶を持ってきていたのだ。おにぎりも」

「へえ、気が利くな」


 ちょうど腹が減った、と莞爾はようやく笑みを見せた。クリスはほっと胸を撫で下ろした。少しだけいつもの調子に戻ってきたようだった。ひと段落したことで冷静になったのだろう。


「寒いし、軽トラの中で食おう」と莞爾は言った。


 軽トラに乗り、エンジンをかけて暖房を入れる。冷え切ったエンジンは暖まるのが遅かった。


 水筒の熱いお茶をふうふうと冷ましながら飲み、冷え切ったおにぎりを食べる。少し強めの塩味が心憎い。

 冷たいままの口の中を熱いお茶で流すとまたちょうどいい温度になる。


「すまぬ。急いでいて具も入れられなかったのだ」

「いや、たまには塩握りってのも悪くない。美味いよ」

「そうか?」

「おう」

「むふふっ、それはよかった」


 クリスも冷たい握り飯をひとつだけ食べた。暖房がようやく暖まり始め、外に出るのが嫌になる。窓は曇り、余計に外が寒そうに感じられた。


 クリスはぬるくなったお茶を飲んで言う。


「それで、どうなのだ? なんとかなりそうか?」


 莞爾は小さくため息をついて、ごまかすように肩をすくめた。


「さあな」と自嘲気味に笑った。煙草を手にとって咥えたものの、すぐに箱に戻した。


「結果はどうなるか、今日すぐにはわからないな。一週間ぐらいは様子見ないと。せいぜい成長が遅いぐらいだと思いたいな」

「だが、遅れたら成長するまで待って出荷すればよいではないか」

「いつも通りならそれでいいんだけど、今回はそうはいかない。一応出荷する日は事前に決めてあるからな」

「そうなのか」

「おう」


 莞爾はシートに頭をごつんとぶつけて「まあ仕方ない」と呟くように言った。


「一般人は買ってくれないだろうし、期日通りに売り切らないと後で困る」


 契約栽培の悲しいところである。数が少なくなってあとから単価をあげることができないわけではない。しかし、それは次に豊作だった場合に「たくさんあるから安くしろ」と言われるきっかけを作る。


 バイヤーとて人だ。貸しを作ったと思わせると、あまり良い結果は生まない。貸しは作らず、借りを作っている方が長期的に見て得をするというものだ。


 それに幸か不幸か、今回は専門料理店のイベント向けに作っている玉ねぎなのだ。多少は融通がきく。


「出荷量は減っても値段は据え置きだな。じゃないと八尾さんも板挟みで辛いだろ」

「それをどうにかするのがヤオ殿の仕事ではないか」

「いや、そう言われればそうなんだけどな。事情が正当でも貸し借りが重なればそのうち馴れ合いでしかなくなるからな。それは嫌いだ。生産性が低すぎる」


 プロとして最悪の事態でない限りは当初の契約を守るのが筋だ。莞爾の中で今回の件は“最悪”ではなかった。


 彼は「さて」とお茶を飲み下して頬を叩いた。


「残りの仕事も終わらせるか」


 クリスは彼の衣服がじっとりと汗に滲んでいることに気づき尋ねた。


「そのままでは体が冷える。一度戻って下着だけでも着替えて来たらどうだ?」


 しかし、莞爾は「大丈夫だ」と笑って返した。


「ここでできることはもうないし、あとは他の畑の電気柵も見てくるだけだ。ちょちょいと終わらせて戻るよ」

「風呂を沸かそうか?」

「外間も寒いだろ。すぐに戻って自分で沸かすさ。それにクリスもあれから寝てないんだろ?」

「……むぅ」

「いいから、先に休んでろって。気持ちは嬉しいけどさ、今回は俺が不注意で招いたことだし、この雪の中でクリスを外に出すってのは……まああんまり気持ちのいいもんじゃないしな」


 そういう莞爾にクリスは小さくため息をついた。


「私には魔法がある。いざという時は魔法を使えばなんとかなるのだぞ?」

「でも、それで失敗した前例があるじゃねえか。これでも年中無休で農家四年目だ。体力はあるから、心配すんな」


 莞爾は一旦外に出て、クリスの自転車を荷台に乗せるとまた運転席に戻った。曇ったフロントガラスをタオルでざっと拭き走り出す。


 家に戻ったところでクリスを下ろした。


「じゃあ、ちょっと行ってくるから」

「うむ……」


 クリスは莞爾を送り出したが、何かとそわそわして何も手につかなかった。

 せめてとばかりに昼食の準備を早めに始めてみたが、莞爾は一向に戻らない。


 ようやく軽トラの音が外から聞こえたのは正午頃だった。

 クリスはすぐに駆け寄って降りてきた莞爾に詰め寄った。


「すぐに帰ると言っていたではないか!」

「悪い。ついでに資材買ってきた」


 荷台には所狭しとトタン板が積まれていた。


「……なんだこれは」

「猪の目隠し用に買ってきた。これならすぐに終わるし、低予算で済むからな」

「昼食を先に取ったらどうだ? それに汗をかいたままでは風邪をひくぞ?」

「気持ちは嬉しいんだけど、ちょっと時間がないんだ」

「それならば私も手伝う」


 莞爾は体を震わせて鼻水が垂れそうになった。慌てて鼻を啜り、困ったように笑った。


「……そう、だな。じゃあ、ちょっとだけ手伝ってくれ」

「うむ! 力仕事ならば任せておけ!」


 頼もしい、と思う反面、そうじゃないだろう、とも思ったが口には出さなかった。


 工具を集めてまた畑に向かった。

 広い畑一面をトタン板で囲むのには量が足りないので、まずは茂みに近い方から行った。支柱を立てていき、そこにトタン板を貼り付けていく。


 そうしてようやく作業が終わったのは午後三時を過ぎたころで、二人とも空腹だった。


「早く帰って食事にしよう。それとカンジ殿は風呂で温まった方がいい」


 言うが早いか、莞爾はくしゃみをした。それ見たことかとクリスはため息をついた。しかし、莞爾からすればこの程度はまだ許容範囲だ。いっそ熱が出たって普通に働いているのが常だ。


 夏だろうと冬だろうと、自然は個人の体調など考慮してくれないのだから、当然である。


「農園でも作って法人化できりゃあな、色々楽なんだけど」


 帰りの車中で鼻を啜りながら独り言のように呟いた。クリスは「人が心配しているのにひどいやつだ」と鼻息を荒くしていた。


「お説教はまだ終わっていないぞ、カンジ殿」

「あー、もう。俺が悪かった!」

「反省していないな!?」

「反省してるって……心配かけてごめんな」

「む……むぅ」


 クリスはぶつぶつと呟いてはいたが、それきり怒るのをやめた。代わりに「帰ったら一番に風呂だ」と莞爾に命令した。


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